鵺の哭く刻

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そして新たな感染

176.

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熊のようにウロウロと室内をさ迷い歩き続け、それがやっと止まると暫くの間ヒソヒソと室内には話し声が続く。ただし室内にいるその男は、誰の合いの手もなく独りきりで壁に向かって延々と話し続けているだけなのだ。しかしそれについて誰も止めるわけでもなければ、壁と話している当人もこの状況の異常さを何一つ気にかける訳でもない。そして同時に誰もそれを気にする人間は、その室内どころかこの世界には既に存在しないのだということを見つめている者は知っている。

「そうなんだよ、……ああ、うん、…………言わなかったのにな、そうなんだよ。」

延々と途切れることもなく、これはもう最近では夜も止むことがなく続くのだという。しかも最近では電気を消すとパニックになって壁に頭を打ち付けるようになってしまっているというから、下手に電気を消すことができないのだそうだ。どうやら部屋を暗くすると何か幻覚が見えている気配ではあるのだが、本人からは何もそれに関して聞くことができない。

この男に与えられた診断は『解離性障害』

解離性障害とは、思考や記憶、周囲の環境、行動、身体的なイメージなど本来はひとつのつながりとして実感されるべきものが、それぞれ分断されて経験されるようになる障害なのだという。この男は医者達の言うことには、何か大きなショックを受けたせいでマトモな世界から解離してしまったということになるそうだ。そしてこの男は治療には全く効果を示さず薬も何一つ効果を見せず、何時までも壁と語り合うだけで、何故か外に出すとなおのこと暴れだすのだという。どうやらほんの小さな物陰にも何かが見えるようなのだが、それが何を見ているのは今のところ明らかにする術がない。

ヤネオシュンイチ

7月の蒸し暑い雨の中で都市部西側にあった竹林周辺の住宅地を、だらしなく失禁し茫然自失とした状態で徘徊しているところを発見されたこの男の名前。
最初男は身元不明で保護されたのだが、やがて事態は急展開を迎えることになる。
発見された男の手にはA型の自分のものではないB型の血液の皮膚片が僅かにだが、爪の間に深々と女物の衣類の繊維と共に付着していたのだ。泥だらけで異臭を放つ男は警察に保護され病院に入院したのだが、洗い落とした筈の手からそれが発見されたのは警察としては幸いだったと言える。そして、その後近隣の防犯カメラからこの男が、執拗に一人の女性を走って追いかけまわしている姿が確認されていた。

クラハシアキコ

その女性は最近社会的に少し物議を醸した存在であり、後年嫁に入った後に引き継いだ高額の遺産の殆んどを慈善団体に寄付するというニュースで世の中を賑わせたことがある女性だ。そして同時に彼女はヤネオシュンイチの元妻で、十年前に離婚していた女性でもあった。
ヤネオシュンイチの実の父親と弟は、二人の離婚原因はヤネオシュンイチの暴力だったと話している。しかも弟はもう縁を切ったとうんざりしたように、兄であったその男は浪費家で性格に問題があったとハッキリ証言していた。しかもその同様の証言は過去の友人からも多数聞かれ、以前交際していた女性は口を揃えたように屑のような男だと吐き捨てる。ヤネオの母親?母親は息子が殺人犯として逮捕されたと聞いて卒倒し、それからショックのせいか息子と同じくマトモな会話が出来ない状態だという。

何故彼女がヤネオがいるこの街に戻ったのかは分からない

クラハシアキコの再婚を知らなかった彼女の両親はクラハシアキコの陥った運命に泣き崩れたというが、その弟は状況を聞いてポツリとこう答えたのだそうだ。

姉は…………トラウマを克服したがっていたんだと思います…………

苦悩に満ちた過去を乗り越えたいから、その根元に立ち向かおうとした一人の悲しい女性。それが最悪の形で結末を迎えたのに弟は、姉は強い人でしたから乗り越えて前に進もうとしたのだと思いますと静かに告げる。彼女が生前遺産の殆どを寄付した慈善団体は、彼女が経験したというパートナーからの暴力に苦しむ人を助けるシェルターや、望まれないで産まれ虐待された子供達を支援するもの。それは彼女がヤネオにされた事を乗り越えようと、他の人間を救うことを願っていたからだと弟は考えているのだという。そして自分自身が更にそれを乗り越えるために彼女はここに戻って………………目の前にいる狂った男に鉢合わせたのだ。

「………………だろ?………………だよなぁ…………。」

当然だがクラハシアキコには、ヤネオとやり直すつもりがあったわけではない。それに離婚からは当に十年が経っていて、相手が未だに自分に固執しているなんて考えてもいなかったのかもしれない。大体にして十年前の男に再会して、襲われ殺されるなんて誰が思うだろう。クラハシアキコは色々な事情はあったにせよ他の家に嫁いで全く別な人生を送っているのに、この男は実の弟曰く未だに未練がましく彼女は自分を愛していると盲目的に信じきっていたというのだ。

おかしくなってましたよ、ここ数年。

何度も何度も警察に捕まり、婦女暴行の容疑で逮捕もされ、それ以外にも騒音や住居問題なども起こしていたし、数ヵ月前には二ヶ月もの失踪事件も起こしていた。既に多くの点で社会生活を送るには完全に不適合者なのだが、それを知っていてもある程度の基準で過ごせれば行政には囚われず放置されているのは今の社会の縮図でもあるのだ。男は失踪事件の後居住地を奪われ単身として、生活保護を受けていた。兄弟や親に支援されようにも、既にここまでに散々長年金をせびり続けて縁を切られてもいたのだ。それでも生活保護を受ける頭があったのには呆れるが、その結果としてここいらでまだ暮らすことが出来て最後に殺人まで犯したと考えられている。そして、実の弟には数ヵ月前最後の会話で、クラハシアキコは自分に会うために戻ってきたのだと言い張ったのだそうだ。

そんな筈ないと言っても無駄でした、あの男は昔からそうでしたが、人の言葉が理解できない。

その男と血が繋がっている筈の実弟・ヤネオリュウジは可能ならヤネオシュンイチのいる家からは籍を抜くつもりでいると吐き捨てるように呟く。どれほど長い間兄に苦汁を飲まされてきたのかは分からないがこの男にとってヤネオシュンイチは既に憎悪の対象になりつつあり、その両親ですら………………正直に言えば父親の方は特に次男と同じく感じていて息子とも思えない様子なのだった。

あれは………………救いようのない化け物に育ってしまったんです…………

妻もおかしくなってしまったヤネオの父親は、なるべくこの土地からはなれて静かに暮らしたいのだと話している。ヤネオシュンイチの経歴はニュースだけでなく、ネット上でも曝されていて、彼らはここいらではもう暮らせないほどに追い詰められていた。弟の一家ですらヤネオのせいで身を隠す必要性を感じているし、掘り返された経歴と家系図のせいで南に暮らす母方の親戚達の経営していた酒造メーカーの汚職事件を再度ほじくりかえされもしている。
相手の女性…………クラハシアキコには申し訳ないとしか言えないとヤネオシュンイチの実父は話しているが、実のところクラハシアキコの遺体はまだ発見されていない。というのもあの豪雨の後竹林の東側にある古い寺院の一部で出火した火事で竹林の三分の一が焼失し、その消火のために竹林は踏み荒らされてヤネオ達がいた痕跡を全て潰してしまったからだ。それは最初豪雨に伴う落雷による出火だと思われていたのだが、

「ヤネオの爪の間から、微量ですが竹炭とタールが出たんです。」

手を洗われても血液と衣類の繊維を流せなかった理由は、それを上から保護するようにこびりついていたそれら二つの成分のせいだったのだ。そして、それがヤネオの身体に付着した原因が取りざたされているのは、その火事が落雷ではなく放火ではないかと疑われ始めたからだった。そして、状況証拠は次々と出て来るが、最も探されているクラハシアキコの遺体とヤネオシュンイチの記憶は明らかにならないまま時だけが過ぎていく。

少なくとも彼女にはやり直す気はなかった…………から、こうなったんだろう…………。

呆れ果てたようにその視線が、マジックミラーになっている窓越しに男の姿をソッと眺める。実は以前この部屋は、ミウラカズキという稀代の殺人犯が精神遅滞と薬物の離脱症状で暴れる危険性があると判断されて、長く隔離されていた場所なのだった。
そして、ここから逃げ出したミウラはクラハシアキコと同じく未だに行方が不明のまま。
ミウラは逃走から数ヵ月が経とうとしていて、最近では都市伝説紛いの目撃情報がチラホラと舞い込むだけに成り代わってしまっていた。曰くラブホテル街に黒髪で女の姿で現れたとか、目の覚めるような金髪でフラリと呑み屋街の裏路地にいたとか、そんなのはいい方で遊びで性行為した相手を付け狙うモンスターのように社会では語られている有り様。
まんまと逃げ出されたお陰でこの病室はあの時より改装され更に強固な隔離室に変わっていて、ミウラが戻るのを待っていたともいえるのだ。だがそれより早く同じ部屋に今度は女を殺したと思われているこの狂った男が独り隔離さることになったのだった。本来なら警察の関連施設で隔離されるのが当然なのだが、偶々近郊の対象施設で殺人事件が起きてしまい管理が難しいという判断からここに収監された男。

少し前、この男に奴隷と詰め寄られているクラハシアキコを街中で助けたことがあった。

あの時もっとキチンと対処してどちらかを保護しておけば、クラハシアキコは今も独りで普通に暮らしていたかもしれない。先にいった通り男の指には女性の服の繊維と僅かな血液のついた皮膚片が爪のはしについていたのだし、防犯カメラのあった店舗の先の孟宗竹の竹林でそれと同じ繊維が裂けて散っていたのを発見した。ただそれ以外の痕跡が今のところ見つからないのは、言うまでもなくその日が激しい雷雨だったのと同じ竹林の近郊で大規模な火災が起こったからなのだ。現場になった竹林は三分の一が火災で焼失し、三分の一は雷雨で洗い流され、残りはその後の火災の処理等で目茶苦茶に踏み荒らされてしまっていた。

まさか、そこでこんな事件が起きてるなんて…………

少し前にとある事件で骨折した手首をつりながら独りそこに立ち続け、室内で話し続けながらクックッと笑い出した男を言葉もなく眺める。狂った男を家族は完全に放棄していた。ミウラカズキを両親が放棄したように、この男の両親も男をもう面倒を見切れないと関東から離れるつもりだという。そこまでのことを一度に大量殺人鬼になったミウラカズキとは大きく違って、この男は十年・二十年と長年かけて自分の家族にもしていたらしい。しかもとある情報源からは更に耳を塞ぎたくなるような話まで舞い込んで、この男の殺人を犯した可能性は一部の隙もなく疑いようがないのだ。この男は過去に何人もの女性を傷つけレイプしただけでなく、元妻にはその内の誰よりも酷い暴力をふるい続けていた。それを掘り起こされてこの男は、以前ここに収監された男と同レベルの極悪人として歴史に残ることだろう。

だが…………狂ってるんじゃ、……な。

滓のように暗く淀んだ瞳が言葉もなく、目の前の壁と語り合うだけの男を眺める。相応の罰を理解できれはいいが、残念だがヤネオシュンイチはそれを全く理解できない。理解できないから治療としてここに隔離され、責任を問われることもなくただ安穏と生き続ける。しかも元々持っていた肝臓の病まで治療を施され、少なくとも自堕落に暮らしているよりは遥かに長く生きるのだ。
ただ闇を恐れて壁と語り続けるだけの狂った男。
それに襲われ竹林で殺され、何処かに埋められたかどうかしてしまった可哀想な女。
この男が怯える闇の中にいるものが殺されて怨霊になった元妻なら兎も角、それがなんなのかすら答えられないのには腹立たしくも感じる。

…………この、骨折がなおったら…………だろうな。

既に目の前の男には他にも幾つか婦女暴行の証拠も上がっていて逮捕歴もあるし、元友人だけでなく多数の証言もあった。繰り返し暴行傷害を起こし女性の敵であるだけでなく、人に金を無心して、誰からも煙たがられる男。そんな悪どいことばかりして、結果として元妻を殺した殺人犯。それにフッと深く暗い闇の中のようなマジックミラー越しの視線は、僅かに鵺の哭き声に引き寄せられた災厄の影のように口角をあげる。



※※※



何かを感じて自分はふと会話を止めて振り返った。室内は変わらず白い壁だけなのに、何故かチリチリと背筋に違和感を感じて振り返ると何故か鏡の中の自分の顔と目が合う。まるで鏡の中の自分が自分を暗いあの眼で見ている気がした。

ヒョウ…………

何処かで何かが掠れた声で哭く。その声は何処かで聞き覚えがあって、シュンイチは戸惑いながらその声のありかを求めて視線をさ迷わせていた。
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