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第二十章 偽の理想郷にて嘘を兄に
記憶混濁
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昼時、静かに賑わい始める店内。客はのそのそと昼食を口に運ぶ。
僕はパタパタと店内を走り回った。もう失敗したくないと気を張ったおかげか、注文の聞き取りミスはしなかった。
『今日も賑わっとるねー。あれ、ヘルシャフト君? どないしたん』
「あ……ツヅラさん」
ツヅラはカウンター席に向かう。いつも同じ席に座っているのだろう。
『その制服……ここでバイトしとるん? 偉いなぁ』
「何何? キミ達知り合い?」
『おん、親友の弟子。あぁスーニャ、いつものお願い』
「アイスコーヒーだね。キミの友達の弟子ってことは……ヘル君は神職者さん?」
店主はツヅラに珈琲を出しながら僕に訊ねる。
僕は答えを考えながらも「そういえば店主のフルネームを聞いてないな」なんて関係のない事も考え、返答を遅らせた。
「……いえ、僕は神職者にはなれません」
魔物使いだから。魔法使いの血が流れているから。悪魔と契約していたから。
「竜一君がなれるんだからいけると思うよ」
『どーゆー意味や』
「そのままの意味、だって竜一君は神様信じてないでしょ?」
『何ゆーとるん、俺はいっつも創造主様ばんざーいってゆーとるよ』
一時的に注文の嵐がやんで、僕もカウンターに回る。
回収したグラスを洗いながら店主とツヅラの話を聞く。
「君の主は?」
『…………我が主は……海の底に』
「ホント、すごいよねキミ」
『……ぁん? 何がや? すまん、ボーッとしとったわ』
「ふふ、いいよ。よく分かったからさ」
店主は鼻歌を歌いながら愉しそうに豆を挽く。
ツヅラとの会話は意図を汲み取れないどころか意味も分からなかった。
「創造主って海にいるんですか?」
『天国や天界やと思うよ、空の上やね』
「……さっき、海って言いませんでした?」
『そんなんゆーたん? ごめんな、最近よう記憶飛ぶねん』
記憶が飛ぶ……か、僕も昨日からそうだ。まさかこの街に関係があるのか?
店主にも聞くとしよう。
「あの、ライアーさん。記憶が飛ぶことってありますか?」
「あー……結構あるね。さっきも飛んだよ。キミもなの? なんなんだろうね、アレ」
店主にもある、ということはやはり原因はこの街かもしれない。
悪魔に呪いをかけられているのならベルゼブブも知っているだろうし、天使なら尚更。
となると──土地の問題、磁場がどうこうって理論は無茶過ぎるか。
「どんな時に飛びます?」
「えぇ? 難しいなぁ。記憶が無いのに思い出せなんて……さっき嫌いな奴の話した時飛んだ気がするけど。キミはどうなの?」
「えっと……僕は、お風呂場で頭を打って」
「…………それはボクのとは違う気がするなぁ」
僕もそう思う。
ツヅラの場合は僕の予想では神の話をした時だ。
主の居場所は? と聞かれれば海と言う。
創造主はどこに? と聞かれれば空の上と言う。
正反対だ。神父のくせに神の話題が出ると記憶が飛んでしまうなんて──待てよ、ツヅラの言う主と神父が崇めるべき神は別物なのか? ベルゼブブもそんな事を言っていたような……ダメだ、それもよく覚えていない。
「……ツヅラさん。ツヅラさんが信仰してるのって」
『神様やよ』
「創造主、ですよね。正義の国の神学校出たんですよね」
『そやけど』
ツヅラは首を傾げ、不思議そうに僕を見つめる。
僕の杞憂か? いや、しかし……
ライアーはツヅラが神を信じていないと言った、ツヅラ自身はそれを否定していたが。
「……海に何がいるんですか?」
『お魚さんとちゃうの』
「魚……そうだ、魚、たくさんの魚みたいなバケモノが集まって、変な場所に」
僕は何かを思い出しかける。だが、頭の中の霧に閉ざされたそれは掴めそうで掴めない。
逃げ水のように逃げていく。
『ヘル、いるか』
チリンと鈴が鳴り、僕は思い出そうとしていた事自体を忘れ、「いらっしゃいませ」と反射で口を動かした。
「あ、アルだ。どうしたの?」
『どうしたはこちらの台詞だ。全く、私も一緒に行くと言ったろう』
「ごめんね、よく寝てたから。あ、アル何か食べる? オススメはメニューの一番上の……」
『接客が身についているようで何よりだ』
アルは僕の足に額を二、三度擦り付けると、ツヅラの足元に腰を下ろす。
店内の照明を反射してオレンジ色に輝く銀毛にはついつい見蕩れてしまう。
『飲食店に毛玉が入っていいんですか?』
そんな意地の悪い真っ当な問いかけをしたのはベルゼブブだ。いつの間にかカウンターに座っており、店主を鋭い目で睨みつけている。
『どーなんですか、ナイアーラトテップ』
「…………へ? えっと……何か飲む?」
『ではオレンジジュースを』
ベルゼブブはグラスにその細長く棘の生えた舌を絡ませる。
その仕草は虫らしく、気持ち悪い。
「あ、あのね。ベルゼブブ、ライアーさんはライアーさんって言って、ナイ君とは別人だよ」
『別人、えぇそうですね、別個体です』
「……えっと、何の話?」
『ヘルシャフト様もご存知の通り、この邪神は幾つもの顕現を持ちます、分身と言っても……構いませんか?』
ライアーの表情には焦りも動揺もない、図星を突かれた者の顔ではない。
つまり、本当に知らないということだ。少なくとも僕はそう感じた。
『何体いるのかは私にも分かりません、ですが潰しても潰しても湧いて出るその様はまさに害虫』
「害虫って……酷いね。何か勘違いしてるよ、キミは」
『貴方は見た目を自由に変えられるようですし、わざわざその……私共が見慣れた見た目を使うということは、日常生活を送るためだけの顕現ではないということ。おちょくりに来たんでしょ? さっきからトボけてますけど、もう腹を括ったらどうです』
ベルゼブブはライアーがナイだと確信している。
ライアーは少しムッとした顔をしているが、その顔は正体を言い当てられたからというよりは面倒な言いがかりをつけられているから、の方がしっくりくる。
「さっきから言ってることの意味が分からないね、ボクがそんなに誰かに似てるの? ヘル君も言ってたね」
「す、すいません……ベルゼブブ、もうやめなよ、違うんだって多分」
『貴方達にとっての正しき星辰の時は遠いと思っていましたが、貴方がここに居るとなれば話は別。貴方……星の位置を変えるつもりですね?』
「だからさぁ! 何言ってんのか全然分かんないんだよ!」
ライアーがカウンターを叩く。客がびくっとこちらを見る。僕は客に頭を下げ、気にせず食事を続けてと手振りを交えて伝えた。
「ラ、ライアーさん、すいません本当に……ベルゼブブ、やめなよ。もう分かっただろ? 顔似てるだけの人なんていくらでもいるって、君なら魔力とかで分かるでしょ?」
いくらでも、と自分で言いながら笑えてくる。
ライアーのような、ナイのような度が過ぎた美人なんてそうそういるものではない。
だからこそ僕も最初は疑ったのだから。
『確かに……見た目以外は全く似てませんけど』
『……ベルゼブブ様。私も彼には怪しいものは感じませんし、今日はどうか』
『…………ふんっ、分かりましたよ。ですが覚えていてください、あの都市を浮上させると言うのなら、このベルゼブブ、全力を持って貴方を排除させていただきます』
ベルゼブブはオレンジジュースを一気に飲み干し、乱暴に扉を開けて出ていった。金を払わずに。
『困った子やねぇ、悪魔っ子ちゃん』
「あはは……すいません、ツヅラさんにも迷惑かけましたね」
『俺はえぇけど、どーなんなスーニャ』
「…………ナイアーラトテップ、か」
『スーニャ? どうしたんな難しい顔して』
「……いや、少し引っ掛かる名前だったから。どこかで見たような、聞いたような……うぅん、思い出せない。何も……分からない」
ライアーは頭を振って、また豆挽きを始める。
彼にとって落ち着く行為なのだろう。
ザリザリという音は確かに落ち着く。聞いているだけの僕がそうなのだから、本人への効果は絶大だろう。
もう聞こえていないだろうけど、僕はもう一度謝ってから仕事に戻った。
僕はパタパタと店内を走り回った。もう失敗したくないと気を張ったおかげか、注文の聞き取りミスはしなかった。
『今日も賑わっとるねー。あれ、ヘルシャフト君? どないしたん』
「あ……ツヅラさん」
ツヅラはカウンター席に向かう。いつも同じ席に座っているのだろう。
『その制服……ここでバイトしとるん? 偉いなぁ』
「何何? キミ達知り合い?」
『おん、親友の弟子。あぁスーニャ、いつものお願い』
「アイスコーヒーだね。キミの友達の弟子ってことは……ヘル君は神職者さん?」
店主はツヅラに珈琲を出しながら僕に訊ねる。
僕は答えを考えながらも「そういえば店主のフルネームを聞いてないな」なんて関係のない事も考え、返答を遅らせた。
「……いえ、僕は神職者にはなれません」
魔物使いだから。魔法使いの血が流れているから。悪魔と契約していたから。
「竜一君がなれるんだからいけると思うよ」
『どーゆー意味や』
「そのままの意味、だって竜一君は神様信じてないでしょ?」
『何ゆーとるん、俺はいっつも創造主様ばんざーいってゆーとるよ』
一時的に注文の嵐がやんで、僕もカウンターに回る。
回収したグラスを洗いながら店主とツヅラの話を聞く。
「君の主は?」
『…………我が主は……海の底に』
「ホント、すごいよねキミ」
『……ぁん? 何がや? すまん、ボーッとしとったわ』
「ふふ、いいよ。よく分かったからさ」
店主は鼻歌を歌いながら愉しそうに豆を挽く。
ツヅラとの会話は意図を汲み取れないどころか意味も分からなかった。
「創造主って海にいるんですか?」
『天国や天界やと思うよ、空の上やね』
「……さっき、海って言いませんでした?」
『そんなんゆーたん? ごめんな、最近よう記憶飛ぶねん』
記憶が飛ぶ……か、僕も昨日からそうだ。まさかこの街に関係があるのか?
店主にも聞くとしよう。
「あの、ライアーさん。記憶が飛ぶことってありますか?」
「あー……結構あるね。さっきも飛んだよ。キミもなの? なんなんだろうね、アレ」
店主にもある、ということはやはり原因はこの街かもしれない。
悪魔に呪いをかけられているのならベルゼブブも知っているだろうし、天使なら尚更。
となると──土地の問題、磁場がどうこうって理論は無茶過ぎるか。
「どんな時に飛びます?」
「えぇ? 難しいなぁ。記憶が無いのに思い出せなんて……さっき嫌いな奴の話した時飛んだ気がするけど。キミはどうなの?」
「えっと……僕は、お風呂場で頭を打って」
「…………それはボクのとは違う気がするなぁ」
僕もそう思う。
ツヅラの場合は僕の予想では神の話をした時だ。
主の居場所は? と聞かれれば海と言う。
創造主はどこに? と聞かれれば空の上と言う。
正反対だ。神父のくせに神の話題が出ると記憶が飛んでしまうなんて──待てよ、ツヅラの言う主と神父が崇めるべき神は別物なのか? ベルゼブブもそんな事を言っていたような……ダメだ、それもよく覚えていない。
「……ツヅラさん。ツヅラさんが信仰してるのって」
『神様やよ』
「創造主、ですよね。正義の国の神学校出たんですよね」
『そやけど』
ツヅラは首を傾げ、不思議そうに僕を見つめる。
僕の杞憂か? いや、しかし……
ライアーはツヅラが神を信じていないと言った、ツヅラ自身はそれを否定していたが。
「……海に何がいるんですか?」
『お魚さんとちゃうの』
「魚……そうだ、魚、たくさんの魚みたいなバケモノが集まって、変な場所に」
僕は何かを思い出しかける。だが、頭の中の霧に閉ざされたそれは掴めそうで掴めない。
逃げ水のように逃げていく。
『ヘル、いるか』
チリンと鈴が鳴り、僕は思い出そうとしていた事自体を忘れ、「いらっしゃいませ」と反射で口を動かした。
「あ、アルだ。どうしたの?」
『どうしたはこちらの台詞だ。全く、私も一緒に行くと言ったろう』
「ごめんね、よく寝てたから。あ、アル何か食べる? オススメはメニューの一番上の……」
『接客が身についているようで何よりだ』
アルは僕の足に額を二、三度擦り付けると、ツヅラの足元に腰を下ろす。
店内の照明を反射してオレンジ色に輝く銀毛にはついつい見蕩れてしまう。
『飲食店に毛玉が入っていいんですか?』
そんな意地の悪い真っ当な問いかけをしたのはベルゼブブだ。いつの間にかカウンターに座っており、店主を鋭い目で睨みつけている。
『どーなんですか、ナイアーラトテップ』
「…………へ? えっと……何か飲む?」
『ではオレンジジュースを』
ベルゼブブはグラスにその細長く棘の生えた舌を絡ませる。
その仕草は虫らしく、気持ち悪い。
「あ、あのね。ベルゼブブ、ライアーさんはライアーさんって言って、ナイ君とは別人だよ」
『別人、えぇそうですね、別個体です』
「……えっと、何の話?」
『ヘルシャフト様もご存知の通り、この邪神は幾つもの顕現を持ちます、分身と言っても……構いませんか?』
ライアーの表情には焦りも動揺もない、図星を突かれた者の顔ではない。
つまり、本当に知らないということだ。少なくとも僕はそう感じた。
『何体いるのかは私にも分かりません、ですが潰しても潰しても湧いて出るその様はまさに害虫』
「害虫って……酷いね。何か勘違いしてるよ、キミは」
『貴方は見た目を自由に変えられるようですし、わざわざその……私共が見慣れた見た目を使うということは、日常生活を送るためだけの顕現ではないということ。おちょくりに来たんでしょ? さっきからトボけてますけど、もう腹を括ったらどうです』
ベルゼブブはライアーがナイだと確信している。
ライアーは少しムッとした顔をしているが、その顔は正体を言い当てられたからというよりは面倒な言いがかりをつけられているから、の方がしっくりくる。
「さっきから言ってることの意味が分からないね、ボクがそんなに誰かに似てるの? ヘル君も言ってたね」
「す、すいません……ベルゼブブ、もうやめなよ、違うんだって多分」
『貴方達にとっての正しき星辰の時は遠いと思っていましたが、貴方がここに居るとなれば話は別。貴方……星の位置を変えるつもりですね?』
「だからさぁ! 何言ってんのか全然分かんないんだよ!」
ライアーがカウンターを叩く。客がびくっとこちらを見る。僕は客に頭を下げ、気にせず食事を続けてと手振りを交えて伝えた。
「ラ、ライアーさん、すいません本当に……ベルゼブブ、やめなよ。もう分かっただろ? 顔似てるだけの人なんていくらでもいるって、君なら魔力とかで分かるでしょ?」
いくらでも、と自分で言いながら笑えてくる。
ライアーのような、ナイのような度が過ぎた美人なんてそうそういるものではない。
だからこそ僕も最初は疑ったのだから。
『確かに……見た目以外は全く似てませんけど』
『……ベルゼブブ様。私も彼には怪しいものは感じませんし、今日はどうか』
『…………ふんっ、分かりましたよ。ですが覚えていてください、あの都市を浮上させると言うのなら、このベルゼブブ、全力を持って貴方を排除させていただきます』
ベルゼブブはオレンジジュースを一気に飲み干し、乱暴に扉を開けて出ていった。金を払わずに。
『困った子やねぇ、悪魔っ子ちゃん』
「あはは……すいません、ツヅラさんにも迷惑かけましたね」
『俺はえぇけど、どーなんなスーニャ』
「…………ナイアーラトテップ、か」
『スーニャ? どうしたんな難しい顔して』
「……いや、少し引っ掛かる名前だったから。どこかで見たような、聞いたような……うぅん、思い出せない。何も……分からない」
ライアーは頭を振って、また豆挽きを始める。
彼にとって落ち着く行為なのだろう。
ザリザリという音は確かに落ち着く。聞いているだけの僕がそうなのだから、本人への効果は絶大だろう。
もう聞こえていないだろうけど、僕はもう一度謝ってから仕事に戻った。
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