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悪化
115.
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それでもアキコの身体は、生き残った。
あの時、独りきりの家の中で400以上にも及ぶ錠剤を噛み砕き飲み干して。水もなく噛み砕き飲み込んだそれを意識を失ったアキコは嘔吐して、粘度の高い泥々の吐物を気管に詰まらせて窒息していた。そうしてそのまま、独りきりの死をヒッソリと迎えようとしていたのだ。だがその日に限って運命の巡り合わせは、父・アツシを普段よりも一時間以上も早く帰宅させていた。しかも父親が帰宅して先ず違和感に気がつき嘔吐して窒息しているアキコを見つけたのと殆ど同時に、母・ミヨコも普段ならあり得ない時間に帰宅したのだ。一家の毎日のタイムスケジュールを知っていれば、万に一つの偶然の積み重なりで有り得ない出来事だった。だが、結果アキコはほんの数分にみたない間だけ呼吸が止まった状況で発見された。
それでもここでアキコの両親が僅かに動きが悪かったらアキコはそのまま死んでいた筈だが、アキコは直ぐ様父が呼んだ救急車が駆けつけるまでに母に適切な救命措置をされ僅かに息を吹き返す。その後も停まりかける呼吸を救急隊より遥かにベテランで経験の高い母親の手で何度も吹き返しながら、アキコは救急病院に搬送されたのだ。
数分間の呼吸停止。
結果アキコは気管にチューブを挿入され人工呼吸器をつけながら、数日間意識不明のまま医師に最悪の事態を考えておくようにと両親は宣告され、脳死状態になる確率の方が高いと言われながらアキコは死の淵をさ迷い続けていたのだ。実はアキコがハッキリと自我を取り戻したのは、意識不明から四日後のことだった。しかし周囲がアキコが意識があることに気がついたのは、入院して六日目の朝の事だ。気管内挿管チューブと四肢の拘束のお陰でそこまでの二日間アキコは意識を取り戻すと同時に、今までに味わった事のない苦痛の中で声にならない声で恐怖に叫び続けていたのだった。
ダレカタスケテ!!イタミヲトメテ!イタイ!!
呼吸すらも自分で出来ない苦痛の中の世界で、アキコは喘ぎ足掻き誰にも聞こえない悲鳴を上げている。それは自分がどうしてそうなったのか理解できない状況では、ただ逃れる光を求めて闇を彷徨うようなものだった。
※※※
やがて意識が戻り、自分が誰かなのかという疑問をもつ自我が身体に蘇る。それでも自分が誰なのかということだけは何故か思い出せないまま、意識が戻り自分の状況だけは何とか理解し始めていた。
ベットの上に拘束され、喉に入ったチューブで無理矢理呼吸させられてる。先ずは挿入されたチューブに押し込められる空気に反発して、自分で呼吸ができる事をアピールしてみようとするが機械は上手くそれをいなしてくるから上手くいかない。機械の空気の圧力が強いのと喉や肺の痛みのせいで、自分には噎せることしか出来ないのだ。
次にやって来る白い人に目をあわせてみようとしたが、元々この身体はかなり目が悪いので視線があったと思っても、周囲は自分の視線に気がついてくれない。
やむを得なく口の中のチューブを噛もうにも、口にはそれを防ぐバイトブロックという医療器具が嵌まっていて舌しか動かない。何とか舌で押そうにも、気管チューブが喉の奥でカフという風船を膨らませて固定されているをちゃんと知っているから引っこ抜くなんて無理なのだが、実は舌で無意識にチューブを動かす患者は割りいいるのも思い出してしまった。
手足を動かそうにも拘束具で固定されていて、意思を伝えるほどの動きにならない。しかも、相手は意識かないと思っているからか指先の動きも無意識と切り捨てられて、看護師の言葉や処置の手荒さに心と関節が悲鳴をあげる。
「あー、若いのに重っ!」
鬱になってから体重が増えていたから確かに重いだろう……
「(自殺)企図ね、若いのに最悪。どうすんのこれから、親。」
分かってる
「あー髪長いの面倒、括って。」
「ヘアゴムないけど?」
だからって普通の輪ゴムは流石に痛い……
「食ってないのに、トドっ!」
重いのは分かったけど、言いたい放題だなぁ……
「………………あれ、意識ある?」
その声に必死に瞬きをするが、もう一人の看護師が気のせいでしょと鼻で嗤う。
「ベジになるってムンテラしてたもの。」
その言葉に心底恐怖した。
意識があると気がついてもらえないままだったら、どうしようと怖くてしかたがない。その部屋は二十四時間真っ白に光が常に当てられていて、どれくらいの時間が過ぎたのかもわからずに、ただ怯えていた。
時には体の向きを変えるためか手足を縛っていたものが外されるのに、意思を伝えるほどには力の入らない手足を恨めしそうに眺める。自分の周囲の時間は自分だけを大きく取り残して、矢のように過ぎていった。そうしてやっとの事で僅かに指先を曲げ伸ばししていると、どこか見覚えのある顔が瞳を覗き込んだのに気がついた。
「…………少しよくなった?」
どこかで聞いた声が頭を撫で、その手の温度に雷に打たれたようにその人に向かって目を向けた。自分とその人の視線があったと思った。そうすると、看護師と違ってその人は更に瞳を覗き込むように近づく。
「…………見えてる……の?」
目を覚めて初めて自我があるのを分かってもらえた事に、自分は激しく瞬きをして僅かに動く指先を曲げた。その人は意思表示をする自分の行動に目を見張り泣きながら頭を撫でる。
「分かってるのね?どうしたの?痛いの?」
必死に瞬きと指先を動かし、そうだと訴える。痛いのだと察してくれた言葉に必死に何度も瞬きして視線を痛い場所の方に動かして見せるのに、相手も必死に自分の訴えを汲み取ってくれた。
イタイ!!イタイノ!イタイノケシテ!!タスケテ!
必死に訴える。気がついてくれた人が一生懸命に、痛む場所を当たらないようにしたり自然な位置になるよう治してくれる。何度も触れる暖かい手。とても暖かくて、自分が知っている手だった。
オカァサン……。
心のどこかで呟く声に自分が涙を流しているのに気がつく。知っている体温に呼び起こされた心の中で呟く声が悲しくてどっと堰をきったように、両目から涙が溢れて音をたてて枕に落ちていく。
目の前の人はこの身体の母だった。
意識があることに最初に気がついたのは、誰でもない自分の母だったのだ。涙すら拭えない我が子の頭を撫でながら、看護師に意識があることを伝える母の姿を感じながら自分は暫く泣き続けている。自分の自我に気がついた時、自分の中にあった矛盾に自分は心の奥底を震わされるような気がした。自分で死ぬために行動を起こしたのに、目が覚めてからずっと死にたくない・助けてと叫び続けていた。
死にたがっていない……………。
それは明確な矛盾だった。
自分は心から死を願っていた筈だ。だからこそ、そのための準備を重ね、そのために遺書をしたためて全ての準備をして実家に戻ってきた。そう、その筈だったのにこの自分は死に向かう痛みに抵抗し、生きる事を選んだ。生きたい・助けてと心の中で叫び続けて、潜りかけた死の淵から這い出してきた。そして生きていることを実感しようと、僅かに動く場所を探し体を取り戻そうと必死にもがいている。
今までの死ぬ事だけを考えていた長い時をあっさりと突き崩すような心の奥にある願い。
それは純粋で、死を願う心よりもはるかに深い芯を持って確かに自分の中に存在していた。
ワタシは……アキコ…………だ。
涙の中で取り残されていた自分が戻ってくる。だがそうしてこの体に戻ってきたのは、今までのアキコではなかったのだ。意識も戻り急性期を脱したと判断されたアキコは翌日には人工呼吸器を離脱し、その次の日には救急病棟から精神科に移されていた。呼吸は眠ると弱くなるらしく、夜間だけフェイスマスク式の人工呼吸器を準備されたが、それをつけたのは一日程度ですんだのは幸いだ。
ただ精神科の病室は、自殺未遂をした者や観察を必要とする患者が入れられる監視された部屋。身の回りに何一つ置かれないナースコールすらない殺風景なベットの中で、自分では思うままにならない体を捩りながらアキコは再び涙を溢す。自分の心の中にある生への渇望を自覚すると同時に、アキコは自分が今まで歩いてきた道を思った。アキコが愛情と憎しみで歩いてきた長い道を、まざまざと脳裏に思い描いて泣き続けている。
私は、生きたい……。
その願いは鮮やかにアキコの心の中で光の帯になって射し込んだ。暗く湿った土蔵に射し込む、扉の向こうの日の光は、もうここからでてもいいと教えているように感じた。
ずっと閉じ込められてきた……でも、もう十分罰は受けた……だって罰を受けた者は一度死んだのだ……
確かにアキコは一度死んでいた。意識もなく呼吸も止まり、後から聞いたが救急車の中で二度心臓も停止していたのだという。それを引き戻したのは母親の技術と努力だったが、そのまま死んでいてもおかしくなかったし、医師がこのまま植物状態になる可能性の方が高いと病状説明をしたのも事実だ。何しろ両親は何時からアキコの呼吸が止まっていたかを知らないし、数分程度だったと知っているのは実は誰もいない。アキコですら何時嘔吐したか知らないし、結果論として意識が戻った後に障害が余りないから数分だったに違いないと想定されているだけだ。その時やっとアキコは、泣きながら自分が選ぶべき・自分が本心から願う道を心の奥で探し始めたのだ。
※※※
浅い落ち着かない眠りに落ちる。
熱帯夜の空気が窓から流れ込んできて、病院なのにエアコンもないとブツブツと言う患者の声が聞こえるが、本当にないのか夜間は切っているのかは判断できない。蒸し暑く湿った夜の空気に思い浮かぶのはあの土蔵の光景で、眠りに落ちた途端に立ち尽くしていたのは土蔵の外だった。
あの扉の内側の湿った土間の上ではなく、乾いた湿度のある夏の空気が揺らぐ土蔵の外に今は立ち尽くしている。よく見れば厚く漆喰が塗り込められ湿気対策を完全に行っていた重厚な土蔵は、なんの気配もなく静まり返っていた。
土蔵の扉は大きく開け放たれて、中にはもうあの四つ足はいない。
もうそれを知ってしまっているから足をそちらに向けることもないまま、土蔵を遠目に見つめる。静かな日の光の中では辺りに生き物の気配はなく、土蔵の周囲に何が建っているのかも見えないが気にすることもない。ふっと体内の中で囁くように、蠢く何かを感じとると唇が微かに開く。
ヒョウ……
自分の口から溢れ落ちる、この哭き声がなんなのかは自分でも分かっていた。これは本当はずっと自分の一部だったのだが、それを知らずに生きてきたのだ。それが何時からのことなのかは知らないし分からない部分もまだ幾つかはあるが、そうは言っても生きていくにはたいした問題ではない。だからもう一度物悲しげに聞こえる哭き声を放つと、土蔵に背を向けて歩き出していた。
※※※
夢を見ていた。
快適というには寒すぎるほどにエアコンを効かせた室内で、浅くドロリと濁り果てた夢を見ている。
夢の中はあの土蔵の中で湿った空気はそのままで薄く暗い室内も変わらないが、何故か目の前の扉が大きく解放されていて、外から目映い日の光が射し込んでくるのを見つめた。
何で空いてる……
扉が開放されているのが酷く不快だ。そう思うが扉に近づくと射し込む日に当たってしまいそうで、自ら近づくのが嫌だった。理想の場所である暗がりを不快な光で粉微塵にされてしまっているのが嫌で、背後のより深い暗がりを振り返るがそこにいる筈のないものの姿に凍りつく。
ニィ
奥歯を噛んで歯を剥き出して笑っているのか、怒っているのか分からない顔。それが闇の中に浮かんでいてユラユラと揺れているのを、凍りついたまま見つめている。どこかでその顔を見たことがあって、それは酷く自分に馴染んだものなのだと説明されなくても知っていた。
悪い子、
それが低く囁く言葉に全身に鳥肌がたち、背中に冷や汗が吹き出す。何もしてないと言いたいが、相手に言い訳が聞かないのは充分すぎるほどに知っていた。逃げることも出来ないし、避けることも出来ないし、咄嗟に振り返ると扉の向こうの光の中に人影が見えている。あそこからではここは闇の中で自分の姿は見えないに違いないが、思わず救いを求めて手を伸ばし口を開く。
助けてくれ!何時ものように、
そう叫んでも相手はこちらに気がついていない様子で、光に包まれたその姿はクルリと背を向け迷いもなく歩き出す。行くなとどんなに叫んでも手を伸ばしても届く筈がない。そうして不意に背後の闇に浮かんでいた顔が傍に寄ってくるのを感じとる。ゾロリと背筋をなぞる悪寒にそれが直ぐ背後に忍び寄ってきて、自分をニヤニヤ笑いながら見下ろしているのだ。
わるぅいこ……わるううぅううぅいこぉおおおぉ
低く地響きのような声がその口から溢れ落ちてくるのを聞いていた。
あの時、独りきりの家の中で400以上にも及ぶ錠剤を噛み砕き飲み干して。水もなく噛み砕き飲み込んだそれを意識を失ったアキコは嘔吐して、粘度の高い泥々の吐物を気管に詰まらせて窒息していた。そうしてそのまま、独りきりの死をヒッソリと迎えようとしていたのだ。だがその日に限って運命の巡り合わせは、父・アツシを普段よりも一時間以上も早く帰宅させていた。しかも父親が帰宅して先ず違和感に気がつき嘔吐して窒息しているアキコを見つけたのと殆ど同時に、母・ミヨコも普段ならあり得ない時間に帰宅したのだ。一家の毎日のタイムスケジュールを知っていれば、万に一つの偶然の積み重なりで有り得ない出来事だった。だが、結果アキコはほんの数分にみたない間だけ呼吸が止まった状況で発見された。
それでもここでアキコの両親が僅かに動きが悪かったらアキコはそのまま死んでいた筈だが、アキコは直ぐ様父が呼んだ救急車が駆けつけるまでに母に適切な救命措置をされ僅かに息を吹き返す。その後も停まりかける呼吸を救急隊より遥かにベテランで経験の高い母親の手で何度も吹き返しながら、アキコは救急病院に搬送されたのだ。
数分間の呼吸停止。
結果アキコは気管にチューブを挿入され人工呼吸器をつけながら、数日間意識不明のまま医師に最悪の事態を考えておくようにと両親は宣告され、脳死状態になる確率の方が高いと言われながらアキコは死の淵をさ迷い続けていたのだ。実はアキコがハッキリと自我を取り戻したのは、意識不明から四日後のことだった。しかし周囲がアキコが意識があることに気がついたのは、入院して六日目の朝の事だ。気管内挿管チューブと四肢の拘束のお陰でそこまでの二日間アキコは意識を取り戻すと同時に、今までに味わった事のない苦痛の中で声にならない声で恐怖に叫び続けていたのだった。
ダレカタスケテ!!イタミヲトメテ!イタイ!!
呼吸すらも自分で出来ない苦痛の中の世界で、アキコは喘ぎ足掻き誰にも聞こえない悲鳴を上げている。それは自分がどうしてそうなったのか理解できない状況では、ただ逃れる光を求めて闇を彷徨うようなものだった。
※※※
やがて意識が戻り、自分が誰かなのかという疑問をもつ自我が身体に蘇る。それでも自分が誰なのかということだけは何故か思い出せないまま、意識が戻り自分の状況だけは何とか理解し始めていた。
ベットの上に拘束され、喉に入ったチューブで無理矢理呼吸させられてる。先ずは挿入されたチューブに押し込められる空気に反発して、自分で呼吸ができる事をアピールしてみようとするが機械は上手くそれをいなしてくるから上手くいかない。機械の空気の圧力が強いのと喉や肺の痛みのせいで、自分には噎せることしか出来ないのだ。
次にやって来る白い人に目をあわせてみようとしたが、元々この身体はかなり目が悪いので視線があったと思っても、周囲は自分の視線に気がついてくれない。
やむを得なく口の中のチューブを噛もうにも、口にはそれを防ぐバイトブロックという医療器具が嵌まっていて舌しか動かない。何とか舌で押そうにも、気管チューブが喉の奥でカフという風船を膨らませて固定されているをちゃんと知っているから引っこ抜くなんて無理なのだが、実は舌で無意識にチューブを動かす患者は割りいいるのも思い出してしまった。
手足を動かそうにも拘束具で固定されていて、意思を伝えるほどの動きにならない。しかも、相手は意識かないと思っているからか指先の動きも無意識と切り捨てられて、看護師の言葉や処置の手荒さに心と関節が悲鳴をあげる。
「あー、若いのに重っ!」
鬱になってから体重が増えていたから確かに重いだろう……
「(自殺)企図ね、若いのに最悪。どうすんのこれから、親。」
分かってる
「あー髪長いの面倒、括って。」
「ヘアゴムないけど?」
だからって普通の輪ゴムは流石に痛い……
「食ってないのに、トドっ!」
重いのは分かったけど、言いたい放題だなぁ……
「………………あれ、意識ある?」
その声に必死に瞬きをするが、もう一人の看護師が気のせいでしょと鼻で嗤う。
「ベジになるってムンテラしてたもの。」
その言葉に心底恐怖した。
意識があると気がついてもらえないままだったら、どうしようと怖くてしかたがない。その部屋は二十四時間真っ白に光が常に当てられていて、どれくらいの時間が過ぎたのかもわからずに、ただ怯えていた。
時には体の向きを変えるためか手足を縛っていたものが外されるのに、意思を伝えるほどには力の入らない手足を恨めしそうに眺める。自分の周囲の時間は自分だけを大きく取り残して、矢のように過ぎていった。そうしてやっとの事で僅かに指先を曲げ伸ばししていると、どこか見覚えのある顔が瞳を覗き込んだのに気がついた。
「…………少しよくなった?」
どこかで聞いた声が頭を撫で、その手の温度に雷に打たれたようにその人に向かって目を向けた。自分とその人の視線があったと思った。そうすると、看護師と違ってその人は更に瞳を覗き込むように近づく。
「…………見えてる……の?」
目を覚めて初めて自我があるのを分かってもらえた事に、自分は激しく瞬きをして僅かに動く指先を曲げた。その人は意思表示をする自分の行動に目を見張り泣きながら頭を撫でる。
「分かってるのね?どうしたの?痛いの?」
必死に瞬きと指先を動かし、そうだと訴える。痛いのだと察してくれた言葉に必死に何度も瞬きして視線を痛い場所の方に動かして見せるのに、相手も必死に自分の訴えを汲み取ってくれた。
イタイ!!イタイノ!イタイノケシテ!!タスケテ!
必死に訴える。気がついてくれた人が一生懸命に、痛む場所を当たらないようにしたり自然な位置になるよう治してくれる。何度も触れる暖かい手。とても暖かくて、自分が知っている手だった。
オカァサン……。
心のどこかで呟く声に自分が涙を流しているのに気がつく。知っている体温に呼び起こされた心の中で呟く声が悲しくてどっと堰をきったように、両目から涙が溢れて音をたてて枕に落ちていく。
目の前の人はこの身体の母だった。
意識があることに最初に気がついたのは、誰でもない自分の母だったのだ。涙すら拭えない我が子の頭を撫でながら、看護師に意識があることを伝える母の姿を感じながら自分は暫く泣き続けている。自分の自我に気がついた時、自分の中にあった矛盾に自分は心の奥底を震わされるような気がした。自分で死ぬために行動を起こしたのに、目が覚めてからずっと死にたくない・助けてと叫び続けていた。
死にたがっていない……………。
それは明確な矛盾だった。
自分は心から死を願っていた筈だ。だからこそ、そのための準備を重ね、そのために遺書をしたためて全ての準備をして実家に戻ってきた。そう、その筈だったのにこの自分は死に向かう痛みに抵抗し、生きる事を選んだ。生きたい・助けてと心の中で叫び続けて、潜りかけた死の淵から這い出してきた。そして生きていることを実感しようと、僅かに動く場所を探し体を取り戻そうと必死にもがいている。
今までの死ぬ事だけを考えていた長い時をあっさりと突き崩すような心の奥にある願い。
それは純粋で、死を願う心よりもはるかに深い芯を持って確かに自分の中に存在していた。
ワタシは……アキコ…………だ。
涙の中で取り残されていた自分が戻ってくる。だがそうしてこの体に戻ってきたのは、今までのアキコではなかったのだ。意識も戻り急性期を脱したと判断されたアキコは翌日には人工呼吸器を離脱し、その次の日には救急病棟から精神科に移されていた。呼吸は眠ると弱くなるらしく、夜間だけフェイスマスク式の人工呼吸器を準備されたが、それをつけたのは一日程度ですんだのは幸いだ。
ただ精神科の病室は、自殺未遂をした者や観察を必要とする患者が入れられる監視された部屋。身の回りに何一つ置かれないナースコールすらない殺風景なベットの中で、自分では思うままにならない体を捩りながらアキコは再び涙を溢す。自分の心の中にある生への渇望を自覚すると同時に、アキコは自分が今まで歩いてきた道を思った。アキコが愛情と憎しみで歩いてきた長い道を、まざまざと脳裏に思い描いて泣き続けている。
私は、生きたい……。
その願いは鮮やかにアキコの心の中で光の帯になって射し込んだ。暗く湿った土蔵に射し込む、扉の向こうの日の光は、もうここからでてもいいと教えているように感じた。
ずっと閉じ込められてきた……でも、もう十分罰は受けた……だって罰を受けた者は一度死んだのだ……
確かにアキコは一度死んでいた。意識もなく呼吸も止まり、後から聞いたが救急車の中で二度心臓も停止していたのだという。それを引き戻したのは母親の技術と努力だったが、そのまま死んでいてもおかしくなかったし、医師がこのまま植物状態になる可能性の方が高いと病状説明をしたのも事実だ。何しろ両親は何時からアキコの呼吸が止まっていたかを知らないし、数分程度だったと知っているのは実は誰もいない。アキコですら何時嘔吐したか知らないし、結果論として意識が戻った後に障害が余りないから数分だったに違いないと想定されているだけだ。その時やっとアキコは、泣きながら自分が選ぶべき・自分が本心から願う道を心の奥で探し始めたのだ。
※※※
浅い落ち着かない眠りに落ちる。
熱帯夜の空気が窓から流れ込んできて、病院なのにエアコンもないとブツブツと言う患者の声が聞こえるが、本当にないのか夜間は切っているのかは判断できない。蒸し暑く湿った夜の空気に思い浮かぶのはあの土蔵の光景で、眠りに落ちた途端に立ち尽くしていたのは土蔵の外だった。
あの扉の内側の湿った土間の上ではなく、乾いた湿度のある夏の空気が揺らぐ土蔵の外に今は立ち尽くしている。よく見れば厚く漆喰が塗り込められ湿気対策を完全に行っていた重厚な土蔵は、なんの気配もなく静まり返っていた。
土蔵の扉は大きく開け放たれて、中にはもうあの四つ足はいない。
もうそれを知ってしまっているから足をそちらに向けることもないまま、土蔵を遠目に見つめる。静かな日の光の中では辺りに生き物の気配はなく、土蔵の周囲に何が建っているのかも見えないが気にすることもない。ふっと体内の中で囁くように、蠢く何かを感じとると唇が微かに開く。
ヒョウ……
自分の口から溢れ落ちる、この哭き声がなんなのかは自分でも分かっていた。これは本当はずっと自分の一部だったのだが、それを知らずに生きてきたのだ。それが何時からのことなのかは知らないし分からない部分もまだ幾つかはあるが、そうは言っても生きていくにはたいした問題ではない。だからもう一度物悲しげに聞こえる哭き声を放つと、土蔵に背を向けて歩き出していた。
※※※
夢を見ていた。
快適というには寒すぎるほどにエアコンを効かせた室内で、浅くドロリと濁り果てた夢を見ている。
夢の中はあの土蔵の中で湿った空気はそのままで薄く暗い室内も変わらないが、何故か目の前の扉が大きく解放されていて、外から目映い日の光が射し込んでくるのを見つめた。
何で空いてる……
扉が開放されているのが酷く不快だ。そう思うが扉に近づくと射し込む日に当たってしまいそうで、自ら近づくのが嫌だった。理想の場所である暗がりを不快な光で粉微塵にされてしまっているのが嫌で、背後のより深い暗がりを振り返るがそこにいる筈のないものの姿に凍りつく。
ニィ
奥歯を噛んで歯を剥き出して笑っているのか、怒っているのか分からない顔。それが闇の中に浮かんでいてユラユラと揺れているのを、凍りついたまま見つめている。どこかでその顔を見たことがあって、それは酷く自分に馴染んだものなのだと説明されなくても知っていた。
悪い子、
それが低く囁く言葉に全身に鳥肌がたち、背中に冷や汗が吹き出す。何もしてないと言いたいが、相手に言い訳が聞かないのは充分すぎるほどに知っていた。逃げることも出来ないし、避けることも出来ないし、咄嗟に振り返ると扉の向こうの光の中に人影が見えている。あそこからではここは闇の中で自分の姿は見えないに違いないが、思わず救いを求めて手を伸ばし口を開く。
助けてくれ!何時ものように、
そう叫んでも相手はこちらに気がついていない様子で、光に包まれたその姿はクルリと背を向け迷いもなく歩き出す。行くなとどんなに叫んでも手を伸ばしても届く筈がない。そうして不意に背後の闇に浮かんでいた顔が傍に寄ってくるのを感じとる。ゾロリと背筋をなぞる悪寒にそれが直ぐ背後に忍び寄ってきて、自分をニヤニヤ笑いながら見下ろしているのだ。
わるぅいこ……わるううぅううぅいこぉおおおぉ
低く地響きのような声がその口から溢れ落ちてくるのを聞いていた。
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