random face

文字の大きさ
上 下
55 / 107

55.上原杏奈

しおりを挟む
「どうしたら何もしないで返してくれるの?」

私が思わずそう口にした言葉に、倉橋亜希子は初めて予想外だと驚いたように目を丸くして黒髪を揺らしながら首を傾げた。それは心底驚きに満ちた様子で、私の言葉が全く理解できないと言いたげに口を開く。

「あの人は、秋奈を助けてくれなかったんじゃないの?」
「それは………。」

私は彼女の指摘に言葉を失う。確かに高校生のあの時、風間祥太は私に何が起こっているか一つも気がつかなかった。私が当然のように毎日一緒に高校に通い日々苦悩しながら、あの男に体を好きにされているのも気がつかなかった。それに大学のために県外に行くと祥太から伝えられた時も、私の胸の中の激しい苦痛にも気がつきもしなかった。気がつかなかったのだから、当然私の事を助けることは祥太には不可能だったのだ。それに正直気がついてくれなかったのも事実だけど、私自身も祥太に打ち明けることもできなかった。自分が義理とはいえ父親に犯されたことも、その子供を妊娠したことも、私には祥太には到底話せるようなことではなかったのだから。

確かに話せば結果は違ったかもしれないけど、話せる筈がなかった。

だって言える?好きな男に他の男に犯されてますなんて。言えるわけないでしょ?世の中そんな綺麗事じゃないのは分かってるでしょ?
でも祥太は私に再会して、今の私から何かに気がついてしまったんだと思う。だからあいつは私の事を独りで調べたのだろうし、自分が間違っていたと考えたから、あの時をあえて謝りに来たんだ。
倉橋亜希子が進藤と繋がっているのは、宏太や遠坂が知ってるんだから祥太がどちらかから聞いてない筈がない。それでも、ここに来たのは祥太が祥太だから。馬鹿正直で真面目な昔のままの、私が知っている祥太だったからここに態々来たんだ。

「それは私と祥太の問題で、あんたや進藤には関係ないことだわ。」
「なら、私がこう言えば分かるわよね?風間祥太がここで気がついたら困る事があるのは私と進藤なの。」

私と祥太の過去は私達の問題だけど、ここに祥太が来て何かに気がつかれると倉橋亜希子と進藤が困る。だから拉致したし何もしないで返すかどうかは、進藤次第。

そう言っているのは確かに分かるけれど、だからと言って指を咥えて眺めていろってことかよ。

心の中で悪態をつきたくなるが、それでも私も目にしているのに気がついていない事があるって言うのは大きなヒントだ。私は既に何ヵ月かここで暮らしているけど、倉橋亜希子の生活は普通の女性の日常と別段かわりない。私が出歩いている間に何をしているのかは分からないが、一緒にいる時に奇妙な行動なんかは見たことがない。見たことがないと言えば元看護師と話していたけど、今の仕事が何なのかは未だに分からないでいる。勿論倉橋亜希子も時々出掛けているようだけれど、職業として勤務出来る程の長時間では無さそうだ。

考えなきゃ、必要な情報を探し出さないと。

必死で視線を動かさないまま、室内に何かないのかと観察する。倉橋亜希子が普段からよく使う食器や、壁に取り付けられた衣類掛けにかけられた衣類とコートに手袋、バックにマフラー。男なら気がついて女の私は気がつかないもの。化粧品が少ないとか?そんなの祥太が気がつくわけがない。祥太が入ったのは玄関からここまで。個室には入らないし、トイレにだって立たなかった。
リビングに座って私と話をして、お茶を飲んで。祥太が座っていたのは、リビングの入り口にいる私から一番近い、今は倉橋亜希子が座っている衣類掛けの正面のソファー。この室内で男性の祥太は、一体何に気がつくんだろう。食器?お茶?そんなの別段特殊なものなんかない。

「分かったらこの話は終わりにしましょ?秋奈。」
「終われないわよ、少なくとも祥太には手を出さないで返してもらわないと。」
「秋奈の赤ちゃんの父親なの?彼。」
「彼とは一度も寝てない。」

私の即答に倉橋亜希子は僅かに興味を浮かべたように見えた。足を組ながら、彼氏じゃなかったの?と柔らかい声で問いかける。

「彼氏だったわ、最初で最後の。」
「でも、赤ちゃんの父親じゃないんでしょ?助けてもくれなかったんでしょ?」

そうよと二つの問いかけに答えた私は、必死に祥太ならと考える。子供の頃から正義の味方になりたいとずっと言い続けてきた風間祥太。曲がったことが嫌いで、正論ばかりで、常識で凝り固まっていて、今では刑事になって、本当に正義の味方になった風間祥太。

「じゃ何故・秋奈は今の彼を返して欲しがってるの?」
「それは………。」

何故。そんなの答えられない。だって理由なんて自分でも分からないけど、祥太にはそのままでいて欲しいし怪我をして欲しくなんかない。私に会いに来たせいで祥太が怪我したり、宏太みたいになったりしたら嫌なだけ。祥太の真っ直ぐに私を見る瞳が、宏太みたいな偽物の眼になってしまったら

偽物……

祥太は男性でもあるけど、警察官で二課の刑事。この事件に祥太と遠坂が関わったのは、杉浦陽太郎のオークション詐欺が発端だった。オークション詐欺は偽物のブランドバックって話していたけど、どこから仕入れたんだろうと宏太と私は話した。進藤って人はブローカーとかバイヤーだって宏太は言っていたけど、杉浦の転売した品物の出所の可能性はあるのか。しかもこの話の流れだったら、倉橋亜希子も杉浦の件に一枚噛んでるってことになる。

「私にだって一つ位、昔のままであって欲しいものくらいある。」
「それが風間君?随分センチメンタルなこというのね?子供の方が大事じゃないの?」

倉橋亜希子との会話をしながら、頭の中は必死に回転している。ここにある倉橋亜希子が使用しているのは確かにブランドものだけど、刻印もしっかりしている紛れもない本物。私が見逃していることは何?ブランドもののバックは一つだけだけど、紛れもない本物だ。でも祥太なら分かってしまうもの、分かる可能性の高いもの。しかも一目で分かる確率がある、見る、一目で、

「子供は死んだわ。だから居ない。」

間髪入れない私の言葉に、倉橋亜希子の表情が変わった。何処か鈍い苦い痛みを滲ませながら、倉橋亜希子が私の顔を見つめている。

「………中絶したの?」
「気がついた時に、もう五ヶ月過ぎてたわ。」

その言葉で何故か彼女も妊娠したことがあるのだと気がつく。しかも彼女は中絶をしていて、それを酷く後悔しているのだ。それはDVの元カレのことなのか、もしかして進藤が相手なのだろうかと心の中で一瞬考える。

「あんたも妊娠したことがあるんだ?」
「……そうよ、ずっと昔。まだ未熟な浅はかな馬鹿な女だったから。」
「中絶したの?」
「………………ええ。」

痛々しい表情は先程までの作り込まれた笑顔とは別物で、彼女の本心が透けて見える。揺らぐような彼女の琴線、本当の倉橋亜希子は一体どれなんだろう。何時ものノンビリとした優しいおだやかな彼女なのか、冷淡なほど作り込まれた笑顔を張り付けて統計学を駆使して計算ずくで話す彼女なのか。それとも今の彼女が本物なのか。まるで同じ顔の写真を三枚並べられているみたい。

写真!

そうか、と頭の中に閃く。オークションに出すための出品物のサンプル写真は、幾ら売るものが偽物でも偽物を上げるわけにはいかない。なら一個本物の写真が必要で、祥太はその画像を何度も何度も見ている筈だ。繰り返し見ていた写真に該当する本物のブランドバックと、後は撮影の背景になる筈の壁と床。特徴のない壁と床だとしても何度も見ていて、何か傷やなにかで判別出来るのだとしたら。

「子供、何で死んだの?」
「分かんないわ、直ぐいきなり死んだから。」
「そう、悲しいわね……。」
「あんたの方の子供の父親は?生きてるの?」

彼女は私の言葉に悲しげに微笑むと、教えたでしょう?と囁く。今でも怨んで憎悪し続けている男が、彼女にはいると話していた。つまりはDV男の子供だったと言うことなのか。

「憎いし怨んでいるから、仕方ないわよね……こうなったのも。」
「………もしかして、復讐するつもりなの?」
「そうよ、決まってるでしょ?」

即答する彼女の悲しげで柔らかい微笑みに、私は思わず戸惑いながら息を飲む。倉橋亜希子は自分を妊娠させて中絶させた男に復讐するために、今こうしていると言うのだ。進藤ではないと話したけれど、宏太とか遠坂とか?まさか三浦ってことはないとは思うけど、風間ってことだったりするのだろうか。でも、風間がDVは尚更あり得ない。

「ふふ、顔に出てるわよ?安心して、秋奈はあのクズに会ったことない筈よ。」
「何でそう言えるの?」
「あいつは秋奈みたいなタイプは苦手なの、だから近寄らないわ。」

私は苦手?意図が分からないけど、それにしたって復讐って何を計画しているの。それに復讐するほど相手を恨むってわからなくはないけど、進藤にまで頼んでする事なの。

「そこまでして復讐したいの?」
「………どうなのかしらね、そのつもりで………」

そう呟くけれど彼女はその先を続けなかった。溜め息をついて彼女は私の顔を見上げると、何時ものあの穏やかなあきちゃんの笑顔を浮かべた。それはもうこれ以上話を続けるつもりはないって言う笑顔に、私には感じ取れる。

「もうこの話は終わりにしましょ?ちょうど良かったわ、今日でここから出ていってくれる?」

唐突だけれど私にしてもこのままここで暮らせる筈がないのは、彼女にこう言われなくても分かっていた。何しろどう考えても倉橋亜希子は私の事を利用していたけれど、私にはもう利用価値はなくなった訳だ。調べてほしかった真名かおるの情報は警察にも外崎宏太にも殆どないのは、私自身が進藤って人に頼まれて聞き出してきた。その上私の幼馴染みを拉致されたと私が知って、私が手駒にならないこともハッキリしたのだ。

「ここは直ぐに引き払うから、荷物は持って出た方がいいわ。」

なるほど、このマンション自体放棄するというつもりなのか。倉橋亜希子がこんなことを教えてくれるのは、ヤッパリ彼女が本当は極度のお人好しだからなのだろう。勿論私が通報しても情報を持っていないから無意味だと言う前提があってのことだし、祥太が居るから下手な行動はしないって言う確信があるからだと分かる。それでも私が遠坂に気がついたことを言えば彼女にとってはかなり不利になるのに、それでもこんなことを話しているのだ。彼女は普段の優しい口調で問いかけてくる。

「最後に聞いていい?」
「何?」
「秋奈、本当は何ていう名前なの?」

私の名前は偽名だと薄々感じていたらしい倉橋亜希子が、穏やかに微笑みながら問いかけてきた。多分これで彼女と面と向かって話をするのは最後なのかもしれない。その名前は捨てたのと突っぱねて言ってやってもよかったのだけど、そう思ったら何故か彼女には名前を教えたいような気がした。

「上原杏奈。」
「杏奈、可愛い名前ね。」

彼女はそう言うと今までになく朗らかに微笑みながら、私の顔を見つめる。

「さよなら、杏奈。」
「………またね、あきちゃん。」

ひねくれものの私があえてそう答えてやると、彼女は少しだけ嬉しそうに瞳を緩ませていた。



※※※


一先ず必要な荷物を纏めてバックに突っ込んでいた私は、それを無造作に駅のコインロッカーに押し込める。それと別に心底大事な荷物は丁寧に包み込むと、もう一つコインロッカーを占拠してそっとコインを流し込むように入れて鍵をとる。ここからどうしたらいいかは分からないけど、一つ私が知っていて宏太達が知らない場所がある。祥太は郊外の倉庫とか言ってた宏太の話は知ってるけど、そんな簡単に見つかるようなところに監禁したりするのかと疑問でもあるのだ。それに祥太を助けたら電話してくれる約束だけど、電話が来ないところを見るとまだ何も変化かないというのだろう。祥太が連れ拐われて少くとも三時間か四時間。長いのか短いのか、拉致何てされたことのない私にはちっとも分からないけど。

あの場所を私に分かるように連れていったのは、あの男が油断してたのか、それともわざとかしら。

進藤って人は正直なところ宏太みたいによく分からない。一般的な人間とは少し思考過程が違うんじゃないかと思う。それでも少くとも何か手がかりになるものでも見つけられたらいい。その前に私はコンビニに入るとやらなきゃいけないことを先に済ませることにしていた。
しおりを挟む

処理中です...