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第三十六章 怠惰の悪魔と鬼喰らいの神虫

終わりのない悪夢

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胸の上で何かが飛び跳ねる感覚に目を覚ます。飛び跳ねていた小さな何かは疲れたのかその場に座り込み、僕の口周りを舐め始めた。

『ん、んぅ……何……もぅ』

『おちょーしゃ! おとぉ、たん! おとーたぁ! わふっ、わぅーん!』

『…………クラール!』

はしゃいでいたのがクラールだと分かった僕はクラールを優しく抱いて飛び起き、寝ぼけ眼に必死にその姿を映した。

『あぅー、あぅあうぅああ……わぅ!』

撫でる振動に合わせて鳴き声を漏らし、鬱陶しくなったのか僕の指に噛み付く。

『……夢。そう……だ、夢……クラール…………クラールっ、クラール……良かった』

『わぅー? おとーたん? わっふ、おちょーしゃん!』

『…………大丈夫、大丈夫……守れるから、守るから……絶対……大好きだよ、クラール……大好き』

『らいちゅきー?』

『うん……そう、好きだよ、好き……絶対守ってみせる』

クラールを抱き締めて撫でていると心が安らぐ。酷い夢で磨り減った精神が安息に補填される。クラールの背に顔を埋め、息を深く吸って、吐いて、吸って、吐いて──クラール越しの深呼吸をしばらく続け、完全に落ち着いたら顔を上げる。

『…………あれ?』

誰も居ない。ツヅラも、酒呑も、アルすらも居ない。全員が出かける用事なんて考えられないし、眠った僕にクラールを押し付けていく思考も分からない。
ふらふらと歩を進めてツリーハウスを飛び降り、柔らかな地面に着地する。大声でアルを呼んでもアルは来ないし、木霊すら騒がない。

『わうっ、わぅ、わふっ、ぁうあぅわぅっ!』

『はしゃがないの、もう……本当に誰も居ないね』

暴れるクラールを落とさないようしっかり抱き締め、シュピネ族の集落を歩き回る。以前は感じた視線や気配を全く感じない。

『……変、だよ。誰も居ないなんて……僕だけ置いていかれるなんて……クラール、お母さんどこか分からないかな?』

親子の絆なんて尊いもの僕の頭では思い付けない。同じ狼なら匂いか何かで分からないかとの判断だ。

『わぅー?』

だが、アルが間に入らなければ会話もろくに出来ない僕がクラールに頼っても無駄だ。

『島に行き渡るような声出せないしなぁ……木霊が居れば上手くいくこともあるかもしれないけどさ』

アルを探している旨と居場所を短文にして叫べば木霊が伝言役になってくれることもある、上手い具合にアルの所まで木霊が途切れず漂っていた場合に限るが──今は僕の周囲にすら木霊が居ない。

『あぅーーー…………あぉーーん……』

『遠吠え……? そうだ、これ結構遠くまで……でも、クラールの声量じゃなぁ……僕の方がマシ………………あおー……げほっ、ぇほっ、ぅう……なにこれきつい……』

恥を忍んで遠吠えを試してみたものの、上を向いて大声を出す難しさに咳き込む。いや、大声ですらないのだ、高く尾を引き遠くまで届く声……響かせるように風に乗せるように……多分人間には出来ない芸当なのだろう、僕が不器用だとかではなくて。

『クラール、喉痛めない程度に……何? お腹空いた? 待ってね』

指を傷付けるために刀を出そうとして、影に手を翳す。だが、刀は出てこない。屈んで影に手を触れさせても地面の感触以外は返ってこない。

『え……あれ?』

亜空間を作り出して影を入口とする術は『黒』も使っていたものだ。いつも欲しいと思えば影からそれが飛び出したから、戻そうと思えば戻ったから、使うという意識が出来ない。

『と、とりあえずご飯あげるね』

人差し指の爪を噛み、剥がす。爪を吐き捨て、クラールに指を咥えさせる。痛覚を消すことは出来ているから天使の力は使えている。ツリーハウスを降りた時の着地、あれは意識してはいなかったけれど鬼の力だろう。力が封印されている訳ではないけれど、影の収納は使えない。中に入っていた小烏は無事なのだろうか。

『…………カヤ、来て』

カヤならアルを探すのも楽に……ダメだ、カヤも居ない。僕とクラール以外、この場には誰も居ない。

『……っ! 誰かー! 誰かっ、誰か居ませんか! 誰でもいい、人でなくてもいいからっ、話せなくたっていいから、何かっ……!』

食事を終え眠そうにしているクラールを抱いて大声を上げる。だが、木霊すら返事を寄越さない。

『アルっ! アル、どこなのアル! どうしてっ……ずっと一緒だって言ったろ!? 僕の傍に居てよ……クラールも待ってる……嫌だ、居なくならないで…………嫌っ、やだ……』

慣れていたはずの孤独と静寂が僕の焦燥と狂気を煽る。

『わんっ、わぅー! あぅう……』

『…………クラール……クラール、クラールっ……どうしよう、どうしようっ、どうすればいいのかな……』

僕が騒がしくて眠れないと不機嫌なクラールに聞いても無駄、走り回っても無駄、空を飛んでみても無駄、大声を張り上げても無駄、何も起こらないし誰も居ない。
位置が変わらない太陽を木陰から睨み、僕は木の根を背もたれに座り込んだ。クラールを隣に膝を抱える。

『ふっ、ぅ……ぅ……アルっ…………アルぅ……』

みっともなく泣いても嗤う者も慰める者も居ない。必死に涙を拭い、息を整え、顔を上げればひらひらと飛ぶ蝶を見つけた。ようやく僕とクラール以外の生き物を見つけられた、それに喜ぶ間もなく、クラールがそれを追いかけ始める。

『クラール!? 待って!』

目が見えないはずのクラールは正確に蝶の後を追っている。

『止まれ! クラールっ、止まれったら! 止 ま れ !』

魔物使いの力を使って叫んでもクラールは止まらないし、鬼や天使の力を使ってもただ走っているだけのクラールにも優雅に飛んでいる蝶にも追いつけない。

『お父さんの言うこと聞いてよクラールぅっ!』

そう叫ぶとクラールは立ち止まり、振り返る。笑顔を作ってクラールの前に屈めば、僕とクラールの間に白い狼が割り込み、唸った。再びの他者に喜ぶ暇もなく、十頭程度の灰色の狼に囲まれた。

『…………どけよ』

白い狼は怯むことなく牙を剥いている。心は痛むが仕方ない。僕は加減しつつ狼の頭を殴って吹っ飛ばした。

『クラール……!』

きゃんっ、と胸に痛い悲鳴を聞き流し、クラールに手を伸ばす。抱き上げたクラールはじたばたと暴れ、お父さんと喚いた。

『クラール? お父さんだよ、どうしたの? 怖かった? 大丈夫、お父さんこれでも結構強いんだよ』

声をかけても撫でてもクラールは落ち着かず、戸惑っていると左腕に片目が潰れた白い狼が噛み付いた。

『……あぁ、目、潰しちゃった? ごめんね。もう片方も潰されたくなかったら離してくれる?』

『…………ヘル、済まないが……離すのは貴方だ』

『アル……! アル、どこ行ってたのさ、ずっと探してたんだよ? よかった……無事だったんだね』

どこからともなくアルが現れる。探し回った時はいなかったのに……と不思議に思う余裕もなく、ただただ再会を喜んだ。

『……なぁ、ヘル。貴方は本当にクラールを貴方の子だと思っているのか?』

『どういう意味?』

『人間と狼で子が出来ると思うか? 貴方に全く似ていないのを不審には思わないのか? 貴方が先程殴った狼はクラールによく似ていると思わないか?』

言っている意味が理解出来ない。呆然としていると左腕に噛み付いていた白い狼がアルに寄り添い、クラールに額を寄せた。するとクラールは大人しくなって、甘えた鳴き声を上げた。

『おとーたん!』

『……ヘル、分かっただろう? クラールから手を離して、私にももう関わらないでくれ』

指先すら動かない。そのまま数分が過ぎ、ため息をついたアルは僕の腕に噛み付いた。その力は白い狼よりもずっと強く、筋も骨も簡単に折れて、僕は二人を失った。

『え……? ゃ、あっ、嘘っ……嘘、嘘だっ……嫌、やだっ、嫌、嫌…………嫌ぁぁあぁあっ!』

目を閉じて、喉が破れそうなくらいに叫んで、目を開けると木で作られた家の天井と純白の仔犬に迎えられた。

『おとーた! ぉ、とぉしゃん!』

『クラール? あれ? ぁ……今の、も……夢? あっ、ぁ……あはははっ、なんて夢見てんだよ……僕……』

起き上がろうとするとクラールは僕の上から降り、隣で尻尾を振って僕を見上げている。微笑みながら見つめて上体を起こし、辺りを見渡せば、そこには僕とクラール以外に誰も居なかった。
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