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92.
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気がついた土蔵の中は冷えて凍るような空気が漂う。
暗く闇の中、素肌に触れる畳は氷のように冷たく、あっという間に芯まで体を冷やす。そこには変わらずそれがいて、そこに落ちるアキコを嘲笑うように闇の中から見つめている筈だ。身を起こして見渡すと、闇の中に青く光る氷のような二つの灯火が揺らめきながら浮かんていてアキコをじっと見ている。その灯火はそのものの瞳の色で、それは揺らめきながらアキコの事を見据えているのだ。アキコはその場から起き上がることも出来ないまま、それに向かって疲れきった視線を向けていた。
お前はなに?
闇に向かって問いかけると、それは闇の中に白く歯を剥き出してニィと笑う。声もなく口元に歪な笑みを敷きながら、それはアキコに向かって地を這うような声で逆に問いかけで囁いてくる。
憎いか?逃げたいか?
何故そんなことを聞きたがるのかと、アキコは凍りついた床に這いつくばって思う。目の前にいるものは四つ足なのに、そこには人面が浮かんでいて以前はそれはシュンイチの顔に見えていた筈。それなのに今見上げているのは別な顔をしていて、しかもその顔で見下ろされるのは奇妙な程受け入れるのが容易い。
何故なの……?お前はなんで…………
そう再び問いかけると、それは低く呻くような笑い声を溢して獣の体を揺すりたてた。何故ってそれは簡単だろうと影でもあるそれは笑いながら言うと、ノソリと音をたててその場に立ち塞がる。そうしてユックリと自分に近寄って来たそれは、そうっと顔を近づけてきたかと思うとアキコに向かって口を開く。
※※※
何かが切れたと思った瞬間からアキコの記憶は更に曖昧に途切れた。
激しい暴力にさらされているのに、まるでそれは壁一枚向こう側かブラウン管越しの架空の世界の出来事のように遠い。体の痛みに呻き悲鳴をあげている自分すらテレビの中の架空の世界を見ているように感じながら、アキコは自分は閉じた世界にいるのだと考えていた。
そうして痛みや苦しみすら上手く感じないままに一夜を過ごしたアキコは、朝日に照らされてもまるで人形のような閉じた心の中にいた。
全ての刺激は意識の外にあり、全ては外の世界のようだ
朝日を浴びながら全く眠る事もなく朦朧とした意識の中で過ごしていたのに、危険だと何処かで分かっていながら緩慢な感覚の閉じた世界でアキコは音も立てずに立ちあげる。そんなアキコの横にはまだ酒の臭いを漂わせたシュンイチが泥のように鼾をかいて眠っているが、今のアキコの動きにはまだ気がついた節はない。
不意にスイッチが入ったように動き出したアキコの動きは、まるで幽鬼のように不気味にカタリとも何一つ音もたてなかった。何かを意図する動きでもないのに服を整え、するりと鍵を掴み音もなく靴を履く。鍵を開け扉を開けた音でやっと目が覚めたシュンイチが、慌てて追いかけてきて怒声混じりの声がかけられるのも振り切ってアキコは飛び乗った車のエンジンを回し発進させていた。車の中ではいけないと分かっていて携帯電話でウノシズコに電話をかける。ウノの家に駆け込んだ時にやっと、アキコは堰を切ったように声を上げて泣き出していた。
酔いに任せて暴力を振るわれ、犯されるのなんて
幾らなんでも堪えきれないと、アキコだって思っていたのだ。正しいかどうかすら分からないまま暴力にさらされて、その全てを自分のせいだとされお前が悪いのだと傷つけられる。それが自分のせいだと認めたくないし、同時に全てを我慢しつづけるのにももう限界だと思っていた。
お前が本当に悪いと思うか?
あの闇の中で四つ足の獣はアキコの顔をしてそう問いかけた。本当にそう思えるか?自分が産まれた時から間違っていて、全て自分のせいだなんて本当に思うか?とあれは這いつくばったままのアキコに問いかけたのだ。
産まれた時から…………?
そんなの自分がそう選んだわけでもない。そうアキコは凍った床の上に這いつくばり、目の前に凍りついた自分の指を見つめて思った。何故自分だけがそう全てを背負わないといけないのかと問い返すアキコの怒りに満ちた視線に、四つ足の獣は歯を剥き出して笑いながら囁く。
本当に悪いのは誰だ?
蛇を殺した祖母か?それともそれをアキコに吹き込んだ伯父や伯母か?それともその血筋の男と結婚した母なのか?それとも怪しの存在を受け入れる素地を作っていた母方の親戚の暮らす土壌か悪いのか?アキコを付け回して傷つけようとした男達が悪いのか?それともアキコ自身がやっぱり悪いのか?アキコを奴隷にしたシュンイチが悪いのか?
そんなの、知らない
何一つ知らないのに我慢し続けろと命令されて、痛みを我慢して生きるのには限界だった。そうあの時闇の中で凍りつく床に這いながら、アキコは自分の顔をした四つ足の化け物に向かって叫んでいたのだ。だからシュンイチの隙が出来るまでアキコは内に籠ってやり過ごして、こうして脱兎のごとくあの地獄のような部屋から逃げ出していたのだった。
そうして独り暮らしのこじんまりしたアパートで午前中一杯の時間をかけて、ゆっくりとウノはアキコの話に耳を傾けた。流石にシュンイチとの出会いやSMチャットに関しては濁すしかなかったが、アキコの話を一通り聞くとウノは静かに温かなお茶をすすめながらアキコを見つめる。
「自分の中で旦那さんをどう思ってる?今。」
話をすべて聞いてそう彼女が口にした時、アキコは直ぐには答えられなかった。何も答えられない、愛しているともいないとも、憎んでいるともいないとも、何一つ言葉にすら出来ない。
愛しているのかそうでないのか。
そう聞かれれば恐らく愛していると、アキコはまだ答えるのかもしれなかった。だが同時に深く憎んでもいる。愛しているから精一杯尽くしてシュンイチの為に生きようとはしてきたが、その代償の様々な痛みを激しく憎んでもいたのだ。その相反する感情をたった一言の『愛している』で言い表すには余りにも感情が暗く重くて深すぎた。そうかんがえているのが分かっているかのように目の前の彼女は、アキコを見つめ微かに溜息をつく。
「その気持ちの整理ができないと前には進めないのよ………自分でも分かっているのよね?ヤネオさん。」
アキコ自身がこの感情を整理しないと何も変えられない。アキコの気持ちを代弁するようなその言葉の傍に、バックの中で震える携帯電話を感じた。話をしている間何度となくこの振動を肌に感じていたアキコは、じっと自分の気持ちを何とか見定めようと考えようとする。どうするべきなのか、自分自身が見極めないといけない、そうウノはアキコに教えているのだ。
携帯を開く前からそれが誰からの電話かは判っていた。
アキコはかけられた声を振り切って逃げ出てきたのだから、その電話の内容もその後に続く出来事も予想できる事だったのだ。何故なら以前も同じように連絡の取れなくなった時にアキコを今は夫であるシュンイチは散々になじったのだから。
それでも電話にでるしかなかった。
アキコがどんな答えを出すにせよ、電話には出るしかないのだと分かってもいる。
だからアキコは電話に出たが、電話に出た時彼が何をしていたかは分からないが、もし即座に怒鳴りつけられていれば恐らくアキコは二度とシュンイチのところには帰らなかっただろう。
『アキ……いまどこにいるんだ?心配してる、一度戻ってきてちゃんと話そう?アキ。』
その声音はアキコの予想に反していた。
シュンイチはひどく優しげな声で戻ってくるようアキコを説得し、アキコは逆に混乱してしまっていた。逃げ出して来たことを詰るわけでもなく、話をしようと言われたことなんか今までになかったからアキコは逆に戸惑い考え込んでしまう。その戸惑いにウノが心配するのも分かったけれど、アキコは一先ず話し合うという綺麗な体裁を保つシュンイチの言葉に従ってしまっていた。
『ね?帰って来て、話し合おう?いいね?帰ってくる?』
その優しげな声と現実と切り離したせいで曖昧になった記憶で、アキコは何よりも大事な事実をすっかりその時忘れていた。
昨日シュンイチは前回の失敗を学んで、アキコを痛め付けている。
つまりは、前回の失敗を認識して方法を変えることが出来ていたのだ。アキコが逃げだしたり不愉快な行動をとった時、シュンイチはそれを修正してアキコを苛む行動を実行するのだということ。自分の不利益になる行動は学習して、避けて行動することが出来るのだと言うことをアキコは失念したのだ。
顔に傷をつければ、後々自分が面倒に巻き込まれるから、体の隠れる場所を選ぶ
アキコは家に帰って扉を開けて直ぐに、髪で隠れると分かっている頭部を拳骨で殴り付けられて昏倒させられてしまう。そして気がついてもまた再び暴力を受けて、完全に心神喪失の状態に陥るしかなくなっていた。今度は以前のマンションのような廊下がなかったから、玄関から引きずり込まれたキッチンのフローリングの床の上で丸くなって暴力に必死に堪えるしかない。だが一度切れていた心の琴線は、今度はあっという間に弾けてズタズタになった。
もう駄目だ…………殺される………………もうダメ、だめ、ころされる……
そう思った。
逃げてもこうやって何度も引き戻されると知った瞬間、絶望に呑まれていくのが分かって、直後全ての感覚が前とは違って完全に遮断されていく。
傍目に見ればまさに人形のように自身で体を動かす事もなく、アキコはその場に力なく崩れ落ちた。
最初それすらも演技だと思ったシュンイチは、更に暴力をふるったがアキコは抵抗することもなく壁に撥ね飛ばされていく。そして更に無理矢理引き摺り起こされたアキコは、目を見開いたまま涙を溢し始めていた。痛みに叫ぶでもなくただ涙を溢し続けるアキコの状態に、シュンイチは初めて異常を感じて恐慌をきたし更に彼女を気がつかせようとする意図なのか更に殴り付け暴力を振るい続ける。
「いい加減にしろよ!何か言え!!キチガイが!!」
遥か昔に言われた言葉。それにすらアキコは反応せずボロボロと大粒の涙を溢しながら、殴られる度に力なく撥ね飛ばされ床にゴツンガツンと頭を打ち付けられた。その異様さに流石に暴力は止めてアキコを放置したが、半日が過ぎ一向にその状態から逃れられないアキコの姿にいよいよシュンイチはパニックに陥っていた。
「ヤバい…………。」
ウロウロと室内を歩きながらシュンイチはそう呟き、泣き続けるだけの人形になったアキコを眺める。失神したり暴力を亀のように丸くなって逃れようとするのとは、まるで違うのは言われなくても分かった。何しろ殆ど瞬きもせずに凍りついたままの顔は血の気もなく苦痛すら浮かばないままで殴っても変わらないなんて、シュンイチだって見たことがない状態だ。
一時的かと思ったのに殴っても、時間がたっても変わらないなんて…………
放っておけば充電された携帯みたいに問題なく元通り使えるかと放置したが、半日たっても泣き止まないどころか感情も言葉すらも戻ってこない。だから謝るどころか痛みに泣くこともないアキコの姿に、シュンイチはことの重大さに気がつき始めていた。
もしこれが…………殴って頭がおかしくなったのだったらどうしよう
元に戻らなかったらアキコが金を稼ぐことが出来なくなるし、シュンイチは代用品がまだない奴隷を壊してしまったことになる。そうなのだ、まだアキコの代わりになれる奴隷は持っていないのだから、アキコが駄目になったらシュンイチの性欲処理が不可能になってしまう。
そして、最終的にシュンイチは以前の職場の近くにあったことで場所を知っていた精神病院にアキコを連れて行ったのだった。ここでシュンイチが救急車を呼ばなかったのはただ単にアキコに振るった暴力がバレるのが怖かったというより、以前アキコが自分のために救急車を呼んだ時のような行動が出来ないからだ。それだけの理由ではあったが、結局アキコはつれていかれた先でも全く問いかけにも答えられず、ただ涙を溢し続け『抑うつ状態』と診断を受けて投薬を受ける事になった。ここで入院しなかったのは受診して検査では大きな異常が見つからず、危険な行動も見られなかったためでアキコを守るためではない。
「前から少しおかしくて、急にこうなったんです。」
そうシュンイチが言い張ったのを医者は鵜呑みにしているのを、アキコはガラス玉のような感情の見えない瞳で見つめたままでいる。そうして更に暗く深い泥沼の中でアキコは身動きする事もできないままに、心の中では延々と誰かにむかって助けを求めていたのかもしれない。
暗く闇の中、素肌に触れる畳は氷のように冷たく、あっという間に芯まで体を冷やす。そこには変わらずそれがいて、そこに落ちるアキコを嘲笑うように闇の中から見つめている筈だ。身を起こして見渡すと、闇の中に青く光る氷のような二つの灯火が揺らめきながら浮かんていてアキコをじっと見ている。その灯火はそのものの瞳の色で、それは揺らめきながらアキコの事を見据えているのだ。アキコはその場から起き上がることも出来ないまま、それに向かって疲れきった視線を向けていた。
お前はなに?
闇に向かって問いかけると、それは闇の中に白く歯を剥き出してニィと笑う。声もなく口元に歪な笑みを敷きながら、それはアキコに向かって地を這うような声で逆に問いかけで囁いてくる。
憎いか?逃げたいか?
何故そんなことを聞きたがるのかと、アキコは凍りついた床に這いつくばって思う。目の前にいるものは四つ足なのに、そこには人面が浮かんでいて以前はそれはシュンイチの顔に見えていた筈。それなのに今見上げているのは別な顔をしていて、しかもその顔で見下ろされるのは奇妙な程受け入れるのが容易い。
何故なの……?お前はなんで…………
そう再び問いかけると、それは低く呻くような笑い声を溢して獣の体を揺すりたてた。何故ってそれは簡単だろうと影でもあるそれは笑いながら言うと、ノソリと音をたててその場に立ち塞がる。そうしてユックリと自分に近寄って来たそれは、そうっと顔を近づけてきたかと思うとアキコに向かって口を開く。
※※※
何かが切れたと思った瞬間からアキコの記憶は更に曖昧に途切れた。
激しい暴力にさらされているのに、まるでそれは壁一枚向こう側かブラウン管越しの架空の世界の出来事のように遠い。体の痛みに呻き悲鳴をあげている自分すらテレビの中の架空の世界を見ているように感じながら、アキコは自分は閉じた世界にいるのだと考えていた。
そうして痛みや苦しみすら上手く感じないままに一夜を過ごしたアキコは、朝日に照らされてもまるで人形のような閉じた心の中にいた。
全ての刺激は意識の外にあり、全ては外の世界のようだ
朝日を浴びながら全く眠る事もなく朦朧とした意識の中で過ごしていたのに、危険だと何処かで分かっていながら緩慢な感覚の閉じた世界でアキコは音も立てずに立ちあげる。そんなアキコの横にはまだ酒の臭いを漂わせたシュンイチが泥のように鼾をかいて眠っているが、今のアキコの動きにはまだ気がついた節はない。
不意にスイッチが入ったように動き出したアキコの動きは、まるで幽鬼のように不気味にカタリとも何一つ音もたてなかった。何かを意図する動きでもないのに服を整え、するりと鍵を掴み音もなく靴を履く。鍵を開け扉を開けた音でやっと目が覚めたシュンイチが、慌てて追いかけてきて怒声混じりの声がかけられるのも振り切ってアキコは飛び乗った車のエンジンを回し発進させていた。車の中ではいけないと分かっていて携帯電話でウノシズコに電話をかける。ウノの家に駆け込んだ時にやっと、アキコは堰を切ったように声を上げて泣き出していた。
酔いに任せて暴力を振るわれ、犯されるのなんて
幾らなんでも堪えきれないと、アキコだって思っていたのだ。正しいかどうかすら分からないまま暴力にさらされて、その全てを自分のせいだとされお前が悪いのだと傷つけられる。それが自分のせいだと認めたくないし、同時に全てを我慢しつづけるのにももう限界だと思っていた。
お前が本当に悪いと思うか?
あの闇の中で四つ足の獣はアキコの顔をしてそう問いかけた。本当にそう思えるか?自分が産まれた時から間違っていて、全て自分のせいだなんて本当に思うか?とあれは這いつくばったままのアキコに問いかけたのだ。
産まれた時から…………?
そんなの自分がそう選んだわけでもない。そうアキコは凍った床の上に這いつくばり、目の前に凍りついた自分の指を見つめて思った。何故自分だけがそう全てを背負わないといけないのかと問い返すアキコの怒りに満ちた視線に、四つ足の獣は歯を剥き出して笑いながら囁く。
本当に悪いのは誰だ?
蛇を殺した祖母か?それともそれをアキコに吹き込んだ伯父や伯母か?それともその血筋の男と結婚した母なのか?それとも怪しの存在を受け入れる素地を作っていた母方の親戚の暮らす土壌か悪いのか?アキコを付け回して傷つけようとした男達が悪いのか?それともアキコ自身がやっぱり悪いのか?アキコを奴隷にしたシュンイチが悪いのか?
そんなの、知らない
何一つ知らないのに我慢し続けろと命令されて、痛みを我慢して生きるのには限界だった。そうあの時闇の中で凍りつく床に這いながら、アキコは自分の顔をした四つ足の化け物に向かって叫んでいたのだ。だからシュンイチの隙が出来るまでアキコは内に籠ってやり過ごして、こうして脱兎のごとくあの地獄のような部屋から逃げ出していたのだった。
そうして独り暮らしのこじんまりしたアパートで午前中一杯の時間をかけて、ゆっくりとウノはアキコの話に耳を傾けた。流石にシュンイチとの出会いやSMチャットに関しては濁すしかなかったが、アキコの話を一通り聞くとウノは静かに温かなお茶をすすめながらアキコを見つめる。
「自分の中で旦那さんをどう思ってる?今。」
話をすべて聞いてそう彼女が口にした時、アキコは直ぐには答えられなかった。何も答えられない、愛しているともいないとも、憎んでいるともいないとも、何一つ言葉にすら出来ない。
愛しているのかそうでないのか。
そう聞かれれば恐らく愛していると、アキコはまだ答えるのかもしれなかった。だが同時に深く憎んでもいる。愛しているから精一杯尽くしてシュンイチの為に生きようとはしてきたが、その代償の様々な痛みを激しく憎んでもいたのだ。その相反する感情をたった一言の『愛している』で言い表すには余りにも感情が暗く重くて深すぎた。そうかんがえているのが分かっているかのように目の前の彼女は、アキコを見つめ微かに溜息をつく。
「その気持ちの整理ができないと前には進めないのよ………自分でも分かっているのよね?ヤネオさん。」
アキコ自身がこの感情を整理しないと何も変えられない。アキコの気持ちを代弁するようなその言葉の傍に、バックの中で震える携帯電話を感じた。話をしている間何度となくこの振動を肌に感じていたアキコは、じっと自分の気持ちを何とか見定めようと考えようとする。どうするべきなのか、自分自身が見極めないといけない、そうウノはアキコに教えているのだ。
携帯を開く前からそれが誰からの電話かは判っていた。
アキコはかけられた声を振り切って逃げ出てきたのだから、その電話の内容もその後に続く出来事も予想できる事だったのだ。何故なら以前も同じように連絡の取れなくなった時にアキコを今は夫であるシュンイチは散々になじったのだから。
それでも電話にでるしかなかった。
アキコがどんな答えを出すにせよ、電話には出るしかないのだと分かってもいる。
だからアキコは電話に出たが、電話に出た時彼が何をしていたかは分からないが、もし即座に怒鳴りつけられていれば恐らくアキコは二度とシュンイチのところには帰らなかっただろう。
『アキ……いまどこにいるんだ?心配してる、一度戻ってきてちゃんと話そう?アキ。』
その声音はアキコの予想に反していた。
シュンイチはひどく優しげな声で戻ってくるようアキコを説得し、アキコは逆に混乱してしまっていた。逃げ出して来たことを詰るわけでもなく、話をしようと言われたことなんか今までになかったからアキコは逆に戸惑い考え込んでしまう。その戸惑いにウノが心配するのも分かったけれど、アキコは一先ず話し合うという綺麗な体裁を保つシュンイチの言葉に従ってしまっていた。
『ね?帰って来て、話し合おう?いいね?帰ってくる?』
その優しげな声と現実と切り離したせいで曖昧になった記憶で、アキコは何よりも大事な事実をすっかりその時忘れていた。
昨日シュンイチは前回の失敗を学んで、アキコを痛め付けている。
つまりは、前回の失敗を認識して方法を変えることが出来ていたのだ。アキコが逃げだしたり不愉快な行動をとった時、シュンイチはそれを修正してアキコを苛む行動を実行するのだということ。自分の不利益になる行動は学習して、避けて行動することが出来るのだと言うことをアキコは失念したのだ。
顔に傷をつければ、後々自分が面倒に巻き込まれるから、体の隠れる場所を選ぶ
アキコは家に帰って扉を開けて直ぐに、髪で隠れると分かっている頭部を拳骨で殴り付けられて昏倒させられてしまう。そして気がついてもまた再び暴力を受けて、完全に心神喪失の状態に陥るしかなくなっていた。今度は以前のマンションのような廊下がなかったから、玄関から引きずり込まれたキッチンのフローリングの床の上で丸くなって暴力に必死に堪えるしかない。だが一度切れていた心の琴線は、今度はあっという間に弾けてズタズタになった。
もう駄目だ…………殺される………………もうダメ、だめ、ころされる……
そう思った。
逃げてもこうやって何度も引き戻されると知った瞬間、絶望に呑まれていくのが分かって、直後全ての感覚が前とは違って完全に遮断されていく。
傍目に見ればまさに人形のように自身で体を動かす事もなく、アキコはその場に力なく崩れ落ちた。
最初それすらも演技だと思ったシュンイチは、更に暴力をふるったがアキコは抵抗することもなく壁に撥ね飛ばされていく。そして更に無理矢理引き摺り起こされたアキコは、目を見開いたまま涙を溢し始めていた。痛みに叫ぶでもなくただ涙を溢し続けるアキコの状態に、シュンイチは初めて異常を感じて恐慌をきたし更に彼女を気がつかせようとする意図なのか更に殴り付け暴力を振るい続ける。
「いい加減にしろよ!何か言え!!キチガイが!!」
遥か昔に言われた言葉。それにすらアキコは反応せずボロボロと大粒の涙を溢しながら、殴られる度に力なく撥ね飛ばされ床にゴツンガツンと頭を打ち付けられた。その異様さに流石に暴力は止めてアキコを放置したが、半日が過ぎ一向にその状態から逃れられないアキコの姿にいよいよシュンイチはパニックに陥っていた。
「ヤバい…………。」
ウロウロと室内を歩きながらシュンイチはそう呟き、泣き続けるだけの人形になったアキコを眺める。失神したり暴力を亀のように丸くなって逃れようとするのとは、まるで違うのは言われなくても分かった。何しろ殆ど瞬きもせずに凍りついたままの顔は血の気もなく苦痛すら浮かばないままで殴っても変わらないなんて、シュンイチだって見たことがない状態だ。
一時的かと思ったのに殴っても、時間がたっても変わらないなんて…………
放っておけば充電された携帯みたいに問題なく元通り使えるかと放置したが、半日たっても泣き止まないどころか感情も言葉すらも戻ってこない。だから謝るどころか痛みに泣くこともないアキコの姿に、シュンイチはことの重大さに気がつき始めていた。
もしこれが…………殴って頭がおかしくなったのだったらどうしよう
元に戻らなかったらアキコが金を稼ぐことが出来なくなるし、シュンイチは代用品がまだない奴隷を壊してしまったことになる。そうなのだ、まだアキコの代わりになれる奴隷は持っていないのだから、アキコが駄目になったらシュンイチの性欲処理が不可能になってしまう。
そして、最終的にシュンイチは以前の職場の近くにあったことで場所を知っていた精神病院にアキコを連れて行ったのだった。ここでシュンイチが救急車を呼ばなかったのはただ単にアキコに振るった暴力がバレるのが怖かったというより、以前アキコが自分のために救急車を呼んだ時のような行動が出来ないからだ。それだけの理由ではあったが、結局アキコはつれていかれた先でも全く問いかけにも答えられず、ただ涙を溢し続け『抑うつ状態』と診断を受けて投薬を受ける事になった。ここで入院しなかったのは受診して検査では大きな異常が見つからず、危険な行動も見られなかったためでアキコを守るためではない。
「前から少しおかしくて、急にこうなったんです。」
そうシュンイチが言い張ったのを医者は鵜呑みにしているのを、アキコはガラス玉のような感情の見えない瞳で見つめたままでいる。そうして更に暗く深い泥沼の中でアキコは身動きする事もできないままに、心の中では延々と誰かにむかって助けを求めていたのかもしれない。
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