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第三十六章 怠惰の悪魔と鬼喰らいの神虫

牧場

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早朝、まだ薄暗い空をアルメー宅の門番の隣で見上げる。
眠っていたアルを起こさないようこっそりと部屋を出て、道に迷った僕は門番の朝番の少女達に連れられて今ここに居る。

「よ、おはよ。えっと……名前なんだっけ」

『ツァールロスさん、おはよ。名前は……魔物使いでいいよ』

「じゃ、魔物使い。早速行くぞ。卵は早く行かないと貰えないからな。走れるよな?」

『君には追い付けないと思うけど、走れるよ』

鬼の力を全面に出せばそれなりに速く動けるが、ツァールロスには適わない。額に手を添えて生えてくる角を確認し、足首を回す。

「よし、加減して走るから着いてこいよ」

肯定の返事をすると突風に髪が乱される。視界を遮った髪をどけてみれば、ツァールロスはもう居なかった。今の突風は彼女が走り出したことで起こったものか……相変わらず速い。

『待って! もうちょっと遅めに走ってー!』

流石に鬼の身体能力だ。僕とは思えないほどに速い、普段ならぶつかってしまいそうな木々の隙間も抜けられる、脚力反射神経共に向上している。

「めちゃくちゃ遅いなお前……」

速度を緩めたツァールロスが僕の隣に並ぶ。前傾姿勢で全力を出している僕とは対照的に、彼女は腕を組んでよそ見をしながら走っている。

『君がっ、速すぎ……なんだよ!』

「そろそろ着くぞ」

『ぁ、あぁっ、分かった……』

開けた地が見えて足を止め、足を横に倒して土を削りつつ止まる。ツァールロスは何の苦労もなくピタリと止まり、大袈裟だとでも言いたげな目で僕を見た。

「ここ……なんだけど、どうする?」

柵の数メートル手前、僕達は立ち止まって互いを観察する。

『どうするって? 行って卵とか牛乳とか貰うんじゃないの?』

「…………そう、なんだけど……な」

柵の中は家畜が歩き回っている。その奥にある平べったい建物の周りに人が見える。勝手に柵を開けて数十メートル先まで歩いて彼らに話しかけ、品物を分けてと交渉するのだ。

『……どうしよう』

何故二人で来てしまったのだろう。気さくに人と話せる者を連れてくるべきだった。僕達は二人とも最初の一歩が踏み出せない。

「きょっ、今日だけ、だぞ。ここの奴らと話すのは、今回だけなんだ。知り合いの知り合いとかでも、ない。恥かいても、今回だけだ……」

『……全くの他人なら、まだ、マシ……だよね』

「…………よし、行くぞ!」

『うん! 行こう!』

ツァールロスが歩き出すのを待っていると、彼女は僕の方をチラチラと見て、髪を整えながら一歩後ろに下がった。僕もそれに合わせて後退する。

「……行けよ!」

『行くよ!』

「お前先だろ! 卵と牛乳いるのはお前の嫁のためだし……お前男だろ!」

『理由はもっともだけど男は今関係ないだろ! 僕はその辺の女の子より女々しいんだよ! 僕はツァールロスさんがここの人と顔見知りだと思ってたし……』

くだらない言い争いをしていると牛の鳴き声が間近で聞こえた。柵越しとはいえ息がかかるほど近くに来た牛がこちらを見つめている。

「……知ってるか、お前。牛って結構やばいんだぞ。こんなボロい柵普通に壊せるし、突進して吹っ飛ばされたり踏まれたりすりゃ人間なんか簡単に死ぬんだ」

『な、何急に』

「めちゃくちゃ強いくせに神経質なとこあって騒いでると突っ込んできたりするんだ、草食って実は温厚じゃないんだ」

静かにしろ、と言いたいならそう言って欲しい。目を合わせた方がいいのか合わせない方がいいのかも分からず、とりあえず後退する。

「あなた達、何してるんです?」

ひょこ、と牛の影から触角を生やした頭が覗く。翅は一対、目は大きな複眼、翅や触角の形などどことなくベルゼブブに似ている。

『ぁ、えっと……牧場に、ちょっと……用が』

「たっ、卵と、牛乳……貰えないかなー、って」

僕達は互いに盾にし合うように後ろに下がりつつ押し合い、牛の背を撫でる少女に用件を伝えた。

「ああ、お客さんですね! ならそこから入ってきてください、ご案内します」

少女が指した先には取っ手が付いた柵があった。出入り口はすぐ近くにあったのだ、僕もツァールロスも気付かなかったけれど。

「卵と牛乳ですねー、他には?」

「ぁ……バターとか、チーズとか、こっちで加工してるならそれ欲しい」

「してますよ、ちょっと割高ですけど」

割高と聞いた僕はそっとツァールロスに耳打ちした。

『……僕、お金とか持ってきてないよ』

「金……? あぁ、植物の国には通貨はないぞ」

『それは知ってるよ。交換するようなものも……』

貰いに行くなんて聞いていたから無償で分けてもらえるものかと思ってしまっていたが、そんな訳はない。

「ちゃんと考えてあるから大丈夫だ」

『……ならいいけど』

ツァールロスも何も持っていないように見える、本当に大丈夫なのだろうか。一抹の不安を胸に少女の後を追う。

「お姉さんキュッヒェンシュナーベ族ですよね、私初めて見ました! 後でちょっと走ってみてくれませんか? 割引しますから」

「ぁ、うん……そんな速くないけど」

『速いよ、見えないよ』

「……お兄さんは何族ですか?」

少女は後ろ歩きで僕を観察する。一本道だしその道も広い、危ないから前を向けなんて誤魔化しは効かない。

「ぁー、えっと、ファングホイシュレッケ族だ。こいつ蛹破るのに失敗して翅と触角ちぎれちまってるんだよ。鎌も……えっと、狩りの時だっけ? に欠けて使い物にならなくなったから取ったんだよな」

『ぁ、うん……そう、ファン、ホイ……?』

嘘を組み立てるのがなかなか上手い。見習いたいところだ。

「えっ、そ、そうだったんですか!? ごめんなさい気が利かなくて……」

『あ、いえ』

少女は立ち止まり、僕の左手を掴んだ。

「ごめんなさいっ……ちゃんとご案内させていただきますから、どうかご安心を」

『え? ぁ、はい……あの、どうして手を』

「……え? 触角……ちぎれてしまっているんでしょう?」

身体欠損のタブー視ゆえの謝罪ではなく、介助の遅れの謝罪だったのか? 亜種人類にとって触角はそんなに大切なものなのだろうか……元々無い僕には感情が読めて便利くらいにしか思えなかった。

「お姉さん、ちゃんと手を引いてあげないと」

「ぁー、いや、こいつ割りとスタスタ歩くから……大丈夫だろって」

「ダメですよ、木や柱にぶつかったら危ないでしょう」

視覚に次ぐものなのだろうか。ウェナトリアに触角は無かったように思えるが、その上彼は目隠しをしているが、見えているかのように動いている。不思議だ、亜種人類。

「……ぁ、手を引くなら名前を伝えておきませんと。私はヤドリ、頼生よりふ宿やどりです」

『……よろしくお願いします、ヤドリさん。僕は……えっと』

名前を覚えられないというのも厄介なものだ。一度会うだけの人に魔物使いと知られるのも嫌だし、通称でも作るべきだろうか。ヘルを本名ではなくただのあだ名として扱えば──いや、ヘルと呼ばれれば僕はそれを自分の本名と認識するだろう。僕がそう認識してしまえばヘルという名前は他人の中から消えてしまう。

『…………タブリス、です』

今の僕の正当な名前を使っておこう。きっとこの先悪魔や天使と対峙すれば名乗らずともこう呼ばれるだろうから。


しばらく歩いて鳥や牛や山羊などが飼われている建物に併設した加工所に。バターやチーズだけでなく卵や牛乳も処理が必要らしい、殺菌とか言っていたかな。

「ヤドルー、お客さんです!」

ヤドリが大声を上げながら手を振ると、騒音響く加工所内から返事が来て、ヤドリによく似た少年が走ってくる。

「お兄さんお姉さん、彼はヤドルと言って私の弟です」

「……おはようございます。で、何をご所望で?」

「ヤドル、もう少し愛想よくしてください」

「愛想良くても悪くても時給上がりませんし」

見た目は同じと言って差し支えないが、表情や触角の傾きに差がある。見分けが楽でいい。

「……ヤドリはどうして手を繋いでるんです?」

「お兄さんは触角がちぎれてしまっていて……」

「え? 両方? うわ……本当だ、大変ですね、翅もですか? えっと…………割引しますね」

亜種人類にとっての触角や翅の重要さが分からない。人間で言う手足に相当するのだろうか、いや、手足が無いからと言って割引されたりは……手足があるから分からないな。

「卵と、牛乳。あとチーズとバター、量は……」

注文はツァールロスが済ませてくれる。考えてあると言っていたから支払いも彼女だ。僕はぼうっと加工所の騒音を聞いて時間を潰した。
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