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50.風間祥太
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進藤の過去らしい情報を得たことで急ぎ足になっていた俺は、年末の冷たい夜気の中で大分通いなれてきた遠坂の自宅のドアを迷いもなく押し開けた。室内には電気が煌々と照っていて既に遠坂が戻っているのは分かっていたし、視界の先の部屋には大量のファイルが様々な位置で開かれたまま。見た目と違って遠坂の自宅には最新のパソコンもパッドなんかもある上に、様々な専門書も壁に作りつけられた書架に溢れる程詰め込まれている。持っている専門書も心理学から機械工学迄と幅広く、信哉の自宅でも書架に驚いたが、遠坂の自宅に初めて来た時も度肝を抜かされた。遠坂喜一は一見するとノホホンとした凡庸な男に思われがちだが、実際には博学だし知識も幅広く身に付けているのだ。それを殆どの人間が知らないというのには正直なところ、遠坂自身が隠しているのだとしか思えない。俺と遠坂とは二課に入って暫くしてから組んだのたが、正直なところ底知れない面が最近になってやっと分かるようになったと思う。それを仕事で遺憾なく表に出していたら遠坂はとっくに昇進していてもおかしくないが、遠坂自身がそれを望んでいないようなのだ。
「遠坂さん。」
お互いに掴んだ情報を共有するために遠坂の家で落ち合うという筈なのに、辿り着いたドアの先からは何の返答もない。俺が躊躇いがちに奥に進むと、遠坂は指定席の古いソファーに腰かけて何やら考え込んでいる様子だ。
「遠坂さん?」
繰り返した俺の声にやっと気がついたように、ふっと視線を上げた遠坂の表情は暗く冴えない。膝に乗せている竜胆ファイルはあの家系図ファイルのようだが、実際にはそれを見て何か考えている訳ではなさそうだ。
「……何かあったんですか?」
真見塚成孝から聞き出した情報を伝えようにも、遠坂の顔は一向に明るくならないまま。何かあったのかと問いただしても、遠坂は押し黙り沈んで考え込んだきりだ。やっと掴んだ情報からは倉橋俊二と進藤隆平には何らかの関係があるとしかもう思えないのだが、目下その話に持ち込むことすら出来ないでいる。
「遠坂さん、何があったんですか?」
自分が信哉に会っていた間に、遠坂は外で倒れたという外崎を自宅まで送って行った筈だ。そこで何かがあってこの様子なのだろうとは思うが、何しろ久保田惣一の情報量にも唖然とするが、外崎宏太も大概規格外の男なので何があったか想定も出来ない。話すつもりがないかもしれないと思い始めた矢先、遠坂が呟くように口を開いた。
「風間。」
躊躇うような口調に俺は眉を潜めながら、何ですかと問い返す。
「上原杏奈は失踪していたのか?」
予想外の問いかけに遠坂が上原秋奈と偽名を使う彼女が、俺の幼馴染みの上原杏奈だと既に知っていたのに気がつく。いつの間に調べたのか驚きもするが、遠坂は俺の高校のOBでもあるし調べる方法が無い訳ではない。ただ、上原が失踪したのを知っているのは、実際にはそれほどいないのだ。何しろ母親ですら上原が失踪していると思っていないし、上原自身が母親には連絡をとっていた節もある。上原が失踪したと警察に持ち込んだのは俺・風間祥太だけで、結局親が失踪届けすら出してもいない。
「何で……そう思うんですか?」
あの時の苦い無力感は今でも鮮明で、異常を訴えても誰にも信じてもらえない事が俺には信じられなかった。上原杏奈は誰にも言わずに独り暮らしのマンションを引き払い、友人の全てと交流を絶って姿を消して大学すら休学していた。休学に関しても後に退学届けを提出していて、一旦休学にしておいて騒ぎになる前に退学するという用意周到さだ。その消えかたは誰もか大学に合わなかったのか、他にやりたいことが出来たのだろう程度にしか感じない。何しろ自分の親ですら上手く丸め込んでいるのだ。母親は聞いても杏奈は留学だというし、大体にしてその当時上原の母親は、義理の父親が女と失踪したと杏奈のことどころではなかった。夫をそれだけ愛してたのかというと、正直なところそうとは言い切れない気がする。何しろ上原の義理の父親は俺の目にも、あまり良い人間とは言えなかったからだ。
遠坂は足元に視線を落とすと、何故そう問いかけたかを呟いた。
「当時のことを覚えてた奴がいた。」
「どんな話なんですか?」
自分が十九になる前だから、あれは既に十年も前の話だ。それを今でも覚えていると言われても、正直なところ遠坂の言葉の信憑性は低い。ところがそれが伝わったみたいに、遠坂は更に低い声で呟く。
「彼氏が行方不明になったと何度も来て訴え、実の母親は全く話が噛み合わない。」
大筋はその通りだが、それほど俺が警察に足をむけたのは頻回だったろうか。正直なところそこら辺の記憶は既に昔過ぎて俺の方があやふやな有り様だ、遠坂が言うような何度もという事態だったかと聞かれると返答のしようがない。少なくとも三度は足を運んだ筈だが、それは多いのか。記憶に残るような事態を俺はしていただろうか。
「母親の方は娘の所在を確認しようにも、夫が行方不明に手一杯。」
「………あんな前の事、本当に覚えてる人がいるんですね。」
遠坂の言葉に俺は諦めに近い溜め息をつく。十八の俺はまだ浅慮で警察に訴えれば情報が得られると考えていたのは事実だし、上原の母親が夫の事で当時騒いでいたのも事実だ。それを的確に指摘できるということは、署内に本当に記憶に残っていた人物がいたに違いない。遠坂は署内の情報通だから、そう言えばと話を聞き出せる人間は大勢いるのだろう。
「それで、上原が失踪していたとしたらどうなんですか?今はここいらにいるんですよ。」
事実上原は以前は失踪していたが、今はこの街にいる。何しろ頻繁ではないが顔をあわせているくらいなのだから、今ここで失踪の話を蒸し返す必要性があるとは思えない。
「失踪の理由は想定出来てるのか?」
上原の失踪は俺にとっては全く理由の分からない事だったが、この間彼女自身が二股をかけていたと話していたのが理由の一端かもしれないとは思う。だがそれを遠坂に包み隠さず話す気には、流石の俺だってなれない。
「俺には分かりません。聞いてもあいつは答えないと思います。」
「それじゃ、上原杏奈は目的のためなら手段を選ばないタイプか?」
質問の意図がまだ掴めないが、遠坂の沈んだ様子が外崎ではなく上原にあるのだと薄々感じ始めていた。つまり、遠坂は外崎を送る間に、何処かで上原と会ったか見かけたということなのだろう。
俺の記憶の中の上原杏奈は、とても向上心の強い勤勉な人物だった。幼い頃に実の父親が病にかかってから上原家は経済的にも困窮していたが、それに負けるような人間ではなかった。
目標は常にあって計画性も高いし視野も割合広く、大学すら自力で通える算段をつけられる。だが、目的のために手段を選ばないタイプかと言われると、イエスとは言いがたい。上原は自身の向上のための努力はするが、人を嵌めたり傷つけたりするような人間ではなかった。ただ、ひとつ言うなら困った事が起きても、そう簡単に他人に助力を求めるような人間ではない位だ。
「俺の知りうる限りは常識的な人間でしたけど、今の彼女がそうかは分かりません。」
それは素直な意見だった。幼い頃の上原杏奈と今の上原杏奈が、同じだとは思えないのは俺の正直な意見だ。俺としては根幹は同じだとは思いたいが、今の彼女が何を見ているのかは想定出来ない。何しろ何故偽名を名乗るのかも何故定住もせず活動しているのかも、今何処をねぐらにして何を生業にしているかも俺には分からない。
「何が言いたいんですか?上原が何をしたんです?」
遠坂は暫く考え込んだが、諦めたような溜め息をついて視線を俺の顔に向けた。
「上原杏奈は倉橋亜希子と一緒に暮らしてるそうだ。」
「は?」
つい数時間前倉橋俊二の妻・倉橋亜希子と進藤隆平が影で繋がっていると聞いたばかり。その倉橋亜希子と上原が一緒に暮らしてる?
「冗談ですよね?」
「本人の口から聞いた、ルームシェアしてるそうだ。」
唖然として遠坂の顔を穴が開くほど見つめてしまう。まだ全容が分からない倉橋亜希子と上原が親密な間柄?ルームシェアする仲?倉橋亜希子が進藤と繋がっていると久保田惣一は話していた筈だが、それが間違いという話はないのだろうか。情報が処理仕切れない頭に、遠坂は更に追い討ちをかけてくる。
「帰り少し後をつけさせてもらったが、倉橋亜希子が料亭の送迎に使っていたのと同じ車に乗ってった。」
「車……本当に同じですか?」
見間違いだと言いたいが、遠坂が確信もなくそんなことを言うとは思えない。遠坂はもうひとつ溜め息をついて、あんだけ何度も眺めたばかりでバンパーの傷見逃すほど間抜けじゃないと呟く。
「上原は………進藤と繋がってるってことですか?」
「可能性としてはな。」
防戦としている俺の前で遠坂は髪を掻き回すようにしながら、ああと溜め息を溢し思いきったように口を開く。
「上原杏奈が街に戻ってきたのは恐らく数年前だろう。」
「………そ、うなんですか?」
「お前が二課に来る前からチラホラ女の詐欺師の情報があった。」
そこで初めて耳にしたのは何処か今の上原を見ていれば、納得出来なくもない話だった。
一番古い情報は五年ほど前。中年男性が若い女に金を貢がされたと訴えたらしい。ところが相手の女は偽名の上に定住もしておらず、携帯は既に解約済み、結局は被害額もブランドバック3つと幾ばくかの金銭だと妻子持ちの男は訴えを取り下げた。その後も年に一度ほど同じような訴えが来るが、調書をとっている内に別な彼女や妻にバレると困るなどの理由で本格的な捜査には至らない妙な事件が起きている。相手をきっちり選んでやっているのだとしか思えない計画性の高さだと、薄々遠坂は考えていたようだ。恐らく訴えに出てくるのは氷山の一角位なもので、実際はその何倍も同じことが起きているに違いない。ところがその詐欺師はここ二年ほどパッタリと動きがなくなったという。
「二年?」
「表にでないだけか、他に金蔓ができたか、大きなヤマに手を出してるか……。」
二年というキーワードがチラツクと、何故か様々な事が頭に浮かぶ。
二年前の三浦和希の起こした事件。
二年前に倉橋俊二の周囲に現れた倉橋亜希子。
糸が絡み合うように繋がっている中で、上原が何に荷担していて何をしているのか。一体遠坂は何を上原がしていると考えているのか、今ここで聞くのが恐ろしい。それなのに遠坂が何を言いたいのか、既に薄々俺にも分かってしまっていた。
「真名かおる……が、上原杏奈の偽名の可能性ってことですか?」
※※※
そう口にしてしまったらこれ以上、遠坂と話している事が出来なくなっていた。帰途につきながらその言葉を頭の中で何度も繰り返す。
上原が真名かおるだとしたら
年代も背格好も上原は当て嵌まる。二年前にこの街に既にいたのだとしたら、日常的に偽名を使い詐欺師をしていたのだとしたら。そう考えると幾つか辻褄のあう。というよりも、正直に言えば辻褄が合いすぎてしまう。あの上原が偽名を使い、尚且つ定住せず、得体のしれない人間に関わって生活している理由が、自分が真名かおるだからだとしたら。外崎と知り合ったのも真名かおるだからで、外崎が知っていて知らないふりをしているだけだとしたら。実際に真名かおるは三浦に殺せと命令したわけでもなければ、殺人鬼になれと命令したわけでもないとされている。弄んで放置しただけ。その後の事件は三浦の友人が勝手に頭に乗って地雷を踏んだだけだとも……
何を考えているんだ、真名かおるが元凶だったのはかわりない…。
もし上原が真名かおるだとしたら、一気に俺は真名かおるは悪くないと考えようとしている。しかも、これはまだ仮定であって本当の事ではないのに、俺は勝手に確信を持ち始めて先入観で固まり始めていた。
こんなんじゃ、駄目だ。
ボンヤリとそんなことを考えながら歩いている内にいつの間にか、夜道を歩き慣れた方向に歩いてしまっていたらしい。闇にヒッソリと静まり返る母校の校舎は、つい二十日前の事件の爪痕がまだブルーシートで覆われている。都立第三高校は既に冬休みに入っているし、この遅い時間では人の気配もない。
あの頃はこんな未来になっているなんて、ひとつも考えていなかった。
冷たい空気を吸い込みながら、ボンヤリと立ち尽くして校舎を眺める。上原は今何処で何をしているのだろうと、昔の彼女を思い浮かべながら俺は暫く身動きできずにいた。
………なんで、上原は失踪してたんだろうか。
彼女は先日駅前で再開した時に、俺と付き合った後他の男と付き合って寝たとつげた。確かに当時の俺は全く気がついていなかったし、衝撃的な告白でそれについて何も考えようとしていない。だけど、よくよく考えてみると高校時代までの上原は、俺がよく知る上原杏奈の筈だ。
生活に困窮していたが、それでも逆境に負けずに大学進学を決め、奨学金も得る算段を自分でした。それ以外は普通の高校生で、殆どの時間を知っている筈だ。知らないのは学校以外、しかも上原は塾には通っていなかったし、俺の生徒会長活動を待っていたりもした。夕飯を俺の家で済ますこともあったし、その後二人で勉強することも多くて夜道を俺が送っていたのだ。そこから翌日の朝まで長ければ半日、短ければ八時間ほどしかない。家で一緒にいるのは、義理の父親と夜中の二時に店から戻る母親。そして翌朝七時には彼女は、普通に俺と学校に向かう。
大学に入ってからのことなのか?
たった数ヵ月だが、可能性はなくはない。だが、それを今から調べる術はあるだろうか。その失踪とつい先日までの行方不明の期間は関係するだろうか。あの時外崎は電話の背後に電車の通過音があったと話していたが、単線で通過音の傍で話すことが出来る場所はどれくらい存在するだろうか。詳しく外崎に聞いたら、それは確定出来るものだろうか。
俺は独り立ち尽くして、それについて考え込んでいた。
「遠坂さん。」
お互いに掴んだ情報を共有するために遠坂の家で落ち合うという筈なのに、辿り着いたドアの先からは何の返答もない。俺が躊躇いがちに奥に進むと、遠坂は指定席の古いソファーに腰かけて何やら考え込んでいる様子だ。
「遠坂さん?」
繰り返した俺の声にやっと気がついたように、ふっと視線を上げた遠坂の表情は暗く冴えない。膝に乗せている竜胆ファイルはあの家系図ファイルのようだが、実際にはそれを見て何か考えている訳ではなさそうだ。
「……何かあったんですか?」
真見塚成孝から聞き出した情報を伝えようにも、遠坂の顔は一向に明るくならないまま。何かあったのかと問いただしても、遠坂は押し黙り沈んで考え込んだきりだ。やっと掴んだ情報からは倉橋俊二と進藤隆平には何らかの関係があるとしかもう思えないのだが、目下その話に持ち込むことすら出来ないでいる。
「遠坂さん、何があったんですか?」
自分が信哉に会っていた間に、遠坂は外で倒れたという外崎を自宅まで送って行った筈だ。そこで何かがあってこの様子なのだろうとは思うが、何しろ久保田惣一の情報量にも唖然とするが、外崎宏太も大概規格外の男なので何があったか想定も出来ない。話すつもりがないかもしれないと思い始めた矢先、遠坂が呟くように口を開いた。
「風間。」
躊躇うような口調に俺は眉を潜めながら、何ですかと問い返す。
「上原杏奈は失踪していたのか?」
予想外の問いかけに遠坂が上原秋奈と偽名を使う彼女が、俺の幼馴染みの上原杏奈だと既に知っていたのに気がつく。いつの間に調べたのか驚きもするが、遠坂は俺の高校のOBでもあるし調べる方法が無い訳ではない。ただ、上原が失踪したのを知っているのは、実際にはそれほどいないのだ。何しろ母親ですら上原が失踪していると思っていないし、上原自身が母親には連絡をとっていた節もある。上原が失踪したと警察に持ち込んだのは俺・風間祥太だけで、結局親が失踪届けすら出してもいない。
「何で……そう思うんですか?」
あの時の苦い無力感は今でも鮮明で、異常を訴えても誰にも信じてもらえない事が俺には信じられなかった。上原杏奈は誰にも言わずに独り暮らしのマンションを引き払い、友人の全てと交流を絶って姿を消して大学すら休学していた。休学に関しても後に退学届けを提出していて、一旦休学にしておいて騒ぎになる前に退学するという用意周到さだ。その消えかたは誰もか大学に合わなかったのか、他にやりたいことが出来たのだろう程度にしか感じない。何しろ自分の親ですら上手く丸め込んでいるのだ。母親は聞いても杏奈は留学だというし、大体にしてその当時上原の母親は、義理の父親が女と失踪したと杏奈のことどころではなかった。夫をそれだけ愛してたのかというと、正直なところそうとは言い切れない気がする。何しろ上原の義理の父親は俺の目にも、あまり良い人間とは言えなかったからだ。
遠坂は足元に視線を落とすと、何故そう問いかけたかを呟いた。
「当時のことを覚えてた奴がいた。」
「どんな話なんですか?」
自分が十九になる前だから、あれは既に十年も前の話だ。それを今でも覚えていると言われても、正直なところ遠坂の言葉の信憑性は低い。ところがそれが伝わったみたいに、遠坂は更に低い声で呟く。
「彼氏が行方不明になったと何度も来て訴え、実の母親は全く話が噛み合わない。」
大筋はその通りだが、それほど俺が警察に足をむけたのは頻回だったろうか。正直なところそこら辺の記憶は既に昔過ぎて俺の方があやふやな有り様だ、遠坂が言うような何度もという事態だったかと聞かれると返答のしようがない。少なくとも三度は足を運んだ筈だが、それは多いのか。記憶に残るような事態を俺はしていただろうか。
「母親の方は娘の所在を確認しようにも、夫が行方不明に手一杯。」
「………あんな前の事、本当に覚えてる人がいるんですね。」
遠坂の言葉に俺は諦めに近い溜め息をつく。十八の俺はまだ浅慮で警察に訴えれば情報が得られると考えていたのは事実だし、上原の母親が夫の事で当時騒いでいたのも事実だ。それを的確に指摘できるということは、署内に本当に記憶に残っていた人物がいたに違いない。遠坂は署内の情報通だから、そう言えばと話を聞き出せる人間は大勢いるのだろう。
「それで、上原が失踪していたとしたらどうなんですか?今はここいらにいるんですよ。」
事実上原は以前は失踪していたが、今はこの街にいる。何しろ頻繁ではないが顔をあわせているくらいなのだから、今ここで失踪の話を蒸し返す必要性があるとは思えない。
「失踪の理由は想定出来てるのか?」
上原の失踪は俺にとっては全く理由の分からない事だったが、この間彼女自身が二股をかけていたと話していたのが理由の一端かもしれないとは思う。だがそれを遠坂に包み隠さず話す気には、流石の俺だってなれない。
「俺には分かりません。聞いてもあいつは答えないと思います。」
「それじゃ、上原杏奈は目的のためなら手段を選ばないタイプか?」
質問の意図がまだ掴めないが、遠坂の沈んだ様子が外崎ではなく上原にあるのだと薄々感じ始めていた。つまり、遠坂は外崎を送る間に、何処かで上原と会ったか見かけたということなのだろう。
俺の記憶の中の上原杏奈は、とても向上心の強い勤勉な人物だった。幼い頃に実の父親が病にかかってから上原家は経済的にも困窮していたが、それに負けるような人間ではなかった。
目標は常にあって計画性も高いし視野も割合広く、大学すら自力で通える算段をつけられる。だが、目的のために手段を選ばないタイプかと言われると、イエスとは言いがたい。上原は自身の向上のための努力はするが、人を嵌めたり傷つけたりするような人間ではなかった。ただ、ひとつ言うなら困った事が起きても、そう簡単に他人に助力を求めるような人間ではない位だ。
「俺の知りうる限りは常識的な人間でしたけど、今の彼女がそうかは分かりません。」
それは素直な意見だった。幼い頃の上原杏奈と今の上原杏奈が、同じだとは思えないのは俺の正直な意見だ。俺としては根幹は同じだとは思いたいが、今の彼女が何を見ているのかは想定出来ない。何しろ何故偽名を名乗るのかも何故定住もせず活動しているのかも、今何処をねぐらにして何を生業にしているかも俺には分からない。
「何が言いたいんですか?上原が何をしたんです?」
遠坂は暫く考え込んだが、諦めたような溜め息をついて視線を俺の顔に向けた。
「上原杏奈は倉橋亜希子と一緒に暮らしてるそうだ。」
「は?」
つい数時間前倉橋俊二の妻・倉橋亜希子と進藤隆平が影で繋がっていると聞いたばかり。その倉橋亜希子と上原が一緒に暮らしてる?
「冗談ですよね?」
「本人の口から聞いた、ルームシェアしてるそうだ。」
唖然として遠坂の顔を穴が開くほど見つめてしまう。まだ全容が分からない倉橋亜希子と上原が親密な間柄?ルームシェアする仲?倉橋亜希子が進藤と繋がっていると久保田惣一は話していた筈だが、それが間違いという話はないのだろうか。情報が処理仕切れない頭に、遠坂は更に追い討ちをかけてくる。
「帰り少し後をつけさせてもらったが、倉橋亜希子が料亭の送迎に使っていたのと同じ車に乗ってった。」
「車……本当に同じですか?」
見間違いだと言いたいが、遠坂が確信もなくそんなことを言うとは思えない。遠坂はもうひとつ溜め息をついて、あんだけ何度も眺めたばかりでバンパーの傷見逃すほど間抜けじゃないと呟く。
「上原は………進藤と繋がってるってことですか?」
「可能性としてはな。」
防戦としている俺の前で遠坂は髪を掻き回すようにしながら、ああと溜め息を溢し思いきったように口を開く。
「上原杏奈が街に戻ってきたのは恐らく数年前だろう。」
「………そ、うなんですか?」
「お前が二課に来る前からチラホラ女の詐欺師の情報があった。」
そこで初めて耳にしたのは何処か今の上原を見ていれば、納得出来なくもない話だった。
一番古い情報は五年ほど前。中年男性が若い女に金を貢がされたと訴えたらしい。ところが相手の女は偽名の上に定住もしておらず、携帯は既に解約済み、結局は被害額もブランドバック3つと幾ばくかの金銭だと妻子持ちの男は訴えを取り下げた。その後も年に一度ほど同じような訴えが来るが、調書をとっている内に別な彼女や妻にバレると困るなどの理由で本格的な捜査には至らない妙な事件が起きている。相手をきっちり選んでやっているのだとしか思えない計画性の高さだと、薄々遠坂は考えていたようだ。恐らく訴えに出てくるのは氷山の一角位なもので、実際はその何倍も同じことが起きているに違いない。ところがその詐欺師はここ二年ほどパッタリと動きがなくなったという。
「二年?」
「表にでないだけか、他に金蔓ができたか、大きなヤマに手を出してるか……。」
二年というキーワードがチラツクと、何故か様々な事が頭に浮かぶ。
二年前の三浦和希の起こした事件。
二年前に倉橋俊二の周囲に現れた倉橋亜希子。
糸が絡み合うように繋がっている中で、上原が何に荷担していて何をしているのか。一体遠坂は何を上原がしていると考えているのか、今ここで聞くのが恐ろしい。それなのに遠坂が何を言いたいのか、既に薄々俺にも分かってしまっていた。
「真名かおる……が、上原杏奈の偽名の可能性ってことですか?」
※※※
そう口にしてしまったらこれ以上、遠坂と話している事が出来なくなっていた。帰途につきながらその言葉を頭の中で何度も繰り返す。
上原が真名かおるだとしたら
年代も背格好も上原は当て嵌まる。二年前にこの街に既にいたのだとしたら、日常的に偽名を使い詐欺師をしていたのだとしたら。そう考えると幾つか辻褄のあう。というよりも、正直に言えば辻褄が合いすぎてしまう。あの上原が偽名を使い、尚且つ定住せず、得体のしれない人間に関わって生活している理由が、自分が真名かおるだからだとしたら。外崎と知り合ったのも真名かおるだからで、外崎が知っていて知らないふりをしているだけだとしたら。実際に真名かおるは三浦に殺せと命令したわけでもなければ、殺人鬼になれと命令したわけでもないとされている。弄んで放置しただけ。その後の事件は三浦の友人が勝手に頭に乗って地雷を踏んだだけだとも……
何を考えているんだ、真名かおるが元凶だったのはかわりない…。
もし上原が真名かおるだとしたら、一気に俺は真名かおるは悪くないと考えようとしている。しかも、これはまだ仮定であって本当の事ではないのに、俺は勝手に確信を持ち始めて先入観で固まり始めていた。
こんなんじゃ、駄目だ。
ボンヤリとそんなことを考えながら歩いている内にいつの間にか、夜道を歩き慣れた方向に歩いてしまっていたらしい。闇にヒッソリと静まり返る母校の校舎は、つい二十日前の事件の爪痕がまだブルーシートで覆われている。都立第三高校は既に冬休みに入っているし、この遅い時間では人の気配もない。
あの頃はこんな未来になっているなんて、ひとつも考えていなかった。
冷たい空気を吸い込みながら、ボンヤリと立ち尽くして校舎を眺める。上原は今何処で何をしているのだろうと、昔の彼女を思い浮かべながら俺は暫く身動きできずにいた。
………なんで、上原は失踪してたんだろうか。
彼女は先日駅前で再開した時に、俺と付き合った後他の男と付き合って寝たとつげた。確かに当時の俺は全く気がついていなかったし、衝撃的な告白でそれについて何も考えようとしていない。だけど、よくよく考えてみると高校時代までの上原は、俺がよく知る上原杏奈の筈だ。
生活に困窮していたが、それでも逆境に負けずに大学進学を決め、奨学金も得る算段を自分でした。それ以外は普通の高校生で、殆どの時間を知っている筈だ。知らないのは学校以外、しかも上原は塾には通っていなかったし、俺の生徒会長活動を待っていたりもした。夕飯を俺の家で済ますこともあったし、その後二人で勉強することも多くて夜道を俺が送っていたのだ。そこから翌日の朝まで長ければ半日、短ければ八時間ほどしかない。家で一緒にいるのは、義理の父親と夜中の二時に店から戻る母親。そして翌朝七時には彼女は、普通に俺と学校に向かう。
大学に入ってからのことなのか?
たった数ヵ月だが、可能性はなくはない。だが、それを今から調べる術はあるだろうか。その失踪とつい先日までの行方不明の期間は関係するだろうか。あの時外崎は電話の背後に電車の通過音があったと話していたが、単線で通過音の傍で話すことが出来る場所はどれくらい存在するだろうか。詳しく外崎に聞いたら、それは確定出来るものだろうか。
俺は独り立ち尽くして、それについて考え込んでいた。
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