かのじょの物語

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30代の話 Terminal

67.ばいばい

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約束の日。
再び硬く重い気持ちで訪れた昔住んでいた場所は、更に荒んだ気配を増しているように見えた。全てはもう終わり、ただ幕引きだけを待っている、そう感じる。

今にして思えば、その日までの三ヶ月の間に自分の息子の面倒を見た両親は、恐らく自分の息子の放蕩ぶりを初めて理解したのではないかと思う。
そこまでの数年間、私が全て一人でかぶって来た金銭や日々の苦悩を初めて知ったのだと思う。勿論、それと同時に私の存在も彼等にとっては疎ましいものに変わったのだろう。
私は彼らにとって自分の息子を堕落させた者。そして、忌まわしい自殺未遂を繰り返す恥ずべき嫁、その為に幾ばくかは息子の金銭を使ったと思われた嫁なのだ。
そのためか、彼の両親は迷う事もなく既に離婚届けにサインをさせて私達を待ち構えていた。
残りの記載は五分とかからずに終り、その後の共有の財産も適当に分けることが決まった。しかし、こと物を分ける時点になると彼が逐一不満を申し立てるのでなかなか進まない。料理もしないくせに高級な嫁入りの時に、私の両親が買ってくれた鍋は渡さないとか、二台あるテレビのうち一台を持って帰ろうとしたらそれはテレビゲーム用にするから渡さないだとか、パソコンにしても私のパソコンはパスワードも知らず使えないのに使うかもしれないから渡さない等と、もう判断の意図が嫌がらせか子供なのとしか思えなかった。やっとの事で大体の財産の配分を決め役所に向かうとなったときにはもう正午近い時間になっていた。
しかも、早々に彼の両親が帰途につくと言った時は流石の私も私の両親もあっけにとられる。書類の提出も待たず、息子を置いて帰途につくといった二人の気持ちは私達には全く理解できないものだった。だが、もうそれも私にはどうでもいいことなのかもしれなかった。

「明後日、引っ越しの業者を呼んであります。今日明日と荷物を梱包しますから。」
「はぁ?なんだよそれ?」
「そう言ったはずです。何度もこちらに来るつもりはないんです。」

そう言った私を忌々しそうに見ながら彼は分ける事になった荷物で自分が失うことになった物を惜しそうに眺める。その姿を呆れたように見やりながら私と彼は別々の車で役所に向かった。

結局は自分の利益にならない事を悔む心しかないのだ。

そう思いながら、私は書類を提出するために市役所に向かう。しかし、市役所で私が知ったのは更に呆れるしかない事実ばかりだった。

「書類が足りませんね。」

その言葉に私は忌々しげに眉を潜め、彼を見つめる。あれほど準備をするように言ったのに、彼の実家でしか戸籍謄本をとれないことは分かっていたのに。そう視線で三人から責められた彼は、急いで帰途についた両親に連絡して不足の書類をもって来て貰う様に声をあらげる。連絡する姿を見やりながら私は溜息をつく。
そして同時に、私が入院した時にかかった高額医療の費用の補助すらも自分で受け取ろうと彼が手続きを始めていた事を知って私達は呆れたように絶句するしかなかった。高額医療の補助請求には入院費の支払った領収書が必要で、それを持たないシュンイチは補助の支払いを拒否されていたのを窓口で告げられた。

どこまで金にがめついというか、どこまで人の金目当てなのよ。

私と両親の冷たい視線に気がついた彼は慌てた様に「請求してあげておいただけだ」と分かりきったいい訳を口にするが、全て後の祭りで無駄な事に過ぎなかった。

帰途についていた両親を再び呼び戻し、呆れ果てて凍りついたような視線にさらされた状態の中やっとの事で必要な書類が手元に揃った。彼の両親はその書類を手渡すと、興味もないとでも言うようにさっさと踵を返した。結果それでもぎりぎり滑り込む様な形で私は書類を提出した。その手続きの最中に当然のように横に座った男が、背後にいる自分の両親には聞こえないように口を開く。

「これからも連絡は取り合おう。」
「何故?必要ないでしょ?」
「病気で別れるんだ、嫌いで別れる訳じゃない。」

私は改めてその言葉を口にした男を呆れたように見やり、溜息をついた。

「ほとぼりが冷めたらメールしてよ。電話でもいい。」

私はその言葉を無視して時計を見やる。
長い時間。
それもあと少しで終わる。
この忌々しい会話も終わる。
私は言葉を繋ぐ事もなく、ただ時計が時間を刻むのを見つめていた。

「これで手続きは終わりです。」

そう言葉がかかった瞬間、私は自分が思わず両親を振り返り微笑みかけた事を自覚した。
これで終わった。
あとは細かな出来事を終わらせればいいだけの事だ。


それはここではほんの些細な出来事なので客観的に語る事にしよう。
結局高額医療費の補助金を自分が奪おうとしていた俊一は、その医療費の領収書が手元になかったのでそれを受け取る事が出来なかった。勿論、それは私がその日のうちに受取り、自分の両親に渡した事はいうまでもない。
その日のうちに私は自分の荷物を梱包する事を始めたが、あまりにも自分の荷物が少なくなっていた事に微かな心の痛みを感じたのは事実だ。私の生きる場所はもうそこではなかったという事なのだろう。
少数の本・彼女が集めた大事なもの。
その中の幾つかは不在のうち彼の八つ当たりで壊されていたりはしたものの、それは翌日には梱包も終わりもうそこは私の世界ではなくなった。
そして私は殆どの衣類を処分した。
その場所を感じさせる苦悩に満ちた物も多くを処分した。
やり場のない寂しさを埋めるため与えられた縫いぐるみや使いようのない雑貨を無造作に捨てて、私が持ち帰る物は酷く残り少ないものとなった。

それでいい。

私は、そう思いながら切り捨てるように多くの物を思い出と一緒に捨てた。
処理業者が来たときに一緒に彼の不要な荷物を捨て何とその荷物の廃棄代金も彼は私に払わせた。それにもう何も言う事はしなかったが、その思いごと私は一緒に捨ててきた。

辛かった事は全て捨てていくんだ。

私は無くなった物を思い浮かべながら過去を微かに痛みと共に思いながら、自分の荷物の搬出されていくさまをただじっと眺めていた。
全てが終わって私は静かに窓辺から辺りの景色を見渡した。彼は友人と遊ぶために外出して、その時間・家にはいない。自分の元妻が荷物を搬出するというのに随分悠長なことだが、それはある意味で私にとっては幸運であったとも言える。
何処までも自分を中心にしか考えられなかった、愛して憎んだ男。
会わないままに帰途に着くことは私にとって、大きなな区切りのような気がした。

何時までいるんだ?
時間があるなら今後の事を話し合いたい。

昨夜そんな意味の通じない言葉を放った男は、結局私よりも自分を選んでここにいない。ここにいないことが答えなのだ。それが全てを示して、私を振り向かずに前へ進むように背中を押してくれる気がする。
もう二度と見ることはないだろう窓からの風景を彼女は様々な想いと共に眺めて目を細めた。


不思議と悲しくはない。
そして以前の自分には多くの後悔はあるが、今の自分の選ぶ道に後悔もない。
それが全てだった。


ヤネオアキコはその日に完全に姿を消して、元のアキコがそこにはいる。今私はただ、今までの幾ばくかの時間に感じた多くの深い感情を思い、それを少し悼んではいる。それでも、私は穏やかにそれを思うことが出来た。
深く命をかけた愛情と憎しみ。
そんなんなものがここには確かに存在したのだ。
それだけは拭いようもない事実だった事を少しの間だけ悼む。

やがて私思い出したように自分の携帯電話を取り出しておもむろに自分の夫だった液晶に浮かぶ名前を見下ろした。


ヤネオシュンイチ


愛した事を悔やみはしないし、憎んだことも悔やみはしない。
ただ、お互いが選ぶ道だけが間違っていた。
そう私は今は知っている。
これからその人間がどう生きていくかはもう私の心の範疇ではない世界だった。


ばいばい。


私は微かに揺らめくような視界の中で、それでも迷わずにその名前を消去した。
そうして私はその部屋を後にして、ドアの鍵をかけると小さな封筒にその鍵を落としてコトンと音を立ててポストの中に落とし込む。両親の元に向かって踵を返した彼女はもう二度とその扉を振り返る事はしなかった。
その足取りは迷う事もなく自分が自分らしく生きる為の道に進もうと新しい一歩を踏み出したような気がした。


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