鵺の哭く刻

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そんな先行きも見えない最中にシュンイチの両親に実家に呼ばれた時、アキコは密かに心から安堵していた。勿論シュンイチが仕事を辞めたことは伝えてあるし、やっとヤネオの両親が何もしようとしないままのシュンイチを説得するものだと信じて疑う事もしなかったのだ。アキコは一般的な常識としてシュンイチの現状をとらえ、シュンイチの両親が道理を解いてくれるとばかり思っていた。アキコはシュンイチのこの性格を作ったのが、目の前のその人達に他ならない事をスッカリ忘れていたのだ。
シュンイチの実家で居心地悪く座りながら、アキコが湯気の立つ湯飲みを見つめる。シュンイチから何故仕事を辞めたのかを聞いた途端、朗らかにシュンイチの母親が笑顔を浮かべたのに気づいたのだ。その瞬間、嫌な予感が脳裏を走っていた。

「体を壊す前に止めれてよかったじゃない、シュン。」

アキコは予想だにしないその言葉に、そのまま揺らめく茶を眺め凍りついていた。義理の母親が口にした言葉はアキコには到底信じられないもので、自分が聞き間違ったかとすら思ったのだ。しかし、それは惑う事なくにこやかに微笑む彼女の口から放たれた言葉で、アキコの常識という基盤を細い砂のように脆くも砕いていった。

「この子は一度言ったら頑固で聞かないから。ねぇ。」

そう言って朗らかに笑い一片の説得すらしようとしない義理の母親の姿に、アキコは硬くこわばった表情のままこの現状が夢であってほしいと心から願った。アキコの強ばった険しい表情を、あえて見ないように視線をそらす彼の父親の姿に、父親の方がわかっていて視線を向けないのが分かった。終いには父親の方ですらそうだそうだと彼の話を肯定する有り様で、誰もシュンイチに仕事をしなさいとも仕事を探せとも言わない。

家庭を支えるなんてこと考えないの…………?

泣き出したくなるのに、凍りついてしまった感情が涙にも変わらない。普通なら妻がいるんだから家庭を支えないとと苦言を呈するのが普通なんじゃと思うのに、目の前の家族はアキコの想定なんか無視しているのだ。そして現実はもっと残酷でもあった。その男の両親はアキコにシュンイチの名義の幾ばくかの貯金通帳を渡し、生活費に使ってもいいとだけ平然とした顔で言ったのだ。

自分の子供が目の前でヒモになろうとしているのに……………説得するどころかお金を渡すの?

そう問いかけたかった。だけど彼らが表立ってもそう思っていないとしても、既に行動がその気なのは目に見えている。その上、自分の息子を嬉々としてアキコという嫁に押し付けようとしているのが分かるのは何故だろうか。
彼の面倒を見るのは全てアキコの責任。
あんたの旦那はあんたが全て責任もって養いなさい。
育て方の歪さが表に出たことは責任を持たない事に決めたシュンイチの両親。
普通なら就職活動をして、なんとか収入を得る方法を模索するべきだし、そうしないのを説教されてもおかしくない。でも彼らはシュンイチがそれをしないのを、頑固だからねの一言で笑いに変えようとしている。そして、その後始末は嫁のすること。

私らの責任じゃない、俺の責任じゃない、お前が後始末して責任をとれ

それは、彼の性格を形成してきたモノの全てのような気がした。
アキコはその虚しい状態の中で、同時に夫である男を哀れだと思うしかない。こんな歪でマトモではない愛情しか貰えずマトモな感性すらきちんと養えないままに育ってきたからこそ、シュンイチは歪な愛情の形しか知らないのかもしれない。叱られることもなく過保護に育てられてきて、自分が世間の常識から非常に逸脱しているのに気がつかないでいる。アキコ自身もそれほど自分が常識的と思ってきたわけではないが、それでもアキコの方が遥かに両親から真っ当な愛情を注がれたと理解できる。少なくとも一般的な常識の中で生きていくには困らないように、アキコは育ててもらえたから。

ただ、自分の中に在る彼への愛情も何処か歪で、この人に正しく愛情は伝えられなかったのだろう。

アキコの呪われた身から伝えてきた愛情はそのまま純粋な愛とはならずに、何処か憎しみにすり替わる様な気配すら次第に感じはじめている。そうボンヤリと思いながらアキコは、更に逃げ場のない淀んだ水中に落ちていく自分を感じていた。



※※※
 


その年の年度末、アキコは数年暮らしたマンションから引っ越しすることをシュンイチに提案した。そのままの生活は確かに切り詰めていけば可能だったが、余裕のない生活は全てがアキコだけの肩にかかっていて怖かったのだ。当の相手は親から金銭を渡されたことを知って、直ぐ様その金銭を使って豪遊を初めていた。その上失業保険の手当の金銭が暫く継続的に受け取れると知り、金銭を得た事で見る間に遊興費はかさみ続けている。

そんなことしていたら、直ぐにお金なんて底をついてしまうのに…………

だけど引き留めもしないのは、自分に矛先が向かうのが怖いからだ。だからその頃にはアキコはシュンイチが他の女と会っていようが、自分が痛め付けられないですむなら構わないと思っていた。そのわりには体力が余っているのと上手く新しい女が出来ないのか、定期的に力ずくで調教をしようとするシュンイチから相変わらず酷い目に遭わされている。調教という名前であってもアキコがふるわれているのは暴力ばかりで、何も気持ちよくなんかない。犬のように這わされて犯されたり、首を絞められたり、縛られたり、次第に局部にピアスとかをつけると言いかねないのではと常に怯え恐ろしいのだ。

どうせなら、毎日暇にしているんだからネットで新しい奴隷でもみつけて、その子を力一杯調教して満足していてくれないかな…………

もうそうとすら思っていた。日々の仕事と全ての家事と仕事を辞めて自由にしている筈のシュンイチの世話で、アキコは殆ど休む間もない毎日。その中で今アキコにとって一番苦痛なのは、シュンイチの世話なのだ。日々の食事や洗濯・掃除等の身の回りの世話に始まって、友人の送迎・本人の遊興の送迎、その上風呂に入る時には体を洗うことも課せられて、それに調教が課せられる。シュンイチが理由があって仕事が出来ないならまた違うかもしれないが、帰宅して一番最初ににするのがシュンイチの食べ散らかしたものの後片付けと次の食事の支度。仕事関連の送迎だけだった時よりも、はるかに負担は大きく重くのし掛かる。

感謝しろとまでは言わなくても、一日中遊んでいるなら少しくらい自分のことくらいはして

そう思わず心が呟いてしまう。自己の都合で仕事を辞めた夫は新しい就職先を探す気もなく、日々遊んでばかりいる。だから住んでいるマンションは近郊ではやや高めという程度だったが、先を考えて少しでも毎月の負担が少ない場所に移動して貯蓄していかなくてはとアキコは考えたのだ。

「はぁ?何言ってんだよ。」

アキコの説明で理由が理解できず、シュンイチは当然のように反対した。しかし、噛み砕いて金銭面の先行きを指摘すると何時ものように子供のように不貞腐れた顔に変わる。その後も今後の生活を指摘するアキコの説明をおざなりに聞きながら話を誤魔化そうとするから、早急に就職して安定した収入を約束してくれるならと言うと不満気に渋々引越しに同意する有り様だった。だが引っ越しの全てに関しても負担を負うわけでもなく、荷物等の全ての手配もその準備もアキコがする事だ。
その間シュンイチはのらりくらりと毎日ゲームセンターに通いつめていた。丁度その当時流行り始めたアーケードゲームに一回500円もするようなものがある。VRの走りのようなものでポッドと呼ばれる機械に入って、大型ロボットの操作をしながら戦場に出ると言う、元々アニメの原作がありシュンイチくらいの年代なら喜んで食い付く設定だ。しかもネットワーク通信をしていて友人と一緒に対人戦ができるのが売りの一つ。当時は出始めの上、人気ゲームなので大型ゲームセンターでは、順番待ちの整理券が出ていたくらいだ。
シュンイチはそのゲームをするために電車を乗り継ぎ、違う駅前のゲームセンターを二つも三つもはしごしながら遊び歩いていた。戦場ゲームなので軍隊階級がありそれを上げるのに必死だったシュンイチは、一日万単位でそのゲームにつぎ込むこともあった。ありがたいかそうではないのか、そのゲームは百回で登録カードが新しく作り替えられるから、お陰で後々シュンイチが幾ら費やしたか大体の計算が出来た位だ。
時には翌日仕事のアキコを明け方近くまで連れ回し、アニメも見ていないのに一緒にそのゲームをするようシュンイチは強制したりもした。結局は足りなくなった時の資金源として連れ歩かれていて、夜十一時過ぎのゲームセンターのベンチでジュースを呑みながらボンヤリと座っているアキコは周囲にどんな風に見えただろう。そんな時でもシュンイチ好みの極ミニスカートや編み上げのヒールの高いブーツを履かされ、下手したら露出してこいと恐ろしい命令が飛んでこないかと怯えながらシュンイチの顔色をアキコは伺っている。実際にはシュンイチより遥かに運転の上手いアキコは、常に現実の運転手として待機しているようなものなのだ。やがて小遣いをせびる子供のようにゲーム機から降りて後一回だけお金貸してと返される筈もない言葉で金銭をむしりとられ、アキコはそのままボンヤリとその場に眠気と戦いながら座り続ける。近郊にはもう一軒、後三時間ほど営業している店舗があるのがわかっていた。しかもそこはシュンイチの元職場の仲間も集まりやすく、そこに集合となれば最終的にはアキコが車で全員を送るために始発前の幾つもの駅を車で巡るのだ。

「アキ、いつものとこで待ち合わせたから。」

携帯を片手にそう言うシュンイチを無表情で見上げる。
今からのゲーム代金なんか無いでしょ?
それも私にたかる気なの?
あなたは遊ぶだけだからいいけど私は明日も仕事なの。
心のなかでそう言うが、決して口には出さない。家に帰って殴られるのも縛られるのも、この状態で辛いのはごめんだ。それよりはこうやって座って大人しく運転手をしている方がましなのだと分かっている。

「よし、行くか。」

疲れてる私の体を気遣うこともない。
あなたは、それが当然だと思ってるから。

「早くしろよ、ほら。」

言われなくたって分かってるよ、少しは歩きにくい靴を履かせてることを思い出せよ。
そう心の中で毒づいているのに、気がついていたようにシュンイチの表情が険しくなる。これ以上は危険なのでアキコはヨロヨロと動きを早め、それでシュンイチの険しかった顔が機嫌よく緩むのが分かった。
そんな暗澹たる日々が続いていた。
もう全ては変わる気配もない。
暗く重い世界になりつつある。
アキコにはもう何故そこまでして自分がその男につくすのかも分からなかったし、逃げだせばいいのに逃げ出す事すら考えられない自分の存在にも気が付いていた。

愛情ってどんなものをいうのかな?あたしもあなたも狂ってるんだ。

この関係が本当の愛情の形なのか、もうアキコには分からなかった。不安と恐怖とで支配されただけこの状態を愛情と呼んでもいいのか。しかももう今では愛情よりも深い憎しみが心の中には存在して、それが日々毒づき闇が深く育みだされている。
調教は勿論だったが夫婦という間でのただのセックスも、ただ苦痛なだけに塗り変わっていた。それでも乱暴に無理やり引きずり込まれる閨は時計の動く音を耳に過ぎ去るのを待つだけで、幸せどころか快楽すら感じられない完全な苦行だった。その上アキコは気持ちいいふりをしておかないと、ただのセックスすら突然の調教に変わる。一番最初のように痛みを快楽にすり替え、誤魔化すこともアキコにはもう出来ない。以前であれば痛みは後で褒められ与えられる快楽のスパイスのような思いだったけれど、今はただ苦痛は苦痛でしかなく快感すらも苦痛だった。一度は狂わされたあの薬も体を反応させはするが、心までは騙してくれない。雌豚、淫乱となじられるだけで心の芯が冷えて、蛇が腹の中で毒を吹き出し凍りつき快感が消し飛んでしまう。
もう一緒に居る時ですら、一時も安心も穏やかな気持ちにすらもなれない。その苦痛は過食嘔吐だけでなく、アキコにとって逃避的でもあった睡眠すらも彼のゲーセンのお供のせいで日々奪われ始めていた。それがアキコの体を更に急げに追い詰め初めていく。

それなのに逃げ出す事も誰かに訴えることすらもできない。

それがどうしてできないのか、なぜ自分がハマり込んだ泥沼から抜け出す事が出来ないでいるのか、悩み続けているのに答えは出てこない。
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