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第十五章 FlashBack
186.
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嫌になるほど宮内の血縁というやつは、頑固で融通が効かない。
勿論これには、榊恭平自身の事も含まれてはいるのだ。こうしてみれば考えれば考えるほど、似てないと思っていた自分の中にも同じ血が流れているのに気がついてしまう。頑なでよく言えば古風な思考過程。悪く言えば頑固で古くさくて融通が効かない。だから過去に自分と宮内の間に出来た溝は、全く埋まることもなく更に深まったのだ。ところがここに来て唐突に目の前で宮内慶周が涙を流したのには、流石の恭平も慶太郎も唖然とするしかなかった。
「なんで…………、俺は…………。」
そして宮内慶周が懺悔のように口にしたのは、慶周自身が長年溜め込み続けた疑問を含む後悔の言葉なのだった。何よりも深いのは、何故美弥子が悪女と決めつけられたのかと言う後悔だ。恭平も慶太郎も知るよしもなかったが、榊美弥子は許嫁だった当時宮内家で花嫁修行なんてものをしていたのだと初めて二人は聞いた。その時美弥子に年の近い慶周が、美弥子に淡い恋心を抱いていたのだ。それでも本家の跡取りの許嫁に何も出来るわけがなく、慶周はその気持ちを飲み込んだまま過ごした。
沢山のすれ違いの後榊美弥子は姿を消して、しかも慶周が嫁を娶った後。慶周が旅行専門のライターになったのは、各地を回る事が狙いだったからなのだ。記憶の中に残っていた榊美弥子が、慶周に行ってみたいと口にした場所や過去に訪れた事のある場所を一ヶ所ずつ次々と探し歩く。その表向きの理由が、仕事である旅行ライターだった。
そして消えた当初は何も言わなかった祖母に、跡を継ぐとなってから榊美弥子は府設楽な女だったから家を追い出したと聞かされた時の落胆。美弥子を愛していた筈なのに探しに出ていく事もできず、家を継ぐしかない慶恭。それにそこまでは慶恭とも仲の良かった慶周がどれだけ絶望していたかは、正直なところ想像も出来ない。やがて宮内の家事態に嫌気もさして、最初は使わなかったペンネームを使うようになったという。
「それなのに…………。」
それでも結局は慶周も自分で選択した道を粛々と生きてきただけなのだと、恭平は思わず溜め息をついてしまう。それなのに合気道は止められなかったし、美弥子によく似た顔立ちに育ってしまった自分に再会してしまった。それを必然と考えるか、それとも運命の悪戯と考えるかは、人それぞれの取り方だ。
そう思うとついこの間鳥飼信哉と話した時が過る。
お前が好きだった合気道を辞めたからって、宮内は何か変わったと思うか?
そうきつい鍛練に道場で倒れ込み肩で息をしながら天井を仰ぐ恭平にむかって、胡座をかいて座る鳥飼信哉は覗き込むようにして口にした。
※※※
「お前が好きだった合気道を辞めたからって、宮内は何かかわったと思うか?」
そんなことを考えたことなんてなかったと、素直に恭平は信哉の顔を見上げながら思った。今まで一度もそんな風に宮内の事を考えた事はなかったが、率直に考えてしまうと答えは簡単だ。
「何も変わらないし、自分が我慢しても相手には伝わらなかったろ?」
そう、信哉の言う通り。宮内の家は何も変わりなく日々は過ぎていき、そして自分だけが鬱々と悩み迷ううちに大事な筈の人は死に後悔だけが残される。それを思い一人で苦しんでも相手には伝わる筈もないのは、彼らは片側しか知らないからだ。
「俺が辞めたいと言った時、真見塚は辞めても鍛練には来いと言われたんだ。人がいない時で構わないから時々来て道場を使えとな。」
自分も同じ事を申し出られたらどうしただろうと恭平は思わず考え込むが、恐らくは自分の性格では分かりましたとは言わないだろうとも思う。
「そういうとこは宮内の血筋だな、恭平は。」
そう彼は頬杖をつき笑う。ただ信哉の身の周りの人間も、信哉が表立っては合気道を辞めた後も何も変わらなかったと言う。信哉はそれを見て尚更自分だけがと感じていたというのだ。
「変わらなきゃならないと思い込んで、結局は一人で置き去りにされた気になってな。」
その言葉は恭平にも胸に痛い言葉だった。悲しいほど一人きりで後悔だけが心の中を満たす、そんな暗く重苦しい日々に、目の前にいる自分と違って多くのものを持っている筈の信哉が感じながら生きていたというのだ。
「毎晩穏やかに眠ることもなく、いつか一人きりで死ぬんだと何もかも諦めてきた。」
そんなはずない。そう思うが信哉の瞳には嘘はなくて、その言葉が彼の過去を示す真実なのだと気がついてしまう。暗く孤独で冷えきった日々が自分だけの当然なのだと暮らし続けて、そして多くの後悔だけを背負い続けていく。これほどの天武の才能が身の内にある人間の信哉ですら、恭平の背負い続けて来たものと何も変わらない暗闇の中にいたというのだ。
「おふくろが死んだのも俺のせいだからな……そう考えるしか出来なかった。」
自分もそうだった。母は確かに直接的には事故で死んだのだが、そこまで追い詰めたのは自分で母の寿命を縮めてきたのは自分自身なのだ。
「だから、弟や親父とも縁を切って生きるのが筋だと思ってきた。」
どこまでも同じ思いに支配されて来たのだと知って、恭平は思わず息を詰めて信哉の事を見つめていた。すると不意にふっと恭平に向かって頬杖をついたままの信哉は笑いながら、だけどなぁと苦い笑いのまま口を開く。
「ずっとそんな気持ちで生きてきたんたがなぁ。」
そんな信哉の思いなんてまるで無視して、気がつくと自分の傍にいる人間が突然現れてしまったのだ。信哉の戸惑いなんかまるで無視、一人置き去りにされているような信哉の腕をとって一緒にいこうと歩き出させてしまう。
「太陽みたいなもんだ。こっちは月みたいなもんでな、あいつには敵わない。」
それが四倉梨央。信哉の後ろ向きな感情なんて無視して、一緒に進もうと手をとって歩き出させてしまう大きな存在。誰に何と言われても揺るぎもしなかった鳥飼信哉の暗く固まっていた感情を、隅々まで照らしてあっという間に塗り替えてしまう。
「のろけ、ですか。」
「まーな、お前にとっちゃ源川がそうなんだろ?」
そうにこやかに微笑みながら言われて、恭平は思わず言葉に詰まってしまった。確かに恭平がテコでも動かなかった闇の中から恭平の手をとって引っ張り出してしまったのは仁聖だし、仁聖がいなかったらこんな風に過ごすこともあり得ない。
「お前もな、理由の一つなんだよ、恭平。」
そう、信哉は穏やかな声で口にした。自分と同じように闇の中でひっそり生きているのだと何処かで決めつけていた筈の兄弟のような榊恭平が、突然心底惚れた人間と暮らして一緒に生きると宣言して。しかも過去に手合わせしてから十年以上も経って、その間まともに鍛練もしてない筈の男は鍛練を続けていた信哉と立派に手合わせまでして見せた。
「お前覚えてるか?」
幼い頃大会で手合わせした事があった時に恭平は、合気道が好きなんですとキラキラした目で信哉に言った事があったのだと言う。それを思い出して、やがて四倉梨央と出会って、信哉は恭平の方が自分より遥かに前向きに生きているのだと痛感したのだという。
「そんな…………こと。」
「主観ってやつだから、気にすんな。でも、お陰でな。」
信哉は改めて自分の生きる事を考え始めたのだ。そして尚更自分が真見塚の血をひいていて、父親や弟と似ているのだと気がつきもしたと言う。
「お前、うちの道場なら鍛練しやすいだろ?」
「なんで、そこに行き着きますか。」
「お前の性格じゃ宮内でも真見塚でも通えない。だけど同じ立場で生きてきた俺んとこだ。」
思わずその言葉に恭平は笑い出してしまう。確かに宮内にも真見塚にも迷惑にはならないし、文句を言おうにも宮内は血筋とか主君筋なんて古風な考えに弱い。だけど、それを逆手にとって自分を通わせたいなんて、幾ら自分が昔合気道が好きだと口にしたからだとはいえ無理矢理過ぎる。
「あんまり、ですよ。無理矢理過ぎです。」
「そうか?」
「幾らなんでも、俺を勧誘しなくても、信哉さんならもっと…………。」
かの鳥飼道場の直系の人間なのだから、こんな胡散臭い立場の恭平を選ばなくても、他に門下生なら幾らでも通いたがる筈だ。そういいたい恭平に信哉はふっと笑うと、更に理由を口にする。
「俺はな、お前と違って好きで始めた訳じゃないし、努力家でもない。」
「嫌味ですか?それ。」
「違う、真剣に言ってる。」
信哉は少しだけ笑みを敷いた唇をしながらも、真剣な口調で口を開く。
「だから、お前にうちの子供にもお前なりのものを教えてほしい。」
また突拍子もないことをいうと恭平は思わず笑う。信哉がしているのはまだ産まれる前のこれから五ヶ月もしないと生まれない子供の話。しかもまだ産まれた後に子供が合気道をするかどうかもわからないし、信哉自身だってまだ三十前の若さでまだまだ時間もある。それなのになんで今から産まれる前の子供の話ですかと思わず笑うと、俺の子供だからきっと直ぐにやり始めるぞなんて呑気に信哉は笑いながら言う。
「笑うけどなぁ、俺も物心つく前には合気道しこたま鍛練してるからな?1年がそこらしかないぞ。」
「何がですか?」
「お前がブランクを取り戻して、師範代レベルになるまでの期間。」
しかも既に信哉は、恭平が全てを承諾した体で話しているし。四倉梨央の破天荒もそうだが、恭平にしてみれば仁聖の破天荒も同じようなもの。そう思うと可笑しくて仕方がなくなって、神聖な道場の床に転がったまま恭平は声をたてて笑い転げていた。
※※※
そんな風に呑気にあの時は話をしていたけれど、同時に鳥飼信哉が自分に想像も出来ないほど何もかもを諦めて長年生きてきたのだとも考えてしまう。それがどんな人生だったのかは恭平には分からないし、少なくともあの能力と財力でもどうにもしがたい何かなんて恭平には太刀打ちのしようがない。
そして恭平と同じように何もかも諦めて何も残すこともなく生きていくのだと諦めていた信哉が、改めて何かを残そうとしていて、その中には何故か恭平の事も含まれていた。それを引き起こしたのは仁聖の存在があったからで、そしてこうして違う見方で今まで見ていたものを見てしまうと泣き崩れてしまった慶周の違う面も見えてしまう。
変わらないんじゃなくて、変わっていても自分もこの人も見ようとしていなかった。
幾分とはいえ真実に歩み寄ろうとしていたのを勝手にシャットアウトしたのは、恭平も慶周も実は本質的には同じなのだった。もし諦めずに合気道を続けていたら今とは違う関係性を構築できていたかもしれないし、もしかしたら溝も浅くてすんだのかもしれない。今更とはいえ恭平がそれに気がつけるようになったのは、恭平が生きていくための道を改めて考え始めていて、恭平を連れて一緒に歩き出そうとする人間が傍にいるからなのだ。そして、目の前の慶周にはその相手が存在していないのかもしれない。
そう考えて一度ふぅと溜め息として胸の奥から息を深く吐き出して、恭平は呆れではなく穏やかな母とよく似た微笑みを敷いて改めて口を開いた。
「…………もう過ぎたことなんです。だから改めていいますが、俺の事はもう放っておいてください。」
以前のように対立的に悪い意味でこの言葉を口にするのではなく、自分が宮内に関係して何かをほじくりかえそうとはしていないという恭平の本心。宮内の財産なんか気にもかけていないし、宮内の子供に今更なるつもりもない。
ただ改めて自分らしく、そして自分が好きなように生きていく。
恐らくはこれからも恭平は今までの生活の中で過ごすし、宮内で何かをすることも宮内に出入りするようになることもない。勿論異母や異母弟とはこれからも交流はするだろうし連絡は取り合うだろうけど、だからと言って恭平が宮内恭平になることはないし、宮内の血縁として何かを得ようとも思わないのだ。だからこそ、改めて微笑みながらこの言葉を口にする。
「俺は俺なりに自分らしく生きようと思うんです、…………だからもう俺の事は気にしないで放っておいてください。」
放棄ではなく、自分なりに自分らしく生きる。そう告げる穏やかな柔らかな微笑みには、過去に慶周が接していた中庭で佇む美弥子と何も変わらず、何とか自分らしく生きようと模索しようとしている恭平の本心が透けて見えている。それに気がついた宮内慶太郎はそれ以上は何かをあえて言うのを止めて、横で涙を拭いつつある慶周をそっと見つめてから、ゆっくりと分かりましたと言うように小さく頷いていた。
勿論これには、榊恭平自身の事も含まれてはいるのだ。こうしてみれば考えれば考えるほど、似てないと思っていた自分の中にも同じ血が流れているのに気がついてしまう。頑なでよく言えば古風な思考過程。悪く言えば頑固で古くさくて融通が効かない。だから過去に自分と宮内の間に出来た溝は、全く埋まることもなく更に深まったのだ。ところがここに来て唐突に目の前で宮内慶周が涙を流したのには、流石の恭平も慶太郎も唖然とするしかなかった。
「なんで…………、俺は…………。」
そして宮内慶周が懺悔のように口にしたのは、慶周自身が長年溜め込み続けた疑問を含む後悔の言葉なのだった。何よりも深いのは、何故美弥子が悪女と決めつけられたのかと言う後悔だ。恭平も慶太郎も知るよしもなかったが、榊美弥子は許嫁だった当時宮内家で花嫁修行なんてものをしていたのだと初めて二人は聞いた。その時美弥子に年の近い慶周が、美弥子に淡い恋心を抱いていたのだ。それでも本家の跡取りの許嫁に何も出来るわけがなく、慶周はその気持ちを飲み込んだまま過ごした。
沢山のすれ違いの後榊美弥子は姿を消して、しかも慶周が嫁を娶った後。慶周が旅行専門のライターになったのは、各地を回る事が狙いだったからなのだ。記憶の中に残っていた榊美弥子が、慶周に行ってみたいと口にした場所や過去に訪れた事のある場所を一ヶ所ずつ次々と探し歩く。その表向きの理由が、仕事である旅行ライターだった。
そして消えた当初は何も言わなかった祖母に、跡を継ぐとなってから榊美弥子は府設楽な女だったから家を追い出したと聞かされた時の落胆。美弥子を愛していた筈なのに探しに出ていく事もできず、家を継ぐしかない慶恭。それにそこまでは慶恭とも仲の良かった慶周がどれだけ絶望していたかは、正直なところ想像も出来ない。やがて宮内の家事態に嫌気もさして、最初は使わなかったペンネームを使うようになったという。
「それなのに…………。」
それでも結局は慶周も自分で選択した道を粛々と生きてきただけなのだと、恭平は思わず溜め息をついてしまう。それなのに合気道は止められなかったし、美弥子によく似た顔立ちに育ってしまった自分に再会してしまった。それを必然と考えるか、それとも運命の悪戯と考えるかは、人それぞれの取り方だ。
そう思うとついこの間鳥飼信哉と話した時が過る。
お前が好きだった合気道を辞めたからって、宮内は何か変わったと思うか?
そうきつい鍛練に道場で倒れ込み肩で息をしながら天井を仰ぐ恭平にむかって、胡座をかいて座る鳥飼信哉は覗き込むようにして口にした。
※※※
「お前が好きだった合気道を辞めたからって、宮内は何かかわったと思うか?」
そんなことを考えたことなんてなかったと、素直に恭平は信哉の顔を見上げながら思った。今まで一度もそんな風に宮内の事を考えた事はなかったが、率直に考えてしまうと答えは簡単だ。
「何も変わらないし、自分が我慢しても相手には伝わらなかったろ?」
そう、信哉の言う通り。宮内の家は何も変わりなく日々は過ぎていき、そして自分だけが鬱々と悩み迷ううちに大事な筈の人は死に後悔だけが残される。それを思い一人で苦しんでも相手には伝わる筈もないのは、彼らは片側しか知らないからだ。
「俺が辞めたいと言った時、真見塚は辞めても鍛練には来いと言われたんだ。人がいない時で構わないから時々来て道場を使えとな。」
自分も同じ事を申し出られたらどうしただろうと恭平は思わず考え込むが、恐らくは自分の性格では分かりましたとは言わないだろうとも思う。
「そういうとこは宮内の血筋だな、恭平は。」
そう彼は頬杖をつき笑う。ただ信哉の身の周りの人間も、信哉が表立っては合気道を辞めた後も何も変わらなかったと言う。信哉はそれを見て尚更自分だけがと感じていたというのだ。
「変わらなきゃならないと思い込んで、結局は一人で置き去りにされた気になってな。」
その言葉は恭平にも胸に痛い言葉だった。悲しいほど一人きりで後悔だけが心の中を満たす、そんな暗く重苦しい日々に、目の前にいる自分と違って多くのものを持っている筈の信哉が感じながら生きていたというのだ。
「毎晩穏やかに眠ることもなく、いつか一人きりで死ぬんだと何もかも諦めてきた。」
そんなはずない。そう思うが信哉の瞳には嘘はなくて、その言葉が彼の過去を示す真実なのだと気がついてしまう。暗く孤独で冷えきった日々が自分だけの当然なのだと暮らし続けて、そして多くの後悔だけを背負い続けていく。これほどの天武の才能が身の内にある人間の信哉ですら、恭平の背負い続けて来たものと何も変わらない暗闇の中にいたというのだ。
「おふくろが死んだのも俺のせいだからな……そう考えるしか出来なかった。」
自分もそうだった。母は確かに直接的には事故で死んだのだが、そこまで追い詰めたのは自分で母の寿命を縮めてきたのは自分自身なのだ。
「だから、弟や親父とも縁を切って生きるのが筋だと思ってきた。」
どこまでも同じ思いに支配されて来たのだと知って、恭平は思わず息を詰めて信哉の事を見つめていた。すると不意にふっと恭平に向かって頬杖をついたままの信哉は笑いながら、だけどなぁと苦い笑いのまま口を開く。
「ずっとそんな気持ちで生きてきたんたがなぁ。」
そんな信哉の思いなんてまるで無視して、気がつくと自分の傍にいる人間が突然現れてしまったのだ。信哉の戸惑いなんかまるで無視、一人置き去りにされているような信哉の腕をとって一緒にいこうと歩き出させてしまう。
「太陽みたいなもんだ。こっちは月みたいなもんでな、あいつには敵わない。」
それが四倉梨央。信哉の後ろ向きな感情なんて無視して、一緒に進もうと手をとって歩き出させてしまう大きな存在。誰に何と言われても揺るぎもしなかった鳥飼信哉の暗く固まっていた感情を、隅々まで照らしてあっという間に塗り替えてしまう。
「のろけ、ですか。」
「まーな、お前にとっちゃ源川がそうなんだろ?」
そうにこやかに微笑みながら言われて、恭平は思わず言葉に詰まってしまった。確かに恭平がテコでも動かなかった闇の中から恭平の手をとって引っ張り出してしまったのは仁聖だし、仁聖がいなかったらこんな風に過ごすこともあり得ない。
「お前もな、理由の一つなんだよ、恭平。」
そう、信哉は穏やかな声で口にした。自分と同じように闇の中でひっそり生きているのだと何処かで決めつけていた筈の兄弟のような榊恭平が、突然心底惚れた人間と暮らして一緒に生きると宣言して。しかも過去に手合わせしてから十年以上も経って、その間まともに鍛練もしてない筈の男は鍛練を続けていた信哉と立派に手合わせまでして見せた。
「お前覚えてるか?」
幼い頃大会で手合わせした事があった時に恭平は、合気道が好きなんですとキラキラした目で信哉に言った事があったのだと言う。それを思い出して、やがて四倉梨央と出会って、信哉は恭平の方が自分より遥かに前向きに生きているのだと痛感したのだという。
「そんな…………こと。」
「主観ってやつだから、気にすんな。でも、お陰でな。」
信哉は改めて自分の生きる事を考え始めたのだ。そして尚更自分が真見塚の血をひいていて、父親や弟と似ているのだと気がつきもしたと言う。
「お前、うちの道場なら鍛練しやすいだろ?」
「なんで、そこに行き着きますか。」
「お前の性格じゃ宮内でも真見塚でも通えない。だけど同じ立場で生きてきた俺んとこだ。」
思わずその言葉に恭平は笑い出してしまう。確かに宮内にも真見塚にも迷惑にはならないし、文句を言おうにも宮内は血筋とか主君筋なんて古風な考えに弱い。だけど、それを逆手にとって自分を通わせたいなんて、幾ら自分が昔合気道が好きだと口にしたからだとはいえ無理矢理過ぎる。
「あんまり、ですよ。無理矢理過ぎです。」
「そうか?」
「幾らなんでも、俺を勧誘しなくても、信哉さんならもっと…………。」
かの鳥飼道場の直系の人間なのだから、こんな胡散臭い立場の恭平を選ばなくても、他に門下生なら幾らでも通いたがる筈だ。そういいたい恭平に信哉はふっと笑うと、更に理由を口にする。
「俺はな、お前と違って好きで始めた訳じゃないし、努力家でもない。」
「嫌味ですか?それ。」
「違う、真剣に言ってる。」
信哉は少しだけ笑みを敷いた唇をしながらも、真剣な口調で口を開く。
「だから、お前にうちの子供にもお前なりのものを教えてほしい。」
また突拍子もないことをいうと恭平は思わず笑う。信哉がしているのはまだ産まれる前のこれから五ヶ月もしないと生まれない子供の話。しかもまだ産まれた後に子供が合気道をするかどうかもわからないし、信哉自身だってまだ三十前の若さでまだまだ時間もある。それなのになんで今から産まれる前の子供の話ですかと思わず笑うと、俺の子供だからきっと直ぐにやり始めるぞなんて呑気に信哉は笑いながら言う。
「笑うけどなぁ、俺も物心つく前には合気道しこたま鍛練してるからな?1年がそこらしかないぞ。」
「何がですか?」
「お前がブランクを取り戻して、師範代レベルになるまでの期間。」
しかも既に信哉は、恭平が全てを承諾した体で話しているし。四倉梨央の破天荒もそうだが、恭平にしてみれば仁聖の破天荒も同じようなもの。そう思うと可笑しくて仕方がなくなって、神聖な道場の床に転がったまま恭平は声をたてて笑い転げていた。
※※※
そんな風に呑気にあの時は話をしていたけれど、同時に鳥飼信哉が自分に想像も出来ないほど何もかもを諦めて長年生きてきたのだとも考えてしまう。それがどんな人生だったのかは恭平には分からないし、少なくともあの能力と財力でもどうにもしがたい何かなんて恭平には太刀打ちのしようがない。
そして恭平と同じように何もかも諦めて何も残すこともなく生きていくのだと諦めていた信哉が、改めて何かを残そうとしていて、その中には何故か恭平の事も含まれていた。それを引き起こしたのは仁聖の存在があったからで、そしてこうして違う見方で今まで見ていたものを見てしまうと泣き崩れてしまった慶周の違う面も見えてしまう。
変わらないんじゃなくて、変わっていても自分もこの人も見ようとしていなかった。
幾分とはいえ真実に歩み寄ろうとしていたのを勝手にシャットアウトしたのは、恭平も慶周も実は本質的には同じなのだった。もし諦めずに合気道を続けていたら今とは違う関係性を構築できていたかもしれないし、もしかしたら溝も浅くてすんだのかもしれない。今更とはいえ恭平がそれに気がつけるようになったのは、恭平が生きていくための道を改めて考え始めていて、恭平を連れて一緒に歩き出そうとする人間が傍にいるからなのだ。そして、目の前の慶周にはその相手が存在していないのかもしれない。
そう考えて一度ふぅと溜め息として胸の奥から息を深く吐き出して、恭平は呆れではなく穏やかな母とよく似た微笑みを敷いて改めて口を開いた。
「…………もう過ぎたことなんです。だから改めていいますが、俺の事はもう放っておいてください。」
以前のように対立的に悪い意味でこの言葉を口にするのではなく、自分が宮内に関係して何かをほじくりかえそうとはしていないという恭平の本心。宮内の財産なんか気にもかけていないし、宮内の子供に今更なるつもりもない。
ただ改めて自分らしく、そして自分が好きなように生きていく。
恐らくはこれからも恭平は今までの生活の中で過ごすし、宮内で何かをすることも宮内に出入りするようになることもない。勿論異母や異母弟とはこれからも交流はするだろうし連絡は取り合うだろうけど、だからと言って恭平が宮内恭平になることはないし、宮内の血縁として何かを得ようとも思わないのだ。だからこそ、改めて微笑みながらこの言葉を口にする。
「俺は俺なりに自分らしく生きようと思うんです、…………だからもう俺の事は気にしないで放っておいてください。」
放棄ではなく、自分なりに自分らしく生きる。そう告げる穏やかな柔らかな微笑みには、過去に慶周が接していた中庭で佇む美弥子と何も変わらず、何とか自分らしく生きようと模索しようとしている恭平の本心が透けて見えている。それに気がついた宮内慶太郎はそれ以上は何かをあえて言うのを止めて、横で涙を拭いつつある慶周をそっと見つめてから、ゆっくりと分かりましたと言うように小さく頷いていた。
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