鵺の哭く刻

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89.

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以前よりアキコの職場に近いアパートに引っ越しして暫くが経とうとしている。
アパートは以前のマンションよりはこじんまりとしていたが、割合と部屋数もあって居心地もなかなか良い場所だった。キッチンと居間、和室ともう一つフローリングの部屋があって、どの部屋も二辺は隣の部屋と繋がっている。クルリと円を描くように、家中を移動が可能な間取りなのだ。居間の隣のフローリングの一室にシュンイチのパソコンを据え、それ以外の本棚等を据え付け相手が主として使う書斎にと決める。まず何よりも第一にその場所を優先で作ったことで、シュンイチは随分と機嫌がよかった。

実際にはその位置だと、男が何かしようと立ち上がれば他の部屋にいても察知しやすい。

それが本音だとはシュンイチには絶対に言えないが、どの部屋にいてもシュンイチの動向が掴みやすいのは今のアキコにとっては一番重要な事なのだ。それを察知して何とか少しでも痛め付けられないように気を付けるしか、アキコの頭の中には無かったとも言える。そうしないと生きていけない自分に気がついても、それを何とかすることももうアキコには出来ないのだ。
そしてシュンイチは相変わらず、仕事も探さず毎日遊び歩いている。
あの高額のアーケードゲームは勿論のことだが、金銭の一時的な仮初めの裕福さに何人か女性と会っていたが、こと女性に関しては上手くいかなかった。そして上手くいかないから憂さ晴らしが、アキコに調教として行われることになるだけのことだ。

正直無職のご主人様に性奴隷として囲われたい、なんて思う人はいないと思う…………。

アキコがその新しく会う方の女だとしたら、にこやかに微笑んで食事を奢って頂いて、速やかに肌を重ねること無くお別れしたいところ。そんなわけで、新しい性奴隷についてはまるで上手くいかないままでいるのだが、その理由をシュンイチは理解できていない。理解できないから不機嫌になってアキコを痛め付けるのだがアキコにとっては最悪の結果でも、こうなったら新しい被害者が出ない事を良しと考えることにしていた。
とは言えアキコの様相には、傍目に見ても次第に追い詰められているという雰囲気が漂い始めていたようだ。人間というものは雰囲気が荒んでいくと、痩せではなく窶れがあからさまに見え始めるものらしい。そして満足に夜どころか昼も眠らせて貰えないアキコは、仕事中の食事休憩に休憩室のソファーで丸くなって仮眠をとることが日常的になっているのだ。そんな状況がまともでない事も、アキコにはもうわからなくなっていた。そんな風にして体を休めるアキコを周囲がどんな風に捉えているかは分からないまま、それでも少しでも体を休めておかないとアキコだって夜休めるとは限らないのだ。

「ねえ、ヤネオさん。飲みに行かない?」 

そんな時アキコに声をかけてくれたその同僚に、アキコは戸惑いながら振り返る。
既に誰もが遠巻きにしていると思ったのに、彼女は率先して誘い掛け、断っても諦めもしなかった。就職したばかりは何時もツンとすました感じのある綺麗な人というイメージだったが、その人と一度呑みに行った途端にそのイメージが間違いだった事をアキコは知る。実は彼女自身が少し人見知りする質で最初は声をかけれなかっただけだったそうで、馴染むととても優しい懐の広い姉御肌の人だったのだ。
アキコが窶れるのを心配してその後も幾度となく声をかけ呑みに行き、親身に悩みを聞いてくれるようになった彼女はウノシズコといった。



※※※



今まで余り触れ合った事のないその先輩である女性から呑みに誘ってくれたのは、窶れていくアキコの姿にウノシズコ自身に何か感じる事があったのだと後になってみればアキコも思う。職場から近い個室の居酒屋伊呂波という店の少し狭い座席をわざと選んで、彼女は内緒話でもするようにアキコの直ぐ隣に腰を下ろしてくる。勿論向かいに座席はあるのに、わざわざ隣に並んで座る彼女にアキコは最初面食らう。

「ヤネオさん、何飲む?私ね、ビールにしとこうかな。」
「あ、同じので。」
「じゃ、生二つ。あと、これとこれと……あと、これも。」

今までアキコは同じ年くらいの同僚と飲み歩くことは多かったが、ウノはアキコより十歳ほど年上で個人的な交流はなかった。綺麗系のウノの一見すると少しとっつきにくい雰囲気というイメージもあって、職場でもあまり話したこともないのに最初からまるで親友のように隣に座り杯を酌み交わしている。そうして何故誘われたかわからず緊張するばかりのアキコをよそに、ウノはといえば少しずつ自分の経験した過去の話を始めるのだ。それはウノの経験してきた過去の恋愛の物語だった。

「…………私さ?好きで仕方ないと思って結婚したのよ?遠距離恋愛から、彼に嫁ぐために地方から仕事を辞めて、わざわざ関東まで来たのにね。」

その言葉に一瞬自分の事をいったのかとアキコの表情が曇るが、ウノはアキコではなくて弾けていく麦酒の泡をじっと見下ろしながら小皿の枝豆を適当に摘まんでいる。それは恐らくウノ自身が経験したことなのだろうと、ここにきてアキコも気がついてしまう。

「…………何度も浮気もされて。それでも一生懸命尽くしたのよ。かなり金も貢いだしね。私だけで家計も支えて小遣いまであげてね。毎日家事もして仕事もして、全部彼のためにやってやってた…………。」

時折アキコにテーブルに並ぶ食べ物を促しながら、ウノはそのまま滔々とアキコの事のような話を話し続ける。アキコの食がまるで進まないのを見ると何が好き?と柔らかい笑顔がアキコの顔を覗きこみ、酔いのせいなのかアキコが何か答えるまで執拗にウノに絡まれもする。しかしそれが全て緊張しているアキコを気遣っての事だと分かってくると、なんだかそんな風に気を使って貰えて嬉しいとも思った。

「私の旦那だった奴は酷い奴だったのよ。最後には病的に全部支配しようとして、呑みに行けば誰といるかって証明に私から写メを送るのよ?逐一報告メールして、電話して。」

そこまでではないかもしれないが、支配されているのは確かに同じだし、ある意味ではアキコの方が酷い支配を受けているのだ。アキコはメールではないけれど性癖という鎖でがんじがらめに支配されていて、逃げることも出来ない泥沼のなかにはまりこんでいる。

「…………そんなことしてたら、私が駄目になったの。私が限界だったの。」

ウノは爽快に笑い飛ばしながらそう言うと、アキコの瞳を覗き込むようにして見つめニッコリと微笑みかける。アキコに一度も何も話せとは言わず、ただ一緒に呑んでウノの語る辛かった過去を聞きながら、アキコは自分自身の過去を思っていた。他人の話であるのに、それは今まさに自分に当てはまり自分の姿が彼女の中にもあるような気がする。

「…………何でかなぁ?看護師ってろくでもない男に尽くしちゃう人多いよね?奉仕ぐせでもあるのかね?この業界あるあるよね?…………ヤネオさん、そう思わない?」

職場での颯爽とした物言いのままウノは微笑み、アキコの肩に腕を回し実の姉妹にでもするように頭を力一杯に撫でた。その行為に自分より年嵩のウノが何かを感じてアキコを誘った理由が痛いほどに分かって、居酒屋の薄暗い明かりと彼女が自分の過去を話す為にとかなり酔っていてくれたことにアキコは心から感謝した。ここで思わず涙ぐんでもこれは全てを酔いのせいにしてしまえる事が何よりもありがたかった。

「でも、今は自由にのんびり生活できてる。今は私らしくいられる。そこが大事なとこよね。自分らしくってとこよ!自由に私らしく!」

彼女が自分に過去の自分と同じ気配を感じてこうして誘ってくれた事が、アキコにはありがたかった。誰にも言えない事をアキコの中にみつけてくれていた人が、この先を考えてみてはどうかと心配してくれている。ウノは離婚しても看護師ならこうやって独りでも生活していけているのよと、そっと打ち明けてくれている。それがありがたかった。
結局その日は、アキコはそれでも自分の状況については口にしなかった。ウノはそれには何も言わず最後まで爽快に話しかけてくれ、楽しいままに時間を過ごす。そしてそれはその後も幾度となく回を重ねる事になるアキコの僅に気の休まる時間になっていくのだった。



※※※



そしてアパートに越してからコバヤカワケイとコイズミはそれまでよりも気を使ってくれていて、頻度をあげて自宅を訪れシュンイチに接してくれていた。さり気無く来訪時に飲み物や果物など本来は必要でない物を手土産と言い持参してくれたり、自宅に籠りがちのシュンイチを外に連れ出してくれたりしてくれる。二人は何も言わずともアキコの負担を見てとって、少しでも軽減しようと気を使ってくれているのだ。それに未だに付き合いのあるの友人として、何気ない言葉で何度となく仕事をするよう促してくれもした。しかし相変わらずシュンイチは、まるで仕事をする気にはならないようだった。

「ヤネちゃん、仕事探さないの?プータローのままじゃ、遊びに誘いにくいんだけど。」
「はぁ?何で誘いにくいんだよ?」

そりゃ普通に考えれば、収入がないんだもの金銭面の心配があるから普通は遊びに誘いにくいのよ。遊ぶのに必要なモノを全部奢ってやるのも限度があるしね。とアキコの心の中で慣れ始めた悪態が呟く。キッチンで夕食を作りながら背後の会話や物音に耳をすますのも最近の癖のようなものだった。背後のコバヤカワの声は、彼の様子に呆れたような気配をにじませる。

「そりゃ、誘いにくいよ。普通そうじゃん?」
「何で?別に金ならあるし、誘えば行くよ。変な奴。」

いや、変なのはあなただから。収入ない人を毎日遊びに誘えるわけないでしょ?毎日万単位でするゲーム代金まで奢れるわけないし、実家でもなきゃ生活できないのよ、普通だったら。

「いやいや、ヤネちゃん、収入ってのはさあ?」
「何?アキはちゃんと働いてるし、収入はあるわけじゃん?」
「いや、ねぇさんはおいといてさ。」

あぁ嬉しいけどケイ君、それ以上は言わないで。私、この後にお仕置きされたくないの、仕事に響くから出来たらこのまま寝たいのよ。どんなに正論を言ってもこの人はおかしいから通じないの。そう心の声が冷ややかに冷淡な悪態を呟くのをボンヤリと感じてしまう。

「どういう意味だよ?夫婦なんだからアキが働いてて収入はある。それで何で俺が誘えないの?アキがいるせいで誘えないってこと?」
「そうじゃなくてさ、ヤネちゃん、普通さぁ?」

ガチャンと音をたてて何かが床に落ちる音がして、アキコは内心慌てながらもそれを声に出さないように努める。聞いていたと声にでないよう努めて慎重に、普段の声音に聞こえるように声のトーンをあげて二人の話を中断するつもりで声を出す。

「ご飯できたよ、ゲーム中断してくれる?」
「あ、はーい、ヤネちゃん、ご飯だって。」

シュンイチの返事はない。恐らくあの子供じみた不機嫌な不満顔になっているだろうことは見なくても分かる。友達が親身になって心配して忠告してくれているのに、そうということを理解すらあの男には出来ないのだ。自分よりも五つも年下のコバヤカワケイの方がずっと社会人として普通の感性であることが、こうして聞いていると心底恨めしい。ケイが何事もなかったかのように硝子戸を開いて、にこやかにキッチンのアキコに声をかけてくる。

「ねぇさん、これ運べばいい?」
「ありがとう、その前にテーブル拭きたいから。」
「テーブル拭きこれ?」

言わずとも手伝ってくれるケイに感謝したいが、あまりおおっぴらにアキコから感謝を示すことも出来ない。それを分かっている彼も特にアキコに何を言うでもない。やはり以前顔の痣は消えかけていたけど、彼らには体に痣があることがばれていたのではないかとアキコは思う。それに一度二人きりではアキコをねぇさんではなく呼んだ彼も、シュンイチの前では変わらずねぇさんと堅苦しく呼ぶのだ

「ヤネちゃん、ご飯食べたらちょっと出ない?」
「何だよ、俺は誘いにくいんだろ?」
「拗ねてないで、俺をたてると思ってさぁ。」

ケイが明らかにあえて不機嫌なシュンイチを誘い出そうとしてくれるのに、心の底で強く感謝する。だけど、今回はせめて少しでも離れる時間が欲しいとアキコが思っているのがバレたのか、アキコが同行しなければ行かないとシュンイチがあからさまにごねだした。これ以上怒らせたくない一心で、アキコは張り付けた笑顔で同行を承諾する。

「アキさん、ごめんね。」

アパートのドアを閉じる時に男に気づかれないよう申し訳なさそうにコバヤカワが囁くのに、笑顔だけで返事を返しながらアキコはものも言わずに彼らの後に項垂れたまま続くのだった。
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