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外伝 はじまりの光
第三幕 鳥飼澪二十八歳 新生
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月日は流れ、重ねて見つめる内にその事に気がついていた。
その少年の面差しは母親によく似ていたが、目元は自分に似ている。しかし、年齢とは不相応なのその非凡ともいえる才能は彼の母親以上、そして自分以上であるといえるだろう。
少年が道場に通い始めて既にだいぶ時が経ち、目の前で自家の古武術の型を繰り返す少年は既に九歳だ。既に合気道では彼が自分から修得することはなく、特例で演武大会で自由演武の大役を難なくこなしたのは1年程前のまだ八歳の時の事。誰もが彼の演武の完成度に驚愕し、誰もが彼の苗字に納得すらした。鳥飼家の子供なら、天武の才能でもおかしくないと。何しろ稀代の天才と呼ばれた女傑・鳥飼澪の一人息子なのだから。
でも、君は私の子供なんだよ。
彼の中の自分の遺伝子を垣間見たとき、澪とのたった一度の夜の事を思い出していた。その日から少年が産まれた日までは、十月十日には少し足りない。足りないが、その考えは間違っていないような気がした。あの彼女が出ていった日から、母が亡くなる迄は約一年。その間に自分の母は何度澪と会っていただろう。
暫く前に思い切って彼の母親に全てを指摘して聞いてみた事が、その道場主の心に棘のように刺さっている。
君は自分の息子だと言いたい気持ちを押し殺して四十歳になった真見塚成孝は、門下生として注目を集めている鳥飼信哉の未熟ながらも他者より遥かに洗練された技術に目を細める。
真見塚成孝と妻の間には何故か子供ができなかった。
それがまるで澪とのあの一夜の事と同時に、成孝の罪を目の前に突きつけられているかのような気すらした。澪を最後まで守らず、さっさと他のに女性と結婚してしまった自分。澪が出て行った事を忘れようとした自分。
一人きりで誰にも頼らず子供を育て、何度も問いかけてやっと彼の素性を明かした澪の憂いに満ちた表情が思い浮かぶ。
「先生、終わりました。」
キチンとした折り目をつけて信哉が正座をして自分を見上げているのに気がついて、彼は微笑みながらいいでしょうと声をかけた。後数年もすればこの天武の才を持った子供は自分の古武術の技も吸収して身につけてしまうだろう。それは他の門下生の間でももっぱらの噂だ。通い始めた時から見せた光る原石のような非凡な才能、できることなら自分の子供としたいといった言葉を澪に完全に拒否されてしまったのも事実。
信哉は少年らしい表情でイソイソと帰り支度を始めていて、その姿を成孝はそっと見つめる。小学生らしい姿だが芯がしっかりしている信哉の道場に通い始めた理由は「お母さんを守るため」だったのがまざまざと思い出された。少年が玄関で足を止め、嬉しそうな声を上げる。既に一人で道場に通っている少年だがここ数年時折母親以外の人物がお迎えが来ることがあり、微かにそれは成孝の心に小波を立たせる。
「武兄!」
子供らしい喜ぶ声と伴に自分に丁寧に信哉は頭を下げて、見知らぬ青年と帰途につく。その姿を何だか釈然としない気持ちで成孝は見送っていた。
※※※
四年前のあの夕日の酷く赤い光を信哉は今も忘れていない。
あの日を境に母の環境は何か大きな変化を起こしていた。
それは実際には良くない変化だと思うが、中には良い変化もあったと少年は思う。ただその良い変化はほんの僅かだが。そして、その良い変化の方は、彼にとってもいい変化だった。今こうして夕日を眺めながら横を歩く青年は、良く面倒を見てくれる信哉にとって年の離れた兄のような存在だ。
「ねぇ、武兄。今日はお仕事は?」
子供だからといって彼は良く信哉の小さい手を大人の青年の大きな手でくるむようにして握って歩く。子ども扱いしてと思うが、片親の彼にとって武と優輝の存在は兄や父のようなものだった。
事実、最初は優輝が父親なのかと思った時期もあった。何しろ年齢的には、それは可能な気がしたのだ。おそるおそる母と優輝に聞いてみたが、大爆笑しながら「違うよ」とアッサリと返答がかえって来てしまって拍子抜けしたものだ。
見上げた武の顔が呆れたように信哉を見下ろす。
「お前なァ、迎えに来たのに第一声がそれかよ。」
「だってお仕事しないと駄目だって、この間お母さんに言われてたじゃん。」
最近反抗期か?と青年がブツブツと愚痴る。そうはいっても青年自身キチンと仕事をしてきた後なのだろうと、信哉は思いつつ楽しげにその手を振った。武も苦笑しながら、元来子供好きなのだろう信哉の歩調に合わせて足をすすめてくれる。武も優輝も彼ら親子をとても気にかけてくれるのが、子供の信哉でもよく理解できていた。
「今日は、お前の母さんとお仕事の話なの。」
「ふぅ~ん、内緒のお仕事のおはなしかぁ…。」
子供心に納得できない部分もあるが、時々母や二人が何かしていることは気がついていた。しかし、けして美しく聡明な母はその内容を信哉に話そうとはしない。時に怪我をして帰って来ても彼にはそれすらも隠そうとするので、彼は何も聞けないまま武に質問をぶつけてみた。青年は暫く困った様子ではぐらかしていたが、母の怪我をどうにも見過ごせない信哉の言葉に『内緒のお仕事』があるとだけは信哉と武の秘密として教えてくれたのだ。
夕闇の落ちる空を見上げながら二人並んで歩く姿は、やはり親子というよりは年の離れた兄弟のように長く長く影を引いて家路を急いでいた。
二人きりの家族にはちょうどいい程度だが、やや古めかしいアパートの一室が鳥飼家だった。金銭的にはもっといい家に住めるどころか、家の一軒くらい買える余裕があるのに澪はしっかりしたものでかなりの倹約家だ。しかも都市の中だと言うのに、この近郊に土地まで持っていると聞いたときには武は呆気にとられたものだ。この古いアパートもマンションか何かに立て替える予定らしく、一先ず次の住む場所を探している最中なのだという。そんな澪はゆくゆくは自分の土地にマンションが建てば、そこに住みたいのだと言う。
2LDKの一室で信哉が一生懸命に宿題を進めているのを横に、キッチンでは夕食を作る澪の姿を眺める。武は彼女の息子には聞こえない小さな声で彼女に向かって話しかける。
「あいつが通ってる道場の…あれがあいつの父親なんだろ?」
その言葉に微かに驚いたように彼女が武に目を向けた。武は呆れた様にその表情を見やり、見てたら分かるってと呟き目を伏せる。見ていれば分かるのはあの道場主の表情の事なのは、言うまでも無い。
彼女が仲間になって既に四年。
それだけの時がたっても澪と初めて出会った時のあの凛とした気高い美しさは今も変わらず、それどころか大人びて更に艶を増したかのような匂うような美しさまで備え始めていた。それには自覚はないのだろう澪は、微かに恥ずかしそうに微笑んだ。武には他の女性と結婚している男と彼女の間に子供ができるという事自体が既に信じられない事なのだが、彼女はそれに気がついた様子もない。
「まァ、澪が決めたことならいいんだろうけどさ。何時かはあいつにもばれるぜ。」
「分かってる。」
彼女は微かな微笑を浮かべたまま武を見やる。その表情に武がどんな思いを抱くのか知らぬままに、手を動かし続けながら彼女は酷く大人で穏やかに話を元に戻すかのように口を開く。
「話しって、昨日のあの気配のことでしょう?」
前夜澪は不思議な気配が遥か遠くで、まるで灯火が燈ったかの様な感じで生まれたのに気がついていた。恐らくそれは同じように他の二人も、そして院の星読がいれば感じ取ったことだろう。それはゲートが開く感覚とは少し違っていた。
まァな、と呟いて武は声を更に潜め、その様子に彼女は目を細める。
「あれは何?ゲートじゃないわよね。」
「あァ、そうか澪はまだ初めてだもんな、ありャ『青龍』が生まれたんだ、どこかでな。」
彼女はその言葉に目を丸くした。
確かに彼女が役目につく以前から四神の一席『青龍』は空席のままだ。いつか生まれると聞いていたが、こんな風に感じ取れるものだとは思ってもいなかった。それは言い換えれば自分達と同じような境遇の人間がまた一人生まれるということに他ならない。武は真剣なまなざしで彼女を見返した。
「それでッちゃァ何だけど、今『星読』の爺の後継ぎがまだいないの知ってんだろ?」
出逢った時に既に高齢だった星読は、つい数日前に急逝していた。四神と同じように特殊な能力を持ち院を支える古老の跡継ぎも、国内中から密かに探されるものらしい。しかし、いまだ後継者たる能力を持った者はいないらしく、衰えた力と体力を振りしぼっていた古老の後は空席となっているのが現状だ。そのまま廃れればいいんだとは優輝の弁だが、実際澪もそう思わないことはない。彼女はその内容に思わず武に近寄り声を落とした。
「知ってるけど、それとこれとどう関係するのよ。」
「だから、院より先に『青龍』を見つけて、院から隠そうと思うんだよ。」
前からそうしようとしてたんだ、勿論澪の時もと武が呟く。澪は意味が分からないというように、まじまじと彼の顔を見つめた。武はその視線に気がついたのか少しぶっきらぼうにも思える口調で口を開く。
「院から隠してやったら、少しは普通の人間の生活できるだろ?俺等はもう無理だけどさ。」
その言葉の真意に彼女は納得しながら微笑んで、思わず鍋越しに武の頭を息子にするように優しく撫でる。その突然の行為に、彼は慌てたように顔を赤らめた。幾ら五つ違うとはいえ二十三歳にもなって、二十八歳の女性から頭を撫でられるなんてそうそうある事ではない。文句を言おうと口を開きかけた途端、彼女は華の様に大輪の笑顔を浮かべて彼の顔を見つめた。
「武も優輝さんもほんとに優しいのね、見直しちゃった。」
余りに美しく光り輝くような笑顔に思わず黙り込んでしまう自分に若干の情けなさを感じる。まぁいいかとその笑顔を見つめながら武は考えた。彼の中にある気持ちはきっと一生彼女には伝わることは無いのだろうが、こうして傍にいるだけでも十分幸せではあるのだから。そんな想いを噛締めながら、手際のいい母親らしくも在る彼女の姿をぼんやりと眺めながら武は頬杖をついていた。
新しい仲間を院から隠して守るという考えは、酷く彼女にとっても希望になる言葉だった。そうすれば、新しい仲間は、もうあんな非人道的な酷い検査を受けなくてもいい。あんな人として扱われないときを過ごさなくてもよくなる。それは自分達にとっての希望でもあり、もしこの後も続く者があるとすればその者達にとっても人間としての生活が少なくとも守られるだろう。しかし、その期待の半分はその直後に来た優輝の表情で打ち砕かれてしまった。
「新しい星読が見つかったらしい。」
「マジかよ?」
溜息をついた優輝の表情は酷く暗く、その影にまだ何かを言い切っていない様子で二人は訝しげな表情で彼を見つめた。優輝にも武にも住んでいる場所はあるのだが、どうしても子供がいる澪の家に集まる比率が高くなってしまっているのは仕方がない。仕方がない事なのだが、向こうの部屋の信哉に聴かれないようにするのもある意味一苦労ではある。
「何かあったの?」
「まだ、子供らしい。一歳になるかならないかだ。」
「はぁ?あ…ありえねぇ…親はどうしたよ?!!」
院という組織にはいるという事は彼らはだけの事ではなく、ある意味世捨て人になるのと同じようなものだ。あの僧衣の男達は、人と少し違う特殊な力をほんの少し持っているがために社会からはみ出した者の方が多いとも聞いている。女性も数人いるらしいが、それもかなり年を経た者で一割にも満たないことも聞いていた。つまり、ある意味では院に在籍する者も、それを束ねる者も孤独なのだろう、四神ほどではないにしろ。しかし、それらの多くは幾つか年を経て異常な能力に気がついた状況であって、赤ん坊にも等しい年齢では異例とも言えた。
「孤児らしい。詳しい所はわからなかった。ただ、かなり強い能力がある。」
どうやら、一足先にその人物に会って来たらしい優輝は深い溜め息をつく。やりにくくなったな、と小さく呟いた彼の表情は酷く重い。分別のつかない年であるからこそ、他の権力者の言うなりに能力を発揮してしまうだろう。強い能力を有した新しい星読の存在は、彼らの計画を根本から揺るがしてしまう。それを感じ取った武が思わずつられて、深い溜め息をついた。
「ご飯にしましょうっ!」
不意に、話を聞いていた澪が重苦しい雰囲気を破るようにして明るい声を張り上げ信哉を呼ぶ。
「み・澪ォ…?」
驚いたように思わず情けない声を上げる武に彼女は、微かに憮然とした表情を浮かべながら長い髪を優美な動きで払いのける。そして、徐に暗い顔をした二人を強い光を放つような視線で見下ろし悠然とした態度で口を開いた。
「今悩んだってしょうがないでしょ?」
そうきっぱりと言い切ると、彼女は食器を出して二人に運ぶように指示しながら料理を盛り付けにかかっている。まるで二人の暗い表情など気にもしないその様子に、二人は一瞬呆気に取られながら、「お手伝いするー」とキッチンにはいってきた信哉に目をむけた。彼女は自分の息子に微笑みかけながら、二人の仲間に目を向けずに静かに言葉を繋いだ。
「できる事をするしかないのよ、何時かはその子も分別が付く年になる、その時が勝負でしょう?」
それは、まるで分かりきっているじゃないと言いたげな言葉に聞こえて、二人は顔を見合わせる。言われてしまえばその通りとしか言いようのないその言葉に二人は苦笑して、重い雰囲気が溶けていくのを感じていた。それはある意味四神としてというよりも一人の母親としての言葉でもあったのかもしれない。
何故ならそこには幼い子供をあの古めかしい仕来りの中に閉じ込めて育てるなんてという澪の怒りすら微かに感じられる。
武が思わず「まるで女王様だよ」と陰口を叩いて後ろから澪に小突かれるのを見ながら、信哉が可笑しそうに子供らしい声を立てて笑う。
食器を運びながら不意に振り返った武の視線の先で、美しく聡明な澪は女性らしい外見とは違って、まるで怜悧な刃物のような『金気』の能力を内に内在する事を示す。それを表すかのように、冷静で鋭い感覚を持って先を見つめているかのようだった。
その少年の面差しは母親によく似ていたが、目元は自分に似ている。しかし、年齢とは不相応なのその非凡ともいえる才能は彼の母親以上、そして自分以上であるといえるだろう。
少年が道場に通い始めて既にだいぶ時が経ち、目の前で自家の古武術の型を繰り返す少年は既に九歳だ。既に合気道では彼が自分から修得することはなく、特例で演武大会で自由演武の大役を難なくこなしたのは1年程前のまだ八歳の時の事。誰もが彼の演武の完成度に驚愕し、誰もが彼の苗字に納得すらした。鳥飼家の子供なら、天武の才能でもおかしくないと。何しろ稀代の天才と呼ばれた女傑・鳥飼澪の一人息子なのだから。
でも、君は私の子供なんだよ。
彼の中の自分の遺伝子を垣間見たとき、澪とのたった一度の夜の事を思い出していた。その日から少年が産まれた日までは、十月十日には少し足りない。足りないが、その考えは間違っていないような気がした。あの彼女が出ていった日から、母が亡くなる迄は約一年。その間に自分の母は何度澪と会っていただろう。
暫く前に思い切って彼の母親に全てを指摘して聞いてみた事が、その道場主の心に棘のように刺さっている。
君は自分の息子だと言いたい気持ちを押し殺して四十歳になった真見塚成孝は、門下生として注目を集めている鳥飼信哉の未熟ながらも他者より遥かに洗練された技術に目を細める。
真見塚成孝と妻の間には何故か子供ができなかった。
それがまるで澪とのあの一夜の事と同時に、成孝の罪を目の前に突きつけられているかのような気すらした。澪を最後まで守らず、さっさと他のに女性と結婚してしまった自分。澪が出て行った事を忘れようとした自分。
一人きりで誰にも頼らず子供を育て、何度も問いかけてやっと彼の素性を明かした澪の憂いに満ちた表情が思い浮かぶ。
「先生、終わりました。」
キチンとした折り目をつけて信哉が正座をして自分を見上げているのに気がついて、彼は微笑みながらいいでしょうと声をかけた。後数年もすればこの天武の才を持った子供は自分の古武術の技も吸収して身につけてしまうだろう。それは他の門下生の間でももっぱらの噂だ。通い始めた時から見せた光る原石のような非凡な才能、できることなら自分の子供としたいといった言葉を澪に完全に拒否されてしまったのも事実。
信哉は少年らしい表情でイソイソと帰り支度を始めていて、その姿を成孝はそっと見つめる。小学生らしい姿だが芯がしっかりしている信哉の道場に通い始めた理由は「お母さんを守るため」だったのがまざまざと思い出された。少年が玄関で足を止め、嬉しそうな声を上げる。既に一人で道場に通っている少年だがここ数年時折母親以外の人物がお迎えが来ることがあり、微かにそれは成孝の心に小波を立たせる。
「武兄!」
子供らしい喜ぶ声と伴に自分に丁寧に信哉は頭を下げて、見知らぬ青年と帰途につく。その姿を何だか釈然としない気持ちで成孝は見送っていた。
※※※
四年前のあの夕日の酷く赤い光を信哉は今も忘れていない。
あの日を境に母の環境は何か大きな変化を起こしていた。
それは実際には良くない変化だと思うが、中には良い変化もあったと少年は思う。ただその良い変化はほんの僅かだが。そして、その良い変化の方は、彼にとってもいい変化だった。今こうして夕日を眺めながら横を歩く青年は、良く面倒を見てくれる信哉にとって年の離れた兄のような存在だ。
「ねぇ、武兄。今日はお仕事は?」
子供だからといって彼は良く信哉の小さい手を大人の青年の大きな手でくるむようにして握って歩く。子ども扱いしてと思うが、片親の彼にとって武と優輝の存在は兄や父のようなものだった。
事実、最初は優輝が父親なのかと思った時期もあった。何しろ年齢的には、それは可能な気がしたのだ。おそるおそる母と優輝に聞いてみたが、大爆笑しながら「違うよ」とアッサリと返答がかえって来てしまって拍子抜けしたものだ。
見上げた武の顔が呆れたように信哉を見下ろす。
「お前なァ、迎えに来たのに第一声がそれかよ。」
「だってお仕事しないと駄目だって、この間お母さんに言われてたじゃん。」
最近反抗期か?と青年がブツブツと愚痴る。そうはいっても青年自身キチンと仕事をしてきた後なのだろうと、信哉は思いつつ楽しげにその手を振った。武も苦笑しながら、元来子供好きなのだろう信哉の歩調に合わせて足をすすめてくれる。武も優輝も彼ら親子をとても気にかけてくれるのが、子供の信哉でもよく理解できていた。
「今日は、お前の母さんとお仕事の話なの。」
「ふぅ~ん、内緒のお仕事のおはなしかぁ…。」
子供心に納得できない部分もあるが、時々母や二人が何かしていることは気がついていた。しかし、けして美しく聡明な母はその内容を信哉に話そうとはしない。時に怪我をして帰って来ても彼にはそれすらも隠そうとするので、彼は何も聞けないまま武に質問をぶつけてみた。青年は暫く困った様子ではぐらかしていたが、母の怪我をどうにも見過ごせない信哉の言葉に『内緒のお仕事』があるとだけは信哉と武の秘密として教えてくれたのだ。
夕闇の落ちる空を見上げながら二人並んで歩く姿は、やはり親子というよりは年の離れた兄弟のように長く長く影を引いて家路を急いでいた。
二人きりの家族にはちょうどいい程度だが、やや古めかしいアパートの一室が鳥飼家だった。金銭的にはもっといい家に住めるどころか、家の一軒くらい買える余裕があるのに澪はしっかりしたものでかなりの倹約家だ。しかも都市の中だと言うのに、この近郊に土地まで持っていると聞いたときには武は呆気にとられたものだ。この古いアパートもマンションか何かに立て替える予定らしく、一先ず次の住む場所を探している最中なのだという。そんな澪はゆくゆくは自分の土地にマンションが建てば、そこに住みたいのだと言う。
2LDKの一室で信哉が一生懸命に宿題を進めているのを横に、キッチンでは夕食を作る澪の姿を眺める。武は彼女の息子には聞こえない小さな声で彼女に向かって話しかける。
「あいつが通ってる道場の…あれがあいつの父親なんだろ?」
その言葉に微かに驚いたように彼女が武に目を向けた。武は呆れた様にその表情を見やり、見てたら分かるってと呟き目を伏せる。見ていれば分かるのはあの道場主の表情の事なのは、言うまでも無い。
彼女が仲間になって既に四年。
それだけの時がたっても澪と初めて出会った時のあの凛とした気高い美しさは今も変わらず、それどころか大人びて更に艶を増したかのような匂うような美しさまで備え始めていた。それには自覚はないのだろう澪は、微かに恥ずかしそうに微笑んだ。武には他の女性と結婚している男と彼女の間に子供ができるという事自体が既に信じられない事なのだが、彼女はそれに気がついた様子もない。
「まァ、澪が決めたことならいいんだろうけどさ。何時かはあいつにもばれるぜ。」
「分かってる。」
彼女は微かな微笑を浮かべたまま武を見やる。その表情に武がどんな思いを抱くのか知らぬままに、手を動かし続けながら彼女は酷く大人で穏やかに話を元に戻すかのように口を開く。
「話しって、昨日のあの気配のことでしょう?」
前夜澪は不思議な気配が遥か遠くで、まるで灯火が燈ったかの様な感じで生まれたのに気がついていた。恐らくそれは同じように他の二人も、そして院の星読がいれば感じ取ったことだろう。それはゲートが開く感覚とは少し違っていた。
まァな、と呟いて武は声を更に潜め、その様子に彼女は目を細める。
「あれは何?ゲートじゃないわよね。」
「あァ、そうか澪はまだ初めてだもんな、ありャ『青龍』が生まれたんだ、どこかでな。」
彼女はその言葉に目を丸くした。
確かに彼女が役目につく以前から四神の一席『青龍』は空席のままだ。いつか生まれると聞いていたが、こんな風に感じ取れるものだとは思ってもいなかった。それは言い換えれば自分達と同じような境遇の人間がまた一人生まれるということに他ならない。武は真剣なまなざしで彼女を見返した。
「それでッちゃァ何だけど、今『星読』の爺の後継ぎがまだいないの知ってんだろ?」
出逢った時に既に高齢だった星読は、つい数日前に急逝していた。四神と同じように特殊な能力を持ち院を支える古老の跡継ぎも、国内中から密かに探されるものらしい。しかし、いまだ後継者たる能力を持った者はいないらしく、衰えた力と体力を振りしぼっていた古老の後は空席となっているのが現状だ。そのまま廃れればいいんだとは優輝の弁だが、実際澪もそう思わないことはない。彼女はその内容に思わず武に近寄り声を落とした。
「知ってるけど、それとこれとどう関係するのよ。」
「だから、院より先に『青龍』を見つけて、院から隠そうと思うんだよ。」
前からそうしようとしてたんだ、勿論澪の時もと武が呟く。澪は意味が分からないというように、まじまじと彼の顔を見つめた。武はその視線に気がついたのか少しぶっきらぼうにも思える口調で口を開く。
「院から隠してやったら、少しは普通の人間の生活できるだろ?俺等はもう無理だけどさ。」
その言葉の真意に彼女は納得しながら微笑んで、思わず鍋越しに武の頭を息子にするように優しく撫でる。その突然の行為に、彼は慌てたように顔を赤らめた。幾ら五つ違うとはいえ二十三歳にもなって、二十八歳の女性から頭を撫でられるなんてそうそうある事ではない。文句を言おうと口を開きかけた途端、彼女は華の様に大輪の笑顔を浮かべて彼の顔を見つめた。
「武も優輝さんもほんとに優しいのね、見直しちゃった。」
余りに美しく光り輝くような笑顔に思わず黙り込んでしまう自分に若干の情けなさを感じる。まぁいいかとその笑顔を見つめながら武は考えた。彼の中にある気持ちはきっと一生彼女には伝わることは無いのだろうが、こうして傍にいるだけでも十分幸せではあるのだから。そんな想いを噛締めながら、手際のいい母親らしくも在る彼女の姿をぼんやりと眺めながら武は頬杖をついていた。
新しい仲間を院から隠して守るという考えは、酷く彼女にとっても希望になる言葉だった。そうすれば、新しい仲間は、もうあんな非人道的な酷い検査を受けなくてもいい。あんな人として扱われないときを過ごさなくてもよくなる。それは自分達にとっての希望でもあり、もしこの後も続く者があるとすればその者達にとっても人間としての生活が少なくとも守られるだろう。しかし、その期待の半分はその直後に来た優輝の表情で打ち砕かれてしまった。
「新しい星読が見つかったらしい。」
「マジかよ?」
溜息をついた優輝の表情は酷く暗く、その影にまだ何かを言い切っていない様子で二人は訝しげな表情で彼を見つめた。優輝にも武にも住んでいる場所はあるのだが、どうしても子供がいる澪の家に集まる比率が高くなってしまっているのは仕方がない。仕方がない事なのだが、向こうの部屋の信哉に聴かれないようにするのもある意味一苦労ではある。
「何かあったの?」
「まだ、子供らしい。一歳になるかならないかだ。」
「はぁ?あ…ありえねぇ…親はどうしたよ?!!」
院という組織にはいるという事は彼らはだけの事ではなく、ある意味世捨て人になるのと同じようなものだ。あの僧衣の男達は、人と少し違う特殊な力をほんの少し持っているがために社会からはみ出した者の方が多いとも聞いている。女性も数人いるらしいが、それもかなり年を経た者で一割にも満たないことも聞いていた。つまり、ある意味では院に在籍する者も、それを束ねる者も孤独なのだろう、四神ほどではないにしろ。しかし、それらの多くは幾つか年を経て異常な能力に気がついた状況であって、赤ん坊にも等しい年齢では異例とも言えた。
「孤児らしい。詳しい所はわからなかった。ただ、かなり強い能力がある。」
どうやら、一足先にその人物に会って来たらしい優輝は深い溜め息をつく。やりにくくなったな、と小さく呟いた彼の表情は酷く重い。分別のつかない年であるからこそ、他の権力者の言うなりに能力を発揮してしまうだろう。強い能力を有した新しい星読の存在は、彼らの計画を根本から揺るがしてしまう。それを感じ取った武が思わずつられて、深い溜め息をついた。
「ご飯にしましょうっ!」
不意に、話を聞いていた澪が重苦しい雰囲気を破るようにして明るい声を張り上げ信哉を呼ぶ。
「み・澪ォ…?」
驚いたように思わず情けない声を上げる武に彼女は、微かに憮然とした表情を浮かべながら長い髪を優美な動きで払いのける。そして、徐に暗い顔をした二人を強い光を放つような視線で見下ろし悠然とした態度で口を開いた。
「今悩んだってしょうがないでしょ?」
そうきっぱりと言い切ると、彼女は食器を出して二人に運ぶように指示しながら料理を盛り付けにかかっている。まるで二人の暗い表情など気にもしないその様子に、二人は一瞬呆気に取られながら、「お手伝いするー」とキッチンにはいってきた信哉に目をむけた。彼女は自分の息子に微笑みかけながら、二人の仲間に目を向けずに静かに言葉を繋いだ。
「できる事をするしかないのよ、何時かはその子も分別が付く年になる、その時が勝負でしょう?」
それは、まるで分かりきっているじゃないと言いたげな言葉に聞こえて、二人は顔を見合わせる。言われてしまえばその通りとしか言いようのないその言葉に二人は苦笑して、重い雰囲気が溶けていくのを感じていた。それはある意味四神としてというよりも一人の母親としての言葉でもあったのかもしれない。
何故ならそこには幼い子供をあの古めかしい仕来りの中に閉じ込めて育てるなんてという澪の怒りすら微かに感じられる。
武が思わず「まるで女王様だよ」と陰口を叩いて後ろから澪に小突かれるのを見ながら、信哉が可笑しそうに子供らしい声を立てて笑う。
食器を運びながら不意に振り返った武の視線の先で、美しく聡明な澪は女性らしい外見とは違って、まるで怜悧な刃物のような『金気』の能力を内に内在する事を示す。それを表すかのように、冷静で鋭い感覚を持って先を見つめているかのようだった。
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とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
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