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感染
2.
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そうしてアキコが、小学校五年になった頃。
読書家なのは変わらず小学校の図書館の膨大な筈の書籍の八割を読破して、残りの二割には一気に興味が無くなった。その残りの二割の書籍の大半は、恋愛等を題材にしたライトノベルや宗教に関したものだ。
「心酔したり、相手を好きって気持ちが理解できない。」
恋愛小説を手にしてみてアキコはそう呟く。アキコ自身は同じクラスの男の子が気にはなっていたけれど、それが初恋かといわれると頷けないでいる。他の女子のように誰かをかっこいいとも感じないし、誰かに惹かれているとも感じない。
一見すれば日本人形のような艶やかな黒髪と、整った顔立ち、ハッキリとした二重の黒目勝ちの瞳。
意図して微笑めば直ぐに誰かが恋に落ちそうな見た目なのにアキコには何一つそんな噂がたたないのは、アキコ自身がそれに興味をまるで示さないからだと当人すら気がつかずにいる。
そんな彼女は新しく赴任した若い担任が教室に私費で設置した学級文庫というものに、その興味をすっかり移したようだった。この学級文庫が珍しかったのは置かれているのがよくある小説や伝記物ではなく、ほぼ漫画だったことだろう。教師にしては珍しいことに、そこに置かれたのは不死鳥を主題にしたシリーズもの、異世界のような未来に小学校ごとタイムスリップしてしまうもの、無免許の医師が法外な料金で人を助けるもの。
子供用のご都合主義な恋愛小説や辻褄があわない物語には興味は完全に失せていたが、漫画となると話しは別だった。荒唐無稽に見えても絵で見るものには、今までと違う側面がある。今までとは違う別世界での出来事のように、アキコは毎日教室の後ろで学級文庫の棚の前の床に座り居残までして何度も繰り返してそれを読み尽くしていた。
「タガ、もう下校時間だぞ?」
「センセ、これって……何で選んだの?」
まだ二十代後半の若い長身の教師は、床に座り込んで不死鳥の舞う物語を眺めながら顔をあげたアキコを見下ろす。学校の教師が文字ではなく漫画を奨めるなんて、それまでのアキコには経験がなかったし当時としてもかなり異質なタイプの教師だったのは事実だ。廊下からの窓越しにアキコを見下ろしながら、教師は少し微笑みながら頬杖をつく。
「何でかぁ…………はじめて聞かれたな。」
教師になってから八年ほど。その内の何年もこうして赴任先に学級文庫と名目してきたが、親御さんから漫画を生徒に薦めることを否定されることはあっても、実は生徒がこうしてこの文庫に関して問いかけてくるのは珍しかった。しかも、何故これを選んだのかなんて問いかけはされたことがない。
「先生は昔、病弱でよく入院しててなぁ………。」
呼吸器疾患を持つ人間と言うのは、呼吸をするだけでかなりエネルギーを使うことになるから大概は痩せぎすになる。アキコにはまだ理解出来ないことだったがアキコを見下ろす目の前の教師も年齢は若いのにやはり骨と皮ばかりの痩せぎすで、実は幼い頃から重度の喘息を患って何度も入退院を繰り返してきたのだった。
「ベットの上で…………これをな、読んでたんだ。」
幼い頃からの長い長い闘病の中で、永遠の命を持つ不死鳥の物語や冒険の中に生きる同じ年頃の少年達の物語を読む自分がいた。そしてその先に何でも治してくれる医者の物語を見つめて、この医師が今ここに現れて自分を治すと告げてはくれないかと何度も期待し続けてきたのだ。それが夢物語に過ぎないと知っても大人になって、幼い頃の自分を思い浮かべる度に希望を持たせてくれたものを夢と棄てることはできない。それが何時しか真実になるかもしれないと思うし、今もこれを見ると読むと希望がわく。そんなものを生徒にも見つけてほしいと思うから、密かに何処に赴任しても新たに書籍を買い揃えてこれを残してきた。
「勿論小説とかも面白いが、漫画は週刊紙とか月刊で次が出るのが早いだろ?で、こういうのをワクワクしながら読んだ。」
「漫画は…………文字と違って光景が描いてる人の世界なんだね…………。」
目の前の少女の前の担任は、彼女のことを薄気味悪そうに『異常』と評価したのを青年教師はふと思い出した。見上げてくる顔立ちはあどけなくて異常とは思えないが、その瞳は自分の言葉に興味を示したように僅かに光る。何度も読まなくても覚えてしまうというらしいが、漫画は嫌と言うほどに繰り返して読んでいて前担任の言うような様子には見えない。だが、その理由が今の言葉で理解できた気がした。
タガアキコは文字を全て映像に置き換えて読む。
だから一度読んだ書籍の中身を映像にして、頭の中で再生するのだろう。
小説はそうできても、漫画は既に他の誰かの映像を描いたものだから同じようにできない。ある意味では特異な能力とも言えるが元々文字を読むことに長けていて、それを無意識に伸ばし続けた結果なのだろう。読書もある意味では訓練なのだから特に異常なわけではないが、ここら辺の子供には珍しいタイプであるのは事実だった。
「小説もそうだろ?」
「でも頭の中の世界は、私のだもん…………。」
再生する映像が自分が作ったものだから、そういいたいのだとわかると彼女も別段特殊ではない。
「でも、………何で学級文庫なの?」
「んー、小説は読みなれてないと楽しくないからかな。タガは何でも読めるみたいだけど、今は読書に慣れない子の方が多い。人は感じかたもそれぞれだしな。」
「そうなんだ………。」
これだって嫌いって奴等も多いし、親から苦情もあると教師が笑いながら言う。自分が読みたいと訴えても低学年の時には担任から拒絶され女教師から不快そうに扱われた記憶があるアキコは、予想だにしない教師の言葉に視線を下げた。確かに人の感じ方はまるでちがって、この教師はアキコを気持ち悪いとは思わないようだ。しかもそんな風に外部から苦情がきてるのに教師がこれをやめないと言うのは、正直アキコにも不思議な返事だった。苦情を言われてまで漫画をおいておく彼は、これに何を感じているのかアキコにはまだ理解しかねる。
「………そんな、嫌な思いするなら、やめたらいいのに。」
「それは人それぞれの考え方だからなぁ。」
穏やかに笑いながら言う青年をもう一度見上げてアキコが首をかしげると、青年教師は思いついたように微笑みながら口を開く。
「……タガ、読むだけじゃなくて、自分で物語を作ってみたらどうだ?」
予想しない言葉にアキコが僅かに黒目勝ちの目を丸くする。他人の作る世界を貪るように読むことはしてきたのだが、自分で物語を作るなんてことはまだ一度も考えたことがなかったのだ。
「作る?」
「お前は周りをよく見てるし、本も沢山読んでる。他の人を惹き付ける話が作れるんじゃないか?」
何気なく、そして微笑みながら教師に言われた言葉にアキコは、手元の本を見下ろして自分が何かを創造することを考える。そうしてアキコは漫画のような物語だけでなく小説にしても、話を作るのに頭の中にはその場面の情景を浮かび上がらせ、文字や絵でそれを表現する事を繰り返す。そんなアキコの様子を青年教師は不快とは感じずに、アキコのちょっとした特徴のひとつで好ましいものと捉えたのだった。
「タガ、これも面白いぞ?」
そんなアキコに青年教師は別な書籍を手渡して、時々は授業中に物語を作って遊ぶアキコの頭を叩く。授業中と何度も言われたが、それでも放課後には自分が幼い頃に読んだものや今もお気に入りの書籍を貸してくれるのだ。もしここで自分がこう見ていたら……そんなことを空想する事が次第にアキコの一番の楽しみの一つに変わっていく。だがそれはある意味では他の子達とは異質な事だと気がついた時には遅かった。
「いっつもアキコだけ、先生に本もらってる。」
「貰ってない、借りてるだけ。」
「気持ち悪!センセにごますり!!」
同じ年頃の子供達には、アキコが教師から次々と本を借りていたのは異質に見えていたのに気がつかなかったのだ。しかもそれはアキコを依怙贔屓しているともとられ、次第にアキコは孤立感を感じるようになっていた。
それから暫くして若い教師は、急に持病の喘息のために学校から姿を消した。
※※※
夕暮れの赤い空を見上げてアキコは何も話すこともなく姿を消した若い教師のことを考えながら、自分が作り上げた空想の世界を見渡して考える。見たこともない見事な菜の花が咲き誇る、一面が黄色一色に染められた絨毯。それを照らす茜色の夕暮れは菜の花の咲く時季の日差しではなく、そぐわない赤に染められた空。
先生が教えてくれた
自分で世界を空想することと空想の中の世界は様々に彩りを変えて、アキコの頭の中で広大に広がっていく。その世界の中ではアキコは全能の存在で何もかもが思う通りになることを教えたのは、姿を消したあの教師の言葉だった。教師が病で入院したのは聞いたが、何時治癒するのか、何時になったら戻ってくるのかは誰も知らなかったし、どこ入院しているのかも知らないまま。
広大な菜の花畑を照らす、夕暮れの赤い光と宵の闇
実際には見えない筈の世界の広がりを心と頭の中で確かめ、まるで直に見ているようにアキコは眼を細める。キュウと目の奥が狭まり点を見るように集中する瞳が僅かに異様な輝きを放ちはじめているのに、当のアキコ自身はまだ気がつかないでいた。アキコの瞳は実際にはない世界を見透かしていて、空想の筈の頭の中の映像があまりにも鮮明な理由も考えたことすらない。
そして今そこにはアキコの前から姿を消した若い教師が無表情で立ち尽くしていて、アキコは風に音をたてて揺れる菜の花のザァッという鳴き声を聞いていた。
ここは、異郷
アキコの頭の中に産み出された異郷に、アキコの前から消えた青年教師がいる。それだけのことだとアキコは眼を細めて息もつかずに考え、そして彼が何かを言うのではないかと眼を細めた。ピリピリと空気が震えて、耳にはある筈のない菜の花の立てる音が響き渡る。花すらも散らず、華の香りもしないのに、目の前に広がる菜の花畑の遠く向こうに巨木が聳えるのが見えていた。
タガ
耳に届いた微かなその声に、アキコは改めて青年教師を見上げる。ここは想像の世界だから彼はアキコに向かって話しかけているのかもしれないとアキコは無意識に考えたが、何故か想像の作り主である筈の自分でも制御しきれない。
自分の思う通り……
掠れて聞き取りにくい声が、そう囁くのを菜の花の揺れる音が掻き消していく。そして何故かアキコは全身が悪寒に震えるのを感じながら、アキコは辺りを焼き付けるように見つめていたが何かに呼ばれるように背後を振り返っていた。
そこには真っ暗な闇が封じ込められた扉が一つ。
空間を切り取るように真っ暗な闇が、ポカリと口を開けていてアキコは思わず動きを止めた。想像の中にはそんな入り口はなかった筈なのに、そこにはまるで最初から闇があったように静かに口を開いている。
………ゥ、
そこから吹き出す風が今までとは違う音を奏でて、アキコは息を詰めた。その中から自分の想像した筈のない何かが微かに身動ぎして、アキコの想像もしない音をたて始めているのが肌で分かる。まるで異郷を産み出した上に、さらに別な世界の扉を開いてしまったかのようなゾロリと肌を舐める何かの存在。
………おまえ、
不意にその暗闇の中から低く何かが呻くのを聞いたアキコは自分の中にざわめく何かを感じ取っていた。ゾワリゾワリと体の芯を何かの舌が這いまわり、アキコの体を震わせると同時に何かを呼び起こそうと揺らす。そして自分に話しかける何かは、ゾッとする程に自分の声によく似ている。まるで自分が頭の中に話しかけているみたいに、アキコ自身の声で闇の中から話しかけてくるのだ。それは湿った土の臭いと同時に、闇の中からアキコの体に染み込んで来ていた。
タガ
突然耳元で青年教師の声がして、アキコは弾かれたように振り返った。さっきまで遠くに立ち尽くしていた筈の青年教師は音もなく、いつの間にかアキコの直ぐ後ろに立ち無表情でアキコの名前を呟く。人の温度を失って土気色をした青年教師の姿はアキコを安堵させてはくれず、アキコは前も後ろも不快な存在に挟まれて立ち尽くしていた。
アキコは青年教師が自分の名前を呼ぶのに怯えている。
呼ばれて、闇の中の何かに名前を知られるのが、実は恐ろしくて仕方がないのだ。だが、だからと言って闇へのこのすさまじい怯えを青年教師に知られるのも、同じくらいに恐ろしくて仕方がなかった。
※※※
空想の世界から逃げるのは容易い筈だった。それなのに次第に逃げがたくなっているのは、自分がそちら側に近い存在になりつつあるからのような気がしている。そして心を許していた筈の教師が空想の中では怯える対象に変わって暫くして、若い教師が病死したという情報が耳に入ったのだった。
読書家なのは変わらず小学校の図書館の膨大な筈の書籍の八割を読破して、残りの二割には一気に興味が無くなった。その残りの二割の書籍の大半は、恋愛等を題材にしたライトノベルや宗教に関したものだ。
「心酔したり、相手を好きって気持ちが理解できない。」
恋愛小説を手にしてみてアキコはそう呟く。アキコ自身は同じクラスの男の子が気にはなっていたけれど、それが初恋かといわれると頷けないでいる。他の女子のように誰かをかっこいいとも感じないし、誰かに惹かれているとも感じない。
一見すれば日本人形のような艶やかな黒髪と、整った顔立ち、ハッキリとした二重の黒目勝ちの瞳。
意図して微笑めば直ぐに誰かが恋に落ちそうな見た目なのにアキコには何一つそんな噂がたたないのは、アキコ自身がそれに興味をまるで示さないからだと当人すら気がつかずにいる。
そんな彼女は新しく赴任した若い担任が教室に私費で設置した学級文庫というものに、その興味をすっかり移したようだった。この学級文庫が珍しかったのは置かれているのがよくある小説や伝記物ではなく、ほぼ漫画だったことだろう。教師にしては珍しいことに、そこに置かれたのは不死鳥を主題にしたシリーズもの、異世界のような未来に小学校ごとタイムスリップしてしまうもの、無免許の医師が法外な料金で人を助けるもの。
子供用のご都合主義な恋愛小説や辻褄があわない物語には興味は完全に失せていたが、漫画となると話しは別だった。荒唐無稽に見えても絵で見るものには、今までと違う側面がある。今までとは違う別世界での出来事のように、アキコは毎日教室の後ろで学級文庫の棚の前の床に座り居残までして何度も繰り返してそれを読み尽くしていた。
「タガ、もう下校時間だぞ?」
「センセ、これって……何で選んだの?」
まだ二十代後半の若い長身の教師は、床に座り込んで不死鳥の舞う物語を眺めながら顔をあげたアキコを見下ろす。学校の教師が文字ではなく漫画を奨めるなんて、それまでのアキコには経験がなかったし当時としてもかなり異質なタイプの教師だったのは事実だ。廊下からの窓越しにアキコを見下ろしながら、教師は少し微笑みながら頬杖をつく。
「何でかぁ…………はじめて聞かれたな。」
教師になってから八年ほど。その内の何年もこうして赴任先に学級文庫と名目してきたが、親御さんから漫画を生徒に薦めることを否定されることはあっても、実は生徒がこうしてこの文庫に関して問いかけてくるのは珍しかった。しかも、何故これを選んだのかなんて問いかけはされたことがない。
「先生は昔、病弱でよく入院しててなぁ………。」
呼吸器疾患を持つ人間と言うのは、呼吸をするだけでかなりエネルギーを使うことになるから大概は痩せぎすになる。アキコにはまだ理解出来ないことだったがアキコを見下ろす目の前の教師も年齢は若いのにやはり骨と皮ばかりの痩せぎすで、実は幼い頃から重度の喘息を患って何度も入退院を繰り返してきたのだった。
「ベットの上で…………これをな、読んでたんだ。」
幼い頃からの長い長い闘病の中で、永遠の命を持つ不死鳥の物語や冒険の中に生きる同じ年頃の少年達の物語を読む自分がいた。そしてその先に何でも治してくれる医者の物語を見つめて、この医師が今ここに現れて自分を治すと告げてはくれないかと何度も期待し続けてきたのだ。それが夢物語に過ぎないと知っても大人になって、幼い頃の自分を思い浮かべる度に希望を持たせてくれたものを夢と棄てることはできない。それが何時しか真実になるかもしれないと思うし、今もこれを見ると読むと希望がわく。そんなものを生徒にも見つけてほしいと思うから、密かに何処に赴任しても新たに書籍を買い揃えてこれを残してきた。
「勿論小説とかも面白いが、漫画は週刊紙とか月刊で次が出るのが早いだろ?で、こういうのをワクワクしながら読んだ。」
「漫画は…………文字と違って光景が描いてる人の世界なんだね…………。」
目の前の少女の前の担任は、彼女のことを薄気味悪そうに『異常』と評価したのを青年教師はふと思い出した。見上げてくる顔立ちはあどけなくて異常とは思えないが、その瞳は自分の言葉に興味を示したように僅かに光る。何度も読まなくても覚えてしまうというらしいが、漫画は嫌と言うほどに繰り返して読んでいて前担任の言うような様子には見えない。だが、その理由が今の言葉で理解できた気がした。
タガアキコは文字を全て映像に置き換えて読む。
だから一度読んだ書籍の中身を映像にして、頭の中で再生するのだろう。
小説はそうできても、漫画は既に他の誰かの映像を描いたものだから同じようにできない。ある意味では特異な能力とも言えるが元々文字を読むことに長けていて、それを無意識に伸ばし続けた結果なのだろう。読書もある意味では訓練なのだから特に異常なわけではないが、ここら辺の子供には珍しいタイプであるのは事実だった。
「小説もそうだろ?」
「でも頭の中の世界は、私のだもん…………。」
再生する映像が自分が作ったものだから、そういいたいのだとわかると彼女も別段特殊ではない。
「でも、………何で学級文庫なの?」
「んー、小説は読みなれてないと楽しくないからかな。タガは何でも読めるみたいだけど、今は読書に慣れない子の方が多い。人は感じかたもそれぞれだしな。」
「そうなんだ………。」
これだって嫌いって奴等も多いし、親から苦情もあると教師が笑いながら言う。自分が読みたいと訴えても低学年の時には担任から拒絶され女教師から不快そうに扱われた記憶があるアキコは、予想だにしない教師の言葉に視線を下げた。確かに人の感じ方はまるでちがって、この教師はアキコを気持ち悪いとは思わないようだ。しかもそんな風に外部から苦情がきてるのに教師がこれをやめないと言うのは、正直アキコにも不思議な返事だった。苦情を言われてまで漫画をおいておく彼は、これに何を感じているのかアキコにはまだ理解しかねる。
「………そんな、嫌な思いするなら、やめたらいいのに。」
「それは人それぞれの考え方だからなぁ。」
穏やかに笑いながら言う青年をもう一度見上げてアキコが首をかしげると、青年教師は思いついたように微笑みながら口を開く。
「……タガ、読むだけじゃなくて、自分で物語を作ってみたらどうだ?」
予想しない言葉にアキコが僅かに黒目勝ちの目を丸くする。他人の作る世界を貪るように読むことはしてきたのだが、自分で物語を作るなんてことはまだ一度も考えたことがなかったのだ。
「作る?」
「お前は周りをよく見てるし、本も沢山読んでる。他の人を惹き付ける話が作れるんじゃないか?」
何気なく、そして微笑みながら教師に言われた言葉にアキコは、手元の本を見下ろして自分が何かを創造することを考える。そうしてアキコは漫画のような物語だけでなく小説にしても、話を作るのに頭の中にはその場面の情景を浮かび上がらせ、文字や絵でそれを表現する事を繰り返す。そんなアキコの様子を青年教師は不快とは感じずに、アキコのちょっとした特徴のひとつで好ましいものと捉えたのだった。
「タガ、これも面白いぞ?」
そんなアキコに青年教師は別な書籍を手渡して、時々は授業中に物語を作って遊ぶアキコの頭を叩く。授業中と何度も言われたが、それでも放課後には自分が幼い頃に読んだものや今もお気に入りの書籍を貸してくれるのだ。もしここで自分がこう見ていたら……そんなことを空想する事が次第にアキコの一番の楽しみの一つに変わっていく。だがそれはある意味では他の子達とは異質な事だと気がついた時には遅かった。
「いっつもアキコだけ、先生に本もらってる。」
「貰ってない、借りてるだけ。」
「気持ち悪!センセにごますり!!」
同じ年頃の子供達には、アキコが教師から次々と本を借りていたのは異質に見えていたのに気がつかなかったのだ。しかもそれはアキコを依怙贔屓しているともとられ、次第にアキコは孤立感を感じるようになっていた。
それから暫くして若い教師は、急に持病の喘息のために学校から姿を消した。
※※※
夕暮れの赤い空を見上げてアキコは何も話すこともなく姿を消した若い教師のことを考えながら、自分が作り上げた空想の世界を見渡して考える。見たこともない見事な菜の花が咲き誇る、一面が黄色一色に染められた絨毯。それを照らす茜色の夕暮れは菜の花の咲く時季の日差しではなく、そぐわない赤に染められた空。
先生が教えてくれた
自分で世界を空想することと空想の中の世界は様々に彩りを変えて、アキコの頭の中で広大に広がっていく。その世界の中ではアキコは全能の存在で何もかもが思う通りになることを教えたのは、姿を消したあの教師の言葉だった。教師が病で入院したのは聞いたが、何時治癒するのか、何時になったら戻ってくるのかは誰も知らなかったし、どこ入院しているのかも知らないまま。
広大な菜の花畑を照らす、夕暮れの赤い光と宵の闇
実際には見えない筈の世界の広がりを心と頭の中で確かめ、まるで直に見ているようにアキコは眼を細める。キュウと目の奥が狭まり点を見るように集中する瞳が僅かに異様な輝きを放ちはじめているのに、当のアキコ自身はまだ気がつかないでいた。アキコの瞳は実際にはない世界を見透かしていて、空想の筈の頭の中の映像があまりにも鮮明な理由も考えたことすらない。
そして今そこにはアキコの前から姿を消した若い教師が無表情で立ち尽くしていて、アキコは風に音をたてて揺れる菜の花のザァッという鳴き声を聞いていた。
ここは、異郷
アキコの頭の中に産み出された異郷に、アキコの前から消えた青年教師がいる。それだけのことだとアキコは眼を細めて息もつかずに考え、そして彼が何かを言うのではないかと眼を細めた。ピリピリと空気が震えて、耳にはある筈のない菜の花の立てる音が響き渡る。花すらも散らず、華の香りもしないのに、目の前に広がる菜の花畑の遠く向こうに巨木が聳えるのが見えていた。
タガ
耳に届いた微かなその声に、アキコは改めて青年教師を見上げる。ここは想像の世界だから彼はアキコに向かって話しかけているのかもしれないとアキコは無意識に考えたが、何故か想像の作り主である筈の自分でも制御しきれない。
自分の思う通り……
掠れて聞き取りにくい声が、そう囁くのを菜の花の揺れる音が掻き消していく。そして何故かアキコは全身が悪寒に震えるのを感じながら、アキコは辺りを焼き付けるように見つめていたが何かに呼ばれるように背後を振り返っていた。
そこには真っ暗な闇が封じ込められた扉が一つ。
空間を切り取るように真っ暗な闇が、ポカリと口を開けていてアキコは思わず動きを止めた。想像の中にはそんな入り口はなかった筈なのに、そこにはまるで最初から闇があったように静かに口を開いている。
………ゥ、
そこから吹き出す風が今までとは違う音を奏でて、アキコは息を詰めた。その中から自分の想像した筈のない何かが微かに身動ぎして、アキコの想像もしない音をたて始めているのが肌で分かる。まるで異郷を産み出した上に、さらに別な世界の扉を開いてしまったかのようなゾロリと肌を舐める何かの存在。
………おまえ、
不意にその暗闇の中から低く何かが呻くのを聞いたアキコは自分の中にざわめく何かを感じ取っていた。ゾワリゾワリと体の芯を何かの舌が這いまわり、アキコの体を震わせると同時に何かを呼び起こそうと揺らす。そして自分に話しかける何かは、ゾッとする程に自分の声によく似ている。まるで自分が頭の中に話しかけているみたいに、アキコ自身の声で闇の中から話しかけてくるのだ。それは湿った土の臭いと同時に、闇の中からアキコの体に染み込んで来ていた。
タガ
突然耳元で青年教師の声がして、アキコは弾かれたように振り返った。さっきまで遠くに立ち尽くしていた筈の青年教師は音もなく、いつの間にかアキコの直ぐ後ろに立ち無表情でアキコの名前を呟く。人の温度を失って土気色をした青年教師の姿はアキコを安堵させてはくれず、アキコは前も後ろも不快な存在に挟まれて立ち尽くしていた。
アキコは青年教師が自分の名前を呼ぶのに怯えている。
呼ばれて、闇の中の何かに名前を知られるのが、実は恐ろしくて仕方がないのだ。だが、だからと言って闇へのこのすさまじい怯えを青年教師に知られるのも、同じくらいに恐ろしくて仕方がなかった。
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空想の世界から逃げるのは容易い筈だった。それなのに次第に逃げがたくなっているのは、自分がそちら側に近い存在になりつつあるからのような気がしている。そして心を許していた筈の教師が空想の中では怯える対象に変わって暫くして、若い教師が病死したという情報が耳に入ったのだった。
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