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感染
11.
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自分が他人から友人を奪った
その言葉に自分が奪うものだと知らされたその日から、楽しく過ごしていた筈の日々は闇に暗転して地獄に変わった。アキコはminorityでmajorityではなかったから、クラスでの変化は激しくクラスの中は一変していく。
女王様のメグミの指示でクラスの女子が、アヤ一人を除き全員がアキコの敵になっていた。そしてあからさまな迫害という、虐めが始まったのだ。同時に同じ教室にいる男子達は虐められているアキコを面白そうに眺め、男子の一部は以前からつるむメグミのグループに加わっていた。
虐めの本質は本能だ。
群れになって生きるという人間の動物の本能が、リーダーの意にそぐわない者を排除する。それはリーダーを脅かす優秀な能力がある存在を排除する目的の時もあるし、弱く遺伝子を残すに値しない時の事もある。始まりの理由はともあれ、虐めは始まってしまったら終結するのは難しい。容易く終結する方法がないのは、数学や理科のような明確な答えが人間の感情には存在しないからだろう。
気に入らなければ、気が済むまで虐めは終わらない…………
あっという間にノートや教科書はズタズタになり、机の中は知らない内に様々なゴミが詰め込まれる。内履きは朝になるとあのメモを捨てた屑入れに棄てられたり、どこかに消えたりしていた。しかもアキコは子供だったからそれをどう対応していいか分からなくて、それが更に彼女たちの勘に障るとも考えずに表だって担任の女教師に相談してしまったのだ。今ならそれが最も最悪な手段だったというのは分かるが、当時のアキコにはそれ以外の方法が思い浮かばなかった。
ヨシダノブコという女教師は、当時まだ三十代になったばかりだったと思う。
そして、初めて副担任から担任になったばかりのまだ未成熟な教師だった。そんな状態でクラスの七割近くが絡む虐めを、上手く裁けるはずがない。ベテランだとしても昨今の虐めの解決の難しさは手に余ることだ。
そう、今だったら理解はできる。理解は……だ。
女教師は直接対応するのではなく、長い休憩時間の際はアキコを職員室に呼び出し形を変えて保護した。何らかの理由でアキコを叱っているようにみせるため、職員室の冷たい床に正座させて時間を潰したのだ。日に何回も職員室にくるアキコを訝しげに思う教師もあったろうし、それが女教師の考えたあからさまな保護であると女王様にばれるのにたいした時間はかからなかった。
再び下駄箱の中に朝一番でメモが置かれている。
以前と少し違うのは、そのメモの下にアキコの内履きが無いこと位だ。アキコは溜め息のような深く重い吐息を溢してから、震える指先でそれをソッと開く。そこにあった前回と同じ文面に、目の前が暗くなって眩暈がしたのを覚えている。
嫌だし怖い。
次にあの場所にいって何をされるのか分からないと、素直にアキコは思った。だから正直に『嫌です』とそのメモに付け足すように震える字で書いた。今思えばなんと馬鹿正直だろうと思うが、そう書いてアキコは女王様の下駄箱にそれをそっと置いた。
今日一日をなんとかしのいで、一番に逃げ帰る。
それだけを目標に、休憩に入ったら脱兎のごとく職員室に逃げる。そう、自分の中でスケジュールをたてて、アキコは一日をなんとか凌ぎきろうとしていた。だが既に朝のホームルームが始まった時点で、ヒソヒソとアキコがしたことを伝えあっているクラスメイトの声に気がついていた。
怖い。
心の中で何度も自分がそういう。教室の中に満ちる張り詰めた不穏な空気に心底怯えながら、アキコは必死に恐怖に耐え続ける。
怖い。
何かが起きそうな気がする。
怖い。怖い。
休憩時間の挨拶もソコソコに教師よりも早く教室を飛び出し、職員室に息を切らせて飛び込む。次の教科の教師が教室の扉に手をかけるのとほぼ同時に教室の中で、座面を払い擦るようにして貼り付けられたセロテープとそれに中空へ向けて突き出された針の見える画ビョウを払い落とす。そうすると、更に視線が悪意を伴って身体中に刺さってくる。
怖い。怖い。怖い。
過剰な不安と恐怖感が次第に心に付加をかけていく。やっとのことで、昼の休憩を終え残りの教科はあと一つ、自分達の担任が受け持つ家庭科の授業だけだった。しかし授業が始まった途端、授業自体が完全に崩壊した。
今で言えば学級崩壊なのだろう。目の前の担任教師のことを、クラスメイトは教師だとはみていない。彼女をあからさまに馬鹿にして、真面目に授業さえ受けないクラスメイトはそれぞれに大声で喋り笑う。その中で授業をするのは担任もとてつもなく苦痛だったろう。だけど、同時に授業の形をなさないその時間は、アキコにとっても最悪の時間だった。最初の内は消ゴムの小さな塊を投げつけられ、ヒソヒソと陰口をたたかれるだけだった。次第に教師が止められないのをいいことに、あからさまに大きな声で悪態をつか始めている。
「きちがい!」
「はは!オバケが見える~っ!」
アキコが小学校時代に折に触れて何を口にしていたか、虐めの主体になっている元同級生達が伝えたのだろう。散々に嗤い囃し立てながら、オカルトに関した悪態があからさまに聞こえ始めた。
言われなくても……
自分が普通ではなかったのは分かっているから、アキコは聞きたくなくて視線を黒板から手元に下げる。ヨシダのチョークが文字を書き記す黒板を見ている生徒はほんの僅かしかいないが、そこまで何度も何度も黒板から振り返った担任には周囲の手に終えない状況もアキコの助けを求める視線も見えているのは分かっていた。何度もアキコと目があっているのに、先に慌てて視線をそらしたのは女教師の方だったから。
どうせ彼女には何も出来ない。
育ち始めた中学二年の集団の力を押さえ込むほどの能力は、目の前の女教師には全くない。それにこの事態に対応する策もなければ助力を仰ぐ事すら彼女はしていないから、この時間を何とか堪えて逃げ帰るだけ。自転車で来ていれば良かったけれど、最悪徒歩で逃げ帰ってもいいから、この場を切り抜ける事だけを今は考える。
不意に視界に影が射して、目の前の席の生徒が腰を浮かしたのに気がついた。担任が教壇から降りたのかと視線を浮かすと、視線の先には教壇で必死に黒板にチョークを走らせる担任。それを見ているのはほんの何人かで、後は友達同士戯れ大騒ぎしているクラスメイト達。そして自分の目の前には残忍な笑顔を浮かべ、アキコを見下ろす女王様がいた。目の前の席の生徒を退けさせたのがメグミであることに気がつき、アキコの血の気が一気にひいていく。
カタン
軽い椅子の音の後で視線を俯かせるアキコと内緒話でもするように、メグミは前の席からアキコの机に片腕をのせて身を乗り出した。
「おまえのこと」
氷のように背筋がヒヤリとする猫なで声が、視線を自分の手に落としたアキコの頭の向こうから落ちてくる。顔もみていないのに柔らかい笑いを含んだ氷の声が知ってるぞと言う。
「オバケが見える、靄みたいな……黒い靄。」
弾かれたようにハッとして顔をあげたアキコと、目の前の女王様の視線がかち合う。それは、メグミにとっても予期しなかったことのようだった。思ったよりも長く無言のまま互いの腹の底を覗きこむように、メグミと見つめあったような気がする。と言うよりもアキコの方がメグミの顔を硝子玉のような温度のない瞳で覗きこんで、あの男の蛇のようなゾッとする視線で凍らせていく。
奥の奥の…………お前の中にある……一番……怯えて、見られたくない……
何故かそんな文句が頭の中に浮かび上がって、物語を読む時にアキコの頭の中で繰り広げられる登場人物達の会話のように。それは目の前のメグミの声に変わり、そしてアキコの考えとは離れて何かを
比べないでよ、アズサと
そう、目の前の女王様が、女王なのはこのクラスの中だけ。
メグミには同じ学年に双子の妹・アズサがいたのだ。それは二年目の中学生活なのだから薄々は知り得たことだが、アキコはアズサどころかメグミのことだって詳しく知る立場にはいない。それなのに
比べないで!アズサと!!
双子の妹の方が学力も運動も出来て彼女は何時も妹と比較され、苛立ち、それでも姉なのにと両親から叱責され……何度も同じ言葉を頭の中のメグミが叫び、それはカノジョノ目の奥で憎悪の炎になって揺れる。
それを見抜いていくアキコに、見つめあっていた彼女の瞳の奥が不安に揺らいだ。アキコに覗かれているのに気がついたみたいに、鮮やかにメグミの恐怖がその瞳の中に広がっていく。
「………………くらべないで、あずさと…………。」
メグミにしか聞こえない程低く微かに囁く。囁かれたアキコの言葉に、目の前のメグミの体がギクリと震える。蛇に睨まれた蛙のようにアキコの硝子玉の瞳から逃げられず、メグミの顔がサッと青ざめていく。
覗かれると怖い。
窓の隙間から片眼が瞬きもせずに覗きこむのも、視線が撫でる感触も怖い。怖い。頭の中には怖いという言葉と、奇妙なほどに不貞腐れ怯えるメグミの声が言葉を発し続けている。同じ日に産まれ、たった数秒の差で姉になったが、身につけて出てきた能力が均等ではない憎悪。自分にも与えられるはずだった学力と運動神経と……
「……ばかり…………あずさ……なんか……。」
頭の中のメグミの言葉をトレースした途端、女王様の表情は何故か不機嫌に歪んで、更に恐怖に怯えるように虚勢を張った。
「バケモノ!!キチガイ!」
教室の中に響く大きな叫び声と一緒に自分の机を蹴りあげられて、叫ばれた言葉がどうかよりも机を蹴られたのがどうかよりもアキコは不安と恐怖感が自分自身の心の中で膨れ上がったのを感じていた。何故メグミの妹のことなんて考えたのか。確かに彼女は双子だし、同じ学年にアズサという妹がいる。だけどその彼女の学力なんか知る筈がないし、メグミですら交流がないのに妹がアズサというのすら知らないのに。
それに、バケモノ。
彼女がそう口にしたのは、アキコが絶対に知らないことを口にしたからだ。
それにキチガイ。
自分何者なのか、呪われた人間は化け物で気が狂うのだろうか。
プツンと何かが切れたような気がした。
スイッチがオフになったような、そんな暗転。
※※※
足元から何故か水に飲まれていくような感覚がしていた。
意識はプツリと途切れて、目の前には何故かあの菜の花畑が広がっていく。これが何を意味するのかも分からないし、これがマトモなことなのかも分からないでいる。それでも足元からヌルリと何かが這い登って来る感触だけが、意識の中だけで感じ取れていた。肌の上を何かが這って、足首を滑り、ズルズルと上がってくる。
蛇…………
そう、そう例えるのが一番適当な感触が、足首からズルズルと音もたてずに太ももに這い上がった。ヒンヤリと濡れた感触だけが足から這い上がり、太ももに巻き付く。痛みもないし締め付けられる感触もないのに、それはジリジリ上がってきて腰の辺りに巻き付いてくる。素肌ではないのに、肌を這う感触が全身を震えさせていた。
蛇だ…………
祖母が殺したという蛇。どんな蛇なのか、どんな大きさなのかも知らないが、それは何故かまるで子供の腕のような太さに感じる。それが腰の括れを締め付けながら、胸元まで頭を這わせていくのが感じられた。それなのに何故か目の前の世界には自分の顔がプカリと闇に浮かんで、アキコの目を真っ直ぐに覗き込む。青ざめ能面のように感情のない、自分の顔が闇の中にユラリユラリと揺れながら浮いている。
あれは、私の顔……?
本当に自分の顔なのかと見つめるが、能面の顔は変わらない位置で揺れていた。
と、突然その能面の顔が口角をヒュと吊り上げ笑みを形作るのに、アキコは思わず息を詰めて闇の中の顔を見つめる。闇の中のアキコの顔がニィと口角をあげて笑い、その顔が闇の中から競り出す。
ヒョゥ…………
歪んだ口角から漏れるひきつるような掠れた笑い。それはニタリと笑いながら、アキコの顔を更に覗き込む。
悪い者には罰が…………
目の前で自分の顔が笑いながらそういうのに、アキコは呆然と菜の花畑の中に立ち尽くし足を水に浸して凍りつく。悪い者には罰と口にしたが、その悪い者は誰のことなのだろうか。自分を虐める者達のことなのか、それを無視した者のことなのか、それとも悪い者として産まれた自分自身のことなのか。
もし、私のことを言うのなら…………罰は何が与えられるというの?
そう、菜の花畑の中でアキコは戸惑いながら、目の前の歪んだ笑いを浮かべる自分の顔に向かって問いかけていた。
その言葉に自分が奪うものだと知らされたその日から、楽しく過ごしていた筈の日々は闇に暗転して地獄に変わった。アキコはminorityでmajorityではなかったから、クラスでの変化は激しくクラスの中は一変していく。
女王様のメグミの指示でクラスの女子が、アヤ一人を除き全員がアキコの敵になっていた。そしてあからさまな迫害という、虐めが始まったのだ。同時に同じ教室にいる男子達は虐められているアキコを面白そうに眺め、男子の一部は以前からつるむメグミのグループに加わっていた。
虐めの本質は本能だ。
群れになって生きるという人間の動物の本能が、リーダーの意にそぐわない者を排除する。それはリーダーを脅かす優秀な能力がある存在を排除する目的の時もあるし、弱く遺伝子を残すに値しない時の事もある。始まりの理由はともあれ、虐めは始まってしまったら終結するのは難しい。容易く終結する方法がないのは、数学や理科のような明確な答えが人間の感情には存在しないからだろう。
気に入らなければ、気が済むまで虐めは終わらない…………
あっという間にノートや教科書はズタズタになり、机の中は知らない内に様々なゴミが詰め込まれる。内履きは朝になるとあのメモを捨てた屑入れに棄てられたり、どこかに消えたりしていた。しかもアキコは子供だったからそれをどう対応していいか分からなくて、それが更に彼女たちの勘に障るとも考えずに表だって担任の女教師に相談してしまったのだ。今ならそれが最も最悪な手段だったというのは分かるが、当時のアキコにはそれ以外の方法が思い浮かばなかった。
ヨシダノブコという女教師は、当時まだ三十代になったばかりだったと思う。
そして、初めて副担任から担任になったばかりのまだ未成熟な教師だった。そんな状態でクラスの七割近くが絡む虐めを、上手く裁けるはずがない。ベテランだとしても昨今の虐めの解決の難しさは手に余ることだ。
そう、今だったら理解はできる。理解は……だ。
女教師は直接対応するのではなく、長い休憩時間の際はアキコを職員室に呼び出し形を変えて保護した。何らかの理由でアキコを叱っているようにみせるため、職員室の冷たい床に正座させて時間を潰したのだ。日に何回も職員室にくるアキコを訝しげに思う教師もあったろうし、それが女教師の考えたあからさまな保護であると女王様にばれるのにたいした時間はかからなかった。
再び下駄箱の中に朝一番でメモが置かれている。
以前と少し違うのは、そのメモの下にアキコの内履きが無いこと位だ。アキコは溜め息のような深く重い吐息を溢してから、震える指先でそれをソッと開く。そこにあった前回と同じ文面に、目の前が暗くなって眩暈がしたのを覚えている。
嫌だし怖い。
次にあの場所にいって何をされるのか分からないと、素直にアキコは思った。だから正直に『嫌です』とそのメモに付け足すように震える字で書いた。今思えばなんと馬鹿正直だろうと思うが、そう書いてアキコは女王様の下駄箱にそれをそっと置いた。
今日一日をなんとかしのいで、一番に逃げ帰る。
それだけを目標に、休憩に入ったら脱兎のごとく職員室に逃げる。そう、自分の中でスケジュールをたてて、アキコは一日をなんとか凌ぎきろうとしていた。だが既に朝のホームルームが始まった時点で、ヒソヒソとアキコがしたことを伝えあっているクラスメイトの声に気がついていた。
怖い。
心の中で何度も自分がそういう。教室の中に満ちる張り詰めた不穏な空気に心底怯えながら、アキコは必死に恐怖に耐え続ける。
怖い。
何かが起きそうな気がする。
怖い。怖い。
休憩時間の挨拶もソコソコに教師よりも早く教室を飛び出し、職員室に息を切らせて飛び込む。次の教科の教師が教室の扉に手をかけるのとほぼ同時に教室の中で、座面を払い擦るようにして貼り付けられたセロテープとそれに中空へ向けて突き出された針の見える画ビョウを払い落とす。そうすると、更に視線が悪意を伴って身体中に刺さってくる。
怖い。怖い。怖い。
過剰な不安と恐怖感が次第に心に付加をかけていく。やっとのことで、昼の休憩を終え残りの教科はあと一つ、自分達の担任が受け持つ家庭科の授業だけだった。しかし授業が始まった途端、授業自体が完全に崩壊した。
今で言えば学級崩壊なのだろう。目の前の担任教師のことを、クラスメイトは教師だとはみていない。彼女をあからさまに馬鹿にして、真面目に授業さえ受けないクラスメイトはそれぞれに大声で喋り笑う。その中で授業をするのは担任もとてつもなく苦痛だったろう。だけど、同時に授業の形をなさないその時間は、アキコにとっても最悪の時間だった。最初の内は消ゴムの小さな塊を投げつけられ、ヒソヒソと陰口をたたかれるだけだった。次第に教師が止められないのをいいことに、あからさまに大きな声で悪態をつか始めている。
「きちがい!」
「はは!オバケが見える~っ!」
アキコが小学校時代に折に触れて何を口にしていたか、虐めの主体になっている元同級生達が伝えたのだろう。散々に嗤い囃し立てながら、オカルトに関した悪態があからさまに聞こえ始めた。
言われなくても……
自分が普通ではなかったのは分かっているから、アキコは聞きたくなくて視線を黒板から手元に下げる。ヨシダのチョークが文字を書き記す黒板を見ている生徒はほんの僅かしかいないが、そこまで何度も何度も黒板から振り返った担任には周囲の手に終えない状況もアキコの助けを求める視線も見えているのは分かっていた。何度もアキコと目があっているのに、先に慌てて視線をそらしたのは女教師の方だったから。
どうせ彼女には何も出来ない。
育ち始めた中学二年の集団の力を押さえ込むほどの能力は、目の前の女教師には全くない。それにこの事態に対応する策もなければ助力を仰ぐ事すら彼女はしていないから、この時間を何とか堪えて逃げ帰るだけ。自転車で来ていれば良かったけれど、最悪徒歩で逃げ帰ってもいいから、この場を切り抜ける事だけを今は考える。
不意に視界に影が射して、目の前の席の生徒が腰を浮かしたのに気がついた。担任が教壇から降りたのかと視線を浮かすと、視線の先には教壇で必死に黒板にチョークを走らせる担任。それを見ているのはほんの何人かで、後は友達同士戯れ大騒ぎしているクラスメイト達。そして自分の目の前には残忍な笑顔を浮かべ、アキコを見下ろす女王様がいた。目の前の席の生徒を退けさせたのがメグミであることに気がつき、アキコの血の気が一気にひいていく。
カタン
軽い椅子の音の後で視線を俯かせるアキコと内緒話でもするように、メグミは前の席からアキコの机に片腕をのせて身を乗り出した。
「おまえのこと」
氷のように背筋がヒヤリとする猫なで声が、視線を自分の手に落としたアキコの頭の向こうから落ちてくる。顔もみていないのに柔らかい笑いを含んだ氷の声が知ってるぞと言う。
「オバケが見える、靄みたいな……黒い靄。」
弾かれたようにハッとして顔をあげたアキコと、目の前の女王様の視線がかち合う。それは、メグミにとっても予期しなかったことのようだった。思ったよりも長く無言のまま互いの腹の底を覗きこむように、メグミと見つめあったような気がする。と言うよりもアキコの方がメグミの顔を硝子玉のような温度のない瞳で覗きこんで、あの男の蛇のようなゾッとする視線で凍らせていく。
奥の奥の…………お前の中にある……一番……怯えて、見られたくない……
何故かそんな文句が頭の中に浮かび上がって、物語を読む時にアキコの頭の中で繰り広げられる登場人物達の会話のように。それは目の前のメグミの声に変わり、そしてアキコの考えとは離れて何かを
比べないでよ、アズサと
そう、目の前の女王様が、女王なのはこのクラスの中だけ。
メグミには同じ学年に双子の妹・アズサがいたのだ。それは二年目の中学生活なのだから薄々は知り得たことだが、アキコはアズサどころかメグミのことだって詳しく知る立場にはいない。それなのに
比べないで!アズサと!!
双子の妹の方が学力も運動も出来て彼女は何時も妹と比較され、苛立ち、それでも姉なのにと両親から叱責され……何度も同じ言葉を頭の中のメグミが叫び、それはカノジョノ目の奥で憎悪の炎になって揺れる。
それを見抜いていくアキコに、見つめあっていた彼女の瞳の奥が不安に揺らいだ。アキコに覗かれているのに気がついたみたいに、鮮やかにメグミの恐怖がその瞳の中に広がっていく。
「………………くらべないで、あずさと…………。」
メグミにしか聞こえない程低く微かに囁く。囁かれたアキコの言葉に、目の前のメグミの体がギクリと震える。蛇に睨まれた蛙のようにアキコの硝子玉の瞳から逃げられず、メグミの顔がサッと青ざめていく。
覗かれると怖い。
窓の隙間から片眼が瞬きもせずに覗きこむのも、視線が撫でる感触も怖い。怖い。頭の中には怖いという言葉と、奇妙なほどに不貞腐れ怯えるメグミの声が言葉を発し続けている。同じ日に産まれ、たった数秒の差で姉になったが、身につけて出てきた能力が均等ではない憎悪。自分にも与えられるはずだった学力と運動神経と……
「……ばかり…………あずさ……なんか……。」
頭の中のメグミの言葉をトレースした途端、女王様の表情は何故か不機嫌に歪んで、更に恐怖に怯えるように虚勢を張った。
「バケモノ!!キチガイ!」
教室の中に響く大きな叫び声と一緒に自分の机を蹴りあげられて、叫ばれた言葉がどうかよりも机を蹴られたのがどうかよりもアキコは不安と恐怖感が自分自身の心の中で膨れ上がったのを感じていた。何故メグミの妹のことなんて考えたのか。確かに彼女は双子だし、同じ学年にアズサという妹がいる。だけどその彼女の学力なんか知る筈がないし、メグミですら交流がないのに妹がアズサというのすら知らないのに。
それに、バケモノ。
彼女がそう口にしたのは、アキコが絶対に知らないことを口にしたからだ。
それにキチガイ。
自分何者なのか、呪われた人間は化け物で気が狂うのだろうか。
プツンと何かが切れたような気がした。
スイッチがオフになったような、そんな暗転。
※※※
足元から何故か水に飲まれていくような感覚がしていた。
意識はプツリと途切れて、目の前には何故かあの菜の花畑が広がっていく。これが何を意味するのかも分からないし、これがマトモなことなのかも分からないでいる。それでも足元からヌルリと何かが這い登って来る感触だけが、意識の中だけで感じ取れていた。肌の上を何かが這って、足首を滑り、ズルズルと上がってくる。
蛇…………
そう、そう例えるのが一番適当な感触が、足首からズルズルと音もたてずに太ももに這い上がった。ヒンヤリと濡れた感触だけが足から這い上がり、太ももに巻き付く。痛みもないし締め付けられる感触もないのに、それはジリジリ上がってきて腰の辺りに巻き付いてくる。素肌ではないのに、肌を這う感触が全身を震えさせていた。
蛇だ…………
祖母が殺したという蛇。どんな蛇なのか、どんな大きさなのかも知らないが、それは何故かまるで子供の腕のような太さに感じる。それが腰の括れを締め付けながら、胸元まで頭を這わせていくのが感じられた。それなのに何故か目の前の世界には自分の顔がプカリと闇に浮かんで、アキコの目を真っ直ぐに覗き込む。青ざめ能面のように感情のない、自分の顔が闇の中にユラリユラリと揺れながら浮いている。
あれは、私の顔……?
本当に自分の顔なのかと見つめるが、能面の顔は変わらない位置で揺れていた。
と、突然その能面の顔が口角をヒュと吊り上げ笑みを形作るのに、アキコは思わず息を詰めて闇の中の顔を見つめる。闇の中のアキコの顔がニィと口角をあげて笑い、その顔が闇の中から競り出す。
ヒョゥ…………
歪んだ口角から漏れるひきつるような掠れた笑い。それはニタリと笑いながら、アキコの顔を更に覗き込む。
悪い者には罰が…………
目の前で自分の顔が笑いながらそういうのに、アキコは呆然と菜の花畑の中に立ち尽くし足を水に浸して凍りつく。悪い者には罰と口にしたが、その悪い者は誰のことなのだろうか。自分を虐める者達のことなのか、それを無視した者のことなのか、それとも悪い者として産まれた自分自身のことなのか。
もし、私のことを言うのなら…………罰は何が与えられるというの?
そう、菜の花畑の中でアキコは戸惑いながら、目の前の歪んだ笑いを浮かべる自分の顔に向かって問いかけていた。
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