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第三章 書物の国の小規模戦争

真の姿

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『……ですか、大丈夫ですか』

落ち着いた女性の声が聞こえる、体を揺すられている。
ここは……どこだ?

『耐性が無かったんですね、気がつきませんでした。あの本を持っても大丈夫そうでしたので……』

申し訳有りません、と頭を下げる彼女には見覚えがある。大図書館の司書だ。ここは図書館だろうか、だがこの白い部屋には見覚えがない。
体を起こすと、パイプベッドが軋んで風変わりな音を立てた。背中が痛い、頭も痛い、目眩までする。

『大丈夫だとは思いますが、一応検査を受けてから帰ってくださいね』

「……検査?」

『耐性が無い方は呼んだだけで呪いの影響を受ける場合が有りますから、その場合はこちらで治療致しますので』

司書はそう言うと真っ白い棚から医療器具らしきものを取り出す。寒気を感じるライトに、しっとりと濡れた薄っぺらな布。

「これ……なんですか?」

『検査です、採血しますので腕を』

「……針太くないですか?」

鉛筆程の太さの針の注射器、見ただけで腕の痛みを錯覚した。司書は血管の位置を確認すると、ガーゼに染み込ませたアルコールで軽く拭く。

「ま、待って!」

僕の言葉を無視し、採血は始まった。予想に反して痛みは全くなかったが、注射筒に溜まっていく血を見ると目眩が酷くなった。

『……問題有りませんね、ですが』

注射器を揺らし、僕の血を眺める彼女の目が狂気を孕む。

『……美味しそう』

灰色の瞳を爛々と輝かせ、そう呟いた。

「し、失礼します!」

身の危険を感じて部屋を飛び出す。床も壁も天井も真っ白な距離感の掴めない廊下をしばらく走ると、背の高い本棚の並ぶ広場へ戻ってこれた。

『あ、ヘルシャフト君。目当てのモノは見つかったかい?』

「えっと……禁書だったみたいで、倒れてしまって」

『そうかい、残念だねぇ。司書さんが暇なら読んでくれるかもよ?  彼女は耐性高いからねぇ。僕はあんまり耐性無いからなぁ、アルギュロスも。まぁ流石に倒れたりはしないけど、何書いてあるか分かんないんだよね』

かがみ込んで僕に視線を合わせるマルコシアス。貼り付けられたような微笑みが不安を煽った。

「司書さん……何か、怖かったんですけど」

『へぇ?  真面目な娘だけどねぇ』

「だって、美味しそうって」

司書は確かに僕の血を見てそう言った。

『大丈夫だよ、いきなり噛み付いてきたりしないから。多分ちゃんとお願いしてくるよ』

「そういう問題ですかね……あの人も悪魔なんですか?」

『そうだよ、秘密を暴くのが趣味。アーちゃんだよ』

この国は悪魔が多いようだ、滞在二日で二人も見つけた。出来ることならば人以外のモノと関わりたくないのだが。

「へぇ…あの、アルは?」

アルの姿が見えない。前ほどではないが、やはり寂しい。

『調べたい事があるんだって、しばらく戻らないよ』

「……そうですか」

僕の声を遮るように鐘の音が響く。思わず耳を塞ぎたくなるような轟音に、内蔵まで伝わる振動。先程の目眩が帰ってきた。

『正午の鐘だよ、お昼食べにいこうか』

「耳が、痛いです。何であんなに大きいんですか」

『みんな本に集中してるからねぇ。ほらご覧よ、あの音でも気がつかない人もいる』

備えつけの椅子に座って本を読む人々は誰も本から目を離さない。聞こえていなかったかのように振舞っている。

『ご飯食べるの忘れて倒れる人とか多いんだよねぇ』

口に手を当てて上品に笑いながら、マルコシアスは僕の背を押して外へ連れ出した。

『君は人間なんだからちゃんと食べないとね。あ、そうそう、大図書館では飲食禁止なんだよ』

アルがそばにいないのはとても不安だ、それもこの女と一緒なんて。だがアルは彼女を信頼して僕を預けているのだろう、今のところ怖がってばかりだがこの機会に何とか慣れなければ、アルの為にも。

国の中心部、大きな噴水の広場。噴水を中心にしてベンチが並び、まばらな人々はみな本を読んでいる。僕はその噴水に一番近いベンチに座らされた、水滴が残らない程度の水しぶきが顔にかかる。

『ちょっと待ってて、すぐ戻るよ。心配しなくてもちゃんと野菜もあるからねぇ』

僕は不安そうな顔をしていたのだろうが、別にまた肉を食わされるのかと思っていたのではない。だがマルコシアスはそう思い、僕の頭を撫でた。小走りで遠ざかる黒い影をしばらく眺め、僕は噴水に視線を戻した。
見事な噴水だ。嫌味な豪華さはなくただ美しい。
魔法の国の広場を思い出し、泣きそうになった。
その時だ、聞き覚えのある高笑いが背後で響いた。

『ハハハハッ、久しいなぁ……魔物使いのガキ。あの犬は一緒じゃないのか?  つまり、喰っていいという事だな?』

赤銅色の翼に鬣、長い尾は二つに割れている。大きな獅子が、僕を獰猛な肉食獣の目で睨む。

「久しぶり、かな。ライオンさん。げ、元気だった?」

カルコスの気を逸らそうと作った必死の愛想笑いは、きっと酷いものだったのだろう。カルコスはニタニタと笑いながら、ゆっくりと詰め寄る。
僕が怖がっているのを楽しんでいるようだ。

『ああ……元気だ、どこぞのガキでも喰えばもっと元気になるなぁ』

「ぼ、僕は美味しくないよ?」

『フン!  我の腹を満たせるという事を誇りに思ったらどうだ?』

長い二本の尾が僕の足を捕らえる。それでなくとも腰が抜けて動けないというのに。
カルコスの牙が眼前に迫ったところで、どこからか狼の遠吠えが聞こえた。カルコスは慌てて僕から離れ、その声の主を睨んだ。

『何をしている、銅獅子』

『マルコシアス!?  何故ここに!』

『何をしていると聞いている』

素朴なタイルを黒のヒールが打つ、マルコシアスはカルコスを全く恐れることなく近づいてくる。

『その子から離れろ……僕のだ』

カルコスは翼を羽ばたかせ、マルコシアスの視界を遮るために砂埃を巻き上げる。僕の襟首を咥え、飛び立つ。

『このバカガキが!  何故あんなモノに目をつけられている!』

噴水を足場にして高度を上げる、僕の膝下が水に浸かったことなど気にせずに。地面が離れると同時に僕の気も遠くなる。

『兄弟は何をしている!  アレの執念深さは並ではないと言うに……』

ぶつぶつと何かを呟いている、だがそれを気にするほどの余裕は僕にはない。不安定に体は揺れ、服は破れそうな音を立てている。いつ落ちるか分からない恐怖で体が強ばる。
雲を抜け、太陽にさらされる。
呼吸が苦しくなってきた丁度その時、僕の真下の雲が円く消えた。
雲を吹き飛ばしたのは大きな黒い影。影はカルコスの胴に噛みつき、僕が離れたのを確認して翼を噛みちぎり彼を叩き落とした。
宙に投げ出された僕を尾で絡めとる。尾は、蛇だ。
アルの黒蛇よりは一回りほど細いか、その蛇に背まで運ばれる。鷹のような翼を生やした真っ黒い狼だった。

「……だ、れ?」

アルによく似ている、けれど違う。アルはこんなに大きくはない、黒くはない。光を吸い込んでいるかのような黒い毛並みの広い背にしがみつく、アルを横に三体並べた程度の大きな背。僕を背に乗せた黒い狼は、僕を落とさないようにゆっくりと地上に向かった。
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