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30代の話 Terminal
55.眠るために
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今や眠りは現実からの最短の逃避であり、私が唯一希望としてとらえることのできる場所になった。
全てはその眠りの中に逃げ込む事で、嫌なことも苦しいことも淡い雪のように消える。眠りの中の僅かな時の間だけでも全てから開放される。
本当はどこか知らない場所に逃げたいのに逃げる事もできず、かといって誰に助けを求める事もできない。そんな現実から逃げるには、もう『眠る』事だけしかない。私は心の奥底からそれだけを願った。だけど薬には効果を示す時間がある。どんなに効き目を見せても、数時間で現実に引き戻されてしまう。
そうして、私は眠りの時間を長くするための方法を考える。長く長く誰にも邪魔されないで眠る方法。何か起きなくてすむ方法はないか、長く眠り続けて起きなくてもいい………ああそうか、そういうことか。
ある時ふっと理解したような気がした。私が求めたのは深い眠り、二度と覚めない眠りにつくことに他ならないのだと。
心療内科に通い始めて僅か一ヶ月の間に、私に処方された薬は、私の体格から言うと規格外の量だった。薬剤はそれを体内で代謝して血液などで効果を示すモノだ。ものによっては様々な臓器の動きを阻害することもあるので、特に安定剤のような種類は体重や代謝して排出する能力と比較しながら処方する必要がある。
私の訴えに疑問もなく追加で処方したその医師は、申し訳ないがあまり目端のきく腕のいい意思ではなかったのだろうと思う。そして、同様に院外処方を出す薬剤師も、同様の処方に慣れていたのかその処方の異常さには気がつかなかったようだ。勿論こちらも看護師の知識をフル活用して、薬を出してもらうよう上手く具合の悪さを強調しているので騙しているようなものなのだが。
現在では処方箋に用法外の処方をすると、基本的に薬剤師はそれを確認するために医師に連絡する。薬剤は正しい用法が必要なものであるという認識がここ数年高まった証拠でもあるのだろう。
「眠れないです、一瞬ウトウトして、その後ずっと目が覚めます。」
「寝付きはいいです。でも、30分で目が覚めてそれ以降寝付けなくなります。」
「不安で夜中に目が覚めて飛び起きます。そのまま眠れなくて、ずっと起きています。」
私の言葉に医師が頷き、更に追加の安定剤や睡眠導入剤を処方する。
自分自身が何のためにそう言い新しく処方を出してもらっているのか。それを医師に言うわけがなかった。それでも続々と出されるその処方に手をつける訳でなく、綺麗に自分の持ち歩くバックのなかに貯めている。
最初から貰っていた数時間の眠りを与えてくれる薬だけを飲んで、わずかの眠りに落ちる。けして夜中に目が覚めて、追加で薬を飲むことはない。目が覚めれば暗闇の中でバックの中の薬がどれくらい貯まっているかを頭のなかで数えて、男のイビキを聞きながら夜が明けるまで過ごす。
飲んでいる抗うつ薬は、全く効き目すら感じられない。やる気も活力も戻ることはなく、ただ疲労感だけが蓄積していく。住み処のような暗い寝室から出ることは、トイレと彼の命令を聴く時だけになっていた。あんなに好きだった家事も洗濯も掃除も最近はやる気にすらならない。料理もしなくなったから、食事は男が適当に与える物に頼るしかなくなった。気まぐれに餌のように男から投げ渡されるモノを暗闇で貪り噛み砕き、水気のないそれを飲み込む。時には三本入りの串団子のパックを投げ渡されることもあった。時には冷めてはいても某有名チェーン店の牛丼のこともある。だが、大概は栄養価の分かりやすいブロック型の固形栄養材の黄色い箱だった。私の好まないドライフルーツ味のそれを犬のように噛み砕き、次に与えられる餌の時間までもつように寝室で息を潜める。殆ど動かないので吐くことは無くなったが、偏った食生活に腹部がつきだした姿は地獄絵図の餓鬼のようだ。
誰がが来たら表面を取り繕って、妻のふりをしなければいけないかもしれない。もっとも最近は殆どこの家を訪ねてくる人なんかいない。携帯も前回私がウノさんのところに逃げたしたから、何か問題を起こすと困ると男が奪い取ってしまった。逃げることは男にとって、問題なのだ。流石に通院時は持たされるけど、その後使用した履歴があれば酷い目に遭わされるから使う気にもなれない。私は表面上は従順で大人しい奴隷で妻であり続けるよう努め、男の暴力にも抵抗する事もないただの飼い犬のようにそこで丸くなった。
そうしながら私は普段男に何かを言ったりやったりするよりも、綿密に自分の願いを優先して行動している。私はすっかり狂った頭で、そのくせ元々持ち合わせた恐ろしいほどの手際の良さを発揮している。この狂った病的な執念で、私の願いを果たすための準備を短い時間でこなすんだ。そう思い真っ暗な寝室のベットの上で丸くなったまま、ニヤリと口角を歪ませる。
※※※
珍しく私は家に一人で幸せに満たされていた。
真っ暗な家の中は、物音もなく私だけの世界だ。
狂った私は嬉しそうに音のない室内に耳をすます。
日射しも落ち、微かにどこかの家の子供が騒ぐ声がする。そして、微かな調理の音、テレビの音、赤ん坊が泣く声、母親らしい女性の声と返事を返す子供の声。異世界のようなその音に私は寝室の暗闇の中で耳をすます。
唐突に携帯が震え私は驚いて飛び上がる。暫く震えが止まるまで息を潜めていると今度は自宅の固定電話が鳴る。オロオロと困ったように電話を眺める。とればいいのだが、電話に出るなと男から命令されていたのだ。固定電話の留守電に切り替わると聞き覚えのある声が話し出すのを聞いて私は電話に歩み寄った。それは、自分の母親からの電話で、留守電が返答し始めると通話が終わる。と、思うと再びディスプレイに同じ電話番号が表示され電話が鳴り始める。もしかしたら、緊急の用事かもしれないと、私は恐る恐る受話器をとった。
「………もしもし……。」
《アキコ、よかった。今どうしてるの?》
それほど緊急性のある声音ではない様子に私も安心する。もしかしたら、男に電話をして不在にしてることを聞いたのかもしれないとぼんやり思った。暫く前から私が仕事を休んでいることは、両親からかかってきた電話のついでに男から話されているはずだ。
その日、男は職場の忘年会で1泊の旅行に出かけていた。だから私は一人暗闇で穏やかに過ごしているのだが、そう告げると母の声音が険しくなったのが分かる。
本来なら精神的な病気で多量に薬を内服している妻を置き去りにすること自体が間違っている。そんな事はよく分かっていたが、私自身は逆に独りでいることのほうが今は幸せだった。殴られる心配もないし、恐くて落ち着かないこともない。
だが、両親はその状況を聞き憤慨して、その怒りの様子に久々に人らしい感情を感じて私は涙を零した。
もう私は、携帯を取り上げられているからウノさんに電話をすることも出来ず、来訪しなくなったコバヤカワともコイズミとも接点は皆無だった。後者が男の故意によるものくらいは私自身も良く分かっていたが、既にそれもどうでもいいことだった。酩酊する時間帯には車の運転も出来ないので、殆ど外に出ることもない。
《迎えに行くから・週末に》
怒りを含んだ母の声音に私は嗚咽を零しながら、願いをかなえる日が決まった事を感じていた。
人はそれをしようとする時、確実な変化を見せる。
傍目に見てもそれは明確なものではあるが、それは見ようとしなければ分からない変化でもあるのだ。
人はそれを決行しようとする前に自分の身の回りのを整理するものらしい。今まで殆ど自発的に動くこともなかった私が、まるで以前の私のようにてきぱきと活動を始める。
勿論、前向きな意図で活動的になったのではなかった。
自分の持っていた大事なもの。
自分が集めていた大切だったもの。そんな、自分にとって大切な本や絵を処分し始めたのだ。
最初に男から可愛いと与えられたぬいぐるみ。
その後もまるで私の時間を潰す代償のようにゲームセンターに行く度に与えられるようになったクレーンゲームのぬいぐるみは既に棚に山のようになっていたが、それも綺麗サッパリ処分された。
様々な物が煙のように部屋から消えて行くのに、一緒に住む夫である者が気がつかないはずはないと思う。
数百にもおよぶ私の蔵書が本棚から姿を消し、
数十にもおよぶ私の趣味である映画のソフトが棚から姿を消し
幾つものぬいぐるみが何時の間にか消えていく。
そして残るのは捨てるに捨てられない私の思いだけが詰まったもの
私が過去に触れた強い感情の残った物だけが大切に私の思いに包み込まれて取り残されていく。そして、私に押し付けた男の好む物だけが孤独に消え去って行く。それが見えないはずはなかった。
※※※
私はそれに気づかれ止められる事を危惧していた。しかし、結局最後まで私の夫である男はそれに触れようとはしなかった。いや、あえて触れなかったのかもしれない。ふと一人部屋の中でそう気がついた私は心の中に沸き上がる激しい憎悪に気がついた。
苦しんでいるのに、あなたは見ないふりだ。
それは何故だろう。
あなたの愛情とはそういうものなのだろうか。痛みと恐怖だけを与えるのがあなたの愛情なのだろうか。そう思いながら、12月のまだ遠距離恋愛の最中救急車で運ばれた苦痛を感じた日と同じ夜。
私は目的を果たすその時を迎えていた。
「明日両親が来た時、寝てると気がつかないかもしれないから仕事に行く時は鍵を開けていってね?」
翌日仕事だという男の背中にそう言うとパソコンのチャット画面から目も話さずにおざなりの返事が返される。もう一度丁寧にそう頼んだ声にを初めて男は訝しげに振り返り、私と視線があうと久々に優しい声音を投げる。
「今度の休みは一緒に遊びに行こうか?」
その言葉の影には、目の前のパソコンでたった今他の女と会話そしていることがまざまざと目に見えるような気がした。それが分かってばつが悪いから優しくする男なことくらい、もうとうの昔から知っている。
病気で役に立たない金づるだけの奴隷妻は、今や金づるとしても機能しなくなりつつある。仕事を休むことで貰える傷病手当金で、家賃や光熱費を支払えば後は通院代程度しか手元には残らない。それでも目の前の男が度々、病気の妻の通帳から貯蓄を切り崩し遊興費として使っているのを知っている。親から貰った幾ばくの金銭は、とうの昔に遊興費に消えたことも私はちゃんと知っている。
だけどそれを問いただすつもりもない。問いただせば奴隷としての役目を果たさないと、また理不尽な暴力にさらされる。
今はその性的な欲求を満たす変わりの女性を求める彼の底のない欲が見え隠れする。そして分かりきったことだが、それを追求すればあの奴隷誓約書を持ち出して来るのだ。これ以上奴隷としての束縛がありようもないのに、書類というおぞましい現実にサインをしろの責めが始まる。それはもうごめんだった。だから、私は無表情のまま男を見据えた。
「…そうだね。……それじゃ、寝るから、バイバイ。」
意図的に残した言葉を何も感じない男が適当な返事の後、パソコンでの交流を再開する。その姿を見つめながら私は踵を返し寝室に真っ直ぐ進む前に台所へ立ち寄る。そして、この時のために買っておいた冷えたビールを片手に寝室へと向かっていた。
これで終わり。
もう何も辛い事はなくなる。
全ては淡い雪のように溶けてこの世から消え去るのだから。
それだけの為に私は微かに歪んだ微笑を浮かべて、口に薬を含みビールで飲み下し始めた。
全てはその眠りの中に逃げ込む事で、嫌なことも苦しいことも淡い雪のように消える。眠りの中の僅かな時の間だけでも全てから開放される。
本当はどこか知らない場所に逃げたいのに逃げる事もできず、かといって誰に助けを求める事もできない。そんな現実から逃げるには、もう『眠る』事だけしかない。私は心の奥底からそれだけを願った。だけど薬には効果を示す時間がある。どんなに効き目を見せても、数時間で現実に引き戻されてしまう。
そうして、私は眠りの時間を長くするための方法を考える。長く長く誰にも邪魔されないで眠る方法。何か起きなくてすむ方法はないか、長く眠り続けて起きなくてもいい………ああそうか、そういうことか。
ある時ふっと理解したような気がした。私が求めたのは深い眠り、二度と覚めない眠りにつくことに他ならないのだと。
心療内科に通い始めて僅か一ヶ月の間に、私に処方された薬は、私の体格から言うと規格外の量だった。薬剤はそれを体内で代謝して血液などで効果を示すモノだ。ものによっては様々な臓器の動きを阻害することもあるので、特に安定剤のような種類は体重や代謝して排出する能力と比較しながら処方する必要がある。
私の訴えに疑問もなく追加で処方したその医師は、申し訳ないがあまり目端のきく腕のいい意思ではなかったのだろうと思う。そして、同様に院外処方を出す薬剤師も、同様の処方に慣れていたのかその処方の異常さには気がつかなかったようだ。勿論こちらも看護師の知識をフル活用して、薬を出してもらうよう上手く具合の悪さを強調しているので騙しているようなものなのだが。
現在では処方箋に用法外の処方をすると、基本的に薬剤師はそれを確認するために医師に連絡する。薬剤は正しい用法が必要なものであるという認識がここ数年高まった証拠でもあるのだろう。
「眠れないです、一瞬ウトウトして、その後ずっと目が覚めます。」
「寝付きはいいです。でも、30分で目が覚めてそれ以降寝付けなくなります。」
「不安で夜中に目が覚めて飛び起きます。そのまま眠れなくて、ずっと起きています。」
私の言葉に医師が頷き、更に追加の安定剤や睡眠導入剤を処方する。
自分自身が何のためにそう言い新しく処方を出してもらっているのか。それを医師に言うわけがなかった。それでも続々と出されるその処方に手をつける訳でなく、綺麗に自分の持ち歩くバックのなかに貯めている。
最初から貰っていた数時間の眠りを与えてくれる薬だけを飲んで、わずかの眠りに落ちる。けして夜中に目が覚めて、追加で薬を飲むことはない。目が覚めれば暗闇の中でバックの中の薬がどれくらい貯まっているかを頭のなかで数えて、男のイビキを聞きながら夜が明けるまで過ごす。
飲んでいる抗うつ薬は、全く効き目すら感じられない。やる気も活力も戻ることはなく、ただ疲労感だけが蓄積していく。住み処のような暗い寝室から出ることは、トイレと彼の命令を聴く時だけになっていた。あんなに好きだった家事も洗濯も掃除も最近はやる気にすらならない。料理もしなくなったから、食事は男が適当に与える物に頼るしかなくなった。気まぐれに餌のように男から投げ渡されるモノを暗闇で貪り噛み砕き、水気のないそれを飲み込む。時には三本入りの串団子のパックを投げ渡されることもあった。時には冷めてはいても某有名チェーン店の牛丼のこともある。だが、大概は栄養価の分かりやすいブロック型の固形栄養材の黄色い箱だった。私の好まないドライフルーツ味のそれを犬のように噛み砕き、次に与えられる餌の時間までもつように寝室で息を潜める。殆ど動かないので吐くことは無くなったが、偏った食生活に腹部がつきだした姿は地獄絵図の餓鬼のようだ。
誰がが来たら表面を取り繕って、妻のふりをしなければいけないかもしれない。もっとも最近は殆どこの家を訪ねてくる人なんかいない。携帯も前回私がウノさんのところに逃げたしたから、何か問題を起こすと困ると男が奪い取ってしまった。逃げることは男にとって、問題なのだ。流石に通院時は持たされるけど、その後使用した履歴があれば酷い目に遭わされるから使う気にもなれない。私は表面上は従順で大人しい奴隷で妻であり続けるよう努め、男の暴力にも抵抗する事もないただの飼い犬のようにそこで丸くなった。
そうしながら私は普段男に何かを言ったりやったりするよりも、綿密に自分の願いを優先して行動している。私はすっかり狂った頭で、そのくせ元々持ち合わせた恐ろしいほどの手際の良さを発揮している。この狂った病的な執念で、私の願いを果たすための準備を短い時間でこなすんだ。そう思い真っ暗な寝室のベットの上で丸くなったまま、ニヤリと口角を歪ませる。
※※※
珍しく私は家に一人で幸せに満たされていた。
真っ暗な家の中は、物音もなく私だけの世界だ。
狂った私は嬉しそうに音のない室内に耳をすます。
日射しも落ち、微かにどこかの家の子供が騒ぐ声がする。そして、微かな調理の音、テレビの音、赤ん坊が泣く声、母親らしい女性の声と返事を返す子供の声。異世界のようなその音に私は寝室の暗闇の中で耳をすます。
唐突に携帯が震え私は驚いて飛び上がる。暫く震えが止まるまで息を潜めていると今度は自宅の固定電話が鳴る。オロオロと困ったように電話を眺める。とればいいのだが、電話に出るなと男から命令されていたのだ。固定電話の留守電に切り替わると聞き覚えのある声が話し出すのを聞いて私は電話に歩み寄った。それは、自分の母親からの電話で、留守電が返答し始めると通話が終わる。と、思うと再びディスプレイに同じ電話番号が表示され電話が鳴り始める。もしかしたら、緊急の用事かもしれないと、私は恐る恐る受話器をとった。
「………もしもし……。」
《アキコ、よかった。今どうしてるの?》
それほど緊急性のある声音ではない様子に私も安心する。もしかしたら、男に電話をして不在にしてることを聞いたのかもしれないとぼんやり思った。暫く前から私が仕事を休んでいることは、両親からかかってきた電話のついでに男から話されているはずだ。
その日、男は職場の忘年会で1泊の旅行に出かけていた。だから私は一人暗闇で穏やかに過ごしているのだが、そう告げると母の声音が険しくなったのが分かる。
本来なら精神的な病気で多量に薬を内服している妻を置き去りにすること自体が間違っている。そんな事はよく分かっていたが、私自身は逆に独りでいることのほうが今は幸せだった。殴られる心配もないし、恐くて落ち着かないこともない。
だが、両親はその状況を聞き憤慨して、その怒りの様子に久々に人らしい感情を感じて私は涙を零した。
もう私は、携帯を取り上げられているからウノさんに電話をすることも出来ず、来訪しなくなったコバヤカワともコイズミとも接点は皆無だった。後者が男の故意によるものくらいは私自身も良く分かっていたが、既にそれもどうでもいいことだった。酩酊する時間帯には車の運転も出来ないので、殆ど外に出ることもない。
《迎えに行くから・週末に》
怒りを含んだ母の声音に私は嗚咽を零しながら、願いをかなえる日が決まった事を感じていた。
人はそれをしようとする時、確実な変化を見せる。
傍目に見てもそれは明確なものではあるが、それは見ようとしなければ分からない変化でもあるのだ。
人はそれを決行しようとする前に自分の身の回りのを整理するものらしい。今まで殆ど自発的に動くこともなかった私が、まるで以前の私のようにてきぱきと活動を始める。
勿論、前向きな意図で活動的になったのではなかった。
自分の持っていた大事なもの。
自分が集めていた大切だったもの。そんな、自分にとって大切な本や絵を処分し始めたのだ。
最初に男から可愛いと与えられたぬいぐるみ。
その後もまるで私の時間を潰す代償のようにゲームセンターに行く度に与えられるようになったクレーンゲームのぬいぐるみは既に棚に山のようになっていたが、それも綺麗サッパリ処分された。
様々な物が煙のように部屋から消えて行くのに、一緒に住む夫である者が気がつかないはずはないと思う。
数百にもおよぶ私の蔵書が本棚から姿を消し、
数十にもおよぶ私の趣味である映画のソフトが棚から姿を消し
幾つものぬいぐるみが何時の間にか消えていく。
そして残るのは捨てるに捨てられない私の思いだけが詰まったもの
私が過去に触れた強い感情の残った物だけが大切に私の思いに包み込まれて取り残されていく。そして、私に押し付けた男の好む物だけが孤独に消え去って行く。それが見えないはずはなかった。
※※※
私はそれに気づかれ止められる事を危惧していた。しかし、結局最後まで私の夫である男はそれに触れようとはしなかった。いや、あえて触れなかったのかもしれない。ふと一人部屋の中でそう気がついた私は心の中に沸き上がる激しい憎悪に気がついた。
苦しんでいるのに、あなたは見ないふりだ。
それは何故だろう。
あなたの愛情とはそういうものなのだろうか。痛みと恐怖だけを与えるのがあなたの愛情なのだろうか。そう思いながら、12月のまだ遠距離恋愛の最中救急車で運ばれた苦痛を感じた日と同じ夜。
私は目的を果たすその時を迎えていた。
「明日両親が来た時、寝てると気がつかないかもしれないから仕事に行く時は鍵を開けていってね?」
翌日仕事だという男の背中にそう言うとパソコンのチャット画面から目も話さずにおざなりの返事が返される。もう一度丁寧にそう頼んだ声にを初めて男は訝しげに振り返り、私と視線があうと久々に優しい声音を投げる。
「今度の休みは一緒に遊びに行こうか?」
その言葉の影には、目の前のパソコンでたった今他の女と会話そしていることがまざまざと目に見えるような気がした。それが分かってばつが悪いから優しくする男なことくらい、もうとうの昔から知っている。
病気で役に立たない金づるだけの奴隷妻は、今や金づるとしても機能しなくなりつつある。仕事を休むことで貰える傷病手当金で、家賃や光熱費を支払えば後は通院代程度しか手元には残らない。それでも目の前の男が度々、病気の妻の通帳から貯蓄を切り崩し遊興費として使っているのを知っている。親から貰った幾ばくの金銭は、とうの昔に遊興費に消えたことも私はちゃんと知っている。
だけどそれを問いただすつもりもない。問いただせば奴隷としての役目を果たさないと、また理不尽な暴力にさらされる。
今はその性的な欲求を満たす変わりの女性を求める彼の底のない欲が見え隠れする。そして分かりきったことだが、それを追求すればあの奴隷誓約書を持ち出して来るのだ。これ以上奴隷としての束縛がありようもないのに、書類というおぞましい現実にサインをしろの責めが始まる。それはもうごめんだった。だから、私は無表情のまま男を見据えた。
「…そうだね。……それじゃ、寝るから、バイバイ。」
意図的に残した言葉を何も感じない男が適当な返事の後、パソコンでの交流を再開する。その姿を見つめながら私は踵を返し寝室に真っ直ぐ進む前に台所へ立ち寄る。そして、この時のために買っておいた冷えたビールを片手に寝室へと向かっていた。
これで終わり。
もう何も辛い事はなくなる。
全ては淡い雪のように溶けてこの世から消え去るのだから。
それだけの為に私は微かに歪んだ微笑を浮かべて、口に薬を含みビールで飲み下し始めた。
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