かのじょの物語

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30代の話 Terminal

53.可哀想な娘(交差する視点)

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それは閉じた世界だった。
薬という緩慢なクッションを四方に敷き詰められ狭く暗い音のない世界。その中にあるのは、ただ虚ろな自分という存在と恐怖をもたらす何かという存在だった。

その中で不意に光がさしたのは一体どれくらいの時間が経ってからの事だろう。

「アキコ?…一緒にうちに帰ろう?」

その声に私はふっと自分の閉じた世界が微かに揺らいだのを感じた。
何時来たのだろう。
これは夢なのだろうか?きっとそうなのだろう。
自分の両親の顔に私は微かに現実に焦点を結んだ。

「…迎えに来たよ?一緒に家に帰ろう?」

懐かしい声と手に私は自分が何処にいるのかどうしていたのかすら分からずに素直に頷いた。緩慢な自分では何も出来ない状態の私をみつめる私の両親が、微かに険呑とした雰囲気で夫に対峙しているのを感じる。ノロノロとしてまともに服も着られない私に、見かねた母が着替えを手伝ってくれている。私は母にボタンを止められながら、何も考えられない気持ちのままその場にいる両親を見つめる。
つれて帰られる私に彼は、何を言うでもなかった。
お願いしますでもなく
つれて帰らないでくれでもなく
ただなされるがまま、見送る事もなく私を送り出す。
そして私自身もそれに対して何も考えることが出来なかったのだ。


※※※


その異変に気がついたのは、予期せぬ電話のお陰だった。唐突にかかってきた電話の主は、嫁に出し連絡もない状態の続いていた娘だった。

《もしもしぃ、かぁさん?》

違和感のある声だった。舌が回らないような呂律の回らない話し声は、聞き覚えのある娘の声なのに別人のようだ。元気?と問うと彼女は暫く黙りこんで、言葉を探しているような気配を滲ませた。

《かぁさん、あのね。》

何?と返すと再び黙りこむ。
違和感が更に強くなる。まるで他人と話しているみたいだと思った。うちの娘はこんな間の抜けた話し方をする子ではない。何時も丁寧に理路整然と話し、こんな呂律の回らない話し方なんかしない。そう考えたとき、遥か昔にあった事が脳裏を掠めた。娘がまだ中学生くらいの頃、虐めにあって暫く精神的にまいってしまった時の事だ。

「アキコ?何かあったの?」

暫しの沈黙。すると、電話の向こうで嗚咽混じりの娘の声が驚くようなことを口にした。

《かぁさん、あたし、びょうきなの、くすりのんでるの》

私の娘の言葉に、私は居ても立ってもいられず、直ぐ様夫と駆けつけた。そうして目にしたのは、テレビで見るゴミ屋敷のようなゴミだらけのアパートで、薄汚れた姿でぽかんと呆けて窶れ果てた娘の姿だった。
訪問を予告していたわけでない私達の姿に、幸せにすると娘を連れていったはずの男がだらしないスウェット姿でドアを開け面食らったのが分かった。ゴミだらけのキッチンに呆れ顔で夫が立ち竦むと、男はモゴモゴと娘が捨てないから溜まったと言い訳する。そうして、その先に私達はベットの上で呆けて座っている娘をみたのだ。
どれくらい風呂に入っていないのか問いかけても娘は答えられなかった。勿論昨日私に電話したことも記憶にない様子だった。

「アキコ?…一緒に家に帰ろう?」

そう泣きそうになりながら涙を噛み殺して囁く。私の娘はふっくりとふくよかで笑顔の可愛い娘だった。ニコニコとして、えくぼのできる笑顔の娘だったのに、目の前の娘は痩せこけて、頬がこけ手足も骨ばかりになってしまっている。綺麗好きで化粧っ気はないが身綺麗な子だったのに、目の前には薄汚れた肌で垢じみたスリップみたいなのをだらしなく羽織っただけ。ぶつけたのか体や太股には色の違う内出血がある。こんなむごい姿で、一人こんな汚いベットで耐えていたのだろう。
ぼんやりと私の娘は私の顔に視線を向け不思議そうに暫しの間私を見つめた。泣き出しそうだった。この子は私達を見ても現実だと思えていないのが分かったから。

「…迎えに来たよ?…一緒に家に帰ろう。」

するとそんなに憐れな姿なのにその奥から私の娘が、不意に顔を覗かせる。私の娘の瞳で、彼女は大人しくコックリと頷いたのだ。だが、可哀想に彼女は着替えすら満足に出来ない。飲まされた薬のせいなのか、薬を飲む理由のせいなのか、服に袖をとおすどころか服すら探せないのだ。私が服を探し着替えをさせる間、夫は台所のゴミを片付けだす。
共稼ぎの私達夫婦はお互いにお互いのできることをするのが当たり前で、子供達二人もそんな親の事を真似て出来ることは自分でしてくれた。手がかかったことなんて殆どない子供達だった。だから、こんな荒れ果てた家なんて産まれて初めて見た。夫も几帳面だからきっと同じ思いだろう。
そんな私達の姿に、私の娘をこんなになるまで放置した男はモゴモゴと何かしら言い訳をしている。アキコが捨てなかっただの、アキコが洗濯しないからだの、アキコが料理しないからコンビニで買うはめになっただの。私は私の娘を助けるのを優先したから、聞く耳も持たなかった。しかし、夫は違ったようだ。着替えの間、男の言い訳を聞き続けた夫は、暫く台所で男と何か言葉を交わし男が黙りこんだ。そして、私達はそのまま彼に何を言われるでもなく、私達の娘を連れ帰ったのだった。



※※※


数時間。
数日。
そう時が過ぎて行く。
時間が過ぎるほどに自宅で過ごしている私は急激に息を吹き返すようにもとの私らしさを取り戻していく。まるで再び水を得た魚の様に生き生きと私らしい感情が閉ざされた暗い水面の下から浮かび上がる。萎れ枯れ果てていると思われた花が生き生きと蘇っていくのを見るかのような変化がそこにはあった。しかし、私の両親はそれ見定めるように慎重に私の状態を見つめていた。
そうして半月もすると私は昔の私のように普通に笑えるほどに戻っていたのだった。

「母さん、今夜の食事は作るから。」

いいと言っても元通りの活気を取り戻しつつある私には、ただ居候の身は肩身が狭い。しかも、もう10年以上も実家に居なかったので、昔の自分の部屋は父親の部屋にかわり、居間の隣の普段は母の箪笥や衣類を置いている部屋の一部に布団を敷いて寝ているのだ。共稼ぎの両親に弟も勤めているのだから、休職中の自分が肩身の狭いのはどうしようもないが自分ができることくらいは探したい。
そうやって家事をする勘も取り戻しつつあった私に、現実を思い出させたのは何気なしに見たメールだった。

『お前はそこにいていい人間じゃない。』

そのメールを読んだ瞬間、私は取り戻した何かが再び崩れる音を聞いた。暫く呆けていたせいで、全く開かなかった携帯のメールボックスに未読のメールが連なっている。同じ名前からのメールで埋まる画面に吐き気すら感じながら、私は恐る恐るメールを開く。
幾つものメールには同じような言葉が連なり、返事すらしなかった私への苛立ちが言葉の矢となって突き刺さる。

『お前は俺のモノだから一緒にいないといけない。』

自分は確かにもう戸籍上は嫁いだ人間で、苗字も違う。
今の私はヤネオアキコだった。その事実が、私の取り戻したはずの理性を蝕んでいくのが自分でも分かる。
私自身の考え方が古風なのかもしれない、そして相手も自分が嫁いだ事で自分を所有物として認識している。しかも、彼はそれ以外でも私を所有物としてみているのだ。彼の奴隷という所有物としての私に、所有権を叫んでいる。

メールを見つめながら、再び閉じていく世界を感じていた。何度も何度も繰り返され刷り込まれる言葉の渦。自分の場所が何処にあるのか、自分がどうする事が正しいのかが分からなくなっていく。愛情も感じられないその言葉の中に、私は何を見たのだろうか。

『早く戻ってこい。』

何故このメールに逆らう事ができないのかと私は心に問いかける。
これは愛なのか?
何故お互いに傷つく道ばかりを選んでいるのだろう。
もし今度戻ったら新しい道は開けるのだろうか。
いや、これより酷くなったらどうするのだろう。
多くの疑問は形を成して、そのまま答えも得られずに塵のように心に積もっていく。






一度とり戻したはずの自分らしさを失った彼女を両親は返そうとはしなかった。
だが、それを再び振り切ってアキコがシュンイチの元に戻ったのは、
自分でも理解しきれない感情の波に飲まれた結果だったのかもしれない。


≪愛してるから、戻ってこい≫


―――その短い文字に彼女は何か明るいきざしを求めただけなのかもしれない。

アキコが戻って暫くの間、全ての状況は一時期もちなおしたかの様な気がした。
彼女は仕事に復帰して変わりなく働いていたし、シュンイチも再び違う塾にバイト講師とはいえ再就職をして状態は一時表面的には落ち着いたかのようにも感じられる。
だが中身は今までよりも状況は悪くなっていたのかもしれない。
自宅で彼女が口を開く事は極端に減り、新しい職場でありながら結局前と同じ職業を選んだシュンイチの言葉と行為の暴力は日々程度を増している気がした。
それなのに、そのまま彼女が其処に居続けたのは『嫁いだ』という事実があっただけなのかもしれない。


「お前が言うから就職してやったのに。」


そう言い放たれても彼女はもう言い返す事もなく、素直にうなだれる。
痛みをもたらす言葉も拳も逃れる気もなく無気力なまま見つめ続けた彼女は、崩壊していく自我の中で再び自分すら見失っていた。



彼女がシュンイチの元に戻って僅か2ヶ月。
アキコは初めて自分から心療内科を受診した。
彼女におりたのは『鬱病』という診断名と休職の指示だった。

仕事も奪われた彼女に残ったのは全てから逃れるための眠りだけだった。
痛みも何も感じない眠りの中に逃げ込むために処方された睡眠薬を含む。
だが、それも帰宅したシュンイチによって破られる。
其処からまた逃げ出したくて彼女は更に多量の薬を内服した。
もう全てから逃げるには死ぬしかないと彼女は心の何処かで錯覚を起こし始めていたのだ。



―――そして彼女は職業という特性を悪い意味で活用し始めた自分を止める事も出来ないでいた。

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