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107.佐久間杏奈

私が手術を急に受けることになったのは、小学四年の二月の末の事、そろそろ春がくる気配がしていた頃の話だった。それまではずっと私は食事治療と薬とで頑張ってきたのだけど、後少し病気が悪化したらもう透析をするしかない。そんな状況を綱渡りしてずっと私は過ごしていた。
腎臓の病気は体の中にある水分を出すことが出来ない。余分な水分を尿として排泄できないから、体の中に水が貯まる。勿論尿として排泄する筈の余計な物質も体外に出せなくてドンドン蓄積するから、それを体内にいれないように普通の人が普通に食べられる物が食べられない。余分なものを体から出せないんだもの、それを元から入れないで腎臓の負担をかけないようにするの。
それくらいならって思う？
腎臓って尿素や窒素やクレアチニンやナトリウムなんかも排泄をする器官なの。それに進行するとカリウムやリンも体に貯まりやすくなるから、それを多く含む物も食べられなくなる。それらを採らない食事ってどんなものかわかる？尿素や窒素やクレアチニンになるものは蛋白質、蛋白質って肉魚だけじゃないの。ご飯やパン、芋類や野菜、果物にも入っているのよ。体を構成する重要な栄養だから全く摂らないなんて言うのは駄目なの。必ず食べないといけなくて、その癖決められた分量しか食べられない。
蛋白質をとれないとエネルギーの量が少なくなるのに、今度はエネルギーが不足すると身体作っている蛋白質が壊されてしまうって知ってる？食べるのには制限があるのに、食べないと体の中にある筋肉とか蛋白でできているものが壊れて、余計に老廃物が多くなってしまうの。そうするとせっかく蛋白質を制限した意味がなくなるから、一日の必要エネルギー量、標準体重１kgあたり27-39 (35) kcalが目安で食べなきゃならない。標準体重は(身長:m)×(身長:m)×22で求めて……あの時の私は百二十センチ位だったから、おおよそ三十キロ。三十キロの子供が必要なのは千五十キロカロリー、これを糖分や脂肪分なんかで上手く補うしかない。面倒でしょ？その上私の体はナトリウム排泄ができないから、塩分は制限されてる。塩分制限はよくある話だから、分かりやすいでしょ？でもハムやソーセージ、かまぼこやはんぺん、お菓子にも入ってるの。子供が好きなものには大概入ってるのよね。
それに尿が出せなくなって体内に貯まると、有害になりかねないカリウムやリン。生の野菜や果物、豆類なんかにカリウムは多いの。よく聞くのはスイカやメロン、利尿作用がある物にはカリウムが多いのよね。子供の好きなバナナやココアなんかもカリウムが多いものなの。それにリンは乳製品に含まれてるのよ。つまり私は子供が喜んで食べるようなものが殆ど食べられないの。物心ついた時には、もう既にそんな食事だった。
高エネルギー・低蛋白質・塩分調整・低カリウム・低リン。
子供が基本好きなものは食べられないし、生の野菜や果物なんて殆ど食べられなくて、茹でて調理したものばかり。味噌汁や麺類も汁を飲むと塩分が多くなってしまうから、極力制限されてた。
神様は意地悪で産まれつきそんな障害を私に与えたの。
そのせいで、両親は必死に私の体を考えて食事を作らないとならなかった。しかも小学生に入っても給食が食べられないから、ママは毎日私のためにお弁当を作らないとならない。それでも腎臓の機能はドンドン悪化はしていて、小学三年位にはそろそろ腎移植を考えないとならないって言われたわ。ただでさえ治療にもお金がかかってるのに移植にかかるお金を更にって世の中どれだけガメツイのよって思うけど、両親はそれでも私のために色々な方法を考えてくれてた。それの一つが移植費用を寄付してもらうってことだったんだけど、そう簡単には貯まる訳じゃない。私自身もう薄々理解できる歳だったから、私はこのまま透析になるんだろうし、将来もしかすれば移植を出来るかもしれないけど、きっとそこまで生きていられないんだろうって心の中では思ってた。

それなのに突然会ったこともない人が……向こうは会ったことがあるっていったらしいんだけど、私は覚えてないの。そんな人が見ず知らずの私のために、凄い大金を寄付してくれたの。私も驚いたけど、その人は目の見えない足の悪い人で病院で私と会ったんだって。そんな姿なら出会ったら覚えてそうだけど、その人は私が普通に挨拶をしたのが嬉しかったんだって言ったんだって。そんなの普通のことでしょ？でも、その人は凄く嬉しかったから、私に手術を余裕で二回か三回も受けられるくらいの大金を寄付してくれたんだって。信じられないでしょ？パパが言ってたけど一回の移植には二千万円以上もかかるの。それを三度も受けられるくらいのお金なのよ？その人はもし将来私がまた腎臓が悪くなったらって思ったらしいし、自分には余裕があるから平気だってパパ達に話してたみたい。
パパとママも凄く驚いてたけど泣いて喜んでた。
そうして、そのすぐ後に何故か他の人の順番を沢山飛ばして、私に移植の話が舞い込んだの。理由はハッキリしないけど私が最適だったってことらしくて、私は学校を休んで手術を受けて一ヶ月くらい入院したのよ。でも手術のあと合併症もなくて凄く順調だったってお医者さんは教えてくれた。
産まれて始めて一日に自由に水分を二リットルも飲んでいいなんて言われて、私がどんなに驚いたかわかる？最終的には食事制限もなくて普通の人と同じ物が食べられるし、トイレで普通に排尿もできる。体ももう浮腫まないし酷い倦怠感もなくって、美味しく食事もできるの。
今迄は我慢していたことが少しずつ自由になって、しかも体が辛くないから運動までできるようになっていく。それに身長も伸び始めたのよ？前みたいな負担がかからずに浮腫みもないから、今まで止まっていたものが少しずつ動き出した感じなの。

「佐久間さん、運動会の開会式の宣言をしてもらいたいんだけど。」

そう先生から声をかけられた時には信じられない気持ちだった。だって私は何時も運動会には不参加だったの。低学年の時はその日は教室で一人でプリントを書いて過ごしたし、三年になったらずっとアナウンス係りで皆が楽しそうに走るのを眺めてた。腎機能が悪いだけなら私も一緒に出来ることもあっただろうけど、もう小学生になった時には私の体は浮腫みと倦怠感が酷かったし、浮腫が影響して心臓や肺にも負担がかかり始めてたの。それでもまだ少し排尿があるからって、ギリギリで透析をしないですんでただけなのよ。
そんな私が手術をして学校に戻ってきたら、その暗かった世界が一変したの。
急に細くなったって皆は言ったけど、そうじゃない。今まで出せなかった悪いものを、みんなと同じく出せるようになって浮腫がなくなっただけ。免疫抑制剤に悪い反応をするからグレープフルーツは駄目だけど、今まで食べられなかった生の果物も野菜も食べられる。皆と同じ給食を食べてもよくなって、グレープフルーツが出る日以外は一緒に給食を食べられるの。それがどんなに凄いことか、誰も知らない。
それに少しずつ運動してもいいって言われて、ちょっとだけ走ったときの青空がとっても綺麗だった。最初は数時間から段々と学校に通える時間も長くなって、それでも疲れない自分の体。顔もまるで別人みたいで、最初はね？杏奈が整形したなんて酷いこと言う子もいたのよ？ただ浮腫がとれただけなのにね。
本当に嬉しくて、そんな時に先生から運動会の開会式の宣言をしてと言われたの。

私は絶対に忘れない。
青い空の下で、登壇して皆の前で開会式を宣言したのを。
始めての運動会に参加する自分。
大興奮のパパと感動屋さんで泣きじゃくっているママ。
二人が一生懸命私の事を育ててくれて、優しい誰かがお金を出してくれて、誰かが私に腎臓を贈ってくれたの。そのお陰で私はこんな風に青空の下で他の子と同じようにしていられる。
そんな時にふっと父兄席を見渡した私は、その人の姿に気がついた。
だって、その人凄く目立つのよ？白い杖で若い男の人に手を繋がれてて、サングラスをかけて何処か穏やかに微笑んでる。見たことのない人だけど、凄く優しそうで穏やかそうな人。

あなたが私の手術のお金を出してくれた人？

駆け寄ってそう聞いてみたいけど、開会式の宣言をしている台の上ではそうできなかった。私が見ているのに気がついていないと思うけど、その人は少し足を引きずるようにして歩き出していて元気になった私の声を聞きに来たんだって思ったの。

ありがとう、私、元気になったのよ。

本当はそう大きな声で叫びたかったけど、恥ずかしくて無理だった。でもまたいつか出会えるかもしれないてしょ？私は元気になったし、これから成長して大人になれるんだもの。それとね、他にも私の事をじっと見つめている人がいるのにもちゃんと気がついたのよ？もしかしたら、その人が私にこの腎臓をくれたのかもしれない。私そんな風に思ってるの。だって腎臓は二つあるから、この腎臓を私に贈ってくれた人だって元気になった私を見ているかもしれないでしょ？
それがね、手術して元気になり始めた私の一番大事な思い出なの。



※※※



「杏奈ー！遅刻するわよー！」

大きなママの呼ぶ声に私は元気よく大きな声で返事をして、改めて鏡の中の杏奈を見つめる。少しは大人びた気がするけど、まだまだ他の子に比べれば幼く見える童顔。慣れてきたとはいえ化粧は中々難しくて、似合うのと似合わないものがあるのよね。ママみたいなスレンダーな美人になればよかったのに、私はどうみても丸顔の童顔だし。パパみたいに知的と言うにもなぁ。腎臓の病気のせいか私は成長が今一だし、パパにもママにも全然似ていない。せめて二人みたいな綺麗な黒髪ならいいのに、私の髪の毛は猫っ毛の茶色。だから大人っぽい色が、悉くどうも似合わないんだ。パパは杏奈は天使みたいだなんて親の欲目で言うけど、ピンクばっかりじゃ子供っぽいよね。ムゥッてなるけど元気が一番大事、移植してから十年が経つけど今のところ腎臓は元気頑張ってくれてる。だから、変なことにクヨクヨしてる場合じゃない。

私は私。私は佐久間杏奈。

私はそっと移植された場所を傷の上から撫でながら、誰か知らない腎臓を贈ってくれた人とあの盲目の人に、こんなに私の事を自由にしてくれてありがとうって毎日お礼を言う。またいつか会えるかなと思っているけど、なかなか会えないまま随分時間が経ってしまった。それでも何時か直接ありがとうって言える気がしてる。
だって、佐久間杏奈。
平凡ではないし何処にでも有りがちな名前とも違う。あーそんな名前の奴が同級生にいたいたとかって、同窓会でもギリで思い出したんだか話を合わせたんだかで話す程度じゃない。だから、きっと名前を聞いたら相手は私の事に気づいてくれる筈よ。だから私が元気に日々を過ごしていたら、って思うの。これからもこの腎臓と一緒に私は生きていくし、もっと大人になれる筈。だから何時か顔も知らないその誰かに出会うまで、そう私が考えるのはきっと間違ってないでしょ？