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現代的な煩悩
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それから一ヶ月ほどたって町は秋の装いを見せ始めた。高校ではこの時期には文化祭や運動会や修学旅行があり、教師も準備に忙しい。
しかし、生徒たちは精神が欠如した形式的な行事を消化するだけで、今一つ覇気がない。ある生徒が「運動会の醍醐味は雨天中止ですよ」と言うのを聞いて、空虚なモチベーションを空回りさせているのは教師だけかと思ったりもした。それでもやるからには雑用が増えて忙しくなる。今日も会議が長引いて帰宅するのが遅くなった。
帰宅して夕食の支度をしようとすると、電話がけたたましく鳴り始めた。最近の電話は受話器を取る前に誰からかかってきたのかわかるようになっている。実家からだった。受話器を取って
「はい。もしもし」
と定型的な応答をすると母親の声でこう告げた。
「実は今日、お父さんが外出先で倒れて病院に送られたんだって。詳しい容態はわからないけど、すぐに帰って来て」
それを聞いて千恵は絶句した。実家ではそんなことになっているのか。父ももう死んでもおかしくない年齢だ。そろそろ危ないのかもしれない。
そう思いながらも翌日は仕事を休んで新幹線に乗って帰省した。その間、父親の安否よりも死んだら葬式をするのが面倒だなと親不孝なことを考えていた。同じ長さの時間でも人の主観によって早く、あるいは遅く感じることもあるが、そんなことを考えていたせいか広島駅まで意外と早く着いたと感じた。
しかし、郷愁に浸る余裕もなく実家を訪れた千恵を待っていたのは意外な結果だった。
「ぎっくり腰?」
そう聞き返すと千恵はバッグをドサッと床に落とした。
「初めは病名がわからなかったんだけど、ただのぎっくり腰だから命に別条はないって」
「そんなことで東京から呼び付けないでよ」
病状を説明した母親に千恵は不満をぶつけた。家には綾もいて、そんな二人のやり取りを見ながらお茶を飲んでいた。
「せっかく帰ったんだからお見舞いしていってよ」
と母親が言うので、それに従うことにした。
そうなのか。でも、父の無事を知らされても今一つうれしくないのはなぜだろう。若者と違って今後の人生で変わったことが起きないからだろうか。
父親の送り先は広島ではわりと名の知れた病院だった。三人はタクシーに乗って病院に向かった。
病院に入ると、病に苦しんでいる人や死期が近い人がいるはずなのに、なぜかのどかな雰囲気が流れているように感じられた。受付で母親が「三島の身内です」と告げると、看護師の一人が病室に案内してくれた。
病室に入ると、父親はベッドの上でゆったりとくつろいでいて病人のようには見えなかった。一同に気付くと
「千恵もいるのか。ただのぎっくり腰でよく東京から来てくれたな」
と千恵をねぎらった。ただのぎっくり腰とわかっていれば来なかったのにと心の中で不平を言ったが、優しい表情を作って
「これからも長生きしてね」
と他意がありそうなことを言った。若い人にはそんなことを言わない。あなたはもう年寄りなのよという皮肉を込めたつもりだったが、父親は気付かなかったようだ。
そう言った直後ふと気付いた。今は人生八十年なんて言うけど、それが半分も終わらないうちに学歴と職業が決まり、結婚もしてしまった。子供がいなかったら人生の後半では新しい通過儀礼もこれといってなく、あとは老後を迎える準備をするだけだ。
しかし、千恵にとっては娘がいるから、それが大人になる過程で人生が二周目を迎えるように思える。中には自分が果たせなかった夢を我が子に託す親もいて、スポーツや芸能の世界で成功した人の場合はそんなケースが多い。千恵はそんなことはしなかったけど、沙樹の人生は自分の今後の人生と折り重なるのだろうか。
「娘が二人とも来てくれてわしは幸せ者だよ」
そんな複雑な心境をよそに父親はうれしそうな感慨を述べた。それを聞いてふと思った。幸せは人によってまるっきり異なっているが、父にとっては何なのだろう。独身主義だったら本人が何をしたか、何を手に入れたかで幸せは決まるのだろうが、父の場合、娘が何をしてくれたかによって決まるらしい。では、千恵の場合はどちらの比重が大きいのだろう。
「わしの人生も最後はこうなったなあ。親戚の中には太平洋戦争で死んだ人もいたけど、この歳まで生きられたし、リストラされるサラリーマンが多い中で定年まで勤められた。そして、今は妻子にお見舞いに来てもらえるんだ。もう思い残すことはないよ」
父は自分の人生が終わりに近いと意識しているのだろうか。終わりよければ全てよしなんて言うけど、人生の幸せは結果として何が残ったかによって決まり、その過程は重要ではないのだろうか。だったら自分の人生で最後に手に入れた幸せは何なのだろうか。
「それじゃ、これで帰るわね。私と綾は明日も来るわ」
母親がそう言うと三人は病室を後にした。
タクシーに乗って帰宅する途中、千恵の胸中は来る前に感じていた苛立ちとは別の感情に満たされていた。父を哀れむような気持ちだったが、それは自分の方にもはね返ってきた。
帰宅してから三人でお茶を飲みながら、さっきのことを思い出すと、千恵はため息混じりに漏らした。
「何だかアンニュイな気分になっちゃったな。若さって振り向かないことさなんて言うけど、あの歳になると、これからの人生よりこれまでの人生の方が圧倒的に長くなるのよね。もう未来に夢を持てないのかしら」
「あら。本人が幸せを実感しているなら、それでいいじゃない。過去を振り向いた時、幸せな思い出がたくさんあるのも素敵なことよ。そうだったら老後を迎えても寂しくならないわ」
綾がそう答えた。
「そうだけど、私の人生も新しい局面を迎えず、あとは幸せに終わりを迎えるだけなのかもね。これから迎える通過儀礼もないしね」
千恵は楽観的なのか悲観的なのかわからないことを言った。それに一同もうなずいた様子だった。
「でも、今までの人生に一区切り付けたら新しい人生が始まるかもよ」
綾は意味ありげなことを言った。
「どういうこと?」
「私ね、離婚するのよ」
今時、離婚なんて珍しくないけど、意外なことに千恵は絶句した。
「喧嘩別れするんじゃなくて、それぞれの人生に一区切り付けるために円満に結婚生活を卒業するのよ。これは私の人生の新しいスタートなの。だから、お姉ちゃんも応援してね」
「これから先、一人で不安じゃないの?」
「まだ再婚するチャンスもあるでしょ。人生はいつだって今からがスタートよ。だって今日という日は残された人生の最初の一日なんだからね」
離婚すれば新しい人生が始まるのか。それもわかるような気がする。そう言えば、隆はまだ独身だ。自分も離婚すれば隆と添い遂げられるのかもしれない。でも、今の生活を捨ててまでそうすることが自分にとって幸せと言えるのだろうか。千恵は自問した。
それでも長居する理由はないから翌日には東京に戻ることにした。つまらないことで仕事を休んだことが申し訳ないような気がして、広島名物もみじ饅頭を同僚たちに配ろうと思い立った。
デパートの和菓子屋の前でもみじ饅頭を見ていると、豊富なラインナップに感心した。昔はこし餡とつぶ餡しかなかったが、最近は抹茶味やカスタードクリーム味もある。
それを見て、以前行った安達との面談を思い出した。現代は情報化社会と呼ばれ、趣味や娯楽も多様化し、大学にも人間・情報・国際・環境なんていう言葉を冠した新しい名称の学部が次々と出来ている。
それでも人間の人生設計は全く多様化せず、多くの人が普通に高校や大学を卒業し、平凡な企業に就職していく。それから外れようとする者はアウトローとして異端視されるのだ。
客観的な事実としてそうであるだけではなく、親や教師も若者に既成の型に当てはまることを奨励する。人生も人によって様々であればいいのにと思った。
そんなことを考えるのは後にして、どれにしようか迷っていると、一人の男が近づいて声をかけた。
「こんな所で会うなんて奇遇だな」
隆だった。長い間隔を空けずに再会したためか、その瞬間は懐かしさのようなものを感じなかった。
「実はね……」
千恵は事情を説明した。
「立ち話もなんだし喫茶店で話さないか」
隆がそう言うので、それに従うことにした。
最寄りの喫茶店に入ると、数ヶ月前にバーで感じたムードを思い出した。こんなムードを感じるのは隆と一緒だからかなとふと思った。
先ほどは特に感じなかったが、隆と対座するとノスタルジックな情感に心が満たされていくのを感じた。懐かしいという感情も今は過去のものになった思い出に触れるからこそ、わき起こるのだろう。
もし隆と結婚していたら、こう感じることはないだろう。満月はそれ以上満たされず後は欠けていくだけだが、新月はこれから満ちていく。それと同じように隆は欠けたままの心を満たす存在なのだろう。
注文を聞きに来た店員に隆はメニューをろくに読まずに「カプチーノ」と言ったので、千恵も「私もカプチーノ」と続けた。変なところで気が合うなと思った。ほどなく運ばれてきたカプチーノを口にすると、ほろ苦さがなぜか心に染みたような気がした。
「最近、変わったことはないか?」
「妹が離婚するのよ。でも、このまま一生独身であり続けるんじゃなくて再婚のチャンスをねらってるんだって。しがらみを捨てて心のおもむくままに自由に生きられるなんてうらやましい気もするわね」
「そうかな。この歳で独身なのもわびしい気もするけどね」
その言葉に反応しなかった千恵に隆は続けた。
「じゃあ、お前も自由に生きられたら、それを何のために使うんだ?」
「もし私に今の家庭がなかったら、あなたとやり直したいな。でも、もう叶わないことね」
そう言えば誰かを前にして本音を吐露するのはこれが初めてだ。そう思うと千恵は涙ぐんできた。少しの間、沈黙したが、千恵は付け加えた。
「高校の教師をやっていると、生徒を一流大学に送り込むことが進路指導の全てになってしまうけど、ひたむきに夢を追いかけるのもいいかもね。私の娘も高三になるけど、普通に大学を卒業して就職したいんだって。それが本当に本人の希望なのかしらね」
「今の時代、そうした方が賢明なんじゃないか?」
「あなたも夢のないことを言うのね」
「夢なんて見ない方が本人のためになるよ」
「どういうこと?」
「日本は世界でも有数の経済大国になったと言われる。それどころか現代では多くの商品や娯楽であふれ返り、平凡な家庭で生まれ育った人でさえ豊かな消費生活を享受できる。それにもかかわらず現代の都市空間に漂うこの閉塞感の正体は何なんだ? お前も高校の教師ならわかるだろうけど、若者は未来に希望を持てず、常に苦悩に苛まされているんだ。その原因はどこにあるんだろう?」
「さあ、どこなの?」
「夢が叶わないからじゃないか?」
ささいな疑問を差し挟んだ千恵にそう答えると隆は力強く語った。
「近代以前の社会では職業は世襲制で先祖代々の家業を継ぐしかなかったが、現代では各人が青雲の志を抱いて夢に向かって歩むことができるようになった。だが、それがもたらしたのは夢にあふれた社会じゃない。現代的な煩悩だ。欲望を生み出す都市の魔力に共鳴して形成される夢。野球選手になりたい、小説家になりたい、ミュージシャンになりたい、声優になりたい、そんな夢が虚飾できらめく都会に転がっている。しかし、それが達成されなければ、夢と現実の狭間で苦しむことになる。彼らの精神は絶望の色に染められ、劣等感に打ちのめされるようになるんだ。だから多くの人が夢を求めても、この世界は喜びに満ちあふれたものにはならない。それも当然だ。なぜならば夢を叶えることができるのはほんの一握りだからだ。だから多くの人は苦悩から解放されることはないんだ。こんな価値観が間違っているんだよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「無欲でいることだ。目の前にあって手を伸ばせば手に入る幸せをかみしめるように生きていけばいいんじゃないか?」
「そうね……」
隆の説は千恵の心の鐘を打ち鳴らしたように響いた。そのせいか、それから二人とも無言になったが、やがて千恵の方から告げた。
「そろそろ新幹線の発車の時刻だわ。これでお別れね」
「そうか。次に会う時はお互いどうなっているのかな」
二人は喫茶店の外に出ると別れ、それぞれの方向へ歩き出した。そして、東京行きの新幹線の中で考え込んだ。
隆の説を聞いて千恵は感服した。これは悲観的な人生観じゃない。仏教でも何事にも執着してはならないとされるが、夢を求めることは物欲にまみれることになる。安達はあんなことを言ったが、夢を求めない方が平穏でいられる。自分だって無欲でいられたらこんなに悩まなくてすむのかもしれない。
東京に戻ると真っ先に沙樹が尋ねた。
「おじいちゃんはどうだったの?」
「ただのぎっくり腰だって。行って損したわ」
「あら、無事だったのなら喜んだらいいじゃない」
まあ、そうなんだけど。人間の心理はそんなに論理的に出来ているんじゃないよと言おうとしたけど、声に出さなかった。
それにしても沙樹はこれからどんな進路に進むつもりなんだろう。夢はあるのかな。そう思って尋ねてみた。
「沙樹は将来どんな進路に進みたいの?」
「平凡な人生を歩むわ。どうせ凡人だしね」
「夢とかはないの?」
「あったらあったで大変だろうしね。私は流れるように生きるのよ」
それでは時代劇に出て来る流浪の民のようだ。流れるのではなく社会の風潮に流されるのだろう。
多くの人は受験・就職・結婚という通過儀礼を社会の風潮に流されるように経由していく。そこに自分の意志なんてありはしない。けれど、そんなものは持たず既成のレールの上を流される方が平穏でいられるのかもしれない。
ブッダはあらゆる手段を駆使し、煩悩から脱却して悟りを開いたが、沙樹には現代的な煩悩は始めからないようだ。それに越したことはないと千恵は安心するのだった。
しかし、生徒たちは精神が欠如した形式的な行事を消化するだけで、今一つ覇気がない。ある生徒が「運動会の醍醐味は雨天中止ですよ」と言うのを聞いて、空虚なモチベーションを空回りさせているのは教師だけかと思ったりもした。それでもやるからには雑用が増えて忙しくなる。今日も会議が長引いて帰宅するのが遅くなった。
帰宅して夕食の支度をしようとすると、電話がけたたましく鳴り始めた。最近の電話は受話器を取る前に誰からかかってきたのかわかるようになっている。実家からだった。受話器を取って
「はい。もしもし」
と定型的な応答をすると母親の声でこう告げた。
「実は今日、お父さんが外出先で倒れて病院に送られたんだって。詳しい容態はわからないけど、すぐに帰って来て」
それを聞いて千恵は絶句した。実家ではそんなことになっているのか。父ももう死んでもおかしくない年齢だ。そろそろ危ないのかもしれない。
そう思いながらも翌日は仕事を休んで新幹線に乗って帰省した。その間、父親の安否よりも死んだら葬式をするのが面倒だなと親不孝なことを考えていた。同じ長さの時間でも人の主観によって早く、あるいは遅く感じることもあるが、そんなことを考えていたせいか広島駅まで意外と早く着いたと感じた。
しかし、郷愁に浸る余裕もなく実家を訪れた千恵を待っていたのは意外な結果だった。
「ぎっくり腰?」
そう聞き返すと千恵はバッグをドサッと床に落とした。
「初めは病名がわからなかったんだけど、ただのぎっくり腰だから命に別条はないって」
「そんなことで東京から呼び付けないでよ」
病状を説明した母親に千恵は不満をぶつけた。家には綾もいて、そんな二人のやり取りを見ながらお茶を飲んでいた。
「せっかく帰ったんだからお見舞いしていってよ」
と母親が言うので、それに従うことにした。
そうなのか。でも、父の無事を知らされても今一つうれしくないのはなぜだろう。若者と違って今後の人生で変わったことが起きないからだろうか。
父親の送り先は広島ではわりと名の知れた病院だった。三人はタクシーに乗って病院に向かった。
病院に入ると、病に苦しんでいる人や死期が近い人がいるはずなのに、なぜかのどかな雰囲気が流れているように感じられた。受付で母親が「三島の身内です」と告げると、看護師の一人が病室に案内してくれた。
病室に入ると、父親はベッドの上でゆったりとくつろいでいて病人のようには見えなかった。一同に気付くと
「千恵もいるのか。ただのぎっくり腰でよく東京から来てくれたな」
と千恵をねぎらった。ただのぎっくり腰とわかっていれば来なかったのにと心の中で不平を言ったが、優しい表情を作って
「これからも長生きしてね」
と他意がありそうなことを言った。若い人にはそんなことを言わない。あなたはもう年寄りなのよという皮肉を込めたつもりだったが、父親は気付かなかったようだ。
そう言った直後ふと気付いた。今は人生八十年なんて言うけど、それが半分も終わらないうちに学歴と職業が決まり、結婚もしてしまった。子供がいなかったら人生の後半では新しい通過儀礼もこれといってなく、あとは老後を迎える準備をするだけだ。
しかし、千恵にとっては娘がいるから、それが大人になる過程で人生が二周目を迎えるように思える。中には自分が果たせなかった夢を我が子に託す親もいて、スポーツや芸能の世界で成功した人の場合はそんなケースが多い。千恵はそんなことはしなかったけど、沙樹の人生は自分の今後の人生と折り重なるのだろうか。
「娘が二人とも来てくれてわしは幸せ者だよ」
そんな複雑な心境をよそに父親はうれしそうな感慨を述べた。それを聞いてふと思った。幸せは人によってまるっきり異なっているが、父にとっては何なのだろう。独身主義だったら本人が何をしたか、何を手に入れたかで幸せは決まるのだろうが、父の場合、娘が何をしてくれたかによって決まるらしい。では、千恵の場合はどちらの比重が大きいのだろう。
「わしの人生も最後はこうなったなあ。親戚の中には太平洋戦争で死んだ人もいたけど、この歳まで生きられたし、リストラされるサラリーマンが多い中で定年まで勤められた。そして、今は妻子にお見舞いに来てもらえるんだ。もう思い残すことはないよ」
父は自分の人生が終わりに近いと意識しているのだろうか。終わりよければ全てよしなんて言うけど、人生の幸せは結果として何が残ったかによって決まり、その過程は重要ではないのだろうか。だったら自分の人生で最後に手に入れた幸せは何なのだろうか。
「それじゃ、これで帰るわね。私と綾は明日も来るわ」
母親がそう言うと三人は病室を後にした。
タクシーに乗って帰宅する途中、千恵の胸中は来る前に感じていた苛立ちとは別の感情に満たされていた。父を哀れむような気持ちだったが、それは自分の方にもはね返ってきた。
帰宅してから三人でお茶を飲みながら、さっきのことを思い出すと、千恵はため息混じりに漏らした。
「何だかアンニュイな気分になっちゃったな。若さって振り向かないことさなんて言うけど、あの歳になると、これからの人生よりこれまでの人生の方が圧倒的に長くなるのよね。もう未来に夢を持てないのかしら」
「あら。本人が幸せを実感しているなら、それでいいじゃない。過去を振り向いた時、幸せな思い出がたくさんあるのも素敵なことよ。そうだったら老後を迎えても寂しくならないわ」
綾がそう答えた。
「そうだけど、私の人生も新しい局面を迎えず、あとは幸せに終わりを迎えるだけなのかもね。これから迎える通過儀礼もないしね」
千恵は楽観的なのか悲観的なのかわからないことを言った。それに一同もうなずいた様子だった。
「でも、今までの人生に一区切り付けたら新しい人生が始まるかもよ」
綾は意味ありげなことを言った。
「どういうこと?」
「私ね、離婚するのよ」
今時、離婚なんて珍しくないけど、意外なことに千恵は絶句した。
「喧嘩別れするんじゃなくて、それぞれの人生に一区切り付けるために円満に結婚生活を卒業するのよ。これは私の人生の新しいスタートなの。だから、お姉ちゃんも応援してね」
「これから先、一人で不安じゃないの?」
「まだ再婚するチャンスもあるでしょ。人生はいつだって今からがスタートよ。だって今日という日は残された人生の最初の一日なんだからね」
離婚すれば新しい人生が始まるのか。それもわかるような気がする。そう言えば、隆はまだ独身だ。自分も離婚すれば隆と添い遂げられるのかもしれない。でも、今の生活を捨ててまでそうすることが自分にとって幸せと言えるのだろうか。千恵は自問した。
それでも長居する理由はないから翌日には東京に戻ることにした。つまらないことで仕事を休んだことが申し訳ないような気がして、広島名物もみじ饅頭を同僚たちに配ろうと思い立った。
デパートの和菓子屋の前でもみじ饅頭を見ていると、豊富なラインナップに感心した。昔はこし餡とつぶ餡しかなかったが、最近は抹茶味やカスタードクリーム味もある。
それを見て、以前行った安達との面談を思い出した。現代は情報化社会と呼ばれ、趣味や娯楽も多様化し、大学にも人間・情報・国際・環境なんていう言葉を冠した新しい名称の学部が次々と出来ている。
それでも人間の人生設計は全く多様化せず、多くの人が普通に高校や大学を卒業し、平凡な企業に就職していく。それから外れようとする者はアウトローとして異端視されるのだ。
客観的な事実としてそうであるだけではなく、親や教師も若者に既成の型に当てはまることを奨励する。人生も人によって様々であればいいのにと思った。
そんなことを考えるのは後にして、どれにしようか迷っていると、一人の男が近づいて声をかけた。
「こんな所で会うなんて奇遇だな」
隆だった。長い間隔を空けずに再会したためか、その瞬間は懐かしさのようなものを感じなかった。
「実はね……」
千恵は事情を説明した。
「立ち話もなんだし喫茶店で話さないか」
隆がそう言うので、それに従うことにした。
最寄りの喫茶店に入ると、数ヶ月前にバーで感じたムードを思い出した。こんなムードを感じるのは隆と一緒だからかなとふと思った。
先ほどは特に感じなかったが、隆と対座するとノスタルジックな情感に心が満たされていくのを感じた。懐かしいという感情も今は過去のものになった思い出に触れるからこそ、わき起こるのだろう。
もし隆と結婚していたら、こう感じることはないだろう。満月はそれ以上満たされず後は欠けていくだけだが、新月はこれから満ちていく。それと同じように隆は欠けたままの心を満たす存在なのだろう。
注文を聞きに来た店員に隆はメニューをろくに読まずに「カプチーノ」と言ったので、千恵も「私もカプチーノ」と続けた。変なところで気が合うなと思った。ほどなく運ばれてきたカプチーノを口にすると、ほろ苦さがなぜか心に染みたような気がした。
「最近、変わったことはないか?」
「妹が離婚するのよ。でも、このまま一生独身であり続けるんじゃなくて再婚のチャンスをねらってるんだって。しがらみを捨てて心のおもむくままに自由に生きられるなんてうらやましい気もするわね」
「そうかな。この歳で独身なのもわびしい気もするけどね」
その言葉に反応しなかった千恵に隆は続けた。
「じゃあ、お前も自由に生きられたら、それを何のために使うんだ?」
「もし私に今の家庭がなかったら、あなたとやり直したいな。でも、もう叶わないことね」
そう言えば誰かを前にして本音を吐露するのはこれが初めてだ。そう思うと千恵は涙ぐんできた。少しの間、沈黙したが、千恵は付け加えた。
「高校の教師をやっていると、生徒を一流大学に送り込むことが進路指導の全てになってしまうけど、ひたむきに夢を追いかけるのもいいかもね。私の娘も高三になるけど、普通に大学を卒業して就職したいんだって。それが本当に本人の希望なのかしらね」
「今の時代、そうした方が賢明なんじゃないか?」
「あなたも夢のないことを言うのね」
「夢なんて見ない方が本人のためになるよ」
「どういうこと?」
「日本は世界でも有数の経済大国になったと言われる。それどころか現代では多くの商品や娯楽であふれ返り、平凡な家庭で生まれ育った人でさえ豊かな消費生活を享受できる。それにもかかわらず現代の都市空間に漂うこの閉塞感の正体は何なんだ? お前も高校の教師ならわかるだろうけど、若者は未来に希望を持てず、常に苦悩に苛まされているんだ。その原因はどこにあるんだろう?」
「さあ、どこなの?」
「夢が叶わないからじゃないか?」
ささいな疑問を差し挟んだ千恵にそう答えると隆は力強く語った。
「近代以前の社会では職業は世襲制で先祖代々の家業を継ぐしかなかったが、現代では各人が青雲の志を抱いて夢に向かって歩むことができるようになった。だが、それがもたらしたのは夢にあふれた社会じゃない。現代的な煩悩だ。欲望を生み出す都市の魔力に共鳴して形成される夢。野球選手になりたい、小説家になりたい、ミュージシャンになりたい、声優になりたい、そんな夢が虚飾できらめく都会に転がっている。しかし、それが達成されなければ、夢と現実の狭間で苦しむことになる。彼らの精神は絶望の色に染められ、劣等感に打ちのめされるようになるんだ。だから多くの人が夢を求めても、この世界は喜びに満ちあふれたものにはならない。それも当然だ。なぜならば夢を叶えることができるのはほんの一握りだからだ。だから多くの人は苦悩から解放されることはないんだ。こんな価値観が間違っているんだよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「無欲でいることだ。目の前にあって手を伸ばせば手に入る幸せをかみしめるように生きていけばいいんじゃないか?」
「そうね……」
隆の説は千恵の心の鐘を打ち鳴らしたように響いた。そのせいか、それから二人とも無言になったが、やがて千恵の方から告げた。
「そろそろ新幹線の発車の時刻だわ。これでお別れね」
「そうか。次に会う時はお互いどうなっているのかな」
二人は喫茶店の外に出ると別れ、それぞれの方向へ歩き出した。そして、東京行きの新幹線の中で考え込んだ。
隆の説を聞いて千恵は感服した。これは悲観的な人生観じゃない。仏教でも何事にも執着してはならないとされるが、夢を求めることは物欲にまみれることになる。安達はあんなことを言ったが、夢を求めない方が平穏でいられる。自分だって無欲でいられたらこんなに悩まなくてすむのかもしれない。
東京に戻ると真っ先に沙樹が尋ねた。
「おじいちゃんはどうだったの?」
「ただのぎっくり腰だって。行って損したわ」
「あら、無事だったのなら喜んだらいいじゃない」
まあ、そうなんだけど。人間の心理はそんなに論理的に出来ているんじゃないよと言おうとしたけど、声に出さなかった。
それにしても沙樹はこれからどんな進路に進むつもりなんだろう。夢はあるのかな。そう思って尋ねてみた。
「沙樹は将来どんな進路に進みたいの?」
「平凡な人生を歩むわ。どうせ凡人だしね」
「夢とかはないの?」
「あったらあったで大変だろうしね。私は流れるように生きるのよ」
それでは時代劇に出て来る流浪の民のようだ。流れるのではなく社会の風潮に流されるのだろう。
多くの人は受験・就職・結婚という通過儀礼を社会の風潮に流されるように経由していく。そこに自分の意志なんてありはしない。けれど、そんなものは持たず既成のレールの上を流される方が平穏でいられるのかもしれない。
ブッダはあらゆる手段を駆使し、煩悩から脱却して悟りを開いたが、沙樹には現代的な煩悩は始めからないようだ。それに越したことはないと千恵は安心するのだった。
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