鵺の哭く刻

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悪化

106.

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あの時シュンイチに起きたのは一言では説明が出来ない出来事だった。
突然音もなく開いたガラス戸にすり抜けていく黒い影、まるで怪談のような状況に怯えながら目を閉じると記憶の中にはないのに姿を見せていた縫いぐるみ。もう一度恐る恐る目を開くと、ソファーの上の熊の縫いぐるみはかわり無くそこにあって、内心では安堵しながらもシュンイチは足音を立てないようにリビングに忍び寄る。
無人のリビングにはつけっぱなしのテレビ画面で芸人が馬鹿話をしていて、目の前のソファーには何故か縫いぐるみがいた。一番最初にアキコが抱きかかえていると可愛いと、まだ恋人同士のように初々しく寄り添っていた時にゲームセンターでシュンイチが捕ってやったもの。クレーンゲームは実はすごく不得意でいい加減とれなくて腹が立つほど苛つきながら必死でとったものは、ここ暫くアキコ自身が整理した家の中では見なかったからアキコが押し入れにでも片付けたのだと思っていた。だがそれはアキコはとうに眠ってから、やっぱり記憶では何もなかった筈の赤いレザーのソファーでテレビでも見ていると言いたげにポツンと座っている。何故無かったと断言できてしまうのかは、自分が脱ぎっぱなしにしていた服を見た記憶はあるのに、リビングに足音を殺して忍び寄ってみたら今では床にそれが投げ捨てられているのを見つけてしまったからだ。

ソファーにあった筈だ…………

自分が脱ぎ捨てて記憶の中の視界ではレザーのソファーの座面にあった筈の衣類が、今はソファーの背もたれの裏に床に散らばっている。まるで座面から背後に向かって投げ出したようにバラバラに床に広がっていて、熊の縫いぐるみの座っている座面には衣類がない。

なんだよ……これ。

目眩がする程恐ろしくて、あまりにも恐ろしいから一瞬それから視線をそらしてテレビを消した。そしてそのまま縫いぐるみを見ないようにしてソロソロと後退り書斎である部屋とリビングとの境界のガラス戸まで戻った瞬間、右側のキッチンのあるガラス戸の向こうをスッと何かが通りすぎたのに弾かれたように視線が向く。真っ暗なキッチンがある磨りガラスの向こうを何かが通ったように見えたが、アキコが起きてキッチンを通るなら寝室とキッチンを繋ぐ扉の開く音はする筈で。そう思った瞬間、視線の先の縫いぐるみと視線があってしまった。

あり得ない……

テレビを向いて座っていた縫いぐるみと、後退り部屋の敷居に立っているシュンイチが目が合う筈がなかった。ソファーに座りテレビの方を向いていた筈の縫いぐるみが触ってもいないのに、シュンイチの方を向いて座り直していて縫いぐるみの黒光する二つの瞳が真っ直ぐに睨んでいる。ただの縫いぐるみが睨むなんてと思うが、その視線は完全に自分を見据え憎悪に睨み付けていた。

ど、どうしよう……

逃げるにしても暗闇に飛び出す勇気がない。そう思った瞬間書斎と襖の一枚向こうで寝ているアキコの事が頭に浮かんだ。アキコの傍なら何故か安心だと本能的に感じて更に後退り、目の前でガラス戸を閉じる。ところが閉じた瞬間足元に視線を落としたシュンイチは、そこに浮かんだものに思わず呻き声をあげていた。既に扉の足元に黄色い縫いぐるみの影が、磨りガラス越しにベタリと張り付くようにあるのだ。寸前まで何もなかった筈の床にあの縫いぐるみが座っていると気がつくと、その場で腰が抜けて座り込みそうだった。

「うう、う、ううっ」

悲鳴にすらならないのに見ている目の前でカタカタとガラス戸が揺れはじめて、シュンイチは咄嗟にほんの数歩を駆けて射干玉の闇に沈んだ寝室に飛び込んだ。後ろ手にピシャリと襖を閉じて、アキコの体を飛び越えて跨ぎ部屋の奥に逃げ込む。そしてマットレスに横になったアキコの体を、ゴロリと横に向けて襖に向けてバリケードのように盾にして見据える。これがどんなに男としてというより人間として卑怯な行動でも、アキコは今は薬で眠っているだしアキコは自分の奴隷なのだから盾にしても問題ないと心の中でシュンイチは囁く。そうして息を詰めていると何か違和感があるのに気がついて、シュンイチはなんだろうと眉を潜めていた。

ぐぐっぐぐぐっぅうぅひゅう…………ぐぐぐぅ…………

アキコの体内の奥深くから、低く唸るような音なのか声なのかが聞こえている。アキコは眠っているのか意識はないのにその声が何時までも威嚇しているみたいに体内から溢れ出しているのに、シュンイチはまるでアキコが自分を守ろうとして何かに向けて唸っているように聞こえる。次の瞬間カタカタと襖がなり始めたのに、シュンイチはアキコの体を完全に真横にして盾にすると身を縮めていた。そうしてどれくらい時間がだっただろう、突然アキコの体が痙攣するように震えたかと思うと、勢いよく大量の何かを噴水のように吐き出したのだ。
それが何を意味するのかシュンイチには理解ができなかったし、吐き出した後もアキコがまるで目を覚まさないのに驚いて揺さぶったり殴りつけたりもした。それでも反応がないアキコに呆然としたシュンイチは戸惑い、どうしたらいいか分からず咄嗟に電話を掛けたのはアキコの親だ。何で自分の親ではなかったのかは簡単で、ただ単に知られたくなかったからで、アキコの親は状況を聞いて救急車を呼べと指示したのだ。
そこからは何がどうなっているのか自分でもよく分からない。
救急車に運ばれるアキコに呆然と付き添ったけれど保険証も持たず、それがどこにあるかも分からないし、何が必要なのかも分からないのだ。アキコが自分を救急車に乗せる時どうしていたかも分からないし、救急車の中で透明なマスクをかけられ電極をつけられたアキコに初めてこのままアキコは死んでしまうのかもと感じた。実際人が死ぬなんて直に見たことはないし、身の回りで死んだのは数えるほどでもなくて病院に行ったことすらない。まるで反応しないアキコの目をペンライトて照らす救急隊員に何を飲んだのですかと問われても分からないとしか答えられないし、そこで初めて自分はアキコの事を何一つ答えられないことに気がつく。
もう何年も一緒に暮らしているし、アキコは過去に自分の妻にもなっていない時分から当然のように自分の時は答えていた。それなのに自分は救急隊に問われても、実はアキコの誕生日すら答えられない事に今さら気がついたのだ。

「旦那さんなんですよね?!」

救急隊員の叱責するような声に我に返り、目の前のアキコが自分の妻なのだと改めて見つめる。シュンイチから視線を離した救急隊員にはこの夫はパニックになっていると思われているのだが、事実はそうではなかった。
目の前のアキコの瞳がシュンイチを見ている。
薄く開いたガラス玉のような虚ろな瞳が救急隊員の足の影から真っ直ぐに自分を見ていて、シュンイチに淡々と話しかけているのだ。

あなた……私のことなにも知らないのね…………私の好きなことも知らないんでしょう?

アキコの好きなこと。そう問われて今まで一度もアキコの好みを聞いたことがないのに気がつく。アキコは何でもそつなくこなしていて、何時もシュンイチに従ってくれていた。時に悲しそうに笑うことはあるけど、何もシュンイチの言葉には逆らわない。最初は何時も何でも一緒にしてくれて、勘がいいから二度目は言わなくてもシュンイチの好みにしてくれていたから、アキコにシュンイチは何も聞いたことがないのだ。そんなアキコが何かにつけて拒絶するようになり始めたのは、何時からだっただろうか。

あなたは何時もそうね…………私の好きなこと、知ってる?

アキコの好み、アキコの嗜好、アキコの事を何も知らない自分。化粧が出来ないのはアレルギーがあるからと聞いているし、何かにアレルギーを持っている筈だけれどそれが何なのかは知らない。普段何をしているのかも、何か得意なことがあるのかも、音楽の好みすら知らないし、本を読んでいるがどんなものを読んでいたかも知らないのは何でだろう。

私のこと……何にも興味がないのよね?あなたは。ただ、私という奴隷が居れば良かったのよね。

何でそんな冷ややかに冷淡な事を言うのかと問いかけると、だってあなたが私にしたんじゃないとアキコはガラス玉の瞳で言う。射干玉の闇の色をしたガラス玉の瞳は真っ暗な闇の底を思わせて、シュンイチは恐怖に飲まれていくのを感じた。何もかも見透かされて知っているアキコの闇色の瞳が、自分は何も知らないと責めてくる。

「ごめん……。」
謝っても無駄よ?あなたは私に、自分がされたことをしてきただけなのよね?

何でそれを知ってるんだと問いかけると、まるで蛇に睨まれた蛙のようにその瞳に呑まれてしまっていた。自分が幼い頃母親にされてきた躾と称した虐待、夫に顧みて貰えない妻が息子に固執して自分のものにしておくために、ほんの幼稚園の頃から繰り返された性器等を含んだ虐待。自分が性癖を歪めたのはそのせいだとは認めていなかったが、実際には興奮する全ては母が自分に強いた痛みだった。
洗濯バサミ、尻をぶたれる定規や布団叩き、柱に括りつけられるビニールロープ。
どう考えても幼稚園の同じクラスの女の子と列で歩くのに手を繋ぎ、幼稚園の女の先生と話しただけで与えられる痛みではない。痛みを与えられて次第に性器を起たせて尚更痛め付けられ陰茎をゴムで縛られたりしたのは、母がそんなことをされる自分が悪いと刷り込んだからだと知っていて知らないふりをした。小学生で女子と話してぶたれ失禁するまで柱に括りつけらた過去が、我慢してそれでも泣き叫ぶ女の姿に興奮する性癖になったとは言えない。認められない。

なのに何で……
知ってるわよ、あなたはお母さんと同じ顔で私を責め立てるもの。

苛立つと奥歯が軋む程に噛み締めて、歯を剥き出してニタニタ笑うような顔で怒る。そんなことくらいとっくに分かっているとアキコが瞳で言うのに、シュンイチは怯えて青ざめ震え出していた。
やがて救急車は病院でアキコを降ろして、シュンイチは看護師なのか医師なのか分からない相手に再びアキコの事を再三問いかけられるが全く答えられないまま。苦々しく溜め息をつかれて外に出され、アキコに何が行われたかも説明されない。やがて処置を終えてベットに手足を拘束されたアキコの姿に意味が分からず、枕元に座り以前とはかわって強い苦痛に歪められたアキコの顔を見つめる。苦しくて暴れるので拘束していますと説明されたが、その苦しいのを何とかしてやれないのかと聞くと事も無げに無理ですと返される。

自分の入院の時もそうだったけど、…………なんでこんなに優しくしてくれないんだ?

アキコは何時も丁寧だし優しいのに他の看護師は何故こんなにも意地悪なんだろう。そう考えながらアキコの小さな頭を撫でると、アキコは無意識なのだろうか少しだけ頭を揺らした。そうだった……いつか頭を撫でてやったら、アキコは嬉しそうに笑ったんだ。何時からあの笑顔を見なくなっただろうかと、小柄で小さな頭を撫でる。今はもうアキコの瞳は開かずシュンイチのことをチラリとも見もしないのに、それでも何故かアキコが何かを話している気がした。

もう疲れたの………………
「…………ごめん。」
謝らなくていい、もう遅いもの…………。
「そんなことない……ごめん、悪かったよ…………。」
あなた、何回同じことを言ったの…………?
「ごめん……。」
私のことなんか興味もないのに、なんで傍に置くの?もう解放してよ…………
「ごめんよ。」
もう。放っておいて。あなたは好きにしていいから
「悪かった、ごめん。」
もういいから、放っておいて。もう嫌なの

そんな風に嘆き続ける可哀想なアキコの頭を撫でながら、ふと見下ろすと何故か自分の片手にあの黄色い熊の縫いぐるみが握られていたのに気がつく。その縫いぐるみは本物とは違って酷くデフォルメされていて、頭が大きく不格好だが愛嬌があって可愛いと思ったからアキコに抱かせてみたくなった。抱き上げて見上げるアキコの赤い縁の眼鏡越しの視線は、嬉しそうで穏やかに揺るんでとても綺麗だったのだ。

どうでもいいの、もう疲れた…………

あの時はあれほど恐ろしかったのに今はまるで何にも感じないし、アキコと一緒に居たいのかなんて奇妙な納得すらしてそれをアキコの手の届くところにおいてやる。そうしてそのまま朝日が登りアキコの両親が駆けつけるまで、シュンイチは何も出来ないまま横に座りただ無言で頭を撫でてやっていたのだった。
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