鵺の哭く刻

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潜伏期

33.

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どれだけ気分が浮つこうと職場の中でのタガアキコは、真面目で勤勉な看護師であり一職員だ。彼女は正看護師免許しかもっていないのだが、産科の助産師とは別にNICUのスタッフとして働いている。助産師というのは看護師の免許を取得した後に、数年別な専門学校や学科で勉強し免許を取得する必要があるのだ。同じように看護師を取得してから再び学校での単位を取得する必要があるのは、保険婦や養護教諭等があげられる。この当時はまだなかったが、後年ではケアマネージャーや認定看護師等というものも生まれるのだが、その話はここではアキコには関係しない。
兎も角NICUは新生児の集中治療室のようなもので、正常に分娩して産まれた新生児だけでなく、調子が悪くなってしまったり帝王切開で産まれた新生児や出産後まだ数時間の新生児が常にいる場所だ。そこは清潔や不潔の区分は厳格にされるのは勿論だし、ちょっとしたミスが命取りになり兼ねない気の張る職場でもある。

次は保育器のベビー……、向こうが遅れてる……、ここが終わったら手伝ってから…?

アキコは手際よく全てこなし周囲も見ながら自分の仕事を進め、必要であれば他のスタッフの言われずともヘルプに入れるようになっていた。そういう風に動くべきだと最初の勤め先だった別の科の病棟で厳しく教え込まれていたし、そう考えているから自然とそうなるのだ。だが、自分に厳しいとやはり他人にもつい厳しくなるものらしく、融通が聞かない面もあると思われている。
普通に分娩室での出産で産まれたばかりの新生児には、実は最初の水分として哺乳瓶で極薄い濃度の糖水を少量ずつ飲ませるのだ。保育器に入っている別な新生児のまだ臍帯と切り離されたばかりの臍を処置をしていたアキコの横で、昨夜産まれた新生児に糖水含ませていた同僚が思い出すように声をかけた。

「最近、丸くなったわよね。」

そう言われて、アキコは思わず「はい?」と声を上げてしまう。少し年上で現役の母親でもある同僚は飲み終わった新生児の背中を緩くさすりながら、その新生児の顔を見つめアキコには言葉だけを向ける。

「最近物腰が優しくなったわ。前は何だか尖ってたもの。」
「そ、そうですか?」

少し動揺しつつもアキコの手も止まらない。こんな風に話しながら処置をするのは良くないことだが、その言葉は内心微かな驚きになる。
世の中はだいぶ変わったが、それでも看護師の比率はまだ女性の方が勝る。
最近では精神科や脳外科・整形外科には患者を押さえるなどの緊急時のパワーの必要性もあり男性の看護師も配属されやすい。しかし、逆に産婦人科や新生児に伴って母親である産婦に関わる病棟では、男性看護師の配属はほぼみられないのだ。その常識に合わせるように今の病棟の同僚看護師は皆女性だった。そしてやはり、そういう勘の鋭さは女性特有なのかもしれない。

尖っている……。

確かにいわれてみれば仕事に厳しい自分は、他の人に比べても融通も効かないしそうかもしれないとアキコは苦い思いで感じた。隣に並んだ新生児に同じように糖水を含ませながら、その同僚があっけらかんと笑う。

「この間の休みだって、デートだったんでしょ?」
「えっと…………まぁ、そう、です……ね。」

何とも答えにくい状況だ。
デートであると言えばそうかもしれないがそうでもないとも言える。何しろ自分とシュンイチは恋人同士でもなければ、向こうには彼女すらいるのも分かっていた。つまり二股の浮気相手が自分なのだと、アキコにだって分かっている。そんな曖昧なアキコの返答だったが、同僚は勝手に納得したように同じように飲み終わった新生児の背中を緩くさすり新生児が盛大なげっぷをするのにカラカラと母親の笑いを溢す。

「いいんじゃないの~?……いい男ならさぁ。」

そういわれても、と内心思いながら曖昧な苦笑を浮かべアキコは保育器の新生児の体を拭き終えて元の保育器を整えると、保温機に任せていた新生児を戻しその扉を閉じる。室内には四台の保育器がいつでも使用できるように準備されているが今日動いているのは二台だけ。手早く次の保育器の新生児の処置の準備をしながら、何とはなしに同僚の言った言葉を考える。

いい男なら…………か。いい男ってなんだろう…………?

そんな事を頭の中だけで考えながらも、その手は休むことなく次々と仕事をこなしていく。保育器から保温機の下に新生児を移し体を綺麗に拭き、保育器を清潔に整え新生児を戻す。病児用の点滴の為に薬剤を準備したり、保育器の中の新生児の為に母親が搾って保存して置いてくれる母乳を加温気で温め準備する。必要であればお産の準備の手伝いもするし、お産があれば産まれた直後からの新生児の世話はアキコ達新生児室の看護師の仕事でもある。
何かをこんな風に考えていて勤まるわけではない。
そうは分かっていたが、思わず時々考えてしまうのも事実だ。

アキコは乞われるままに、また来月ヤネオシュンイチの元に行くことにしていた。

そのために既に来月の勤務では、準夜勤明けに連休を希望してもいる。看護師というものは夜勤等で交代勤務をするため、大概が前月に翌月の希望を出していて一月毎の勤務表を月末に受けとるのが通常だろう。クリニック勤務や外来勤務だけでなければ、こうして病棟には患者が常にいるのでカレンダー通りに休みなんて休める筈のない仕事なのだ。準夜勤というのは夕方十六時前後から、大体午前一時前後までの八時間勤務が多い。
つまり真夜中過ぎに仕事を終えて、その後また関東までの長い道のりを移動して行くのだ。最短は最寄りの新幹線の駅までは自家用車で一時間半、そこから新幹線で二時間弱。でも夜勤明けなので途中眠くなれば休憩も必要になってしまう。
勿論、前よりは少し時間は短くなったけれどチャットも電話も前と何も変わらない。彼と彼の彼女関係があの後どうなったのかは分からないまま、アキコとの関係は変わらずに続いているのだった。
病院によっては違うのだがアキコの勤めている病院で屋上にあがれるのが唯一職員の特権だったのは、以前事故があったらしく患者もその家族も出入りを禁止されているからだ。かといってドラマの様に看護助手が屋上で洗濯物を干すとかいうこともなく、ただ職員が気晴らしに来る程度の場所。何しろ地方の県立病院とはいえ病床数が五百床を超えるような総合病院なので、各階に洗濯機と乾燥機が設置されているのだから屋上に物干しとしての出番はない。
アキコは手の中の携帯電話を眺めながら、ボンヤリと潮風のそよぐ青空の下でそのメールに目を通した。休憩時間は後少し、日差しに辺りながらボンヤリ寛ぐには足りない。

《来週、何時頃に来る?》

噂のいい男?からのメール。
素直に何時もと同じ位に着くからと返事をして、食欲もなく紙パックのジュースを味気なくチュル……と啜った。先ほどの同僚の言葉が何だか耳に残る。

いい男ならいいんじゃない?

でも、≪いい男の定義≫ってなんだろう。と、アキコは考える。
若い同僚や同期看護師の中には医者を狙う人も多い。
医者といえばイメージは高学歴・高収入。
顔はおいておいても、医師といえば将来は安定している、それをいい男という人も世の中に多いのは事実だ。実際はそれほど高収入になる医師は稀だということは、看護師でも知らない人の方が多いというのもおかしな話しだけれど。医師の仕事も看護師と同じく厳しいし、個人医院で上手くいってもお金持ちといえるのは少ないもので、大体の若い医師は当直などのアルバイトでお金を稼いでいる。(これは過去のことで、現在はこのアルバイトはインターン制で禁止されている。)
実際アキコ自身も眼科のカネコ医師以外の医師から、あからさまにモーションをかけられてもいた。その医師は県中央の医大から派遣され各地を研修して歩いている状況で、ここ二年は同じ病院に勤め看護師寮の隣のあの医師官舎に住んでいる。しかし両親伴に医師でお坊ちゃまという恵まれた境遇でもあるお金持ちという話の医師は、『現地妻』が県内各地に居るという噂でもある。

『現地妻』

つまりはその土地に行ったときだけの恋人もしくは世話をやく妻というわけだ。転勤族の県の職員や医大派遣の医師達はゆくゆくは県中央で働くのを希望しているが、そこまでは県内各所を巡ることになる。現地妻はその先々にいて、医師の生活から何から何までお世話をするわけだ。勿論それこそ性的なことまで。

「たいして変わらないか………。」

現地でないだけで、自分がしていることもたいして変わらないのに気がついて笑ってしまう。お金持ちのお坊ちゃん医師の現地妻になりたい看護師は何人もいるらしく、先日は真夜中に駐車場なんて場所で生々しい雄叫びをあげていた。それを知っていても看護師も医師も、それを誰も止めるわけではない。それを知っていて断るアキコを、もったいないという同僚の真意は流石に測りかねる。

「ん…………。」

何とも表現しがたい気持ちになってアキコは思わず呻く。
自分とシュンイチの関係性は、そんな現地妻の関係よりも奇妙なのだ。二人の関係はただの浮気というよりは、性的嗜好のからんだマイノリティな関係なのだった。

彼女は…………マゾじゃないのかなぁ…………

そうなのだ。自分の事を被虐嗜好者として接しているシュンイチは加虐嗜好者なのであって、彼女はそれを知っているのだろうかと思う。何しろ自分だって日常にはそれを表には出さないで生きているのだから、シュンイチが同じだと言われてもおかしくはない。
だが、彼女はどうなのか。
ただ彼女もマゾならアキコの事を調教する必要はないのではとも思う。

そんなこと、私にはどうでもいい、…………かな?

そうは思っても、これはただのゲームと思うようにしていても、やはりアキコにしてみると何処か恋は恋なのだ。心の中では独り占めしたいし、本当はもっとずっと傍にいて一緒に居たいとも思う一面はある。こうしていると酷く恋しいのに、彼がすることが憎らしくも思えるのは、私がシュンイチに本気だからだろうとも考えた。
恋しいからこそ彼が彼女が居る事に嫉妬している。恋しいからこそ彼女とも寝ているだろうし甘い言葉をかけているだろうことに嫉妬した。にもかかわらず自分と寝て自分を可愛い等と言う彼の言葉が酷く憎らしい。

そんな風に思ってもいないくせに…………

それは歪な相反する思いだった。嬉しいのに妬ましい。アキコにとって初めての経験だからかもしれないが、相反する二つの感情をどう考えたらいいのかは分からない。そんなことを思いながら夏の盛りを過ぎて高くなりはじめた青空を見上げ、アキコは思い切り考えを吹っ切るように背筋を伸ばした。
まだ、一日は半分。
午後の仕事も忙しいのだから、こんな感情にかまけている暇はないのだ。そう思った瞬間手の中で、淡いホワイトの携帯がメール着信の振動を伝えた。

《今晩、話があるんだ。都合がいい時間を教えてくれる?》

今まで見たことのない奇妙な硬い感じをさせる彼からのメール。しかも話があるだなんて、思わせ振り過ぎて気になって仕方がなくなるとは思わないのか。そんなわけでそのメールに直前までの彼女の仕事への真摯な決心は、意図も簡単に無残に打ち砕かれてしまっていたのだった。

何やってんの……私ってば…………。

昼休みを終えてからの午後の仕事っぷりは、アキコ自身自分で言うのも何だが散々だった。当然だが新生児に何かしでかしたわけではないが、せっかく温めた粉ミルクの哺乳瓶を床に落とすわ、看護記録がマトモな文章にならないわ。集中力が散漫にもほどあるとアキコは深々と溜め息をつきながら、最後に残ってしまった看護記録をまとめようと苦心している。
こんなにもたった一つのメールが自分を動揺させるとは思っても見なかった。普段のアキコにあるまじきミスばかりだが、周囲が見ても見ぬふりで何を言うでもないのが僅かな救いではある。
まぁ、陰で何を言っているかは別としてだが。残った仕事を何とか仕上げて帰途に着いたアキコは、一先ず駐車場の車に乗り込むと気を取り直すようにシュンイチにメールを打った。

《この後は家にいるから何時でもいいよ。》

暫くその場で携帯を見下ろして待つが、そのメールにシュンイチから返事は来ない。恐らくシュンイチは、今は塾で先生になっている時間なのだ。品行方正に小学生から中学生を対象にした国語と社会を教える塾の先生。時には数学も理科も教えるというから、結局は英語以外は何でもできるということなのだろうとアキコは考えていた。
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