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73.外崎宏太
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その電話がかかってきた時、俺は正直嫌な予感がしていた。あれから十日間も、上原秋奈は街の全くどこにも姿を見せていない。大量出血をするような怪我をしているとして、あの小娘がどこでそれを治療しているのか探り出せないでいる。クリニックや病院だけでなくそれくらいの治療ならやりかねない、アンダーグラウンドの医者まで当たっているが全く梨の礫だ。そんな矢先に当の上原秋奈の方から電話なんかしてきやがったら、どう考えても悪い予感しかしない。
「秋奈か?」
電話口の俺の声に向こうは暫く黙り込んだままだったが、フッと思い出したようにのんびりとした口調で口を開いた。
『そうだったぁ……コータには秋奈だった。』
「ボケてんじゃねぇ、今どこだ?お前、怪我は?」
間延びしたような暢気な声に悪い予感は更に酷くなっていく。電話口で話しかけながら、俺は秋奈には悪いがさっさと立ち上がると秋奈のスマホの居場所を調べにかかる。音が割れるところをみると何処か物陰で話している風だが、何処かを先に説明する気は無さそうだ。
『ねぇコータ、大事な……例えば幼馴染みとか…が、悪いことしてたらどうする?法律でやっちゃいけないような、さぁ。』
「あ?そりゃお前のことか?」
上原秋奈がここ数年何をしていたのか、警察の人間の風間祥太は今もどう対処するべきなのか密かに悩んでいた。上原征雄の殺人はおかしてはいないが、上原が今までしたきたことは相手も合意の上とはいえ詐欺ギリギリのラインだ。しかも実はギリギリでアウトというものも幾つかある。ただ今はまだその件は捜査されてはいないから、見逃しておいてもいいとしても今後も続けさせるわけにはいかない。それをどうするか、上原の母親が逮捕されてしまった今では上原杏奈を支えられるのは誰もいない。しかも風間としても自分が名乗り出ても、杏奈は受け入れないかもしれないのだ。そんなことを悶々と悩みながらも上原杏奈を探し続けているというのも、正直言えば可哀想に思える。
『それ、知っちゃったら、コータはどうする?』
「まず理由を調べる。その原因を解消できりゃやめんだろ?それから取り返しがつくならやり直すし、できなきゃ別な事を考える。」
『はは、超合理的ー。』
俺の返答にとんでもない暢気さで笑いながらそう言う秋奈の様子は、どう考えても何時もと違っておかしい。全く何時ものことだがこの小娘、なんで目の見えない俺に一番不適当な事をさせようとするのか、目が見えない俺に電話先まで駆けつけろと言うのはとんでもない筋違いだぞ。そう考えながらもう一つの電話を手に取りながら、この時間に自由に動ける人間で俺を上原のところまで乗せられるような奴がいたか考える。
『ねぇ、三千万は?』
「先週のうちに寄付してやったよ、色つけてな。病院で怖がらずに挨拶してくれたから、気に入ったって話したら納得されたよ。」
『色……ありがと……はは、便利だね、その顔。』
うるせぇと答えながら、パソコンのプログラム結果が集計されるのに耳を済ます。秋奈の奴、何でか電波の届きにくい場所にいるらしく、思わぬほど限定するのに手間取ってるが大体の場所は絞られ始めている。
「お前、怪我はどこだ?誰にやられたんだ?三浦か?」
『あー足?そこは平気。あきちゃんが、ちゃんと治療してくれたし。』
なんだと?倉橋亜希子だと?まだお前らつるんで同居してんのかと俺が思わず突っ込むと、ルームメートは解消したけど助けてって電話したらお人好しだから助けてくれるんだよねと秋奈は笑う。どうやら秋奈の話では倉橋亜希子はマンションを引き上げると同時に、役目がなくなり進藤隆平とは縁を切って離れたのだと言う。それで三浦和希に怪我をさせられた秋奈が破れかぶれで助けを求めたら、倉橋亜希子は当然みたいに秋奈を助けにやって来て、しかも傷の手当てまでしてくれたらしい。
とんでもなく意味がわからんな、リエのやつ。
昔ネット上で彼女・旧姓多賀亜希子が名乗り、暫く俺や惣一・松理とも交流のあったリエというハンドルネームの女・倉橋亜希子は、あの時既に有能な看護師だった。若いのに新生児室で夜間など緊急で呼び出しされ帝王切開に入ることもあった、その後も看護師だと言うのに透析機械のセッティングもこなし、救急室の交通事故の縫合の介助もなにかもそつなくこなしたのは、まだ看護師になって六年も経たない頃の話だ。
有能すぎて賢すぎて日常生活でも完璧を求めすぎる融通の効かない面の反動で、男に虐げられることで心の均衡を保とうとした女。だけど虐げる相手が虐げるのと従属させるのを混同する馬鹿な男だったのが、彼女の最大の失敗だった。様々なことを完璧に行えて社会的には痛みを感じることが余り経験のなかった彼女は、自分も虐げられ何か痛みを感じることでバランスをとりたかった。だけど男の方はその痛みだけではなく、倉橋亜希子は何一つ完璧ではない愚かな女だと、過ちしか行えないから何をしても全てに罰を受けると時間をかけて洗脳していった。なにしろその男の方が社会的に何事も上手くやれず、日々疑心暗鬼の塊みたいな人間なのだ。しかも自己正当性だけは上手く、自意識過剰のエゴの塊のような男は彼女を支配し続けた。日々の暴力と時折与えられる優しさ、同時に自分がいなければ男は生活できないという完璧なDV被害者の典型の形、それはあの当時の彼女には仕方がないことだったのかもしれない。
やがて倉橋亜希子は全てに疑心暗鬼しか持てなくなって、自分自身をあっという間に見失った。自殺未遂も何度もしていたらしいと後から知ったが、当時直接顔を会わせて話す間柄だったら少なくともあの男からは引き離してやるくらいの情は俺も惣一も持っていた。結局彼女を救うのは、間に合わないまま彼女はここいらから姿を消したのだ。
その後は風の噂では実家に逃げ帰ったと聞いていたが、何故かまたこちらに戻って来ていたのには驚きだ。そして、進藤なんて胡散臭い男にまた引っ掛かるとは、彼女も本当に運の悪い女としかいいようがない。
そういえばここ暫く倉橋亜希子を追い詰め狂わせた相手である矢根尾俊一の噂話が、パタッと途絶えていたのに気がつく。昨年までは女子高生を性風俗紛いの格好で連れ歩いたりカラオケボックスで淫行を働いたり、勤めてた塾の火災事故をギリギリで逃れて放火疑いをかけられたり、幽霊後出ると噂のボロアパートで悲鳴をあげただの女に襲われただのと散々騒ぎを起こしていた。ところが今年に入って、そう言えばぱったりと音沙汰がないのだ。何しろ幽霊アパート自体が月末には、取り壊され更地になると言うし。
まさか、リエが今更殺したなんてことじゃないだろうな?
思わずそんなことが頭に浮かぶ。頭のいい倉橋亜希子の事だから既に矢根尾のことなんか過去の事と切り捨てていると思いたいのだが、同時に倉橋亜希子はとても情の深い女だった。だからこそ中絶も相手の浮気にも堪えていたし、相手がヒモになって倉橋に寄生虫のようにして生きていても数年は必死に一人で耐えていた。ヒモが細く長く相手から搾り取るってことを矢根尾が知っていたら、もしかすれば今もあの苦悩の生活が彼女には続いたかもしれない。彼女を自由にできることを調子にのって矢根尾がネットで性生活まで暴露し吹聴していたのにも、知っていてもずっと耐えていたくらいなのだから。
そんな話は兎も角、進藤と縁を切った倉橋亜希子は医者のように傷を糸で縫うことは出来なくても縫合に近い処置はこなしてみせて、しかも丁寧に処置を行い傷の化膿もきちんと防いだ。そして何日間か秋奈が、今どんな状況にいるのか聞きもせずに、前と同じく何も言わずに匿っていた。
ほんとに何を考えてるんだか。
そう考えながら秋奈の話に耳を傾ける。足は平気と口にしたということは、他のところに何か怪我でもしているということか。この暢気そうに聞こえる口調は、まさか意識状態が悪い訳じゃないだろうな。
「他の怪我は?どこだ?」
一瞬の無言。話す気がないのか、それとも意識が一瞬途切れたか。もう一台の電話を操作して、惣一に電話を掛ける。本当なら惣一を引き出すのは控えるべきなのは分かっているが、流石にこの非常事態だ。後日松理が怒鳴りこんできてもやむを得ない。
『コータ、あのね、コインロッカーさ?』
「あー荷物ならとってきたっていったろ。それでお前の怪我は?ん?」
『もう一個あるんだよね、今も鍵もっててさ。』
「あー、わかったから。引き取って預かっててやる。」
『ありがと、それとさ。』
秋奈の会話は最早とりとめが無さすぎて追いかけにくい。どう考えても意識が朦朧としているとしか感じられないのが、俺を更に焦らせていく。こうなったら本人のところにつくまで、延々と秋奈に話し続けさせておくしかない。惣一に車出してくれと何時もにない鋭い声で短く頼み、更に声をなるべく大きくして秋奈に話しかける。
「それとなんだ?ん?」
『幼馴染み、悪いことしててもさぁ、……友達でいてよって。』
「あー、風間になら自分でいえ。大体にして、血眼で探してんぞ?お前の幼馴染み。」
『あは、ほんと?そんなやつじゃなかったんだけどなぁ、祥太って。』
そうして暫く再びの無言。電話口で鼻を少しならして、秋奈が電話越しとはいえ初めて俺の前で泣いているのだと知る。まだ若いしこれから改めてやり直せばいいだけの小娘が、ほんの十年程度の迷走で泣くなと言ってやると秋奈はおかしそうに笑う。
『父親みたいなこと言うなよ、コータの癖にー。』
「うるせぇ、俺だってお前みたいな面倒な娘なんか要らねぇ。」
電話の向こうで楽しげな笑い声と一緒に深い溜め息が溢れ落ち、再び今度は少し長い無言が訪れる。もう片方のスマホにマップを表示しながら俺がもう一度名前を呼ぶと、秋奈は深い溜め息をもう一つついた。
『………祥太のこと好きだったんだよ、でも、……あいつ正義の味方になりたいんだもん。私みたいなのとつきあってらんないだろ?』
「好きでもない女のこと東北なんぞまで調べにいくか?向こうも惚れてんだ。いいから、こっから少し幸せになれって言ってんだろ。」
そう口にしながら俺は白木の杖を小脇に家から飛び出す。タイミングよく姿を見せた惣一も俺の剣幕に何が起きているかは気がついた風で、車の助手席に俺の手を掴んで引き込む。
『あのさぁ、………コータ。』
「なんだ?お前、本気でどこ怪我してんだよ?あ?」
『覚悟できてるからさ、………頼むね。』
馬鹿言うなと吐き捨てて、お前が健康体じゃねぇと移植できねぇぞと俺が声をあげる。それに電話口の上原杏奈は掠れた声で、もう一度深い溜め息をついて笑う。
『真名かおるのふりしたら、本気で騙される奴が居るんだ。私ってそんな似てんの?コータ。』
「似てねぇ、真名かおるは子供だ。お前は母親だろ?全然似てねえ。」
マップに表示されたポイントまではほんの数分。それでも次第に秋奈の声は掠れて弱々しく、しかも電話越しには微かにパトカーのサイレンも聞こえる。それが秋奈に関係しているかは疑問だが、乗っている車の先にもパトカーのサイレンが聞こえ出す。
『母親かぁ…、ね、コータ………頼んだからね………杏奈のこと。』
※※※
現在の日本で臓器移植を待っている人間は、日本臓器移植ネットワークに登録して待機しているだけで約一万三千人いる。死後の提供によって移植を受ける患者は、実は年間でたった300人程しかいないという。
角膜・心臓・肺・膵臓・肝臓・腸等移植を待つ多くの患者。その中でも腎臓の移植を希望しているのは一万二千人を越すのだという。
腎臓を提供する方をドナー、一方移植を受ける方をレシピエント。
腎移植には二つある。一つは生体腎移植で生きたままの人体から移植するものと、献腎移植という死後の遺体からの移植だ。
生体腎移植のドナーは言った通り原則的に親族に限る。親族とは六親等内の血族、配偶者、三親等内の姻族を指す。よくあるドラマのように善意の人からは贈られない、以前は殆どが親子間・兄弟(姉妹)間だったという。でも最近では夫婦間移植ってのも増え、生体腎移植全体の約四割を夫婦間移植が占めてるのだという。夫婦間は一般的に親子間・兄弟(姉妹)間より組織適合度が低いのだが、『免疫抑制薬』の進歩により拒絶反応の頻度や移植成績は親子間、兄弟(姉妹)間と差がなくなったなんていう現代医学の驚くべき進歩。
方や献腎移植というやつのドナーは、心停止後の方や脳死判定がされた人間だという。こちらに関しては心臓が停止した後に遺体から早急に臓器を取り出し、レピシエントに移植される。
馬鹿な女だ。何を考えてあんな真似したんだ。
上原杏奈は既に意識のない状態で、俺と惣一が一番に見つけた。誰に刺されたのか、傷は腹部への深い刺傷。そこまで必死に自分で逃げたのらしく大量の出血痕が道に点々と残されていたし、警察に助けを求める電話をしたのも上原杏奈自身だ。直後に警察や遠坂達が血痕を追って姿を見せたが、現場らしき場所は見つかったが刺した相手の方は既に消えていて見つからなかったらしい。
後になってだが恐らく進藤隆平か三浦和希を真名かおるの名前で呼び出したのだと、復元した上原杏奈のメールの履歴から判明したという。勿論相手側のメール自体がスマホなのかなんなのか今何処にあるかも誰のものかも分からないから想像に過ぎないが。大体にして上原杏奈がどうやって、そのメールアドレスを手にいれたかも分からないでいるようだ。俺としては恐らく倉橋亜希子が、それには関わっているのかとも思うが本当のところは分からない。何で上原杏奈がそんな馬鹿なことをしたのか、それに関しては警察でもハッキリはしない。恐らく治療してあった足の傷もそのどちらかに刺されたものではないかというが、なんでそっちは治療してあるのかという疑問は誰も感じないらしい。
なんでこういう時に限って、一人で乗り込んで無茶をするんだかな。
上原杏奈の手に握られていた手紙には意識がなくなる直前に書いていたのだろう、血の跡のついた字で自分の身元と自分が死んだら以前棄ててしまった娘への腎臓移植を希望すると残していた。自分が棄てて来た子供だから、隠していたと。
だから、死んで渡すのはルール違反だっていったろう?
移植目的で自殺は禁止だと話したはずだ、だけど上原杏奈は自殺ではないし約束は約束。俺にも分からない裏で惣一がどんな手を使ったかは秘密にしておかせて貰いたいし、上原杏奈は病院についた時点でほぼ助からなかったのも本当の話だ。
杏奈の腹はひどい状態だったが、それでも幸い腎臓は無傷だった。
本来なら遺体からの腎臓は献腎移植になるのだが、上原杏奈が自分の娘と書き残した手紙がその娘のものらしい母子手帳のメモのページだったことと、後は惣一の裏工作で腎臓は杏奈の体から取り出され急遽連絡された実の娘に移植された。勿論相手が実の母親だったことは養父母だけには伝えられたが、上原杏奈本人の意向で娘には今は伝えない。後日だがその母子手帳の筆跡と上原杏奈の娘が放置された時の手紙が残っていて、同一人物のものとは確認されたらしいがそれは大きなことではない。
こんなことをしろなんて、俺は思ってないぞ。
そう心の中で思う。別に悪事を働いたことがあろうが好きな男とやり直せばいいだけじゃないか、お前にはそうできる相手も時間もまだ沢山あった筈だ。それなのになんでお前は殺される危険を承知で、既に死んでしまったらしい真名かおるを名乗ったんだ?
「秋奈か?」
電話口の俺の声に向こうは暫く黙り込んだままだったが、フッと思い出したようにのんびりとした口調で口を開いた。
『そうだったぁ……コータには秋奈だった。』
「ボケてんじゃねぇ、今どこだ?お前、怪我は?」
間延びしたような暢気な声に悪い予感は更に酷くなっていく。電話口で話しかけながら、俺は秋奈には悪いがさっさと立ち上がると秋奈のスマホの居場所を調べにかかる。音が割れるところをみると何処か物陰で話している風だが、何処かを先に説明する気は無さそうだ。
『ねぇコータ、大事な……例えば幼馴染みとか…が、悪いことしてたらどうする?法律でやっちゃいけないような、さぁ。』
「あ?そりゃお前のことか?」
上原秋奈がここ数年何をしていたのか、警察の人間の風間祥太は今もどう対処するべきなのか密かに悩んでいた。上原征雄の殺人はおかしてはいないが、上原が今までしたきたことは相手も合意の上とはいえ詐欺ギリギリのラインだ。しかも実はギリギリでアウトというものも幾つかある。ただ今はまだその件は捜査されてはいないから、見逃しておいてもいいとしても今後も続けさせるわけにはいかない。それをどうするか、上原の母親が逮捕されてしまった今では上原杏奈を支えられるのは誰もいない。しかも風間としても自分が名乗り出ても、杏奈は受け入れないかもしれないのだ。そんなことを悶々と悩みながらも上原杏奈を探し続けているというのも、正直言えば可哀想に思える。
『それ、知っちゃったら、コータはどうする?』
「まず理由を調べる。その原因を解消できりゃやめんだろ?それから取り返しがつくならやり直すし、できなきゃ別な事を考える。」
『はは、超合理的ー。』
俺の返答にとんでもない暢気さで笑いながらそう言う秋奈の様子は、どう考えても何時もと違っておかしい。全く何時ものことだがこの小娘、なんで目の見えない俺に一番不適当な事をさせようとするのか、目が見えない俺に電話先まで駆けつけろと言うのはとんでもない筋違いだぞ。そう考えながらもう一つの電話を手に取りながら、この時間に自由に動ける人間で俺を上原のところまで乗せられるような奴がいたか考える。
『ねぇ、三千万は?』
「先週のうちに寄付してやったよ、色つけてな。病院で怖がらずに挨拶してくれたから、気に入ったって話したら納得されたよ。」
『色……ありがと……はは、便利だね、その顔。』
うるせぇと答えながら、パソコンのプログラム結果が集計されるのに耳を済ます。秋奈の奴、何でか電波の届きにくい場所にいるらしく、思わぬほど限定するのに手間取ってるが大体の場所は絞られ始めている。
「お前、怪我はどこだ?誰にやられたんだ?三浦か?」
『あー足?そこは平気。あきちゃんが、ちゃんと治療してくれたし。』
なんだと?倉橋亜希子だと?まだお前らつるんで同居してんのかと俺が思わず突っ込むと、ルームメートは解消したけど助けてって電話したらお人好しだから助けてくれるんだよねと秋奈は笑う。どうやら秋奈の話では倉橋亜希子はマンションを引き上げると同時に、役目がなくなり進藤隆平とは縁を切って離れたのだと言う。それで三浦和希に怪我をさせられた秋奈が破れかぶれで助けを求めたら、倉橋亜希子は当然みたいに秋奈を助けにやって来て、しかも傷の手当てまでしてくれたらしい。
とんでもなく意味がわからんな、リエのやつ。
昔ネット上で彼女・旧姓多賀亜希子が名乗り、暫く俺や惣一・松理とも交流のあったリエというハンドルネームの女・倉橋亜希子は、あの時既に有能な看護師だった。若いのに新生児室で夜間など緊急で呼び出しされ帝王切開に入ることもあった、その後も看護師だと言うのに透析機械のセッティングもこなし、救急室の交通事故の縫合の介助もなにかもそつなくこなしたのは、まだ看護師になって六年も経たない頃の話だ。
有能すぎて賢すぎて日常生活でも完璧を求めすぎる融通の効かない面の反動で、男に虐げられることで心の均衡を保とうとした女。だけど虐げる相手が虐げるのと従属させるのを混同する馬鹿な男だったのが、彼女の最大の失敗だった。様々なことを完璧に行えて社会的には痛みを感じることが余り経験のなかった彼女は、自分も虐げられ何か痛みを感じることでバランスをとりたかった。だけど男の方はその痛みだけではなく、倉橋亜希子は何一つ完璧ではない愚かな女だと、過ちしか行えないから何をしても全てに罰を受けると時間をかけて洗脳していった。なにしろその男の方が社会的に何事も上手くやれず、日々疑心暗鬼の塊みたいな人間なのだ。しかも自己正当性だけは上手く、自意識過剰のエゴの塊のような男は彼女を支配し続けた。日々の暴力と時折与えられる優しさ、同時に自分がいなければ男は生活できないという完璧なDV被害者の典型の形、それはあの当時の彼女には仕方がないことだったのかもしれない。
やがて倉橋亜希子は全てに疑心暗鬼しか持てなくなって、自分自身をあっという間に見失った。自殺未遂も何度もしていたらしいと後から知ったが、当時直接顔を会わせて話す間柄だったら少なくともあの男からは引き離してやるくらいの情は俺も惣一も持っていた。結局彼女を救うのは、間に合わないまま彼女はここいらから姿を消したのだ。
その後は風の噂では実家に逃げ帰ったと聞いていたが、何故かまたこちらに戻って来ていたのには驚きだ。そして、進藤なんて胡散臭い男にまた引っ掛かるとは、彼女も本当に運の悪い女としかいいようがない。
そういえばここ暫く倉橋亜希子を追い詰め狂わせた相手である矢根尾俊一の噂話が、パタッと途絶えていたのに気がつく。昨年までは女子高生を性風俗紛いの格好で連れ歩いたりカラオケボックスで淫行を働いたり、勤めてた塾の火災事故をギリギリで逃れて放火疑いをかけられたり、幽霊後出ると噂のボロアパートで悲鳴をあげただの女に襲われただのと散々騒ぎを起こしていた。ところが今年に入って、そう言えばぱったりと音沙汰がないのだ。何しろ幽霊アパート自体が月末には、取り壊され更地になると言うし。
まさか、リエが今更殺したなんてことじゃないだろうな?
思わずそんなことが頭に浮かぶ。頭のいい倉橋亜希子の事だから既に矢根尾のことなんか過去の事と切り捨てていると思いたいのだが、同時に倉橋亜希子はとても情の深い女だった。だからこそ中絶も相手の浮気にも堪えていたし、相手がヒモになって倉橋に寄生虫のようにして生きていても数年は必死に一人で耐えていた。ヒモが細く長く相手から搾り取るってことを矢根尾が知っていたら、もしかすれば今もあの苦悩の生活が彼女には続いたかもしれない。彼女を自由にできることを調子にのって矢根尾がネットで性生活まで暴露し吹聴していたのにも、知っていてもずっと耐えていたくらいなのだから。
そんな話は兎も角、進藤と縁を切った倉橋亜希子は医者のように傷を糸で縫うことは出来なくても縫合に近い処置はこなしてみせて、しかも丁寧に処置を行い傷の化膿もきちんと防いだ。そして何日間か秋奈が、今どんな状況にいるのか聞きもせずに、前と同じく何も言わずに匿っていた。
ほんとに何を考えてるんだか。
そう考えながら秋奈の話に耳を傾ける。足は平気と口にしたということは、他のところに何か怪我でもしているということか。この暢気そうに聞こえる口調は、まさか意識状態が悪い訳じゃないだろうな。
「他の怪我は?どこだ?」
一瞬の無言。話す気がないのか、それとも意識が一瞬途切れたか。もう一台の電話を操作して、惣一に電話を掛ける。本当なら惣一を引き出すのは控えるべきなのは分かっているが、流石にこの非常事態だ。後日松理が怒鳴りこんできてもやむを得ない。
『コータ、あのね、コインロッカーさ?』
「あー荷物ならとってきたっていったろ。それでお前の怪我は?ん?」
『もう一個あるんだよね、今も鍵もっててさ。』
「あー、わかったから。引き取って預かっててやる。」
『ありがと、それとさ。』
秋奈の会話は最早とりとめが無さすぎて追いかけにくい。どう考えても意識が朦朧としているとしか感じられないのが、俺を更に焦らせていく。こうなったら本人のところにつくまで、延々と秋奈に話し続けさせておくしかない。惣一に車出してくれと何時もにない鋭い声で短く頼み、更に声をなるべく大きくして秋奈に話しかける。
「それとなんだ?ん?」
『幼馴染み、悪いことしててもさぁ、……友達でいてよって。』
「あー、風間になら自分でいえ。大体にして、血眼で探してんぞ?お前の幼馴染み。」
『あは、ほんと?そんなやつじゃなかったんだけどなぁ、祥太って。』
そうして暫く再びの無言。電話口で鼻を少しならして、秋奈が電話越しとはいえ初めて俺の前で泣いているのだと知る。まだ若いしこれから改めてやり直せばいいだけの小娘が、ほんの十年程度の迷走で泣くなと言ってやると秋奈はおかしそうに笑う。
『父親みたいなこと言うなよ、コータの癖にー。』
「うるせぇ、俺だってお前みたいな面倒な娘なんか要らねぇ。」
電話の向こうで楽しげな笑い声と一緒に深い溜め息が溢れ落ち、再び今度は少し長い無言が訪れる。もう片方のスマホにマップを表示しながら俺がもう一度名前を呼ぶと、秋奈は深い溜め息をもう一つついた。
『………祥太のこと好きだったんだよ、でも、……あいつ正義の味方になりたいんだもん。私みたいなのとつきあってらんないだろ?』
「好きでもない女のこと東北なんぞまで調べにいくか?向こうも惚れてんだ。いいから、こっから少し幸せになれって言ってんだろ。」
そう口にしながら俺は白木の杖を小脇に家から飛び出す。タイミングよく姿を見せた惣一も俺の剣幕に何が起きているかは気がついた風で、車の助手席に俺の手を掴んで引き込む。
『あのさぁ、………コータ。』
「なんだ?お前、本気でどこ怪我してんだよ?あ?」
『覚悟できてるからさ、………頼むね。』
馬鹿言うなと吐き捨てて、お前が健康体じゃねぇと移植できねぇぞと俺が声をあげる。それに電話口の上原杏奈は掠れた声で、もう一度深い溜め息をついて笑う。
『真名かおるのふりしたら、本気で騙される奴が居るんだ。私ってそんな似てんの?コータ。』
「似てねぇ、真名かおるは子供だ。お前は母親だろ?全然似てねえ。」
マップに表示されたポイントまではほんの数分。それでも次第に秋奈の声は掠れて弱々しく、しかも電話越しには微かにパトカーのサイレンも聞こえる。それが秋奈に関係しているかは疑問だが、乗っている車の先にもパトカーのサイレンが聞こえ出す。
『母親かぁ…、ね、コータ………頼んだからね………杏奈のこと。』
※※※
現在の日本で臓器移植を待っている人間は、日本臓器移植ネットワークに登録して待機しているだけで約一万三千人いる。死後の提供によって移植を受ける患者は、実は年間でたった300人程しかいないという。
角膜・心臓・肺・膵臓・肝臓・腸等移植を待つ多くの患者。その中でも腎臓の移植を希望しているのは一万二千人を越すのだという。
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腎移植には二つある。一つは生体腎移植で生きたままの人体から移植するものと、献腎移植という死後の遺体からの移植だ。
生体腎移植のドナーは言った通り原則的に親族に限る。親族とは六親等内の血族、配偶者、三親等内の姻族を指す。よくあるドラマのように善意の人からは贈られない、以前は殆どが親子間・兄弟(姉妹)間だったという。でも最近では夫婦間移植ってのも増え、生体腎移植全体の約四割を夫婦間移植が占めてるのだという。夫婦間は一般的に親子間・兄弟(姉妹)間より組織適合度が低いのだが、『免疫抑制薬』の進歩により拒絶反応の頻度や移植成績は親子間、兄弟(姉妹)間と差がなくなったなんていう現代医学の驚くべき進歩。
方や献腎移植というやつのドナーは、心停止後の方や脳死判定がされた人間だという。こちらに関しては心臓が停止した後に遺体から早急に臓器を取り出し、レピシエントに移植される。
馬鹿な女だ。何を考えてあんな真似したんだ。
上原杏奈は既に意識のない状態で、俺と惣一が一番に見つけた。誰に刺されたのか、傷は腹部への深い刺傷。そこまで必死に自分で逃げたのらしく大量の出血痕が道に点々と残されていたし、警察に助けを求める電話をしたのも上原杏奈自身だ。直後に警察や遠坂達が血痕を追って姿を見せたが、現場らしき場所は見つかったが刺した相手の方は既に消えていて見つからなかったらしい。
後になってだが恐らく進藤隆平か三浦和希を真名かおるの名前で呼び出したのだと、復元した上原杏奈のメールの履歴から判明したという。勿論相手側のメール自体がスマホなのかなんなのか今何処にあるかも誰のものかも分からないから想像に過ぎないが。大体にして上原杏奈がどうやって、そのメールアドレスを手にいれたかも分からないでいるようだ。俺としては恐らく倉橋亜希子が、それには関わっているのかとも思うが本当のところは分からない。何で上原杏奈がそんな馬鹿なことをしたのか、それに関しては警察でもハッキリはしない。恐らく治療してあった足の傷もそのどちらかに刺されたものではないかというが、なんでそっちは治療してあるのかという疑問は誰も感じないらしい。
なんでこういう時に限って、一人で乗り込んで無茶をするんだかな。
上原杏奈の手に握られていた手紙には意識がなくなる直前に書いていたのだろう、血の跡のついた字で自分の身元と自分が死んだら以前棄ててしまった娘への腎臓移植を希望すると残していた。自分が棄てて来た子供だから、隠していたと。
だから、死んで渡すのはルール違反だっていったろう?
移植目的で自殺は禁止だと話したはずだ、だけど上原杏奈は自殺ではないし約束は約束。俺にも分からない裏で惣一がどんな手を使ったかは秘密にしておかせて貰いたいし、上原杏奈は病院についた時点でほぼ助からなかったのも本当の話だ。
杏奈の腹はひどい状態だったが、それでも幸い腎臓は無傷だった。
本来なら遺体からの腎臓は献腎移植になるのだが、上原杏奈が自分の娘と書き残した手紙がその娘のものらしい母子手帳のメモのページだったことと、後は惣一の裏工作で腎臓は杏奈の体から取り出され急遽連絡された実の娘に移植された。勿論相手が実の母親だったことは養父母だけには伝えられたが、上原杏奈本人の意向で娘には今は伝えない。後日だがその母子手帳の筆跡と上原杏奈の娘が放置された時の手紙が残っていて、同一人物のものとは確認されたらしいがそれは大きなことではない。
こんなことをしろなんて、俺は思ってないぞ。
そう心の中で思う。別に悪事を働いたことがあろうが好きな男とやり直せばいいだけじゃないか、お前にはそうできる相手も時間もまだ沢山あった筈だ。それなのになんでお前は殺される危険を承知で、既に死んでしまったらしい真名かおるを名乗ったんだ?
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事件の背後には、視覚的な錯覚を利用した巧妙なトリックが隠されており、密室の真実を解き明かすために葉羽は思考を巡らせる。彼と彩由美の絆が深まる中、恐怖と謎が交錯する不気味な空間で、彼は人間の心の闇にも触れることになる。果たして、葉羽は真実を見抜くことができるのか。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
おさかなの髪飾り
北川 悠
ミステリー
ある夫婦が殺された。妻は刺殺、夫の死因は不明
物語は10年前、ある殺人事件の目撃から始まる
なぜその夫婦は殺されなければならなかったのか?
夫婦には合計4億の生命保険が掛けられていた
保険金殺人なのか? それとも怨恨か?
果たしてその真実とは……
県警本部の巡査部長と新人キャリアが事件を解明していく物語です
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