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105.遠坂喜一

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ねぇ、約束だよ?

幼い声がそう告げて、小さな指を差し出してくる。オズオズと差し出した小さな小指どうしが絡んで上下に振られるのに、次第に互いが笑顔に変わる。幼い二人の秘密の約束に、木漏れ日を反射してキラキラと瞳が光った。幼い二人には鬱蒼とした森のような公園のような緑の木立の中で、二人でしゃがんでヒソヒソと内緒話をするように楽しげに顔を付き合わせて話し笑う。

絶対だよ?約束ね。

木立の揺れる心地よい音の中でお互いの言葉にうんと頷きながら、楽しそうに指を絡めて約束を誓った。誰にも一つはあるような幼い頃の大事な友達との約束事。それを何時まで守るかどうかは、互いの生き方と運命の賽子次第だろう。

なんだよ、二人して!ズルいぞ!

幼い頃、五人は何時も一緒だった。男三人の女二人の幼馴染み、しかも男より女の方が遥かに腕っぷし強くて頭もよくて、しかも口は人一倍。頭がよくて何でも出来る優等生の宏太も空手道場の息子の信夫も、澪と梨央の二人には頭も喧嘩も全く形無しだ。宏太が澪と口喧嘩で負けて、しかも子供の喧嘩で宏太が手を出したら澪に一撃で負けたのには驚いた。実は澪の家はここいら近郊では有名な大きな道場で、宏太は悔しかったらしくて今では毎日熱心に通っている。

何、喜一と約束したんだ?教えろよ!澪!

信夫と梨央の口撃に澪が楽しそうに笑いながら、木立のしたから飛び出していく。澪は長い黒髪を靡かせながら自分の家の庭をかけ抜けて、その後を梨央と信夫が追いかける。

秘密!ね?!喜一!

澪との指切りをした指を見下ろしていると、遠くから澪や信夫が宏太を巻き込んだのが聞こえた。楽しそうな子供の声が遠く、まるで夢の中のような気がするのは何故だろう。俺自身も同じ年頃の姿なのに、こんなにもあの声が遠くて悲しいのは何故だろうか。

あの時の指切りは何だったのか、今ではうっすらとしか覚えていない。

そうだ、これは過去の記憶でもう俺は戻れないし、永遠に失われてしまった世界だからこんなにも悲しいのだろう。宏太とはほんの三歳程度の頃、他の奴等もそれから半年か一年程の間で出会ってから、ずっと戯れて付かず離れずの関係だった。あの頃は澪の家の広大な庭で駆け回るのは当然だったし、ゲームなんかを家の中でするより道場で体を動かすことの方が多かったんだ。そんな風に育ってきた過去がとんでもなく光って目映く見える。

約束だよ?

小さな澪の声に、振り返り木立の下を見る。遠くに響く子供の声が何でこんなに悲しいのか、澪との約束はなんだったんだろうと考えながら立ち尽くす。何故こんなにも明るく目映い世界なのに、こんなにも俺は悲しいのか。チカチカと瞬くような木立の木漏れ日、何も迷うこともなく共に過ごした幼馴染みとの日々。

幸せだったんだ、こんなにも。

大人になるほどにくすんで目映さを失っていく感覚が悲しいのか、それとも失ったものが大き過ぎて悲しいのかは分からない。何でこんなに胸が強くて深い悲しみに埋め尽くされているのか、それが思い出せないでいる。

喜一、約束。

不意に直ぐ傍に聞きなれたその声を聞いて思わず振り返ると、そこには高校生の頃の澪が佇んでいる。凛とした真っ直ぐな瞳をした彼女は、覚えてるよと笑う。喜一との約束は覚えてるよ、約束したよねと鳥飼澪は変わらぬ声で微笑む。



※※※



辿り着いた時病室の中にいたのは署長の小西で、拘束着で拘束されたままの三浦和希の首に手をかけて絞めている真っ最中だった。咄嗟に部屋に飛び込んで殴り付けてしまったのに、俺は呆然としてしまう。ゲホゲホとむせかえって床に崩れ落ちた三浦を見下ろして、俺はこいつを殺しにきた筈なのにと目を見張っていた。

何で助けた……?そのまま見殺しにすれば……

ふとその時自分を見上げた瞳と真っ直ぐに視線を合わせた時、何でか三浦がこう口を動かしたのに気がつく。

お父さん……

目の前の男を殺すつもりだった筈の意思が、その言葉に硝子のように粉々に砕け散る。悲しみに涙が溢れて来るのを感じながら、俺は何故か三浦の拘束着の鍵をとってくると三浦を解放した。

「悪かった……、守らなくて……守れなくて……すまない……幸喜。」

そう呟きながら解放された三浦和希が自分を殺そうとした男を一瞬でくびり殺したのを、俺は項垂れたままその言葉を繰り返しながら見つめていた。何故こんなことをしているのか、謝罪したかったのか、俺が謝りたかったのは幸喜なのか和希なのか。
もう目の前の殺人鬼を殺すことも出来ない。きっとこのまま俺も三浦にここで、首を締められ殺されるのだろうと覚悟を決めていた。ところが署長を殺した三浦は迷わず攻撃してくると思ったのに、奴は大人しく俺の顔をマジマジと眺める。そうして唐突に独特の掠れ声で、こんなことを口にしたのだ。

「よく思い出せないけど………幸喜の……知り合い?」

それに、ああ…こいつは以前の記憶を取り戻しつつあると理解した。何処から何処まで今思い出せるのか、思い出せていても上手く結びつけられているのか。もしかしたらこの穏やかさでは、殺した四人との繋がりがまだ友人だった辺りまでしか思い出せないのかもしれない。次第におもいだしているのなら自分が何をされたか何をしたかもやがて思い出すに違いないが、少なくとも既に今は友人として名前は思い出し始めているのだ。それがいいのか悪いのか俺には判断が出来ない、すべて思い出したらこいつはまたおかしくなるのだろうか。

「ああ………、父親だ……。」

無意識に答えた言葉に、ふうんと子供のように三浦は俺を見る。その後の俺が、何でそうしてしまったのかは本当に分からない。
俺は署長の服をひっぺがして三浦に着るように告げると、三浦の着ていた病衣を小西昌磨に着せて拘束着を着せた。しかも俯き観察窓に背を向けるようにして壁に寄りかからせてまでして、着替えた三浦を連れてそこから逃げ出したのだ。病院から出して駅前まで連れだって歩くうち、何故か三浦は当然のように俺の横にならんで歩き続けていた。

「助けてくれてありがとう、幸喜の親父さん。」

そう賑やかに微笑みかけられて、こいつが俺の事を全く覚えていないのに気がつかされる。振動が渡した写真には俺の写真も含まれていたが、既にこいつは俺が病室で襲った男だとは記憶していないのだ。確かに一週間もすると写真もない状態では記憶を失うと言うことだけは進藤のいう通りなのかもしれないが、それは過去の記憶は当てはまらないのか。

「いや………お前に謝らないとならない事が……、謝って済むことじゃないが………。」

そう俺が躊躇いがちに口にすると、三浦は昔からの知り合いだったかのようにもういいと暢気に笑う。

「そろそろ俺、行くよ。」

人混みに目を向けながら気安い口調で、まるで親子の会話みたいにそんなことをいう三浦に逮捕すべきだと頭の中で刑事のままの俺が呟くのが聞こえる。今ならまだ間に合う、殺される寸前を助けて混乱して連れてきてしまったが、今ならまだ間に合う。

「お前……何処に行く気なんだ?」
「人の顔はうっすらとしか覚えていないけどさ、自分が色々とやってるのは分かってる。」

その言葉に俺は自分が考え違いをしているのに気がつく。こいつの記憶はかなりの点で、予想より遥かに改善していて現状の認識ができている。しかも新しく人の顔を記憶するのは難しくても、それ以前に記憶した人間の事は幾らか認識できているのだ。つまりこいつの障害は相貌失認、顔の認識が出来ないのだが、後天性のものだから他の記憶や過去の記憶で代償していけるようになる可能性が高い。俺のしたことは何処までこいつのなかには記憶されているのだろう、もしかしたら顔のない化け物に襲われたと記憶しているのか。

「誰か頼れる人間がいるのか?」

思わず口にした俺の言葉に、三浦は何か思い出したと言いたげに目を細めて、やがて可笑しそうに笑う。

「親父さん、……警察官だろ?」

状況からそう判断したのか、そう考えるが、三浦は暢気な口調で思い出したと呟く。

「幸喜がいつか……話してたの……記憶にある、すっげぇ真面目な警官だって。いいの?こんなことして。捕まえる?」
「警官はもう辞めたんだ……、もし……。」

その先の言葉は形にならなかった。自分でも何と言いたかったのかは分からないし、三浦もそれを必要とはしない様子でそっかと呑気に笑う。きっと何もなければこんな風に、幸喜や他の三人、それに杉浦なんかと今も普通の生活をして笑っていたに違いない。
何かが崩れて歯車の狂った世界の中に取り残されて、それでも一人で歩き出してる。三浦はまたねと暢気な声を上げて手を振ると、人混みに紛れ込んでいく。もし、俺のその言葉の先に続いたのは………。



※※※



頭の中が熱をもって膨れ上がっているような感覚。記憶というフィルムがかなりの勢いで、まるで早回しのように全ての過去を俺の中に思い起こさせていく。
三浦にもしよかったら一緒に行くかと言おうとしていたのだと心が呟く。
あれは確かに殺人鬼かもしれないが、記憶を取り戻せば三浦和希の昔の部分で穏やかに少しだけでも過ごせたかもしれない。無理だとしても進藤に振り回され真名かおるに弄ばれて、仲間に裏切られた傷を少しは癒せるかも等と考えてしまった。それに自分の罪の償いも。だけど、あの場で別れた三浦は清々したと言いたげに、暢気に普通の青年のように、それこそ息子のように笑いながらまたねといったのだ。そうして俺は稀代の殺人鬼を

俺がしたことは許されることじゃない。

折角確保した殺人鬼にワザワザもう一人殺させて、しかも外に逃がしてしまった。分かっていて、それをしてしまった俺は、余りにも罪が大き過ぎて自首で済む話ではないかもしれない。それでも罪は償わないとそんなことを考えながらボンヤリ無意識に歩いて、気がついたら当に自分の家だった。今頃署も病院も蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているに違いない。

不動に連絡をとらないとな……

家を出る時にはここに戻ったら俺は殺人犯だな、等と考えて出て行った筈なのに。そうボンヤリ考えながら見上げたモノに、俺は愕然としながら立ち尽くしていた。
見覚えのあるノリの効いたスーツ一式。
何でここに?ここにあったのは俺の草臥れたスーツだった。何でここで脱いで、しかも俺のを身に付けて何処に行くんだ?そう考えた不意に瞬間的に頭を過ったのは、同僚の十八も歳下の青年の姿だった。

上原の事が好きだったと言った……

あの時は既に助からないと分かっていたし、病院に行かないからそう呟いたのだと考えていた。だが聞き直せば、助からないのが分かっていたからとも取れる。駆け寄り抱き締め迄する関係なのに、血のついた袖もそのままに現場に残った。

まさか

あいつは俺なんかとは違う。違う筈だ。息子と殆ど変わらない年代の真面目で勤勉な青年で、そう考えて三浦のそこらにいる奴等と全く変わらない笑顔を思い出す。どれが真実の顔なんだ?誰も彼も様々な一面を持ちすぎていて、何が本当の顔なのか分からなくなってきている。
混乱する俺の耳に、遠くからこちらに向かってくる硬い靴音が響き始めていた。
そんな記憶が端から、フィルムが白熱灯に燃えるように溶けていく。頭だけが膨れ上がっていくような感覚の中で、その後の事が断片的に飛び散っていくのが微かに見えている。
感情のない淡々とした表情の風間。
流しに投げ込まれた血塗れのナイフ。
「けりって三浦を逃がしてやることですか?随分、肩入れしてますね?」
違うと言いたかったが、そうしてしまったのは真実。
「何で逃がしたんですか?あいつはまた人を殺しますよ?」
息子に見えたから、そんなことが罪の理由になるわけがない。
風間の溜め息。
「風間、お前が………上原杏奈を刺したのか?」
凍りついた顔で立ち尽くす風間。
仮面のような風間の顔は俺が知っている風間の顔じゃない。
俺のスーツを着た風間は当然みたいに手袋をはめる。
「惚れてたんだろ……?お前。」
その言葉に初めて見る顔で風間は、俺の事を見据えた。
「ええ、杏奈のために正義の味方になると誓ったくらいですよ。」
呆然とする俺に、風間は呆れ返ったように深い溜め息をつく。
そうしてネクタイを抜き取ると、当然のように歩み寄ってくる。
迷いもなく、驚愕に身動きもしない俺の首に食い込む俺のネクタイ。
どうして、
掠れた声で問いかけた気がする
「悪人は消えて当然なんで、仕方ないですよね。」
悪人、そう呼ばれた俺は霞んでいく世界を見ていたんだ。

幼い頃の記憶
約束
幼馴染み達の声 
幸喜
三浦和希
風間祥太
沢山の顔が、それこそランダムに幾つも
そして、澪

喜一は皆の事を守るんでしょ?警官になるんだ、カッコいい。

でも守れなかった。
澪も自分の息子も、それに自分の中の正義すら守れなかったんだ。
俺は悲しみにくれた声で呟く。
守れなくて、そして
幾つも無作為に飛び散るような記憶
走馬灯というやつなんだと自覚すら出来ない。
全てが熱に飲まれて燃え尽き、やがて全てが暗闇に飲まれていく。
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