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第三部
第八幕 異界
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自分はその相手を覚えているわけではなかった。顔を見てもまるで誰だか分からないというより、知らないと言いたいが自分の記憶力に関しては理解しているから本当に知らないのかどうかも分からない。でも出会った瞬間、目の前の相手が何のために自分のところにやって来たのかだけは理解できてしまう。真っ白な靄の中で一瞬にして亜希子と引き離されてしまったが、それをしたのが彼なのは分かる。
亜希子が怒りそうだな……
亜希子は自分の事を息子みたいに心配するから、きっと靄の中で激怒してそうな気がする。穏和そうに見えて亜希子は、ある部分に関してはとても短気で、それを知っているのは亜希子が気を許した数人だけなのだ。怒っているのを表に出さないだけで、実は結構怒ってはいる。きっと靄の向こうで何処にやったと激昂してそうな気がする。それは兎も角自分の事をさておき他人を特殊呼ばわりするのはなんだが、目の前の相手は自分なんかより遥かに特殊な存在だ。身にまとう空気すら別な種類のもので、息が詰まるような純粋さ。本能的にこれには逆らっても無駄だと理解できる程、目の前の相手は自分をこの間叩きのめした怖いお兄さんより遥かに上の存在だった。
少し……力を貸して欲しい
相手の言葉に相手が万能と言うわけではなくて何かを必要として自分に接触してきたのが分かって、和希は少しだけ気を緩めた。それに自分がここに来た理由を改めて思い出して、和希は忠志を迎えに行かないといけないことと、それにはこの相手の力が必要だということだけは理解した。相手が害意がないのだけは安堵して、少し背の低い彼のことを見下ろすようにして口を開く。
「それ、渡しても構わないけど、俺……親友を迎えにいきたいんだよ。」
和希の言葉に目の前の青年は子供のように素直に頷いて、それはいいよ・手伝うと答える。ついさっきまで一緒にいた眼鏡の青年と目の前の相手は兄弟のようにも見えるが、双子だと言うには少し違うようだ。髪の色や顔立ちは違うが、金色に輝く瞳だけが同じで全てを見透かすように感じてしまう。手を差し出されて和希が手を握ると、掴まれたままその手が焔が燃え上がるのを見ていた。
※※※
無風、無音。
波打ち際にいるのに水が打ち寄せる音もなく、黄色の花が今まで咲いていたとは思えない世界は更に濃い藍色に沈んでいく。そして紫から濃い藍色に沈んだ世界は、やがて暗い藍色に落ちていくのを、四人は戸惑いながら見渡す。どれくらいの時間が経ったかも分からないが、水面に沈んだ蛇の姿はまるで影も形もなかった。いつまでも蘇生を繰り返しながら沈み続ける苦痛を想像するのは不快だが、だからといってこの水の中に飛び込む程の気分にはなれない。同時にあれがいなければ、もしかしたら向こう側の世界に戻れないとしたら。こちら側に来た時にあの蛇の体の中に三人が取り込まれていたのが、密かに三人の脳裏を過っているのだ。
ただ、信哉がどうやってこちらに来たのか。
それが分かったら帰る方法を見つけられるかもしれないが、何しろ当の信哉も記憶が定かでない。そんな不安の中で移り変わっていく光景を見つめている四人は、言葉もなく辺りを見渡している。次第に水面が広がり世界を埋めていくのを、言葉もなくみているだけなのは地味にキツい。それに一見水面に見えるが、玄武でも操れないこれは水ではないのだと分かってもいた。チラチラと頭上から降り落ちてくる光の粒が藍色の世界を流れ星のように散り、尚更自分達の身の置き所が失われていく。それでも絶望したくないのは、絶望すると何もかもが終わってしまいそうな気がするからだった。
「…………帰ったら……肉が食いたい……。」
「その前に風呂に入りたい……。」
若い二人の余りにもマトモな願望に思わず苦笑いしながら、信哉は辺りの臭いを嗅ぎ分けるように辺りを見渡す。既に花の匂いは何処にも感じないし、水の臭いもない。それでも中心があるとして、この広がる辺縁の果ては何処に向かうのだろう。
窮奇は地の底に主が存在すると口にした。
饕餮や窮奇、檮杌すら手駒にするという主の狙いが何なのか。東条巌を操って何を求めていたのか、三人は部屋に閉じ込めたのに自分は何処に置かれていたのか。それを考えるとチリと神経に何かが触れる気がした。自分はその隔離室に入らなかったらしいのは、助けに来たという男女から悌順が聞いたのだという。四つあった部屋のうち稼働したのは三つだけで、それらは北・東・南側に設置されていた。つまりは自分が入るための西側の部屋は何故か動かなかったのだ。たが何故その位置に隔離室を配置したのか、忠志と義人の話では、ゲートが開いた不定形の肉塊がいた場所は完全に中央に位置していたという。そしてそこには大量の血液の臭いがしたと言うから、恐らくその施設の大半の人間がそこに集められ贄にされた。だが、そこで人間の贄で充分なら、自分達を隔離する大掛かりな仕掛けを必要とするだろうか。ワザワザ起動させ三人を隔離した理由。
何か目的があったんじゃないか?
出入り口は南西の通路でグルリと一周出来る構造。四方に自分達を隔離、しかも完全に能力を封じ込める大掛かりな仕掛け。
俺が部屋に入れられなかったから…………本来の目的が達成できなかったのだとしたら?
嫌な結論だが、ゲートを抉じ開けるには大量の命を必要とするようだった。四神が贄になるなら同様の事をしても規模は拡大出来そうな気がする。つまり地下の施設は巨大なゲートを開くための結界のようなもので、三人は部屋に入れられたが四人目が何かの問題で入れられなかったから施設の人間を贄にした。
悌順は西側の部屋には向かわず中央に向かい、助けに来たという二人は西側に近い部屋を経由して生存者をピックアップして脱出すると口にしたと言う。その時点で既に忠志と義人は肉塊に引き摺り込まれてゲートの中に落ち、悌順が中央に辿り着いた時には巨大なゲートとスライムのような不定形生物が東条の嗄れた声でブツブツ呟いていた。
肉塊…………
ここで若返った東条と信哉が出会ったのは恐らく偶然ではなく、その肉塊は東条だったのではないかと思う。つまり東条が何らかの形でゲートからこの空間との繋がりを作ったのだろうが、人間の贄を使った東条だけではそれは不可能だったのだ。だから、同じ木気の義人を飲み込んで力を相乗させようとしたのではないだろうか。ただ誤算は忠志や悌順も取り込んでしまったから、過剰な力を制御しきれず再成し続ける細胞と共に底に沈んだ。
底…………
水面に見えるが水ではないもの。一つの壁を乗り越えるゲートを開けた力強いは、音もなく底に沈んでいったのだ。そう考えてしまうと何かが神経に触り心の中に引っ掛かる、そう頭の中に警鐘が鳴るのがわかる。ここは底じゃない、人外が闊歩する地の底ではなく所謂中間の世界なのだとしたら、この他に底があるのではないだろうか。完全な底にいるという窮奇が口にした地の底の主は、なんのために強大な人外を捨てゴマにするのだろう。二十年も人間の世界で隠れられるモノを使って、何を求めるのだろう。それほど強大なものは麒麟に匹敵するのだろうか。
「…………信哉?」
言葉もなく考え込む信哉の姿に心配気な声をあげた悌順に、ふと視線をあげた遥か視線の先で何もなかった湖面にポコリと一つ気泡のような泡が弾けたのが見えた。そしてそれがまるで湖面に均一の波を音もなくたてたのに、四人は思わずそれに目を向けていた。
※※※
「耳を塞いでて。」
そう多賀亜希子は礼慈に向かって怒りに満ちた声で言うと、はぐれないように片手で彼の掴みながら礼慈から顔を背け靄に視線を向けた。人間とは思えないザワザワと全身の毛が逆立つような気配を全身から放ちながら、彼女は鋭い視線で靄を見据えて大きな声を上げる。
「何でも好きにできると思ったら大間違いよ?!」
それが何に向かって放たれる言葉なのかは分からない。それでも次々と逃げ出す仲間から靄に騙され引き離されて、守りたい人間を奪われてしまう苛立ちに満ち溢れていた。礼慈には見られないようにしながら、亜希子はスゥと大きく行きを吸い込んだ。そうして耳を塞いでいる礼慈の横で亜希子は一瞬奥歯を強く噛んだかと思うと、鋭く息を吐きながら高い哭き声を放った。今までの物悲しい哭き声とは違う攻撃的な哭き声が走ったかと思うと、突然靄が目の前で刃物で切り裂かれるように裂ける。
「行くわ!ついてきて!」
そう亜希子は叫ぶと、礼慈の服を掴んだままその裂けた靄の合間に向かって駆け出していく。靄はまるで彼女を阻むように競り上がってくるが、亜希子の哭き声はまるでそれを許さない。そして靄を切り裂きながら一直線に進む彼女の瞳には、目的の場所が見えているように澱みなく進む。周囲にあるのは靄だけで明らかな攻撃はないが、哭けば哭くほどに亜希子の顔色は疲労感を強めて土気色に変わっていく。一緒に駆ける色盲の礼慈には、残念ながらその変化が見えていないのだった。
※※※
再び湖面に気泡が立ち上がるが、それは沈んだ蛇の体内から出たものではない。次第にそれは巨大な気泡に変わっていて、何故か湖面が盛り上がっているようにすら見えるのに四人は息を詰めていた。遥か遠い湖面が盛り上がり、そこは既に藍色よりも深い闇の色をしていて降り堕ちる光の粒を音もなく吸い込んでいく。音もなく風もなく、ただ湖面だけが盛り上がっていくのは、まるでそこに湖面の下に何かがいるように見える。
水ではない湖面。
端とそう頭の中で悌順が呟いた瞬間、それが意味することに今更ながら気がついた。そして、それは信哉も同様だった
「まさか………………。」
ゾク。全身が粟立つように恐怖が忍び寄ってくる。ここは底ではないと思ったが、目の前のこの湖面だと思っているもの。これが窮奇の言った闇の底の、人外全ての主なのだとしたら。そう考えた瞬間唐突にビリビリと空気が振動し始めて、目の前の湖面がはや回しのようにグウッと持ち上がったのだ。
《………ふはぁ………………。》
足元から響く地響きが放つ吐息めいた声に、思わず四人はそれぞれにその体を変化させていた。それをまるで気にするでもなく湖面だったものは、盛り上がった山を天球に見える暗闇の頭上に巡らせる。
下から日本地図を見るような天球ち、沢山の光の粒がキラキラと降り落ちる中、頭なのか盛り上がった山に目や鼻のような窪みが生まれていく。眼窩も鼻腔も開かないが巨大な顔のようなものが出来て、それは全く四人に意識を向けるわけでもない。
『これが…………地の底の主…………?』
顔だけでどうみても五メートル以上もあるそれは、湖面を吸い上げるようにして頭を産み出していく。その様相は大きさと色こそ規格外だろうが完全な人間の赤ん坊の頭に見えて、玄武の蛇の尾を立てて悌順は不快感を顕に呻き、白虎の姿の信哉も鼻に皺を寄せて威嚇の声をあげた。頭部だけでなく頸、そして肉付きの良い肩、それに繋がるムチムチとした手が湖面から五本の指を天球に向けて持ち上げる。巨大な赤ん坊が何処かから這い上がって来ているとしか思えない、おぞましい光景。しかも赤ん坊の造形は肌の色と大きさは兎も角、完全な人のかたちをしていて、それが何を意味するのか考えるのが恐ろしい。
『ど、……する?攻撃した方が……いいのか?これ?』
火の粉を纏う朱雀がその頭部の周りを遠目に眺め戸惑うように言うのは、造形が新生児なのものを攻撃する躊躇いが無いとは言えないからだ。世界を揺るがすような地響きは変わらず、赤ん坊の肉付きの良い腕が両腕がまるで突っ張るように湖面の淵にかかる。
底から這い出す気だ
思わずその手の周囲を焔と風か薙ぐと、赤ん坊は僅かにそれに力を緩めた。そうして今やっと四神の存在に気がついたように、グルリと阿玉を巡らせた眼窩のない目で辺りを見渡たす。
《…………ふ、はぁぁ…………。》
再び吐息のように地響きが響き、ビリビリと空気が震える。次第に姿だけでなく意識が追い付いてくるように、覚醒していくような気配が満ち始めていた。巨大な赤ん坊の丸い背中に唐突に鳥の羽が沸き上がり、それはまるで真っ黒な羽根を生やしていくように次々と沸き上がる。
『は……はね?なんだよ、天使だってのか?』
何が意図なのか、それともただ単に造形が纏まらないだけなのか。目の前の赤ん坊の背中は一瞬三対の翼を産み出したかと思うと、次の瞬間にはただの赤ん坊の丸い背中に戻ったりを繰り返している。人外も含め五行に支配されている筈なのに、それが何なのか見定めることも出来ず攻撃して良いかどうかもわからないのは、目の前の赤ん坊が放つ気配が自分達が消し飛ぶ程の力の塊だからだ。
『ど、どうしたらいいんだよ?これは。』
戸惑いに満ちた声をあげた忠志が何かに気がついたように、振り返ったのはその時だった。
亜希子が怒りそうだな……
亜希子は自分の事を息子みたいに心配するから、きっと靄の中で激怒してそうな気がする。穏和そうに見えて亜希子は、ある部分に関してはとても短気で、それを知っているのは亜希子が気を許した数人だけなのだ。怒っているのを表に出さないだけで、実は結構怒ってはいる。きっと靄の向こうで何処にやったと激昂してそうな気がする。それは兎も角自分の事をさておき他人を特殊呼ばわりするのはなんだが、目の前の相手は自分なんかより遥かに特殊な存在だ。身にまとう空気すら別な種類のもので、息が詰まるような純粋さ。本能的にこれには逆らっても無駄だと理解できる程、目の前の相手は自分をこの間叩きのめした怖いお兄さんより遥かに上の存在だった。
少し……力を貸して欲しい
相手の言葉に相手が万能と言うわけではなくて何かを必要として自分に接触してきたのが分かって、和希は少しだけ気を緩めた。それに自分がここに来た理由を改めて思い出して、和希は忠志を迎えに行かないといけないことと、それにはこの相手の力が必要だということだけは理解した。相手が害意がないのだけは安堵して、少し背の低い彼のことを見下ろすようにして口を開く。
「それ、渡しても構わないけど、俺……親友を迎えにいきたいんだよ。」
和希の言葉に目の前の青年は子供のように素直に頷いて、それはいいよ・手伝うと答える。ついさっきまで一緒にいた眼鏡の青年と目の前の相手は兄弟のようにも見えるが、双子だと言うには少し違うようだ。髪の色や顔立ちは違うが、金色に輝く瞳だけが同じで全てを見透かすように感じてしまう。手を差し出されて和希が手を握ると、掴まれたままその手が焔が燃え上がるのを見ていた。
※※※
無風、無音。
波打ち際にいるのに水が打ち寄せる音もなく、黄色の花が今まで咲いていたとは思えない世界は更に濃い藍色に沈んでいく。そして紫から濃い藍色に沈んだ世界は、やがて暗い藍色に落ちていくのを、四人は戸惑いながら見渡す。どれくらいの時間が経ったかも分からないが、水面に沈んだ蛇の姿はまるで影も形もなかった。いつまでも蘇生を繰り返しながら沈み続ける苦痛を想像するのは不快だが、だからといってこの水の中に飛び込む程の気分にはなれない。同時にあれがいなければ、もしかしたら向こう側の世界に戻れないとしたら。こちら側に来た時にあの蛇の体の中に三人が取り込まれていたのが、密かに三人の脳裏を過っているのだ。
ただ、信哉がどうやってこちらに来たのか。
それが分かったら帰る方法を見つけられるかもしれないが、何しろ当の信哉も記憶が定かでない。そんな不安の中で移り変わっていく光景を見つめている四人は、言葉もなく辺りを見渡している。次第に水面が広がり世界を埋めていくのを、言葉もなくみているだけなのは地味にキツい。それに一見水面に見えるが、玄武でも操れないこれは水ではないのだと分かってもいた。チラチラと頭上から降り落ちてくる光の粒が藍色の世界を流れ星のように散り、尚更自分達の身の置き所が失われていく。それでも絶望したくないのは、絶望すると何もかもが終わってしまいそうな気がするからだった。
「…………帰ったら……肉が食いたい……。」
「その前に風呂に入りたい……。」
若い二人の余りにもマトモな願望に思わず苦笑いしながら、信哉は辺りの臭いを嗅ぎ分けるように辺りを見渡す。既に花の匂いは何処にも感じないし、水の臭いもない。それでも中心があるとして、この広がる辺縁の果ては何処に向かうのだろう。
窮奇は地の底に主が存在すると口にした。
饕餮や窮奇、檮杌すら手駒にするという主の狙いが何なのか。東条巌を操って何を求めていたのか、三人は部屋に閉じ込めたのに自分は何処に置かれていたのか。それを考えるとチリと神経に何かが触れる気がした。自分はその隔離室に入らなかったらしいのは、助けに来たという男女から悌順が聞いたのだという。四つあった部屋のうち稼働したのは三つだけで、それらは北・東・南側に設置されていた。つまりは自分が入るための西側の部屋は何故か動かなかったのだ。たが何故その位置に隔離室を配置したのか、忠志と義人の話では、ゲートが開いた不定形の肉塊がいた場所は完全に中央に位置していたという。そしてそこには大量の血液の臭いがしたと言うから、恐らくその施設の大半の人間がそこに集められ贄にされた。だが、そこで人間の贄で充分なら、自分達を隔離する大掛かりな仕掛けを必要とするだろうか。ワザワザ起動させ三人を隔離した理由。
何か目的があったんじゃないか?
出入り口は南西の通路でグルリと一周出来る構造。四方に自分達を隔離、しかも完全に能力を封じ込める大掛かりな仕掛け。
俺が部屋に入れられなかったから…………本来の目的が達成できなかったのだとしたら?
嫌な結論だが、ゲートを抉じ開けるには大量の命を必要とするようだった。四神が贄になるなら同様の事をしても規模は拡大出来そうな気がする。つまり地下の施設は巨大なゲートを開くための結界のようなもので、三人は部屋に入れられたが四人目が何かの問題で入れられなかったから施設の人間を贄にした。
悌順は西側の部屋には向かわず中央に向かい、助けに来たという二人は西側に近い部屋を経由して生存者をピックアップして脱出すると口にしたと言う。その時点で既に忠志と義人は肉塊に引き摺り込まれてゲートの中に落ち、悌順が中央に辿り着いた時には巨大なゲートとスライムのような不定形生物が東条の嗄れた声でブツブツ呟いていた。
肉塊…………
ここで若返った東条と信哉が出会ったのは恐らく偶然ではなく、その肉塊は東条だったのではないかと思う。つまり東条が何らかの形でゲートからこの空間との繋がりを作ったのだろうが、人間の贄を使った東条だけではそれは不可能だったのだ。だから、同じ木気の義人を飲み込んで力を相乗させようとしたのではないだろうか。ただ誤算は忠志や悌順も取り込んでしまったから、過剰な力を制御しきれず再成し続ける細胞と共に底に沈んだ。
底…………
水面に見えるが水ではないもの。一つの壁を乗り越えるゲートを開けた力強いは、音もなく底に沈んでいったのだ。そう考えてしまうと何かが神経に触り心の中に引っ掛かる、そう頭の中に警鐘が鳴るのがわかる。ここは底じゃない、人外が闊歩する地の底ではなく所謂中間の世界なのだとしたら、この他に底があるのではないだろうか。完全な底にいるという窮奇が口にした地の底の主は、なんのために強大な人外を捨てゴマにするのだろう。二十年も人間の世界で隠れられるモノを使って、何を求めるのだろう。それほど強大なものは麒麟に匹敵するのだろうか。
「…………信哉?」
言葉もなく考え込む信哉の姿に心配気な声をあげた悌順に、ふと視線をあげた遥か視線の先で何もなかった湖面にポコリと一つ気泡のような泡が弾けたのが見えた。そしてそれがまるで湖面に均一の波を音もなくたてたのに、四人は思わずそれに目を向けていた。
※※※
「耳を塞いでて。」
そう多賀亜希子は礼慈に向かって怒りに満ちた声で言うと、はぐれないように片手で彼の掴みながら礼慈から顔を背け靄に視線を向けた。人間とは思えないザワザワと全身の毛が逆立つような気配を全身から放ちながら、彼女は鋭い視線で靄を見据えて大きな声を上げる。
「何でも好きにできると思ったら大間違いよ?!」
それが何に向かって放たれる言葉なのかは分からない。それでも次々と逃げ出す仲間から靄に騙され引き離されて、守りたい人間を奪われてしまう苛立ちに満ち溢れていた。礼慈には見られないようにしながら、亜希子はスゥと大きく行きを吸い込んだ。そうして耳を塞いでいる礼慈の横で亜希子は一瞬奥歯を強く噛んだかと思うと、鋭く息を吐きながら高い哭き声を放った。今までの物悲しい哭き声とは違う攻撃的な哭き声が走ったかと思うと、突然靄が目の前で刃物で切り裂かれるように裂ける。
「行くわ!ついてきて!」
そう亜希子は叫ぶと、礼慈の服を掴んだままその裂けた靄の合間に向かって駆け出していく。靄はまるで彼女を阻むように競り上がってくるが、亜希子の哭き声はまるでそれを許さない。そして靄を切り裂きながら一直線に進む彼女の瞳には、目的の場所が見えているように澱みなく進む。周囲にあるのは靄だけで明らかな攻撃はないが、哭けば哭くほどに亜希子の顔色は疲労感を強めて土気色に変わっていく。一緒に駆ける色盲の礼慈には、残念ながらその変化が見えていないのだった。
※※※
再び湖面に気泡が立ち上がるが、それは沈んだ蛇の体内から出たものではない。次第にそれは巨大な気泡に変わっていて、何故か湖面が盛り上がっているようにすら見えるのに四人は息を詰めていた。遥か遠い湖面が盛り上がり、そこは既に藍色よりも深い闇の色をしていて降り堕ちる光の粒を音もなく吸い込んでいく。音もなく風もなく、ただ湖面だけが盛り上がっていくのは、まるでそこに湖面の下に何かがいるように見える。
水ではない湖面。
端とそう頭の中で悌順が呟いた瞬間、それが意味することに今更ながら気がついた。そして、それは信哉も同様だった
「まさか………………。」
ゾク。全身が粟立つように恐怖が忍び寄ってくる。ここは底ではないと思ったが、目の前のこの湖面だと思っているもの。これが窮奇の言った闇の底の、人外全ての主なのだとしたら。そう考えた瞬間唐突にビリビリと空気が振動し始めて、目の前の湖面がはや回しのようにグウッと持ち上がったのだ。
《………ふはぁ………………。》
足元から響く地響きが放つ吐息めいた声に、思わず四人はそれぞれにその体を変化させていた。それをまるで気にするでもなく湖面だったものは、盛り上がった山を天球に見える暗闇の頭上に巡らせる。
下から日本地図を見るような天球ち、沢山の光の粒がキラキラと降り落ちる中、頭なのか盛り上がった山に目や鼻のような窪みが生まれていく。眼窩も鼻腔も開かないが巨大な顔のようなものが出来て、それは全く四人に意識を向けるわけでもない。
『これが…………地の底の主…………?』
顔だけでどうみても五メートル以上もあるそれは、湖面を吸い上げるようにして頭を産み出していく。その様相は大きさと色こそ規格外だろうが完全な人間の赤ん坊の頭に見えて、玄武の蛇の尾を立てて悌順は不快感を顕に呻き、白虎の姿の信哉も鼻に皺を寄せて威嚇の声をあげた。頭部だけでなく頸、そして肉付きの良い肩、それに繋がるムチムチとした手が湖面から五本の指を天球に向けて持ち上げる。巨大な赤ん坊が何処かから這い上がって来ているとしか思えない、おぞましい光景。しかも赤ん坊の造形は肌の色と大きさは兎も角、完全な人のかたちをしていて、それが何を意味するのか考えるのが恐ろしい。
『ど、……する?攻撃した方が……いいのか?これ?』
火の粉を纏う朱雀がその頭部の周りを遠目に眺め戸惑うように言うのは、造形が新生児なのものを攻撃する躊躇いが無いとは言えないからだ。世界を揺るがすような地響きは変わらず、赤ん坊の肉付きの良い腕が両腕がまるで突っ張るように湖面の淵にかかる。
底から這い出す気だ
思わずその手の周囲を焔と風か薙ぐと、赤ん坊は僅かにそれに力を緩めた。そうして今やっと四神の存在に気がついたように、グルリと阿玉を巡らせた眼窩のない目で辺りを見渡たす。
《…………ふ、はぁぁ…………。》
再び吐息のように地響きが響き、ビリビリと空気が震える。次第に姿だけでなく意識が追い付いてくるように、覚醒していくような気配が満ち始めていた。巨大な赤ん坊の丸い背中に唐突に鳥の羽が沸き上がり、それはまるで真っ黒な羽根を生やしていくように次々と沸き上がる。
『は……はね?なんだよ、天使だってのか?』
何が意図なのか、それともただ単に造形が纏まらないだけなのか。目の前の赤ん坊の背中は一瞬三対の翼を産み出したかと思うと、次の瞬間にはただの赤ん坊の丸い背中に戻ったりを繰り返している。人外も含め五行に支配されている筈なのに、それが何なのか見定めることも出来ず攻撃して良いかどうかもわからないのは、目の前の赤ん坊が放つ気配が自分達が消し飛ぶ程の力の塊だからだ。
『ど、どうしたらいいんだよ?これは。』
戸惑いに満ちた声をあげた忠志が何かに気がついたように、振り返ったのはその時だった。
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