鮮明な月

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第十七章 鮮明な月

266.

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自分が目にしているその名前をソッと指で宝物のようになぞり、改めてもう一度両手で掲げたそれをウットリとしながら1人長々と眺めている。

榊仁聖

余りフルネームが表示されるモノというのは、身の回りには多くないモノなのだとこうしてみると思う。子供の身の回りのものから、大人になればなるほどフルネームが表記されるものは減っていく。それでも例えば自動車の運転免許とか(まぁクレジットとかキャッシュカードもそうなんだけど、この場合漢字で書かれたものを眺めておきたいので、アルファベットは気持ち別としておきたいところだ。いや、確かにJinsei Sakaiの表記もカッコいいと思うけれども)、他にも手続きの書類とかではフルネームの記載や表示することはある。

手続きで書類書くのが楽しいなんて、初めて……

そんな訳で自分で書類に書きこんだ自分の名前に、思わず1人ジーンと感動してしまっていて。おまけに去年免許とったばかりのグリーンだった免許の更新のタイミングで本当によかったなんて、仁聖はまたもや染々と幸せに浸ってしまう。
これでもし免許がゴールドとかになる年数たっていたりしたら、新しい名前や住所なんかは裏面に書いて貰えるとは前に聞いたことがあるけど、表は結局源川姓のままの免許証で後何年この免許証…………?落としたことにして再発行して貰っちゃう?でもそうなるとゴールドじゃなくなる?え?そうなの?なら我慢する?
等という珍妙な検討を1人心の中でする事態になってしまう可能性だってなくはないのだ。それは兎も角、今こうして仁聖の手の中にあるのは新しい名前の表示された免許証な訳で、榊に変わったのを実感しながらウットリと眺めているのは旧姓源川・榊仁聖である。

榊仁聖…………カッコ良くない?…………良すぎだよね?うん

自分で言うのもなんだけど、榊仁聖って凄く嵌まっててカッコいい。源川よりずっと榊の方がしっくりしてて嵌まってて、自分の名前としても響きもいいし何より自分が凄く嬉しい。なんたって免許センターの窓口から『榊さん、榊仁聖さん』と、当然みたいに名前を呼ばれるのだ。

最高…………もう、嬉しすぎ。…………榊だよ?榊仁聖さんだよ?

などと一人一目も憚らずにモダモダと歓喜に悶絶している仁聖の姿に、待ち合わせていて早目にここまでやって来ていた榊恭平はこれはどうしたものかなと暫しポカンと眺めていたわけで。その恭平の呆れた視線がやっと肌に刺さったのを感じて、端と恭平の存在に気がついた仁聖が思わず茹で蛸のようにブアッと真っ赤になったのは言うまでもない。

それは仁聖が源川から榊に養子縁組して数日。
実はとうに2ヶ月近く前に運転免許の更新の葉書は受け取っていたのだが、仁聖はこの状況に名前が変わる迄待ってからにしていたのだ。そうして仁聖が免許センターに更新に行っている間に、恭平の方は出版社に翻訳の仕事の書類を届けに行っていてここで待ち合わせていた。そうして新しい免許証の名前に一人感動を噛み締めていた仁聖を、黙って暫く遠くから眺めていた恭平がいたわけである。

「もぉ…………見てないで声かけてよ…………恥ずかしぃ…………。」
「いや、一人でアンマリ身悶えてるものだから…………。」

何だか面白いやら可愛いやらでと笑う恭平に、仁聖は恥ずかしさに頬を染めながら笑う。事件直後のガーゼから絆創膏に変わった額を陽射しに晒す仁聖が、『でもさ、写真に絆創膏って結構目立つねー。』と免許証を恭平に差し出して見せる。確かにガーゼよりは範囲が小さくなって色も肌色に近いから幾分大人しいのだけれど、大判の絆創膏は整った顔立ちに大きく目立ってしまう。それでも後一月の内に絆創膏がなくなるかと聞かれるとまだ抜糸もしてないからYESとは言いきれないし、今度絆創膏がなくなって傷跡になったとしても目立つのは変わらなそうな気もするよねと仁聖は気にした風でもなく笑う。

「余り傷痕にならないといいな、俺のみたいに。」

恭平にもほぼ同じ位置に傷跡があるのだけれど、恭平のものは茶碗がぶつかって出来たモノでそれほど傷自体も大きくはない。それにもう10年以上経つ傷跡なので、こうしてみてもそれ自体が大分目立たなくなっているのだ。以前は傷跡を気にして前髪を伸ばし気味にしていた恭平なのだけれど、最近ではその出来事自体に心の中で折り合いがついて髪の毛も切ったし、余り気にかけなくなってもいる。

「んー、まぁ抜糸してみないと分かんないもんね。こればっかりはさ。」

若瀬好摩医師曰く傷が結構腫れていて治癒に時間がかかっているのは、傷をつけたモノが余り綺麗な角材ではなかったからだそうだ。傷をつけられた後に引き摺られたのか、もしくは床で転がされていたのも余り傷の治癒には良いことではなかったようだともいう。
お陰で今のところ、まだ仁聖のモデル再開の方向は不透明だ。
とは言え、実はここまで一年と少しのモデルとしての稼ぎ分だけでも仁聖の学費だけでなく在学中の生活費程度は、卒業までは変な贅沢をしなければ賄える額に達しているのである。それに年単位のモデル契約は実際には江刺家八重子のブランドとだけで、他の企業とは単発でしか契約していないから仁聖に違約金が生じるものはほぼない。それに怪我をした謝罪に顔を会わせた八重子はそれっくらいの傷があっても箔がついていいけどねーと呑気に笑ってくれていたし、今のところ三科悠生がウィルの代打を死に物狂いで(それこそ藤咲地獄の特訓のお陰で悠生は本気で死に物狂いな訳で、その必死さがハングリーな感じで良くなったと八重子は言っているから、このまま悠生に任せていても大丈夫そうであると思っている。)やってくれていて大きな問題は起きていないのだった。それにもしモデル再開となれば、この傷跡があると今までのようにソックリな従兄弟の呈ではモデルを続けるのは無理になる。まぁ半分以上キャンパスの友人は分かってて見守ってくれていたのももう知っているから、そこら辺は気にしなくてもいいのかもしれないが。

「でも更新、もう少し後でも良かったかもな?せめて絆創膏が小さくなるとか?」
「んー、でも、俺が早く欲しかったし。」

今時免許証はそれほど身分証明以外に提示することもないだろう?と言いながら恭平が横を見ると、また思わず免許証を眺めて仁聖がニマニマとしているのに気がつく。初めて貰った免許のよりも何でそんなに嬉しそうなのか不思議そうにしている恭平に、仁聖は感嘆の溜め息で口を開く。

「カッコいいよねぇ…………。」
「ん?写真がか?」
「ちがうってばぁ、名前…………榊仁聖……だよ?」

そう幸せそうにウットリと言う仁聖に思わず目を丸くして頬を染めてしまう恭平に、仁聖はニッコリ笑いながら恭平の顔を覗き込んで頬に口づける。名前が変わって嬉しい。自分が榊に変われて、恭平の家族になれて嬉しい。そう何度も何度もここ数日繰り返してホコホコと幸せに満ち足りて微笑む仁聖に、何だか恭平の方が気恥ずかしくなってしまうほどだ。

「だってさ?榊さんって呼び出しなんだよ?凄くない?榊仁聖さんって。」
「…………分かったから。」
「えー、もっと聞いてよ?榊さーんって呼ばれるんだよ?俺。」
「分かったって。」
「これからは病院とか色々なとこで呼ばれるんだよ?榊さんって。凄いよねぇ!」

もうこれ以上のことは恥ずかしいから家に帰ってからにしろと恭平に言われて、仁聖はもっと聞いて欲しいのにと子供のように頬を膨らませながらその手をとる。

「でも、ほんと幸せだね。俺、恭平の家族なんだもん。」
「………………息子な。」
「うーん、そこだけちょっとなぁ。伴侶ってなればいいのにね?」

流石に養子縁組なので、表立っては恭平の息子として戸籍には言った仁聖なのだ。それでもそうニコニコしなが幸せそうに手を繋ぎ身を寄せてくる仁聖に、思わず恭平もつられたように笑いだしながら早く家に帰ろうと囁きかけていた。



※※※



「はーるー?こっちー。」

ヒラヒラと呑気に陽射しに満ちたテラス席の片隅から手を降る相手を見つけて、結城晴は思わずポカーンとしてしまっている。何しろ晴の視線の先にいるのは艶やかな黒髪に縁なし眼鏡、しかもかなり見事な巨乳のとっても綺麗なお姉さん。お陰であれが彼氏?と辺りの視線は、彼女と晴とをチラチラしているわけで。呆気にとられていた晴にコテンと可愛く首を傾げてみせながら、早く来て座って?と艶やかに微笑む顔は知らないと誰か分からない。アイスカフェラテと注文してから、思わず頬杖をついて晴は呆れた声で指摘する。

「……その髪と乳…………何?」
「やぁね、髪はウィッグに決まってるでしょ?それに、乳だなんて晴のエッチ。」
「エッチ…………って、それパットでしょ?なにその大きさ。」

呆れ返って晴がそう言ってしまうのは、目の前の一見したら女性にしか見えない人物が言うまでもなく三浦和希なのを晴は知っているからだ。既に先に来ていた和希の前には立派過ぎるフルーツパフェが置かれていて、優雅に口にスプーンを運びながら魅惑的な唇にあっという間にクリームが消えていく。

「巨乳な気分だったんだもん。可愛いでしょ?」

以前から三浦和希は女性に化けると聞いたことはあったのだが、確かに知らなければ完璧に女性にしか見えない。晴も『五十嵐ハル』なんて女装をすることが時々あるのだが、それと比較しても時間帯も場所も選ばない桁違いの化けっぷりといえる。しかも和希は話し声ですら元々ハスキーな声をしているのに、ワントーン高く女性にしか聞こえない声に変わるのだ。

「で、元気だった?助けて欲しかったの、助かった?」

長閑に主語もなく和希がそういうのは、先日晴が助けてとお願いして白鞘千佳を捜索して貰ったことを指している。あれから既に大分時間が経っているから、記憶障害の和希は記憶がないんじゃないかと何処かで思っていた。
記憶障害なんじゃなかったの?と晴が思わず問い返すと、晴が誰かを助けてと自分にお願いしてきたのはまだ覚えてるし、何処かに潜入したのもまだボンヤリとは記憶しているという。機械や何かを操作したことの方が鮮明に記憶していて何処かで画像解析をしたことは覚えているけれど、画像の中身の方がなんだったかは写っていたのが誰かの顔だったような気がするせいかもうほぼ覚えてない。そしてこの切れ切れの記憶では、もうあの時に何が起こったか繋いで理解はできないのだ。そう呑気に和希は笑ってみせた。

「…………都合良い記憶障害だね。」

1番嫌な部分だけが消え去り、切れ切れにしか記憶できない。そう言われると、そんな風に誰もが嫌なことを忘れられたら良いのにと思う。でも普通はそんなことは出来なくて、誰もが嫌なことに直面して逃げ出すことも出来やしない。

「ん、晴、ご機嫌斜め。もしかして上手く助けられなかった?」

ニッコリ笑いながら和希にそう返されて、ハッとしたように和希の顔を見つめる。

「…………ごめん、助かったよ……。」

確かに嫌なことを忘れてしまえば楽かもしれないけれど、切れ切れにになってしまう記憶のせいで和希は人の顔が何より余り覚えていられない。前よりはこれでましなんだよねと笑うけれど、今でも長い期間記憶していられる人間は数える程しかいない。

「ありがとう……お礼言ってなかった。」

和希に手伝って貰ってやっとのことで白鞘を助けたのに、白鞘は薬の副作用がでて目下面会謝絶になっている。それは別に和希が悪いわけではないのに、呑気すぎる彼の様子に晴は苛立ち思わず八つ当たりしてしまっていたのだ。

「いいよ、なんか最後の辺り全く覚えてないけど、ワタシ逃げ出した?」
「…………っていうか……槙山が。」
「あ、忠志いたのかー。そりゃ逃げるなぁ。」

その中の1人である槙山忠志があの場所にいたから和希はさっさと姿を消したのだというが、何で槙山がいると逃げるの?と問いかけると和希は『なんとなく?面倒なんだよね。』と首を傾げてみせる。向こうは向こうであの野郎逃げやがったなとボソリと言っていたが、何となくとか面倒で逃げ出されてると知ったら余計怒って探し回りそうな気がするのは何故だろうか。

「じゃ助かったのに、何で不機嫌?怪我してたとか?」
「今…………薬の副作用で熱が出てるって……。」

素直に謝った晴のことはそれほど気にした風でもなく和希は、パクパクと良い勢いでパフェを食べながら副作用ねーと暫し考え込む。流石に様々な機械に関しては玄人顔負けの高い能力があっても、医療に関しては和希も門外漢なのだ。こうなると2人に出来ることは殆どないのは事実なのだった。
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