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悲しさと寂しさに堪えきれずに、恐らく何日もになるだろうが、アキコは全力で哭き続けていた。この哭き声のせいでかなりの不幸をこの街に呼び寄せたとしても、アキコには我慢しようもないほどの悲しさだったのだ。そうして疲れきって泥のように眠っていたアキコは、真夜中にふと目覚めて自分の体の変容に気がついてしまっていた。これまで大分長く本当のアキコの残したこの体で生きてきて、遂に身体の終わりが訪れようとしているのか、それともリュウヘイの魂を喰ったからなのかは正直分からない。
それでも射干玉の闇の中でアキコは、自分の手の爪が異様に黒光りして長く伸びているのに気がつき見下ろす。闇の中でまるでそれは猫の爪のように鋭く尖り、どう見ても人間の爪の形ではない。それを手に平をかえすがえすしながら眺めていたアキコは、やがておかしそうに顔を歪めて微かに低く掠れた声でヒョウと哭く。
今更か…………今更だろう、もっと前に…………いや、そうじゃない……
この姿の持つ意味を理解できるのは、今のアキコの母方の一族にはもう誰も残っていない。ミヨコの姉である博識な伯母ですら庭石にしてしまったあの巨大な岩の正体を知りもしなかったのだから、それはどう考えても明らかなことだった。
夢の土蔵は現実にも、密かに現存はしていたのだとしっているのは、今はこのアキコただ独り。
夢の中で自由に使うことの出来る形として今も時には光景を借りているが、過去には確かに現実としてあの倉は存在し、その中に化け物は封じられていた。それは子供の躾の類いのように、悪いことをすれば押し入れに閉じ込められるぞとか・土蔵に閉じ込めるぞという脅しとは違う。あの土蔵は山の奥地で本当の禁忌として受け継がれ、伝承はアキコから見て四代くらい前の男が急逝したためそこで全て途切れてしまったのだ。
あれが存在し始めたのは何百年も昔、それこそ千年も前のこと。
それに人が付けた名前を『鵺』という。
都で暴れ天皇を病に落としたそれは、源氏の人間の爪弾く弓の音に祓われて命辛々北へと逃げ延びていた異形の獣。生来の気質は遥か遠くまで逃げたからと言っても変わらない。逃げ延びた北にはまだ人の目が届かない場所も多く、人間も西側の人間と少し違うのか自然に沢山の神様が居ると信じてこの土地では暮らしている。そんな中で自由気ままに暮らすのは都で暮らすよりは案外容易かったし、同じような異界の生き物と共存する郷がこの土地では点在もしているのだが、西から来た化け物は他のものよりも強大で稀有だった。
ところがある時、名前も知らないがアイツがやって来たのだ。
供をつれて北へ落ち延び、更に北へ逃れる最中の身分を隠した武士の根源になる一族のアイツ。奇妙な自分達に似た力をを持った、見た目はそこらに居るような男なのに自分が操る雷も風も、哭き声すら打ち払いあっという間に岩に封じられてしまった。その岩を使って過去にあの土蔵を作り、人目につかない場所に置かれ朽ちるまで封じられてしまう。それを監視するようにとアイツから勅命を下げ渡されたとある一族だけが、山野の奥深くに作られた土蔵の在りかを知っている。
それがアキコの母親の家系の遥か昔の根源なのだ。
土地のものが土蔵に近寄らないよう、自分か悪事を働かないよう監視するように定められた忌まわしき一族。ただ伝承は口伝に過ぎず長い間に少しずつ移りかわっていった。山の土蔵には土地で悪さをするという悪神を、偶々やって来た高僧に協力して貰って封じ込めたとして。その高僧は源氏の人間だとか様々な伝承があるがそこはさておき、それは土蔵に閉じ込めてあって、その神様は外に出すと哭いて悪いことを引き付ける。そのためにご先祖様はその土蔵にあれを閉じ込め、悪神の気をそらすため出して欲しければ約束を叶えろと悪神に持ちかけ続ける。
どれもこれも決して鵺では叶えられない約束で、あの男はとてつもなく頭の回る賢しい家系を封じ手に選んだのだ。
自分は生き物ではないから、悲しくなって泣くことなんてない。それができたら出してやると言われても土蔵の中には悲しさなんて有り得ないし、光の指す格子戸にすら近寄れないのに悲しくなる筈もなかった。子供を大事に思うという心が理解できたら、出してやる。土蔵が朽ちたら自由にしてやるというが、土蔵は漆喰だけでなく壁の一部には自分の封じ込められた岩が使われている。お陰で自分が朽ちないと岩も朽ちない。こんなとんちの掛け合いみたいな約束を上手いことかけ続けられるような、こっちからすれば腹立たしいことこの上ない一族だった。ところがアキコの祖父の祖父の父くらいの男が死んで正しい伝承を伝えられなくなった直後戦争というやつが起きて、人間の欲はやってはいけない事を選んでしまったのだ。戦争の勝利と戦地の夫の帰還を願った一族の誰かが、災厄をもたらすこの悪神とされるものに何故か密かに願をかけた。
お願いします、女を差し出します、子をなしてください、このままでは…………
嫁に貰った娘に子を成す前に、直系の子供が次々と戦争で死んでいく。そうなのだ、人間は本当に子供に弱く、子供のためなら意図も容易く地獄の扉を開いてしまう。悪神でも構わないから死に負けない子供を与えるという願いを叶えるのは、仕込む腹を持つ女迄差し出されてしまえば意図も容易い約束だった。それで差し出された女を全力で蹂躙したのは願いだけでなく千年分の怨みをはらすつもりもあったのだが、逆に自分を長年封じ込める一族は伊達ではなくて。気がつけば力の半分以上も滓のようにその女の魂に飲まれていて、何故かその女とまぐわったせいなのか魂の縁を結びつけられてしまっていたのだった。
女は狂い果てたが、赤ん坊を宿して自分を魂に縛り付ける。
孕んだ子供は半獣で半人の間の子と呼ばれる稀有な女の子供になり、『鵺』の力を持った赤ん坊はその血縁の一人として生きて子をなした後やがて他の人間と同じく寿命で死んだのだ。その頃の自分はその更に子供に魂をつがれて、意識は保てずただの暗い影の滓として一族の魂に身の半分飲まれて土蔵はいつの間にか朽ち果てていた。
そして同時に魂に練り込まれ何十年かもっとか。
遂に双子として生まれる筈の子供が突然片方魂を失ってそれはその体に入り込み、この鵺はその一人として生まれようとしたのだ。ところが命を持たない体は、あっという間にもう一人の双子の片割れ…………つまりアキコの中に飲まれてしまったのだ。
片や自分が封じ込められていた岩は台風の土砂などで沢まで流れ押し出され次第に削られていく。一度なんか沢から運びあげられ庭石になんてものにさせられて、これこそ機会だと一族郎党呪い殺してやろうかと思ったものなのにそれをする力が石には残っていない。この身体はこの岩の中で忌々しい一族の庭の飾りになるのかと、思っていた矢先自分の魂を飲み込んだ片割れが岩の前に佇んだのだ。
そうして共生して、アキコを理解して、そしてアキコは魂だけ先に逝った
菜の花のように黄色い一面の花畑を歩いて、そして同時にあの深く音もない世界に沈んでアキコは逝ったのに、何故かこの体には自分だけが取り残されてしまった。あと何年このままでいるのか、年を取り死ぬのかどうかも分からないし、このままで永劫を生きるのかもと思っていたのに。
…………リュウヘイが居なくなってしまって、とても悲しい…………
息子の死に哀しくて寂しくて哭いて哭き続けていたら、今更のこの体の変容に気がつかされたのだ。爪だけでなく指も変化して、その体毛まで僅かに変質し始め、アキコの手だった筈のモノを翳し見つめれば何千年も前に自分が自分として認識していた身体かある。土蔵の中で言われた悲しくなって泣いたら出してやると約束されたものが、ここに来て叶いつつあるのだろうか等と考えてそんな訳がないと思う。今更この姿を取り戻してもリュウヘイは戻らないし、あの子の魂を自分は喰ってしまったというこの哀しみが消える筈もない。
なんと、残酷な約束だろう…………
そう思ったらもしあと少ししかこの体を保てないとしたら、これ以上哭いたら今度はリュウヘイからも頼まれたカズキを守れなくなってしまうのに気がつく。だから自分は必死に哭くのをこらえて、取り繕うようにその腕をソッと人間に化けさせる。
※※※
誰かに病院から出して逃がして貰ったらしいカズキがヒョッコリとアキコの元に姿を見せたのは、それからほんの数日後のことだった。
流石に今回は警察官を殺してしまったとカズキの事件は公表されていて、公開捜査に変わってニュースでも指名手配が全国的になされていたが、やって来たカズキの姿は手配写真とは似ても似つかない。それに指名手配の写真の高校時代とは顔つきも少し違うから、尚更あの顔では捕まりにくいだろうなとカズキを眺めながらアキコだって思う。
カズキは金色に髪を染めて何時ものようにヘラと暢気に笑いながら、『茶樹』と書かれたケーキ箱を片手にアキコの家に現れてここの美味しいからと差し出す。やはり親子なのかリュウヘイもその店のケーキだけは食べるというからアキコは何度か買い求めに言ったものだが、それは過去にヤネオをアルバイトさせた喫茶店でもあるのだ。
「今までどうしてたの?」
「んーとね、ウロウロ?」
「馬鹿ね、心配したのよ?連絡くらいしなさい。」
「はぁーい。」
余りにも呑気過ぎる会話は、普通の親子にしか聞こえないだろう。リュウヘイが死んだことはあえてカズキには告げないのは、きっと記憶障害を持つカズキは既に父親であるリュウヘイのことを殆んど覚えていない気がするからだ。それにしてもどんなにこの変容しつつある瞳で見ても相変わらずカズキの体に滓は纏わりついていないが、ニュースを信じるとするとこうしていても何人か殺したとか殺さないとか。やはり記憶にないと滓にならないのかと思うがカズキは自分はそれほど何もしてないという。
「殺されそうになったから、やり返したら動かなくなったのはいたよ。でも独りだけしかやってないし、後は縣の親父さんが助けてくれたし。」
「縣?」
「もうよく覚えてないけど前の友達の親父さん。縣が言ってたけど、刑事してる……って言ったっけ?」
正直この話だけでは理解に苦しむがカズキの頭の中には、実際この程度しか記憶が翌日になると残っていない。それに数日経っていて縣という友人やその父親と説明できるほど覚えているなら、これでも割合ましな方だ。どうやら殺されそうになって反撃したら相手が死んでしまって、その後始末や脱走は縣という友人の刑事をしている父親が何故か助けてくれたということらしい。それ以上のことはもう覚えていないというから聞き出そうとしても無駄に違いないが、そこからこうして上手いこと見つかることもなく逃げ続けアキコのところに顔を出すのだ。
「見つかんないようにきてるし、アキコ、泊まっていいでしょ。」
「いいわよ。」
大きな図体だが、これは孫。しかも記憶力も障害があって、親を覚えてもいられないかわいそうな子供、そのカズキが唯一親の年頃で覚えていられるのが今はアキコたった一人だけなのだ。リュウヘイを覚えさせるために渡していた写真は警察に捕まった時に全て没収されてしまったという話で、お陰で殆どの人間はやはり記憶から消去されてしまっていた。
「何で私のことは覚えてるのかしらね?カズキは。」
「なんでかなー、後はタダシとリツのこととか、警察に捕まる前に喧嘩した若い兄さんと…………後エヘラッて笑うクオッカ。」
最後の言葉の意味が分からなくてアキコが問い返すが、どうやら聞き間違いではなくて本当に『クオッカ』といっていた様子だ。それにアキコが眉を潜めてどういう意味なのと問いかけると、クオッカはクオッカなんて頓珍漢な返答が帰ってくる。
「クオッカってカンガルーみたいなやつよね?」
「そうそう、幸せ光線出しながら笑う奴ね。」
確かにクオッカを検索すると、途轍もない幸せ光線を後光のように放ちながら笑顔を浮かべるミニサイズカンガルーみたいな動物が表示される。とは言え今の話題は誰を覚えているかなのであって、動物はそれに含まれるかと問われると疑問だ。
「…………それ覚えてる人なの?動物じゃない?」
「あ、クオッカみたいに笑う女子高生なんだよね。」
はい?と思わず口に出てしまったけれど、結局今カズキが人として覚えているのは、目の前のアキコと幼馴染みの二人と、親切にしてくれた女子高生・自分を逮捕の時に叩きのめした若い青年とたった五人だけ。自分の生活の中で記憶の中で五人しか顔が分からない、そんな世界はとみに人に関しての記憶力のいいアキコには想像もつかない。そんな孤独な世界の中でどうやってこれからカズキは生きるのかと心配になるし、大体にしてミウラカズキは指名手配犯でもあるのだ。
それでも射干玉の闇の中でアキコは、自分の手の爪が異様に黒光りして長く伸びているのに気がつき見下ろす。闇の中でまるでそれは猫の爪のように鋭く尖り、どう見ても人間の爪の形ではない。それを手に平をかえすがえすしながら眺めていたアキコは、やがておかしそうに顔を歪めて微かに低く掠れた声でヒョウと哭く。
今更か…………今更だろう、もっと前に…………いや、そうじゃない……
この姿の持つ意味を理解できるのは、今のアキコの母方の一族にはもう誰も残っていない。ミヨコの姉である博識な伯母ですら庭石にしてしまったあの巨大な岩の正体を知りもしなかったのだから、それはどう考えても明らかなことだった。
夢の土蔵は現実にも、密かに現存はしていたのだとしっているのは、今はこのアキコただ独り。
夢の中で自由に使うことの出来る形として今も時には光景を借りているが、過去には確かに現実としてあの倉は存在し、その中に化け物は封じられていた。それは子供の躾の類いのように、悪いことをすれば押し入れに閉じ込められるぞとか・土蔵に閉じ込めるぞという脅しとは違う。あの土蔵は山の奥地で本当の禁忌として受け継がれ、伝承はアキコから見て四代くらい前の男が急逝したためそこで全て途切れてしまったのだ。
あれが存在し始めたのは何百年も昔、それこそ千年も前のこと。
それに人が付けた名前を『鵺』という。
都で暴れ天皇を病に落としたそれは、源氏の人間の爪弾く弓の音に祓われて命辛々北へと逃げ延びていた異形の獣。生来の気質は遥か遠くまで逃げたからと言っても変わらない。逃げ延びた北にはまだ人の目が届かない場所も多く、人間も西側の人間と少し違うのか自然に沢山の神様が居ると信じてこの土地では暮らしている。そんな中で自由気ままに暮らすのは都で暮らすよりは案外容易かったし、同じような異界の生き物と共存する郷がこの土地では点在もしているのだが、西から来た化け物は他のものよりも強大で稀有だった。
ところがある時、名前も知らないがアイツがやって来たのだ。
供をつれて北へ落ち延び、更に北へ逃れる最中の身分を隠した武士の根源になる一族のアイツ。奇妙な自分達に似た力をを持った、見た目はそこらに居るような男なのに自分が操る雷も風も、哭き声すら打ち払いあっという間に岩に封じられてしまった。その岩を使って過去にあの土蔵を作り、人目につかない場所に置かれ朽ちるまで封じられてしまう。それを監視するようにとアイツから勅命を下げ渡されたとある一族だけが、山野の奥深くに作られた土蔵の在りかを知っている。
それがアキコの母親の家系の遥か昔の根源なのだ。
土地のものが土蔵に近寄らないよう、自分か悪事を働かないよう監視するように定められた忌まわしき一族。ただ伝承は口伝に過ぎず長い間に少しずつ移りかわっていった。山の土蔵には土地で悪さをするという悪神を、偶々やって来た高僧に協力して貰って封じ込めたとして。その高僧は源氏の人間だとか様々な伝承があるがそこはさておき、それは土蔵に閉じ込めてあって、その神様は外に出すと哭いて悪いことを引き付ける。そのためにご先祖様はその土蔵にあれを閉じ込め、悪神の気をそらすため出して欲しければ約束を叶えろと悪神に持ちかけ続ける。
どれもこれも決して鵺では叶えられない約束で、あの男はとてつもなく頭の回る賢しい家系を封じ手に選んだのだ。
自分は生き物ではないから、悲しくなって泣くことなんてない。それができたら出してやると言われても土蔵の中には悲しさなんて有り得ないし、光の指す格子戸にすら近寄れないのに悲しくなる筈もなかった。子供を大事に思うという心が理解できたら、出してやる。土蔵が朽ちたら自由にしてやるというが、土蔵は漆喰だけでなく壁の一部には自分の封じ込められた岩が使われている。お陰で自分が朽ちないと岩も朽ちない。こんなとんちの掛け合いみたいな約束を上手いことかけ続けられるような、こっちからすれば腹立たしいことこの上ない一族だった。ところがアキコの祖父の祖父の父くらいの男が死んで正しい伝承を伝えられなくなった直後戦争というやつが起きて、人間の欲はやってはいけない事を選んでしまったのだ。戦争の勝利と戦地の夫の帰還を願った一族の誰かが、災厄をもたらすこの悪神とされるものに何故か密かに願をかけた。
お願いします、女を差し出します、子をなしてください、このままでは…………
嫁に貰った娘に子を成す前に、直系の子供が次々と戦争で死んでいく。そうなのだ、人間は本当に子供に弱く、子供のためなら意図も容易く地獄の扉を開いてしまう。悪神でも構わないから死に負けない子供を与えるという願いを叶えるのは、仕込む腹を持つ女迄差し出されてしまえば意図も容易い約束だった。それで差し出された女を全力で蹂躙したのは願いだけでなく千年分の怨みをはらすつもりもあったのだが、逆に自分を長年封じ込める一族は伊達ではなくて。気がつけば力の半分以上も滓のようにその女の魂に飲まれていて、何故かその女とまぐわったせいなのか魂の縁を結びつけられてしまっていたのだった。
女は狂い果てたが、赤ん坊を宿して自分を魂に縛り付ける。
孕んだ子供は半獣で半人の間の子と呼ばれる稀有な女の子供になり、『鵺』の力を持った赤ん坊はその血縁の一人として生きて子をなした後やがて他の人間と同じく寿命で死んだのだ。その頃の自分はその更に子供に魂をつがれて、意識は保てずただの暗い影の滓として一族の魂に身の半分飲まれて土蔵はいつの間にか朽ち果てていた。
そして同時に魂に練り込まれ何十年かもっとか。
遂に双子として生まれる筈の子供が突然片方魂を失ってそれはその体に入り込み、この鵺はその一人として生まれようとしたのだ。ところが命を持たない体は、あっという間にもう一人の双子の片割れ…………つまりアキコの中に飲まれてしまったのだ。
片や自分が封じ込められていた岩は台風の土砂などで沢まで流れ押し出され次第に削られていく。一度なんか沢から運びあげられ庭石になんてものにさせられて、これこそ機会だと一族郎党呪い殺してやろうかと思ったものなのにそれをする力が石には残っていない。この身体はこの岩の中で忌々しい一族の庭の飾りになるのかと、思っていた矢先自分の魂を飲み込んだ片割れが岩の前に佇んだのだ。
そうして共生して、アキコを理解して、そしてアキコは魂だけ先に逝った
菜の花のように黄色い一面の花畑を歩いて、そして同時にあの深く音もない世界に沈んでアキコは逝ったのに、何故かこの体には自分だけが取り残されてしまった。あと何年このままでいるのか、年を取り死ぬのかどうかも分からないし、このままで永劫を生きるのかもと思っていたのに。
…………リュウヘイが居なくなってしまって、とても悲しい…………
息子の死に哀しくて寂しくて哭いて哭き続けていたら、今更のこの体の変容に気がつかされたのだ。爪だけでなく指も変化して、その体毛まで僅かに変質し始め、アキコの手だった筈のモノを翳し見つめれば何千年も前に自分が自分として認識していた身体かある。土蔵の中で言われた悲しくなって泣いたら出してやると約束されたものが、ここに来て叶いつつあるのだろうか等と考えてそんな訳がないと思う。今更この姿を取り戻してもリュウヘイは戻らないし、あの子の魂を自分は喰ってしまったというこの哀しみが消える筈もない。
なんと、残酷な約束だろう…………
そう思ったらもしあと少ししかこの体を保てないとしたら、これ以上哭いたら今度はリュウヘイからも頼まれたカズキを守れなくなってしまうのに気がつく。だから自分は必死に哭くのをこらえて、取り繕うようにその腕をソッと人間に化けさせる。
※※※
誰かに病院から出して逃がして貰ったらしいカズキがヒョッコリとアキコの元に姿を見せたのは、それからほんの数日後のことだった。
流石に今回は警察官を殺してしまったとカズキの事件は公表されていて、公開捜査に変わってニュースでも指名手配が全国的になされていたが、やって来たカズキの姿は手配写真とは似ても似つかない。それに指名手配の写真の高校時代とは顔つきも少し違うから、尚更あの顔では捕まりにくいだろうなとカズキを眺めながらアキコだって思う。
カズキは金色に髪を染めて何時ものようにヘラと暢気に笑いながら、『茶樹』と書かれたケーキ箱を片手にアキコの家に現れてここの美味しいからと差し出す。やはり親子なのかリュウヘイもその店のケーキだけは食べるというからアキコは何度か買い求めに言ったものだが、それは過去にヤネオをアルバイトさせた喫茶店でもあるのだ。
「今までどうしてたの?」
「んーとね、ウロウロ?」
「馬鹿ね、心配したのよ?連絡くらいしなさい。」
「はぁーい。」
余りにも呑気過ぎる会話は、普通の親子にしか聞こえないだろう。リュウヘイが死んだことはあえてカズキには告げないのは、きっと記憶障害を持つカズキは既に父親であるリュウヘイのことを殆んど覚えていない気がするからだ。それにしてもどんなにこの変容しつつある瞳で見ても相変わらずカズキの体に滓は纏わりついていないが、ニュースを信じるとするとこうしていても何人か殺したとか殺さないとか。やはり記憶にないと滓にならないのかと思うがカズキは自分はそれほど何もしてないという。
「殺されそうになったから、やり返したら動かなくなったのはいたよ。でも独りだけしかやってないし、後は縣の親父さんが助けてくれたし。」
「縣?」
「もうよく覚えてないけど前の友達の親父さん。縣が言ってたけど、刑事してる……って言ったっけ?」
正直この話だけでは理解に苦しむがカズキの頭の中には、実際この程度しか記憶が翌日になると残っていない。それに数日経っていて縣という友人やその父親と説明できるほど覚えているなら、これでも割合ましな方だ。どうやら殺されそうになって反撃したら相手が死んでしまって、その後始末や脱走は縣という友人の刑事をしている父親が何故か助けてくれたということらしい。それ以上のことはもう覚えていないというから聞き出そうとしても無駄に違いないが、そこからこうして上手いこと見つかることもなく逃げ続けアキコのところに顔を出すのだ。
「見つかんないようにきてるし、アキコ、泊まっていいでしょ。」
「いいわよ。」
大きな図体だが、これは孫。しかも記憶力も障害があって、親を覚えてもいられないかわいそうな子供、そのカズキが唯一親の年頃で覚えていられるのが今はアキコたった一人だけなのだ。リュウヘイを覚えさせるために渡していた写真は警察に捕まった時に全て没収されてしまったという話で、お陰で殆どの人間はやはり記憶から消去されてしまっていた。
「何で私のことは覚えてるのかしらね?カズキは。」
「なんでかなー、後はタダシとリツのこととか、警察に捕まる前に喧嘩した若い兄さんと…………後エヘラッて笑うクオッカ。」
最後の言葉の意味が分からなくてアキコが問い返すが、どうやら聞き間違いではなくて本当に『クオッカ』といっていた様子だ。それにアキコが眉を潜めてどういう意味なのと問いかけると、クオッカはクオッカなんて頓珍漢な返答が帰ってくる。
「クオッカってカンガルーみたいなやつよね?」
「そうそう、幸せ光線出しながら笑う奴ね。」
確かにクオッカを検索すると、途轍もない幸せ光線を後光のように放ちながら笑顔を浮かべるミニサイズカンガルーみたいな動物が表示される。とは言え今の話題は誰を覚えているかなのであって、動物はそれに含まれるかと問われると疑問だ。
「…………それ覚えてる人なの?動物じゃない?」
「あ、クオッカみたいに笑う女子高生なんだよね。」
はい?と思わず口に出てしまったけれど、結局今カズキが人として覚えているのは、目の前のアキコと幼馴染みの二人と、親切にしてくれた女子高生・自分を逮捕の時に叩きのめした若い青年とたった五人だけ。自分の生活の中で記憶の中で五人しか顔が分からない、そんな世界はとみに人に関しての記憶力のいいアキコには想像もつかない。そんな孤独な世界の中でどうやってこれからカズキは生きるのかと心配になるし、大体にしてミウラカズキは指名手配犯でもあるのだ。
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