鮮明な月

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間章 ソノサキの合間の話

間話79.悲しい恋の行方3

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これまで冷淡で傲慢な暴君の姿しか見たことがなかったのに…………

邑上誠は突然に暴君になるまでの年月の記憶を失い、手足にも麻痺を起こして言葉も少し不自由になってしまった。そうして赤ん坊の頃から邑上悠生を育ててきたことすら記憶にない邑上誠は、無垢に微笑みながら悠生を悠生の父親・祐市と誤認したまま療養の日々を過ごしている。

「誠、朝だよ?起こすね。」
「んん…………にぃさん、おはよう……。」
「おはよう、誠。」

悠生が以前の呼び方の『兄さん』と呼ぶと誠は混乱して泣き出しまうから、悠生は意図して誠のことを名前で呼ぶように変えて、今では慣れて『誠』と呼ぶのに躊躇いもなくなった。でも逆に自分のことを祐市と混同している誠には、以前のように名前で呼べとは言うことがもう出来ない。何しろ誠は『悠生』とは絶対に自分を呼んでくれないからだ。

父親の名前では…………呼び続けられたくない…………

『祐市』と呼ばれて微笑まれても、実は悠生には笑顔を返せる自信がない。それが何故かと聞かれても、嫌だからとしか悠生には答えられないままだ。
起こされて眠たげに目を擦る誠のことを抱き上げベットサイドの車椅子に座らせて、先ずは冷たいタオルで顔を拭い、次に掌を揉むようにしてタオルで拭う。寝起きは指が強ばるらしく、最初のうちはマトモに自分で顔を拭くことも出来ないのだ。こうしてタオルで拭きながら指先を解している内に、寝ぼけ眼だった誠がユックリと瞬きしている。

「眠れた?」
「うん、………………夢……みなかった、にぃさん。」

ここで暮らすようになって最初の数日は、誠は夜中に悲鳴を上げて飛び起きたりして暫く傍であやしていないと落ち着かなかった。そしてその度に駆けつけるよりと何日間か、悠生は誠のベットで添い寝する羽目になったのだ。父親が来る悪夢とか他にも訳の分からない悪夢に苛まれているなんて正直知らなかったが、それもここが病院とは違う静かな環境が故だろう。これまでは四六時中扉の前に誰かがいて、目覚めれば扉が開けられ確認されるからそれほど問題視されなかったのだと思うのだ。それでも次第に悪夢は遠ざかり、誠は少しずつ纏まって眠れるようになってきている。この環境に慣れ始めているのだと思う。だから昨日の夜はあえて一緒に寝なかったのだが。

え、……一緒に寝てくれないの…………?

そう悲しげな顔で夜に上目遣いにベットから見上げてくる誠に、思わず悠生は分かった一緒に寝るからと折れそうになってしまった。いやいや、誠は落ちつい来れば独りで眠りたがるだろうし、今少し慣れればいいことだ。そう言い聞かせて独りで眠るように告げ、シュンとした顔をされてしまった。
寝ぼけているから言葉が出にくいのか、それとも遠慮しているのかはまだよく分からない。それでも次第にこの辺りには誠も目を覚ましているからタオルを持たせて後は自由に拭きたいところを拭かせながら、悠生は誠の両足をユックリと揉みほぐしにかかっていた。

「にぃさん、毎日いいよ?大変でしょ?」

タオルをぎこちない手付きで使いながらそう言う誠に、誠が自分でこうできるようになったら止めるよと笑って言うと誠は少し困ったように頬を染める。手足の麻痺に関しては軽症なので日々訓練していたら、少しは動くようになる可能性があるそうだ。でもそれには毎日の訓練が必要だけれど医療や介護の手を借りて訓練を続けるには、誠は立場が特殊過ぎている。だから病院でやっていたのを見ていたのと、後はジムのトレーナーに相談して筋肉が固まったままにならないように毎日丁寧に解しておく。お陰で……と悠生は思いたいところだが、欲目なのか少しだけ手足の動きはよくなったような気がしている。

「にぃさん、ありがと、拭けた。」
「あぁ。」

手を出して誠が顔の辺りを拭ったタオルを受けとると、誠は車椅子の車輪に手を掛けて少しずつ少しずつ回し始めていく。入院中もこのリハビリがなかったわけではないのだが、どうしても警官の監視下ではリハビリは病室内に限定されてしまって進みが悪かった。それは今更だが誠は少しでも自分に迷惑がかからないようにと、必死になっているのだ。

「無理しないようにね、誠。」
「うん、無理、してない。」

そうして2人の穏やかな毎日が繰り返されていく。



※※※



少しだけ疑問に思う。

父親は2度と追いかけてこないと病室に現れた祐市はいい、確かにこの家に2人にたいして訪問を目的にした人は訪れない。それにたまに祐市が買い物に行ってくると出掛けていく以外は、祐市はまるで寄り添ってくれるみたいに誠の傍にいてくれる。それが、本心では嬉しくないわけがない。そうなって欲しいと、誠がずっと密かに願ってきたのだから。けれど、眺めている祐市が時々全くの別人に見えてしまうことがあるのだ。髪の色は染めれば変えられるものだから記憶の中と違っても別に問題はないけれど、少しだけ体格がよくなっている気がする。それでもそれだって自分とは違って鍛えたと言われればそうなのかもとは思うし、少なくとも自分が入院して意識がなかった期間のうち様々な事が大きく変わったのだと思う。そう、父が来ないと祐市が宣言できるというくらいに、何かが大きく変化したのだ。

どれくらい意識がなかったのかな…………僕は…………

目覚めて直ぐにそれは聞いた気もするのだが、頭が混乱してその期間は記憶に残らず今はよく分からない。カレンダーとかテレビを見ればいいのだとは思うけれど、上手く見てもそれが理解できない自分がいる。記憶に障害があると言われたけれど、もしかして数字とかそう言うものも理解できないのではないかと自分でも不安になる有り様だ。それなら自分の身体や顔を見ればと思ったけど、鏡の中の自分は唖然とするほど窶れてしまった別人なので何年も眠っていたと言われてもおかしくないと思う。

僕は……何が起きたんだろう………………

何か大事なことを忘れてしまっていると思うのだけれど、それでも祐市の声は以前と変わらず優しくて甘くて、それは変わらない。それでもやはり時々だけど、祐市が別人のような気がしてしまう。

たぶん…………

こんなに優しくて傍にいてくれた事がこれまで無かったからで、確かに初めてあった頃から祐市は優しい人だったけれどここまで何もかも自分のために犠牲にはしてくれたことがないからだ。そう願っては来ても決して父がいる時には、祐市はこんな風に自分を見つめてはくれなかった。それが叶えられているからこそ、この不安感が心の中に付きまとう。

これは夢なんじゃないだろうか…………

本当はまだ自分は意識不明のままで、祐市は傍にはいなくて、結局は何もかもが自分の妄想なのではないだろうか。そう誠自身が考えてしまう。この家に来て最初の晩に悪夢に魘されて悲鳴を上げた誠に、祐市はあやすように抱き締めてそのままただ眠るなんて不思議な行動をした。その次の日も不安に見上げたら何も言わず抱き締めて、背を撫でながら寝かしつけられて。次の日も、その次の日もそうして見上げたら一緒にただ横になって眠ってくれた。

奉仕も何もしないで…………

ただ寄り添って抱き締められて眠る。そんな経験はこれまでの2人の間の記憶には1つもない。何時も何時も奉仕の練習か、快楽か痛みか。市玄の気に入るような行動をするしかなかった筈の祐市と誠だったのに、本当に解放されたのだと実感する一時が何もない眠りだ。それに誠自身も次第に慣れつつあったら、今度は独りで寝るようにと祐市に言われてしまった。

「え、……一緒に寝てくれないの…………?」

思わず口に出た言葉に、祐市が途轍もなく困った顔をしたのを見てしまう。それはそうだ、祐市は自分のような出来損ないではなく、市玄のお気に入りの調教師にもなった息子なのだから。そんな相手に当たり前みたいに何もせずに、抱き締められて眠るなんて烏滸がましい。そう当たり前のことを突きつけられたみたいな気がして、今夜こそ父親が戸口から現れるのだと一睡も出来ないまま朝日が射すまで寝返りも出来ずにいた。

それでも、翌朝迄何もなく祐市が起こしに来てくれた…………

眠れなかったとは言えず、それでも夢はみなかったのは事実だから、そう告げる。そうすると安堵したように祐市は微笑み掛けてくれて、丁寧に優しく手や足をマッサージし始めた。そんなに手間を掛けなくて言いと告げても、自分で出来ないうちはやって上げると祐市はいう。それに日々の食事だって何か食べられるもの、滋養がつくものと祐市が一生懸命考えてくれているのが分かる。

何で…………

そんなに暖かく優しくされていたら、期待してしまう。そんな筈はないと分かっていても、何かその胸の奥にこれまでとは違う期待をしてもいい熱があるんじゃないか。もしかしてこれまでは自分だけの勝手な思いだった筈のものが、そう別なダレカに自分の身体を投げ出し壊してもらわなくても、祐市が自分を受け止めてくれたら。そう勝手な思いを感じてしまった瞬間、途轍もない違和感に震え上がっていた。
食材を買ってくるからねと、祐市が出掛けて独りきり。
家の中はシンと静まり返っていて、誰も人の気配はない。
その空気の中で窓辺から独り小さな庭を見つめていると、途轍もない違和感が膨れ上がる。自分は市玄に罪ごとこの身体を売り渡し、調教師になるべくして祐市から手解きされて来た。

…………でも、結局自分にはその才能がなかったのだ。

才能がなくて、自分は調教師になる最終段階を踏み越えられなかった。そうだ、自分は最後のテストで失敗して、その後調教される側に落ちてしまったのだ。その調教を施したのは言うまでもなく祐市で、そうでなければ父親にさっさと壊されてしまったに違いない。そうして祐市に生かされて、調教されて…………父親の命令は祐市を経由して届けられ、他の男に身体を開き、誰か……出来ることなら祐市に殺してもらいたいと願い続けて。そして、自分は父親を殺すことに決めた筈だ。
そのために何かをした。
何かをして、大きな過ちを繰り返して。
その過ちで、深く深く後悔して。

「誠?」

何だったのか、途轍もなく激しく深く闇の底のような後悔をして。懺悔すら叶わない後悔の中で、自分は悪魔のような声に操られて、そして……そして

「誠!!!」

揺り動かされる振動に我に返って見上げると、真っ青に青ざめた祐市が自分のことを抱き締め覗き込んでいた。その瞳を真っ直ぐに見上げた瞬間、やっぱり祐市じゃないんじゃないだろうかと頭の中に訳の分からない考えが過る。

この人は……そっくりだけど…………別な…………

不安に満ちて自分を心配する瞳なんて、祐市はしなかった筈だ。何しろ祐市にとって誠は、同じ境遇のあわれな失敗作。市玄はただ歳を取りつつある祐市の後釜を作りたかっただけで、若く強靭で見目麗しい調教師を作りたかっただけで。調教師として使えなければ、狂うまで壊すだけのこと。それをされる誠が哀れだと思ったから、祐市が調教して狂いつつあるように装ってくれただけ。

哀れには思っても、そこには愛情なんてものは何一つない

そう祐市は誠のことを哀れみはしてくれたが、心配なんてしてくれないし、案じてもくれなかった。それなのに、今になって、いや、今は何時なのか?

「誠!!」
「に、…………ぃさ?」

それでも目の前の人を『兄さん』と呼ぶと何かがカチリと嵌まったみたいに、目の前の人は祐市にしか見えなくなる。そして声を溢した誠に少しだけ安堵したように、祐市は誠のことをギュッと抱き締めたまま深く吐息を溢す。

「ごめん、独りにして。何か起きたの?」
「ううん、よく分からない…………僕……どうしてた?」

朦朧とした問いで返した誠の頬を暖かな祐市の掌が撫でて、膝に抱き上げられ座らされている自分に気がつく。車椅子に乗っていた筈なのにと見回すと、窓際には自分が乗っていた車椅子が倒れていて、どうやら床に転げ落ちて倒れていたのだと誠にも分かる。バランスを崩して車椅子ごと倒れていたらしく、頭を打っていないかと優しい手付きで頬や頭を撫で確認されているのだ。

「痛みは?ここは?」
「平気……、にぃさん、僕何か言った?」
「…………何も、倒れてて驚いた。」

訳が分からないことを口にしたようではないけれど、目の前の祐市の顔は青ざめたままで一向に戻らない。それでも自分が何か気に触ることを言ったからではなく、倒れていたのを見たから青ざめているのだと分かって少しだけ誠は安堵してしまう。自分で上手くコントロール出来ない頭になってしまった誠を、祐市がこれまでと同じで哀れんでくれているのだとは思う。こうして傍にいて貰えるだけで幸せなのだと思うようにしないと、自分は欲深いからもっと別なことまで願ってしまいそうだ。

「気分は?吐き気とかは?」
「大丈夫だよ。心配させてごめんなさい……にぃさん。」

そう素直に告げた誠の目の前で、何故か祐市はとても切ない悲しい顔を浮かべて見せたのだった。
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