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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た

魔王の怒号

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炎が形を持って現れたのは執事風の男、アスタロトだ。そう僕が認識すると同時にカヤは唸り声を上げ始めた。

『カヤ、落ち着いて。アスタロト……何かあったの?』

『九尾の狐にアルギュロス様が攫われました』

『…………は? そんな……嘘』

『……申し訳ない事ですが、この炎に混じる魔力では実体化に足りません。私……は、ここ──ま、で』

アスタロトの姿は炎に混じって溶けて消える。
玉藻にアルを攫うことなんて出来るのか? そこまで強力な妖怪だったのか? いや、僕の時のように誰かに化けてアルを誘い出したとしたら、有り得る。

『カヤっ! アルはどこだよ!』

『分か、ラ、兦』

誰に攫われただとか実体化に足りないだとかどうでもいい、ただ一言アルの居場所を教えてくれたらそれで良かった。

『……痛い』

頭が痛い。熱からの干渉は切っているはずなのに、痛覚も消しているはずなのに、脳が膨張して浮くような感覚がある。炎で赤く染まり、熱で歪んだ邸内の景色に一瞬、いつか時計塔の中で見た歯車のようなものが見えた。

『御主人様っ、御主人様……』

『痛いっ、痛い、いっ……たいっ! 痛い、痛い痛いぃっ! 何なんだよこれぇっ!』

眼球が握られているような痛みがある。眼球の裏で気味の悪い虫か何かが中の骨や肉や脳を貪っているような感覚がある。
燃えている絨毯に膝をつき、揺れる視界に血塗れの手を見た。コードを乱暴に引き抜いたテレビのように、ブツンと視界が黒く染まった。

『……御主人様!』

一瞬の浮遊感があり、短い毛の感触にカヤの背に乗せられているのだと気が付く。

『お兄ちゃん! お兄ちゃん……良かった、無事だった?』

「おーさまー……おーさま、ぐろるのくまさん……くろくなっちゃった」

『ちょっと焦げただけだろ、黙ってて。状況分かってよ、これだから子供は……』

癪に障る声……いや、フェルの声だ。頬に触れる冷たく頼りない手もフェルのものだろう。カヤの首筋に置いていた頭を持ち上げられる。

『……お兄ちゃん、眼……破裂してる』

「え……? 何で?」

『とっ、とりあえず治すね?』

額にコンコンと何かが何度もぶつけられる。おそらく杖だろう。少々不愉快なフェルの治癒魔法が終わると視界が開け、全焼し跡形もなく崩れた黒い瓦礫を見た。

「おうさまおうさまー、おうちね、さっきまでねー、もえてたけどね、こんなのじゃなかったんだよ」

『……お兄ちゃんが出てくる一瞬前までは、火に包まれてただけで崩れてはいなかった。でも、急に火の勢いと色が変わって……爆発音みたいなのが何度も響いて、こんな……木造みたいに、完全に焼けちゃった』

グロルとフェルの説明を受けても状況が理解出来ない。
頭痛と眼の破裂は魔物使いの力を使い過ぎた時に起こるものと同じだった。玉藻が術で火を放ったのなら邸宅を燃やしていた火は僕に操れるものだ。僕がやったのか?

『御主、囜、様……が、伙ノ強サ、上ケ゛タ』

カヤもそう言っている。火を操って邸宅を燃やし尽くしたのは僕だ。火を消すことも出来ただろうに、アルへの渇望と玉藻への激情に任せて八つ当たりをしたのだ。

『…………お兄ちゃん、大丈夫? 狼さんは一緒じゃないの?』

「アル……攫われちゃった」

『え? 狼さんが? 嘘……お兄ちゃんならともかく』

「騙されたのか無理矢理なのか分かんないけど、連れてかれちゃったんだよ! ほんとなんだよ!」

『ぁ……う、疑ったわけじゃないんだ、ごめん……気悪くしたよね、ごめんなさい……お兄ちゃん』

今もそうだ、何も悪くないフェルに八つ当たりをしていた。した後に気が付いたってどうしようもない。

「…………ごめん、怒鳴ったりして」

『いや、僕が悪いんだし……気にしないで、お兄ちゃん』

フェルに謝罪は通らない。許してはもらえない。本当に僕に似ている。

『……それより、狼さんが居なくなったんなら探さないと。場所は……?』

「…………分かんない」

『狼さんも通信蝿持ってるはずだからさ、とりあえず元アシュメダイ邸に行こうよ。ベルゼブブさん居るはずだから、ね? 昨日今日と復旧の為にマンモンさんも来てるし……きっと大丈夫だから』

取り戻す方法を真剣に考えてくれているのは分かる、必死に僕を励まそうとしているのも分かる。けれど──

「……なんで大丈夫なの? 何が大丈夫なんだよっ! きっと? 無責任なこと言わないで、何にも出来ないくせにっ……! その顔見てると腹が立つ、ヘラヘラするなよ、目を合わせようとするな! 気持ち悪いんだよっ! この無能!」

──自分にそっくりなフェルは自己嫌悪を募らせた今の状況では苛立ちの原因にしかならない。

『おにぃ、ちゃっ……』

「あぁもう泣くなよ鬱陶しい! 気持ち悪いっ……泣いたって誰も慰めたりしないからね!? 可愛くなんてない、気持ち悪いだけなんだよ! 何も……出来ない、何も分かんない、何の意味もない無能……お前なんか、存在する価値ないんだよ」

『…………』

すとんとフェルの手から力が抜ける。俯いたままの僕の顔に焦げたクマのぬいぐるみがぶつけられ、胸ぐらを小さな温かい手が掴んだ。

「言い過ぎだろ王様! こいつが何したって言うんだよ、イラつくのは分かるけどこいつに八つ当たりしてやるなよ!」

『……ァ、アザゼル……? ごめん、その……つい』

「俺に謝ったって仕方ねぇっての」

幼い女の子の見た目で諭されると何だか可笑しさが勝って、逆に冷静になれた。そして先程の自分に向けたフェルへの暴言の詳細を認識し、カヤから降りて呆然と立ち尽くすフェルを見つめた。

「…………フェル、あの」

そっと頬に触れる。撫でようと力を込めると僕の手はフェルの中に沈んだ。

「……っ!?」

慌てて手を引き抜くと僕の手は粘着な黒い液体にまみれていて、フェルの頬から喉にかけて穴が空いて黒い中身が覗いていた。ここは人目が多い、こんなところでスライム化されては困る。僕はアザゼルとカヤと協力してフェルを路地裏に運んだ。

「フェル……フェル、こっち向いて、フェル……」

カヤに路地裏に溜まっていた連中を追い払わせ、アザゼルに入口を見張ってもらい、溶けていくフェルに声をかける。ここに辿り着いた頃にはもう膝から下は無く、靴はどこかに落としてきた。

「ごめんね、フェルっ……違うんだよ、さっきの違うんだ、本心じゃない……君に言ったんじゃないんだ。自分に……苛立ってて、君と僕が似てるから…………君に向かって言ったけど、君に言ったんじゃないんだよ」

黒い粘着質な液体が膝をついた地面に広がり、酷く不快だ。嫌な匂いもする。

「……フェルは無能なんかじゃない、僕と違って魔法が使えるじゃないか。さっきだって僕の怪我治してくれたし、グロルちゃんも助けてくれたんだろ?」

「おぅ、グロルの奴危ないと見るとクローゼットに入りやがったからな。やばかったぜ」

「…………君が出ればよかったんじゃないの」

「何か出れなかった。死ぬかと思った。何故か出てこれないって稀によくあるんだよな」

俯いた顔を持ち上げようとすると手の中に球体が転がる。僕の魔眼に似せた鈍い虹色の虹彩……フェルの右眼球。

「ごめんね、フェル……ごめん。本当にごめんなさい。あんなこと思ってないんだよ、あれ全部僕に……自分に向かって言ったんだ。君に向けちゃったけど、自分用だったんだよ…………分かって、フェル。僕は……お兄ちゃんは、フェルに気持ち悪いなんて思わないから」

手に絡む粘着質な液体も、異臭も、転がり落ちた眼球もチラリと覗いた脳も、何もかも、僕にとっては愛しい弟。
溶けかけて指が見受けられない両手が震えながら持ち上がり、僕の背に巻かれた。

『お、にぃ……ちゃん?』

人の顔に戻っていく液体が不愉快な幼声で僕を見つめる。異臭はもう収まった。

「うん、ごめんね。大丈夫……大好きだよ」

『………………良かった』

恐る恐るフェルの背に回した腕は液体の中に沈まず、しっかりと体温を持った人の体を抱き締めた。

『大丈夫……分かったから、お兄ちゃんの考えることなら分かる……お兄ちゃんは本当に僕に無能って言ったんじゃない。ヘルシャフト・ルーラーは自分以外を本気で罵ったりしない……』

罵倒してしまったのがフェルでよかったのかもしれない。同じ思考回路を持った彼だからこそ釈明が通っただけで、普通なら縁を切られて当然の罵倒だった。

『…………無駄に時間使っちゃったね。行こ、お兄ちゃん……ぁ、そうだ! 僕も一応蝿持ってるんだよ、これで狼さんに連絡してみたらどうかな』

フェルは丸いフェルト生地のストラップを体内から取り出し、僕に渡した。

『…………アルギュロスと話したい』

生地の下にカサカサと嫌な感触を味わいながら、ストラップを顔に近付ける。

『──呼び出し中、呼び出し中、呼び出──』

単調な呼び出しを告げる甲高い声が途切れると、獣の深い呼吸音が聞こえてくる。繋がった、そう確信した。

「アル! アル、どこに居るの!? 無事!? 怪我はっ……アル、返事して!」

『──………………ん、む……?──』

微かにアルの声が聞こえた気がしたが、言葉にはなっていない。

「アル、返事……返事も出来ないの!? そんな状況なの!?」

『──ぅー……──』

ぶぢゅ、と何かが潰れるような音が響いた。

『──三番通信蝿は現在魔力反応が消失しております。三番通──』

甲高い声が一つの文章を繰り返す。魔力反応が消失? 蝿が破損したということだろう。
蝿が壊れて、アルもまともに返事が出来ない状況……相当まずい。

「……カヤ! ベルゼブブのところに!」

僕はフェルとアザゼルの手を掴み、カヤを呼び付けそう叫んだ。
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