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間章 アンノウン
間話14.相手の気持ち
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夜風に揺れる竹林が、ザワザワと深く暗く哭き叫んでいた。そこは以前よりは大分面積は狭くなったのたが、それでも残された竹林は広大で光原もなく闇に沈んでいる。竹林と外界に変わる境界線は住宅地へ繋がる道路がそれになるのだが、まるでラインを引いたようにくっきりと明暗の差が際立つ。
『…………だからって、宏太が最前線で戦線参加しなくてもいいんたけど?』
耳元で言うとてつもなく不満げな惣一の声を無視して、宏太は周囲に耳を澄ます。夜風の中に潜む湿り気を、その顔に走る傷痕で感じている。もしかしたらこれから夜半にかけて雨が降るかもしれないなと、その風に紛れる湿度が宏太に思わせていた。
『茶樹』で話した惣一の頼み事というのは早期に矢根尾俊一を捕獲してしまうことで、その理由は一言ではどうにも説明がしにくい。
矢根尾は簡単に言えば、新しいモンスターなんだよ。
惣一はそう言う。つまりは少なくとも今の矢根尾は以前の矢根尾とは別物で、実のところ鈴徳良二の怪我の半分程は三浦ではなく矢根尾がしたのだと言う。勿論矢根尾も良二は何も格闘術なんか身に付けてはいないから何とも言いがたいが、惣一に言わせれば良二がこんな一方的に怪我をするのはかなり珍しいのだと話す。その為久保田惣一だけでなく鈴徳良二としても、三浦だけでなく矢根尾もかなり危険視しているということ。
矢根尾が頭がいかれてリミッターなしになってるって事かもしれないけどね?
所謂火事場のバカ力と言うわけで、本来なら痛みや危機感で回避する筈の事が出来ないのかもしれない。それでも何も格闘技を身に付けて来なかった四十過ぎの中年の動きではないと言うし、院長は変わったとは言え三浦に違法投薬を行った過去のある病院でもある。それと関連して何を宏太に頼みたいのかと言えば、どうやら矢根尾と三浦の狙いが同じなのではないかというのが惣一の予測なのだ。つまり矢根尾を捕まえようとすると漏れ無く三浦も傍にいる危険性が高そうだと、何か自分達の知らない情報を持つ惣一は踏んでいる。
了君の映像の一つに、矢根尾だと思う男が一瞬写ってたしね。
宏太には見えないし矢根尾の歩き方は知らないから、宏太には矢根尾のことは音声では探せない。逆に宏太が探せるのは三浦の方で三浦の方は誰もが認める完全な怪物、言い換えれば宏太は三浦が来たら警鐘を鳴らす役目と言うわけだ。そして耳元で惣一が愚痴を言っているのは、出来ることなら表での活動は鳥飼信哉と槙山忠志達に任せて、宏太にはスピーカー越しで位置を把握して欲しいと言うのが惣一の本音だからだ。と言うのも恐らくここにいると踏んでいる場所が実は分かっていて、惣一はあの時あの面子を店に集めていたのだった。
そこは矢根尾が倉橋亜希子を追いたてて、紛れ込んだと思われている竹林。
矢根尾が入院していた都立総合病院は一応駅北側の区域ではあるが、一路線の線路が南南東に大きくカーブしているため駅から見るとほぼ東南東に位置している。土志田の俺の女ちゃんが他の友人と矢根尾を見かけたのは駅南側の駅前で、矢根尾はその時人混みを北西に向けてフラフラと歩いていたという。そして矢根尾が一瞬カメラ映像に写ったのは《random face》の近く、店があった場所は駅北側の北西部の商業区の一角なのだ。その後に鈴徳良二が三浦と矢根尾と被害者一名に鉢合わせたのは、そこから更に北西のテナントビル群の裏路地だった。それを線で結ぶと確実に矢根尾の足取りは、倉橋の殺人現場とされている駅からは北北西にある竹林の広がる山間地区に向かっている。実際は竹林の半分は火災で焼失したが竹林からは倉橋亜希子の遺体は見つかっていないし、それに関しては奇妙なことを良二がポソリと物影で惣一にこう粒やいたのを宏太は聞き逃していない。
倉橋ってあの時の人だよな?三浦が助けに来てた…………
惣一が小さな声で叱責して良二は黙りこんだが、あの口ぶりでは恐らく倉橋亜希子は竹林では死んでいないのではないかと宏太は思う。しかも何処かで良二は倉橋と会っていて、その場に三浦和希が助けに来たと言うことは、倉橋亜希子と三浦和希の関係は宏太が思っているよりもかなり密接なのだ。良二や惣一はその事実を知っていて風間にも宏太にも他の誰にも真実を話していないのだろうが、そんなことは今に始まったことではない。何しろ若い頃は裏家業で生きていた久保田惣一が自分の全てを宏太に話しているなんて微塵も思ってはいないし、それを宏太が知ったから知らないからで惣一が何か変わるわけでもないのだ。
『聞いてる?宏太。あのねぇ、君が怪我して怒られるのは私なんだけど、宏太ーぁ?』
一体お前が誰に怒られるんだよといいたいが、その声はキレイに無視して耳に届く夜の竹林のざわめきに宏太は顔を向けた。もしかして矢根尾が竹林に向かっているのは、倉橋亜希子が竹林では死んでいないから、彼女を探すためかもしれない。矢根尾の最初で最後の妻であり一時とは言え矢根尾の性奴隷でもあった倉橋亜希子に、矢根尾は異常な程に執着していたのだ。そして同時に倉橋亜希子を助けに来たと言うことは三浦和希の方も倉橋亜希子に執着しているのだろうし、だからこそ三浦と矢根尾が乱闘になったのかもしれない。
そういう意味では確かに倉橋亜希子はマトモでない男を惹き付ける特殊さがあったようだ。僅かながら多賀亜希子に対して憐憫の情を宏太も感じていたことがあって、しかも彼女の特殊さは三浦和希にも死んだ進藤隆平にも効果があったようだった。
『外崎さん、…………今から、降りますから。』
互いに連絡を取り合えるように特殊な通信機型のイヤーホンをつけているが、今の声は鳥飼信哉で山頂から麓に向かって降りて来はじめるところだという。竹林の足場の悪い暗闇の山中を担当しているのは信哉と身の軽い槙山忠志の二人で、竹林の外周を回るのは土志田と風間と何故か満身創痍の筈の良二がいる。つまりは簡単な山狩りといったところなのだが、この人数で山中は無駄と思うのが普通な筈だ。でも実際に信哉を含めたメンバーの能力を…………勿論宏太の耳も含めてだが、知っていれば、………………まぁ有りかもしれない。それぞれのつけている集音機の音から周囲の状態を聞き分けると言う特殊な役割で宏太はここにいるのだが、現在ストレスフルの宏太が言うことを聞かずにモニター前から竹林の傍に出てきてしまったので最初の計画が完全に無駄になったと惣一が未だにブチブチ言っているという……
「あー、うるせぇ、聞き取れねぇだろ。惣一。」
『あのねぇ、君さぁ?分かってる?他のメンバーは兎も角だよ?宏太は視力もないし……。』
再びお説教が始まりそうなので意識を竹林に向けて、あえてお小言を無視したまま宏太はユックリと頭を巡らせて辺りの音に耳を澄ます。今ではその気なら一階の小部屋から二階の防音の寝室の音が聞き取れるようになった自分の聴覚は、正直言えば異常なものだとは宏太も思っている。更に真剣に集中すれば聞き取りたい音にだけスポットを当てられるのも、マトモな人間の技ではないのも充分に理解していた。それでも今はそんなことは深く考える気もないし、下手に自分の異常さを考えても気分が塞ぐだけだ。
全て了が元に戻っていてくれたら、こんなことで思い悩むこともないのに…………
了が何時ものように抱き締めて傍にいてくれさえすれば、こんなことで気分が塞ぐのも無視できるし安心もできる。だけど今の了は宏太の了ではなくなって、しかもその原因が三浦和希か矢根尾俊一のどちらかなら大人しくモニターの前に座っているなんて気分になれる筈がない。少なくとも苛立ちと不快感の原因に対決していた方が、モニターの前よりは気が紛れると言うものだ。そして了は今頃どうしているだろうと心の中で考える。とても心配ではあるが恭平と一緒に置いてきたし、恭平は後から仁聖も来るといったから一人で不安に怯えることはない筈だ。それでも本当は家に了を置いて、ここまでくるのは不本意だった。本当なら了から一時も離れたくはないし、了が何をしているか分からない状況になりたくはない。
了…………。
その時不意に周囲にある微かな足音に気がついて、闇の中で神経が一瞬にして尖るのを感じる。竹林の揺れるざわめきに紛れてその足音は、酷く鮮明に直ぐ間近にあって宏太は思わず背後をとられないように自分が立ち位置を自然と変えていたのに気がついていた。
※※※
後から外崎邸までやって来た仁聖も殆ど晴と同じ反応で、しかも予想していた通り了は仁聖のことはあまり記憶にない様子だった。ただ話していれば少しずつ繋がる様子もあって、会話をするのにはそれほど障害にはなっていない風でもある。それに結城晴と仁聖が気が合うからか、まるで年下の弟達といった風に賑やかにワイワイしているので少し気も紛れたようだ。
「これで夕飯になるかなーと思って。」
そう言って仁聖が差し出した大きめのデリの箱に、こうなったらもうピザでも頼もうと晴が一緒になって騒ぎだし、何故か結果的にはリビングは夏場のバーベキューに近い飲み会めいた状況に急遽ではあるがなりつつある。
「今日事務所でさ?海翔と一緒になってさ。」
「カイトって、あのドラマ出てる奴?」
「ドラマってどれ?見てないな、俺は。」
仁聖が言う海翔というのは、同じ事務所所属の俳優兼モデルとして活動している五十嵐海翔のこと。彼は現在都は立第三高校の三年でもあるが、最近ドラマにも幾つか出演し顔が売れ始めた俳優だ。仁聖の後輩でもあるしモデルとしては一応は業界の先輩でもあるのだが、英語が苦手で時々仁聖から特訓と言う名のヒアリング指導をされていたりするのだ。最初暫くは犬猿の仲だったのだが最近では随分打ち解けて仲が良くなって、何でか仁聖は海翔の良い相談相手で今は進路の相談も受けているという。
「進学するって決めたらしいんだけど、うちの大学の文学部狙いなんだって。」
「うちって、俺達の後輩にってことか?」
仁聖の通う大学の文学部は実のところ了や恭平が通っていて、過去には鳥飼信哉も通っていたし、文学部は言うまでもなく仁聖の父の幼馴染み・秘密基地マニアの勅使河原叡教授の学部と言うことだ。とは言え勅使河原が以外と出来る教授な為か、近年の文学部は学部の希望者が多く難関でもあるらしい。
「そう言えば勅使河原教授の助手…………なんだっけ?あの名前も名字みたいな…………。」
「名前も苗字ってなんだよ?了。意味わかんね。」
「躑躅森さんか?」
「あー、そうそう。それ。」
何でそれが名前も苗字?と晴が再度聞き直したのに、躑躅森の名前が『スズキ』だからだと了が言う。実際には『雪』と書いて『スズキ』と読むのだが、音感だけを聞くと確かに『ツツジモリ・スズキ』でどっちが苗字で名前なんだかという話だ。
「あの人に何で名前が、『了』でさとるなんだって大分追っかけられたんだよな、俺。」
実際には『了』の文字は『終わる』という意味よりも、『悟る』の意味から連想して名前とすることが多いようで『理解を示す言葉』としても使われるので、そこから『相手の気持ちを理解できる優しい子』になって欲しいと言う意図だったらしい。躑躅森にとっては初めて出会った読み方の名前だったので追いかけられたというが、『りょう』という読み方なら割合多い名前でもある。
「名前マニアだからなぁ、躑躅森さんは。」
そういわれれば仁聖も名前の由来を聞かれたと話すと、何故かやっぱりと言いたげな了と恭平がいる。何しろ入学生の名簿を隅から隅まで調べて難読氏名者を見つけると追いかける癖があるらしい躑躅森は、勅使河原と並ぶ有名人なのだという。教授が秘密基地マニアで助手兼秘書が難読氏名マニア、これまた随分と珍な組み合わせだ。
「そう言えば、外崎さんは?随分遅くない?」
ワイワイしながらも何気なく時計を見れば、既に夜の九時は過ぎていて確かに盲目の人間が連絡もなく出歩くには随分と遅すぎる。それに気がついた了が改めて不安げに瞳を揺らしたのを、恭平は見逃さなかった。記憶はなくても結局は了の中の外崎宏太の存在はゆるぎようがなくて、本当なら了は一人で置き去りにされたくはなかったのだ。それを上手く伝えられなかったのは、記憶のない自分がそう言ったら宏太の方が不快な思いをするのではと考えてしまったに違いない。
案外……不器用なとこもあるんだな……。
普段知っている了が何でもそつなく物事をこなせてしまうイメージだから、こんな風に戸惑い迷う姿を見るのは予想外な気がする。それが記憶を無くすということなのだと気がついて、恭平は不安げな了の顔をもう一度見つめ直していた。
『…………だからって、宏太が最前線で戦線参加しなくてもいいんたけど?』
耳元で言うとてつもなく不満げな惣一の声を無視して、宏太は周囲に耳を澄ます。夜風の中に潜む湿り気を、その顔に走る傷痕で感じている。もしかしたらこれから夜半にかけて雨が降るかもしれないなと、その風に紛れる湿度が宏太に思わせていた。
『茶樹』で話した惣一の頼み事というのは早期に矢根尾俊一を捕獲してしまうことで、その理由は一言ではどうにも説明がしにくい。
矢根尾は簡単に言えば、新しいモンスターなんだよ。
惣一はそう言う。つまりは少なくとも今の矢根尾は以前の矢根尾とは別物で、実のところ鈴徳良二の怪我の半分程は三浦ではなく矢根尾がしたのだと言う。勿論矢根尾も良二は何も格闘術なんか身に付けてはいないから何とも言いがたいが、惣一に言わせれば良二がこんな一方的に怪我をするのはかなり珍しいのだと話す。その為久保田惣一だけでなく鈴徳良二としても、三浦だけでなく矢根尾もかなり危険視しているということ。
矢根尾が頭がいかれてリミッターなしになってるって事かもしれないけどね?
所謂火事場のバカ力と言うわけで、本来なら痛みや危機感で回避する筈の事が出来ないのかもしれない。それでも何も格闘技を身に付けて来なかった四十過ぎの中年の動きではないと言うし、院長は変わったとは言え三浦に違法投薬を行った過去のある病院でもある。それと関連して何を宏太に頼みたいのかと言えば、どうやら矢根尾と三浦の狙いが同じなのではないかというのが惣一の予測なのだ。つまり矢根尾を捕まえようとすると漏れ無く三浦も傍にいる危険性が高そうだと、何か自分達の知らない情報を持つ惣一は踏んでいる。
了君の映像の一つに、矢根尾だと思う男が一瞬写ってたしね。
宏太には見えないし矢根尾の歩き方は知らないから、宏太には矢根尾のことは音声では探せない。逆に宏太が探せるのは三浦の方で三浦の方は誰もが認める完全な怪物、言い換えれば宏太は三浦が来たら警鐘を鳴らす役目と言うわけだ。そして耳元で惣一が愚痴を言っているのは、出来ることなら表での活動は鳥飼信哉と槙山忠志達に任せて、宏太にはスピーカー越しで位置を把握して欲しいと言うのが惣一の本音だからだ。と言うのも恐らくここにいると踏んでいる場所が実は分かっていて、惣一はあの時あの面子を店に集めていたのだった。
そこは矢根尾が倉橋亜希子を追いたてて、紛れ込んだと思われている竹林。
矢根尾が入院していた都立総合病院は一応駅北側の区域ではあるが、一路線の線路が南南東に大きくカーブしているため駅から見るとほぼ東南東に位置している。土志田の俺の女ちゃんが他の友人と矢根尾を見かけたのは駅南側の駅前で、矢根尾はその時人混みを北西に向けてフラフラと歩いていたという。そして矢根尾が一瞬カメラ映像に写ったのは《random face》の近く、店があった場所は駅北側の北西部の商業区の一角なのだ。その後に鈴徳良二が三浦と矢根尾と被害者一名に鉢合わせたのは、そこから更に北西のテナントビル群の裏路地だった。それを線で結ぶと確実に矢根尾の足取りは、倉橋の殺人現場とされている駅からは北北西にある竹林の広がる山間地区に向かっている。実際は竹林の半分は火災で焼失したが竹林からは倉橋亜希子の遺体は見つかっていないし、それに関しては奇妙なことを良二がポソリと物影で惣一にこう粒やいたのを宏太は聞き逃していない。
倉橋ってあの時の人だよな?三浦が助けに来てた…………
惣一が小さな声で叱責して良二は黙りこんだが、あの口ぶりでは恐らく倉橋亜希子は竹林では死んでいないのではないかと宏太は思う。しかも何処かで良二は倉橋と会っていて、その場に三浦和希が助けに来たと言うことは、倉橋亜希子と三浦和希の関係は宏太が思っているよりもかなり密接なのだ。良二や惣一はその事実を知っていて風間にも宏太にも他の誰にも真実を話していないのだろうが、そんなことは今に始まったことではない。何しろ若い頃は裏家業で生きていた久保田惣一が自分の全てを宏太に話しているなんて微塵も思ってはいないし、それを宏太が知ったから知らないからで惣一が何か変わるわけでもないのだ。
『聞いてる?宏太。あのねぇ、君が怪我して怒られるのは私なんだけど、宏太ーぁ?』
一体お前が誰に怒られるんだよといいたいが、その声はキレイに無視して耳に届く夜の竹林のざわめきに宏太は顔を向けた。もしかして矢根尾が竹林に向かっているのは、倉橋亜希子が竹林では死んでいないから、彼女を探すためかもしれない。矢根尾の最初で最後の妻であり一時とは言え矢根尾の性奴隷でもあった倉橋亜希子に、矢根尾は異常な程に執着していたのだ。そして同時に倉橋亜希子を助けに来たと言うことは三浦和希の方も倉橋亜希子に執着しているのだろうし、だからこそ三浦と矢根尾が乱闘になったのかもしれない。
そういう意味では確かに倉橋亜希子はマトモでない男を惹き付ける特殊さがあったようだ。僅かながら多賀亜希子に対して憐憫の情を宏太も感じていたことがあって、しかも彼女の特殊さは三浦和希にも死んだ進藤隆平にも効果があったようだった。
『外崎さん、…………今から、降りますから。』
互いに連絡を取り合えるように特殊な通信機型のイヤーホンをつけているが、今の声は鳥飼信哉で山頂から麓に向かって降りて来はじめるところだという。竹林の足場の悪い暗闇の山中を担当しているのは信哉と身の軽い槙山忠志の二人で、竹林の外周を回るのは土志田と風間と何故か満身創痍の筈の良二がいる。つまりは簡単な山狩りといったところなのだが、この人数で山中は無駄と思うのが普通な筈だ。でも実際に信哉を含めたメンバーの能力を…………勿論宏太の耳も含めてだが、知っていれば、………………まぁ有りかもしれない。それぞれのつけている集音機の音から周囲の状態を聞き分けると言う特殊な役割で宏太はここにいるのだが、現在ストレスフルの宏太が言うことを聞かずにモニター前から竹林の傍に出てきてしまったので最初の計画が完全に無駄になったと惣一が未だにブチブチ言っているという……
「あー、うるせぇ、聞き取れねぇだろ。惣一。」
『あのねぇ、君さぁ?分かってる?他のメンバーは兎も角だよ?宏太は視力もないし……。』
再びお説教が始まりそうなので意識を竹林に向けて、あえてお小言を無視したまま宏太はユックリと頭を巡らせて辺りの音に耳を澄ます。今ではその気なら一階の小部屋から二階の防音の寝室の音が聞き取れるようになった自分の聴覚は、正直言えば異常なものだとは宏太も思っている。更に真剣に集中すれば聞き取りたい音にだけスポットを当てられるのも、マトモな人間の技ではないのも充分に理解していた。それでも今はそんなことは深く考える気もないし、下手に自分の異常さを考えても気分が塞ぐだけだ。
全て了が元に戻っていてくれたら、こんなことで思い悩むこともないのに…………
了が何時ものように抱き締めて傍にいてくれさえすれば、こんなことで気分が塞ぐのも無視できるし安心もできる。だけど今の了は宏太の了ではなくなって、しかもその原因が三浦和希か矢根尾俊一のどちらかなら大人しくモニターの前に座っているなんて気分になれる筈がない。少なくとも苛立ちと不快感の原因に対決していた方が、モニターの前よりは気が紛れると言うものだ。そして了は今頃どうしているだろうと心の中で考える。とても心配ではあるが恭平と一緒に置いてきたし、恭平は後から仁聖も来るといったから一人で不安に怯えることはない筈だ。それでも本当は家に了を置いて、ここまでくるのは不本意だった。本当なら了から一時も離れたくはないし、了が何をしているか分からない状況になりたくはない。
了…………。
その時不意に周囲にある微かな足音に気がついて、闇の中で神経が一瞬にして尖るのを感じる。竹林の揺れるざわめきに紛れてその足音は、酷く鮮明に直ぐ間近にあって宏太は思わず背後をとられないように自分が立ち位置を自然と変えていたのに気がついていた。
※※※
後から外崎邸までやって来た仁聖も殆ど晴と同じ反応で、しかも予想していた通り了は仁聖のことはあまり記憶にない様子だった。ただ話していれば少しずつ繋がる様子もあって、会話をするのにはそれほど障害にはなっていない風でもある。それに結城晴と仁聖が気が合うからか、まるで年下の弟達といった風に賑やかにワイワイしているので少し気も紛れたようだ。
「これで夕飯になるかなーと思って。」
そう言って仁聖が差し出した大きめのデリの箱に、こうなったらもうピザでも頼もうと晴が一緒になって騒ぎだし、何故か結果的にはリビングは夏場のバーベキューに近い飲み会めいた状況に急遽ではあるがなりつつある。
「今日事務所でさ?海翔と一緒になってさ。」
「カイトって、あのドラマ出てる奴?」
「ドラマってどれ?見てないな、俺は。」
仁聖が言う海翔というのは、同じ事務所所属の俳優兼モデルとして活動している五十嵐海翔のこと。彼は現在都は立第三高校の三年でもあるが、最近ドラマにも幾つか出演し顔が売れ始めた俳優だ。仁聖の後輩でもあるしモデルとしては一応は業界の先輩でもあるのだが、英語が苦手で時々仁聖から特訓と言う名のヒアリング指導をされていたりするのだ。最初暫くは犬猿の仲だったのだが最近では随分打ち解けて仲が良くなって、何でか仁聖は海翔の良い相談相手で今は進路の相談も受けているという。
「進学するって決めたらしいんだけど、うちの大学の文学部狙いなんだって。」
「うちって、俺達の後輩にってことか?」
仁聖の通う大学の文学部は実のところ了や恭平が通っていて、過去には鳥飼信哉も通っていたし、文学部は言うまでもなく仁聖の父の幼馴染み・秘密基地マニアの勅使河原叡教授の学部と言うことだ。とは言え勅使河原が以外と出来る教授な為か、近年の文学部は学部の希望者が多く難関でもあるらしい。
「そう言えば勅使河原教授の助手…………なんだっけ?あの名前も名字みたいな…………。」
「名前も苗字ってなんだよ?了。意味わかんね。」
「躑躅森さんか?」
「あー、そうそう。それ。」
何でそれが名前も苗字?と晴が再度聞き直したのに、躑躅森の名前が『スズキ』だからだと了が言う。実際には『雪』と書いて『スズキ』と読むのだが、音感だけを聞くと確かに『ツツジモリ・スズキ』でどっちが苗字で名前なんだかという話だ。
「あの人に何で名前が、『了』でさとるなんだって大分追っかけられたんだよな、俺。」
実際には『了』の文字は『終わる』という意味よりも、『悟る』の意味から連想して名前とすることが多いようで『理解を示す言葉』としても使われるので、そこから『相手の気持ちを理解できる優しい子』になって欲しいと言う意図だったらしい。躑躅森にとっては初めて出会った読み方の名前だったので追いかけられたというが、『りょう』という読み方なら割合多い名前でもある。
「名前マニアだからなぁ、躑躅森さんは。」
そういわれれば仁聖も名前の由来を聞かれたと話すと、何故かやっぱりと言いたげな了と恭平がいる。何しろ入学生の名簿を隅から隅まで調べて難読氏名者を見つけると追いかける癖があるらしい躑躅森は、勅使河原と並ぶ有名人なのだという。教授が秘密基地マニアで助手兼秘書が難読氏名マニア、これまた随分と珍な組み合わせだ。
「そう言えば、外崎さんは?随分遅くない?」
ワイワイしながらも何気なく時計を見れば、既に夜の九時は過ぎていて確かに盲目の人間が連絡もなく出歩くには随分と遅すぎる。それに気がついた了が改めて不安げに瞳を揺らしたのを、恭平は見逃さなかった。記憶はなくても結局は了の中の外崎宏太の存在はゆるぎようがなくて、本当なら了は一人で置き去りにされたくはなかったのだ。それを上手く伝えられなかったのは、記憶のない自分がそう言ったら宏太の方が不快な思いをするのではと考えてしまったに違いない。
案外……不器用なとこもあるんだな……。
普段知っている了が何でもそつなく物事をこなせてしまうイメージだから、こんな風に戸惑い迷う姿を見るのは予想外な気がする。それが記憶を無くすということなのだと気がついて、恭平は不安げな了の顔をもう一度見つめ直していた。
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