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第三十六章 怠惰の悪魔と鬼喰らいの神虫

潮騒

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浮遊感もなく空中に静止する。ウェナトリアは僕と仔犬の身体をすり抜けて着地し、刀を構えて僕が落ちるのを待った。僕は実体化することなく翼を広げ、アルの元へ戻った。

『アル! ただいま、刀返して』

『主君……私、涎でベトベトに……』

『後で洗ってあげるから』

唾液にまみれた柄を拭い、小烏を肩に乗せる。僕を追ってきたウェナトリアが木の頂点に辿り着く頃にはアルは既に彼の跳躍でも届かない高さを飛んでいた。

『……よし、後はセイレーンとかいうのを見つけて切るだけ。お願いね、アル』

アルはそのセイレーンとやらの歌の影響を受ける。だから僕がアルの主導権を奪っている。意識があるのかないのかは分からないけれど、アル自身の返事はない。

『わぅ、わん! あぅ、ぁぅ……きゅーん……』

『おかーさん今ちょっと忙しいんだ、また後でね。大人しくしててくれる?』

『…………きゅぅぅ……』

仔犬はアルに話しかけるような素振りを見せ、返事がなくて落ち込んだのか僕の腕と腹の隙間に鼻先を埋めた。背を撫でているとアルが急降下を始め、慌てて左手をアルの首に回した。風圧に目を閉じて着地を待ち、着地の振動を感じて目を開ければ絖った壁が出迎えた。

『頭領!』

『酒呑! みんな……! 合流できた、良かった!』

仲間達の元に跳躍させ、アルの背を降りる。

「アルメーの連中は全員木に縛り付けたぞ」

ツァールロスはそう言いながら太い蔦を見せる。殺さずに戦えなんて無茶を言ったと思っていたが、存外手早く終わらせたらしい。

『これ何?』

『我らも今来たばかりだ、全く分からん』

てらてらと光を反射する絖った壁はよくよく見れば蠢いている。ゆっくりと向きを変えている。
突然陽光が遮られて上を見れば巨大な吸盤のある触腕が落ちてきていた。

『……クラーケンだ!』

横に走り、何とか避けた。ずっと伸びた触腕とそれになぎ倒された木々を見て背筋が寒くなる。

『クリューソス、クラーケンって?』

『知らんのか下等生物が。巨大な頭足類の魔物だ』

『頭足類……よっしゃ茨木今日は刺身や!』

『うちたこ焼きがええ』

『よくあんな気色の悪いものを食おうと思うな野蛮人らめ!』

頭足類と言うとイカやタコのことだったか、あまりよく知らない。ずるずると動くさっき落ちてきた触腕から離れるため走っていると、進行方向に同じような丸みを帯びた壁……触腕が現れた。

『刺身や刺身! わさび醤油、酒、ほんでコレ!』

『嫌や! たこ焼きがええ!』

『タコやなくてイカやったらどないすんねん!』

『お好み焼き!』

酒呑と茨木は言い争いながら触腕を叩いている。ブルンブルンと揺れる絖った壁……面白い絵面だ。

『…………ヘル? これは……何だ?』

『……アル? 戻ったの?』

『そういえば……歌が聞こえなくなったな』

状況を理解出来ていないらしいアルの首に仔犬を置き、刀を呼び出す。歌うのをやめたのなら向こうもこちらに気付き、警戒しているということだ。

『……じゃあ、アル。この子お願い』

アルの翼の中に仔犬を突っ込み、大人しくしているように言いつける。戦闘になるなら仔犬は遠ざけなければならないし、アルも下がらせたい。戦線を引くのを嫌がるアルでも子供のためと言えば楽に納得させられる。

『……なんや変やと思うたら……外から色々紛れ込んどったんか』

鬼達が叩いていた触腕が持ち上がり、そこをくぐって神父服に身を包んだ男が現れる。

『…………あぁ、久しぶり、零のお弟子さん』

にぃと歪んだ口には鋭い牙が並んでいた。

『ツヅラさん……!?』

『知り合いか、ガキ』

『…………うん』

歌……そうだ、門を超えて作ってしまった別世界で、ツヅラの歌にアルは操られた。セイレーンだとか聞いたせいでその可能性を思い付けなかった。

『…………ツヅラさん、どうしてここに』

『こっちのセリフや。俺は仕事、正義の国の勅命、この島から敵対神性……いや、精霊とその精霊に変質させられた裏切りモンの人間滅ぼせてな』

『……協力してくれたじゃないですか! 前っ……ここの人達が攫われた時!』

『…………せやなぁ。せやけどなぁ……逆らったら俺が裏切りモンや』

ツヅラは背負っていた猟銃を構える。透過も回避も別の誰かに当たるだけ、なら受けるべきだ。

『主君! そのまま私を振り下ろして!』

いつの間にか鍔に止まっていた小烏が叫ぶ。引き金にかけた指が動くのを見て、僕は何も考えずに刀を振り下ろした。

『……冗談キツイわぁ』

発砲音が響き、手に僅かな振動が伝わった。僕にも背後の仲間達にも銃弾を受けた者はいない。

『どうです主君! この小烏、銃弾程度敵ではありません!』

切った、のか。僕が……いや、僕の手柄ではない。

『……ありがと、小烏。ツヅラさん、降参してください、まだ誰も殺してないんでしょう? 今引き返してくれれば後で匿ってあげますよ』

『…………ははっ、裏切りモンが嫌なんは殺されるからとちゃう。創造神様裏切るくらいやったらここで切られた方がマシやわぁ』

『………………分かりました』

ツヅラは猟銃を捨て、袖の中に隠していたらしい短剣を構える。武器は猟銃と短剣だけではないはずだ、油断せず、流れ弾を仲間に向かわせないよう、戦わなければ。

『みんな、下がってて。僕が一人でやる』

ツヅラは零の親友だ。僕にとっても恩人。そんな彼を殺すのなら命令ではなくこの手で──

『ええ度胸やね………………ニャル様、やってまえ』

『……兄さん? 下がってってば、大丈夫だから』

前に回り込んで来たライアーを押しのけようとすると、彼の両手は僕の首に伸びる。ライアーを相手に警戒している訳もなく、首を締められて持ち上げられる。

『……っ!? に、ぃさ……』

手の力が緩んだかと思えばライアーの姿は崩れ、僕は黒い土の上に落ちる。土から黒い霧が浮き上がって僕の首にかかった石に吸い込まれると、土は濃い茶色に変わった。

『ヘル! 大丈夫か!』

『……平気。アルは絶対来ないで』

服の中の石を握り締め、姿勢を落としたままツヅラに切りかかる。ツヅラは身動きを取らず、刀は彼の胸の下あたりを貫いた。無抵抗に驚いて、彼が刀を掴んで更に深く刺したことにも驚いて、一瞬思考が止まる。

『……彎刀で刺されたんは初めてやわぁ。なぁ、刃物って痛いん?』

ドンっと胸に振動を感じて目線をやれば、短剣が突き刺さっていた。

『天使様らから聞いてんで、なんや天使と同じようんなっとるんやろ? 不気味や変や言うて慌てとるわ。どこまで同じになっとるんかは知らんけど、この程度じゃあ死なんようやな』

『……あな、たも……ねっ!』

刀を横に振り抜く。内臓や肉を裂いて血を撒き散らし、刀は彼の体内から脱出する。一歩後ろに引けば短剣も抜けた。

『ぉー……めっちゃ血ぃ出た。痛いんやろなぁ、これ……ふふ、クスリ飲んだん正解やったわ。痛ないし、頭冴えるし……主の声も普段よりよう聞こえる!』

投げられた短剣を掴み、捨てる。ツヅラは両手を広げて満面の笑みを浮かべていて、薄気味悪さから切りかかることが出来なかった。

『ふふっ、ふは、ははっ……ァー──人類の天下は今終わる、薄っぺらい平和は今終わる、我等の主の帰還である!』

叫びに近い歌が歌われ、触腕に押されて倒れかけた無数の木、その葉が揺れる。その音に気が付いたと同時に十本の剣が僕を切り裂いた。手足の腱が切られてしまったようで、僕の身体は勝手に座り込む。

『……もう命令なんか聞いてられん! 茨木、撃て!』

『動くな! 動いたら……それ、潰れんで』

首は辛うじて動いたから、ツヅラが指差した方を見る。皆も同じようにそちらを見ていた。
アルが、仔犬を咥えていた。

『……っ、ぁ……アルっ、口を──っ……!?』

アルの主導権を奪おうとすれば喉に剣が刺さり、瞳が切られ、魔物使いの力の対象を絞れなくなった。

『…………ふふ、みんなええ子やなぁ。そう、そのまんま動きなや。なんや知らんけどそのちっこいの大事なんやろ? アンタらの大将が後生大事に抱えとったからなぁ……ふふっ、あっはっはっは……』

『アルギュロス! それが何か分かっているのか、口を開けろこの駄犬がっ!』

『兄弟、動くな! 無理だ、兄弟に意識は無い……』

流れ弾を当てないようにと透過しない選択肢を選ばなければ、せめて痛覚でも消していれば、再生すらまともに出来ないような状況にはならなかったのに。
僕は自分の判断を恨みつつ、激痛の中必死に眼の再生に集中した。
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