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42.遠坂喜一

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三浦厚志は妻の苦悩や様々な事を知った今も、どうしても息子とのDNA鑑定は行えないでいる。もし鑑定の結果三浦和希が自分の息子でないとなった時に、どう反応していいのかもう今では分からないからだという。自分の息子でないと安堵するには二十年以上も育ててきた時間が長すぎて、自分達が育ててこうなった結果も変わらない。それに三浦厚志がこの二年間で失ってしまったものは、仕事に始まり大き過ぎてもう取り返しがないものだ。そう告げて窶れて草臥れた微笑みを浮かべる三浦は、戸惑いながら口を開く。

「警察からまた電話が来たんですが、和希に何か変わったことでもあったんてしょうか?」

どうやら父親にも情報を得ようと電話がしたらしいが、息子から逃げていた父親には何もめぼしい情報がなかったらしい。面会にいこうとは思うのですが……そう俯いた三浦は、まだ病院にすら足を向けられないでいる様子だ。息子が当に二ヶ月も前に逃げ出しているとは流石にこの場では口に出来ず、別件で関係者を探しているというしかなかった。本来なら父親なのだから脱走を伝えるべきなのだろうが、厳戒体制を敷いていて、かつ相手はあの三浦和希なのだ。

「どう思いますか……?」

そうして三浦厚志がよろめくように姿を消した後戸惑いながら口を開いた風間に、俺も唸るしかなかった。二十五年以上も過去の話とはいえ、ここでもまた倉橋健吾の暗躍の気配がハッキリと漂っている。今でこそ院長として内科診療を少ししかしていなかったとはいうが、倉橋健吾は若い時は確かに産婦人科の医師だった。当時は近郊で不妊治療を行う総合病院は、倉橋総合病院しかなかったから何組の夫婦が彼に治療を受けているのか想像も出来ない。一体何人が同じような状況にあるのかも、血液型に問題がなければ全く気がつかない可能性もある。大体にして自分だってそんなに血液型に頓着しないし、二十五年も前に一般人でどれだけの人数がそこに注視するというのだろう。

それにしても血液型が違うなんて、そんな初歩的なミスをするものだろうか。

医者なのだから血液型が合わない何てことは、一般人より良くわかっているはずではないか。ボンベイ型が発見されたのは1930年代だ。それに産婦人科の医師だとすれば、既に新生児集中治療室なんてものも存在している世界で、不妊治療をしている医師。しかも、三浦の妻が適切な疑問を問いただしても、医師としてハッキリと答えなかった訳だ。産まれたばかりの新生児の血液型は、母体血が混じる可能性があって正確ではないという。もしボンベイ型の親だとすれば新生児の今後の問題が関わる可能性があるのだから、検査は特別なものになっただったろう。だから三浦厚志は、確かにボンベイ型ではないのだ。それにしてもA型とO型からAB型は産まれないのくらいは、分かりきっていそうなものだ。しかも他人の精子と取り違えたと考えるには、いくらなんでも違和感がありすぎる。

なら、故意に他人のものを使ったか?

それにしても故意なら尚更疑われるような作為。こんな馬鹿な行為はしない筈だ。ふとその事を考え思い出したように俺はスマホを取り出すと、流れるような動きで文面を打ち始める。

「遠坂さん?」
「ちょっと待っとけ。」

可能性は可能性だが、潰せるものは潰した方がスッキリしそうだ。俺の思案に気がついたように、風間が大人しく様子を伺っている。暫くして電話が鳴り、不機嫌そうなヒソヒソ声が電話口から漏れ始めた。

『アタシゃパシリじゃねーぞ?キチ。』
「悪いな、リオ。急に気がついてよ。で?」
『全く……ちょっと待ってろ。』

ブチブチと言いながら電話の向こうの四倉梨央が、ゴソゴソと何かを動かす音がする。書面を捲るカサカサという音がして、更に声を潜めた梨央がえーとと呟く。梨央が今忍び込んでいるのは実は総合病院のカルテ保管庫の一角で、部外者ではけして覗けない場所だ。当然だが守秘義務っつーものがあんだろと、小さな声が文句を言っているのが聞こえるのはやむを得ない。実は目下仕事帰りの梨央に挟み忘れた書類を挟みたいと上手いこと言って貰って保管庫に忍び込んでもらっているのだ。電子カルテ隆盛の世の中でも一部の書類だけは紙面で残す必要があるから、都立総合病院にはまだカルテ保管庫があって死んだりした古い患者のカルテがまだ幾つも密かに存在している。死んだのだから直ぐ廃棄と思うかもしれないが、大きな総合病院だからこそカルテ開示を要求される事があるのだ。とは言え長くても五年すればカルテというものは廃棄されるのだが、目的のカルテはまだ死亡後一年以内なので残存している筈だ。しかも、片方は職員で片方は長く在宅看護を受け、状況からするとマメに検査を受けている可能性も高い。あった、と梨央が呟きながらページを捲る音が続く。よかったな、入院歴あるじゃんと呟くところから、目的のものがあったのが分かる。

『えーと、親父は………O型。』
「ボンベイとか言うか?」
『百万人に一人だぞ?ある分けねーよ。』

と言うことは倉橋健吾は普通のO型となるわけだ。更にゴソゴソと何かを探る音が続いている。恐らく次の目的のカルテを探しているのだろうが、そちらの方が探し出しにくいらしい。訪問看護ステーションのは紙カルテしかないからちょっと待てと梨央が呟く。どうやら院内は電子カルテが導入されていても、部署によって設備投資に差があるらしい。

『ああ、こっちにやったのか、相変わらず…分厚いなぁ…。』

流石に長年の看護師達の働きを示すように、かなりカルテも厚みを増していたらしく、梨央のガサガサという音が大きくなってページを捲る音が早い。それにしても相変わらずってことはそのカルテを見たことがあるのかと、俺は内心考える。カルテというやつは決まった綴じ方とか様式が病院によって異なるらしいが、三十年近いカルテはどんな厚さなのだろう。

『んー、息子もO。こっちもノーマル。』
「本当か?」
『嘘ついてどうすんだよ。』
「………そっちは予想外だな。」
『……今どこ?キチ。』

どうやらここに来る気らしい梨央に、茶樹と告げると十五分と呟く。そうしてそれから本当に十五分で姿を見せた梨央の以前とは全く別人の姿に、ジャージ姿しか見ていなかった風間が唖然とするのが分かる。

「なんだよ、この間もアタシとあったろ?キチの相棒。」

梨央がカウンターに珈琲と言いながら先程まで三浦厚志が座っていた席に腰掛けたのに、風間は未だにポカーンとしている。確かに外行きの装いで化粧もした四倉梨央は三十代後半位にしか見えないし、白衣を着ると更に若く見えるから恐ろしい。とは言えこちらの急な無茶ぶりのせいか、その表情は険しく角がたっているとしか言えない。

「キチ、あんた達なに調べてんの?」
「守秘義務。」
「トノが電話かけてきてんだよ、アタシが誤魔化されると思うなよ。」

宏太が?と思わず口にすると、珈琲をテーブルに置いたマスターの久保田惣一がおやおやと言いたげな顔をして逃げていく。目の前にふんぞり返っている梨央の視線は揺るぎもせず俺の事を睨んでいて、確かに誤魔化しようが無さそうだ。なにせ宏太が久保田と仲が良いだけではすまない関係なのは、梨央も知っているから久保田を気にする風でもない。

「宏太、何を聞いてきた?」
「倉橋の次男の検査データとか。」

なるほど、それでさっきのカルテへの言葉だったのかと思わず納得する。
それにしても何を調べているのかと言われると、最初はただのオークション詐欺事件だったのだ。そこに何故か三浦和希が絡み始め、やがて三浦が脱走したことで、あっという間に詐欺犯の杉浦が死んでしまった。詐欺の根幹を調べるために三浦の事を調べている内に、女装した三浦なのか得体の知れない女なのか分からないが、何人か捜査の中に姿を表してくる。その中の竜胆貴理子という女が残したファイルが突然こちらの手に入ったら、今度は進藤隆平という男と倉橋医師の暗躍が見え始めたのだ。しかも違法投薬には警察署まで絡んでいる始末。こちらとしても詐欺の話だけの筈が、話が大きくなり過ぎているのは分かっている。そして、頭の回転は良く情報源にもなってくれるとは言え、四倉梨央にどこまで説明して良いものかは微妙だ。
それは兎も角、倉橋の次男の検査データに宏太は何を見いだそうとしているのだろう。久保田はその内容を知っているのだろうか。

「で?何調べてんだよ?キチ。」
「あの、梨央さん。」

問い詰めようと身を乗り出したのに、突然横から風間が口を挟み梨央は眉を潜める。

「梨央さん、病棟は急性期なんですよね?」

この間会った時に梨央が簡単に話していたが、それを思い出した風間は何が聞きたいことがあるらしい。何年その病棟に勤務なんですか?と問いかけると、梨央は不思議そうに八年と答える。それを聞いた風間は声を落として、記憶にあるかどうかだけ聞いても良いですかと問いかけた。

「三浦和希の輸血は記憶にありますか?」
「あるよ。」

何だよ、二年前だぞと思わず俺が口にすると、特別な奴は記憶にあるんだよと梨央は言う。殺人犯ってことかと顔に出たらしく、そっちじゃないと言い捨て彼女は目を細める。そうして梨央は記憶に残っていた理由を、事も無げに呟く。

「あいつ、シスなんだよ。ボンベイよりは多いけど、十万人に一人位?」

シスAB型。
ちょっと待て、それじゃ話は余計大混乱だ。
A型の母親からシスAB型の息子。父親はどう考えてもシスAB型の人間でないとならない。十万人に一人の血液型は、必ず親にシスがいないと産まれない。三浦厚志も倉橋健吾も倉橋俊二もO型で、ボンベイ型ではない。つまりもう一人シスAB型の男が存在しないとならない。

「シスAB型って言うのは、普通に輸血できるんですか?」
「簡単には説明できないけど、輸血ってのはドラマみたいに家族からもらう訳じゃないし、ストックしてるわけでもないの。毎回使いたい分を血液センターに注文するわけ。」

輸血用の血液製剤というものは、ドラマのように同じ血液型なら直ぐ輸血できるものではない。現在では必ず使用する量を発注して、血液センターから血液製剤を届けてもらうのだとは流石に知らなかった。それにも当人の血液型を調べて本人か家族に承諾を得てから、適応の輸血製剤を血液センターという場所にに注文する手順なのだという。勿論届いて直ぐ輸血するのではなく、それが患者に使えるかどうか検査をした上で輸血を始めるのだそうだ。ほとんどの場合は血液型とRhさえあっていれば、輸血には問題ない。ただし特例が稀血とも呼ばれる種類の血液型。それこそボンベイ型や件のシスAB型。ボンベイ型の話はさておき、シスAB型は普通のAB型を輸血して良い場合と駄目な場合があるのだ。シスAB型は時に普通のAB型の血液を輸血すると、抗体反応が起きて血液が体内で溶血したり凝血したりする場合があるのだという。

「突然院長が三浦がシスだって言って来てさ。昔不妊治療で出来た子供だったから知ってたらしいんだけど大騒ぎだったんだよ。まあ、血液製剤はそのままABで抗体反応なしだから良かったんだけどさ。」
「抗体反応があったらどうすんだ?」

反応しない血液製剤を輸血すんだよ、Aが駄目ならB、どっちも駄目ならOと梨央は何の気なしに言う。AB型なのにAB型の輸血ができなくて、抗体反応がない血液型を探さないとならないとは面倒な話だ。と言うことはもし抗体反応があってAB型が使えなかったら、もしかしたら点滴台にかかっていたのは他の血液だった可能性もあったわけだ。もし、AかOだったら父親は気がつかなかったかもしれない。と言うことはAB型がかかっていたのに気がついてしまったからこそ、妻の苦悩は更に大きかったのか。いや、ちょっと待て

「院長が言ってきた?両親に聞かなかったのか?」
「戦場みたいな状況だぞ?家族なんか入れないから承諾だけさせて、検査は同時進行だよ。」

一刻を争う救急室の救命処置中の状況だ。確かにそれは仕方がないかもしれない。だが、診療も殆ど行っていない院長が、経過を確認していたということなのだろうか。

「院長が言いに来たって処置室にか?」
「ああ、処置室にすごい勢いで乗り込んできたらしい、アタシは病棟だから直接は見てないけど噂になったよ。」
「………シスAB型って簡単に検査で分かるんですか?」

無理だよと梨央は平然と口にする。シスAB型は遺伝子型なので血液検査では判明しないから、遺伝子検査が出来ないとハッキリしたことは分からない。クロスマッチで異常な凝集反応がでたとすれば可能性を想定する事はできるだろうが、病院規模の血液検査では直ぐにはシスだとは判定できない。元産婦人科の院長が知っていたのは、親がシスAB型だと知っていて三浦和希もシスAB型だと以前から知っていたのだろうと皆が納得したのだという。因みに親の血液型は確認しないのかと問うと、そんなの必要ないだろ?と梨央は目を丸くする。

「必要ない?」
「輸血当人がわかってりゃ治療は十分だ。親なんか必要ないよ。なんだよ、親父がO型で母親がAB型か?それならシスAB型はありうるぞ?父親がボンベイじゃなくても、母親がシスなだけだ。」

そうなら答えは簡単だが、実際はそうじゃない。

「シスだと知ってた……。」

AB型だとは三浦の妻から聞いていたかもしれないが、血液検査しかしていない三浦の妻は息子がシスAB型だと知っていただろうか。遺伝子検査は、特定の医療機関等でないと行えないし金額もかかる筈だ。それ以前にもしかしたら倉橋健吾は、三浦の本当の父親であるシスAB型を知っているのではないだろうか。正直なところ俺の仮定の想定は、三浦が倉橋親子のどちらかの子供という考えだったのだ。それどころか大部分で俺の予想では、倉橋俊二の子供の可能性を疑っていた。植物状態の自分の息子を溺愛する父親が、かっこうの託卵宜しく他の男の妻の卵子に仕込んだ狂気の悪意。ところが倉橋親子はどちらもO型では話が繋がらないし、シスAB型迄出てきてはその可能性は低い。そうなると可能性としては三浦の妻の不貞が上がってくるが、妻自身がその疑いをかけられることに怯えるほどだから可能性としてはかなり低そうだ。

「余計にこんがらがってきますね…これじゃ。」
「何だよ、AB型なんてわんさといるじゃないか、ただシスかどうか調べてないだけで。宏太だってそうだし。」

は?と思わず俺と風間が口にすると、あいつもあの事件の時に入院して輸血したからAB型なのは知ってると梨央は平然と口にしたのだった。




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