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第十四章 蒼い灯火
155.
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誰だっけ?
その何の気なしに向けられた言葉が、どんなに残酷な衝撃の一撃だったか。自分がこんなにずっとずっと、それこそ小学生になる前からジッとひたすらに見つめてきたのに、相手が自分のことをほんの欠片すら覚えていない。それも覚えていないふりではく本気で覚えていないなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるもんか。大学までの一本道の商店街のど真ん中で、ブルブルと青ざめ震える南尾のナイフで裂けた親指から血が滲む。もうナイフは振り下ろしてしまったし、もう引き下がるわけにはいかない。頭の中でそう繰り返して、もう限界なんだからと叫ぶ。
綺麗な顔で女の子みたいな奴だったのに、
小学生になるまでは西洋人形みたいな少年だった。そして見ている内にあっという間に王子様に育ってしまった源川仁聖が、戸惑いに青く光るような瞳で自分を見ている。見ているのに自分が誰だか記憶にないのが、あからさまにその瞳から感じ取れてしまう苛立ち。虐められた方は覚えてる筈だ。
外人と詰られ、親もいないと馬鹿にされて泣きそうになっていた。
それなのに、それをした相手を覚えてないなんて。
「覚えてないのかよぉ!」
「えー…………と。」
「こ、殺すっ!!」
「えっ嘘っ!」
咄嗟に出る仁聖の言葉に、正直なところ了はお前は口をもう開くなと叫びたくなる。なんでまたこんなに相手を逆撫でするのが上手くてどうすると思うが、そう言えば仁聖は宏太に似てるらしい。
うちの宏太も人の神経逆撫でするのが上手かったな、そう言えば。
実際に駅から歩き出した彼女が暫くして何かに気がついた様子で駆け出したのに、了達も咄嗟に駆け出していた。ところが追い付いたら視界には仁聖に向かって光るものを握って駆け寄っていく男の背中が見えていて、しかも気配に気がついたのかタイミングよく仁聖が振り返る。声をあげると小松川咲子は仁聖に向かって「避けて」と叫んだのだ。
電車の中で感じた違和感がなんだったか、了には今更だけど理解できた。彼女は仁聖のことを見てはいたけど、仁聖だけをジッと見ていたわけではなかった。小松川咲子だけを了は見ていたから気がついたが、彼女は時々同時に辺りを見渡していたのだ。
つまり彼女は自分よりも危険性が高いストーキングしている別な存在に気がついて、それを警戒していたということだったんじゃないか?だから駅の構内から出ないで、電車を降りてから相手が仁聖の後ろについていかないか見渡せるコーヒーショップで五分くらい眺めていたのでは?普段はそこで帰ったのは少なくとも、もう一人のストーカーが後ろをついて歩かないのを確認して一先ず安心して帰っていたと言えないか?朝だけなのは朝しかできないからだろうが、小松川咲子は仁聖にそれほど重度のストーキングをしている訳じゃない。でもどうやらもう一人は小松川咲子のように朝一緒についてこなくても、仁聖の生活時間をよく知っていた。帰り時間も知っているし、
「バ、バイト先で初対面じゃないっけ?!」
「こ、このぉおおおっ!!避けるなっ!」
「よ、避けるよ!当たり前だろっ!」
仁聖はバックで上手いこと防御しているが、それが後どれくらい保てるかわからない。それにしたって口を閉じろ!何時まで経っても火に油だと了は彼女を庇いながらハラハラしているが、振り回されるナイフを何とか出来る自信が了にも晴にもない。こんな時宏太がいたら、あっという間に叩き伏せ終わってるのにと正直考えてしまうくらいだ。それにしても仁聖がバイト先といったと言うことは藤咲の事務所のスタッフということだろうが、相手はそれ以前から仁聖のことを知っていた節でもある。
その瞬間不意に背後から、悪寒を感じさせるほどにヒヤリと空気が変わっていた。スゥッと了の真横を音もなく滑るように人影が通り過ぎていって、それが電話をしておいた恭平なのに気がつく。
そこからはほんの一瞬の出来事だった。
あ、そう言えば、俺も恭平に肋折られたっけ
一瞬で滑るように南尾の真横にいた恭平の手にナイフを持っていた手首が捻り上げられていて、しかも次の瞬間にはその体は宙で反転してとんでもない音をたててアスファルトの地面に叩きつけられていた。ボロボロの鞄を盾にしていた仁聖がポカーンとして立ち尽くし、叩きつけられた方も呆然としているが受け身をとれてないからあれは肋が折れてそうな気がする。
一瞬分かんないもんなぁ、何が起きてるか。
しかも今の恭平は素面で、あの空気は完全に怒りまくっている。それを知らない筈の晴が震え上がる程に、恭平がキレていて相手に容赦する気がないのが分かってしまう。やっと思い出したように、腕の痛みに南尾の情けない悲鳴が周囲に上がる。
「い、いだただたたっ!いたいいいっは、離してっ!」
「…………きょうへ…………?」
「今すぐナイフ離さないと、手首を砕く。」
恭平に刃物のように凍りついた声で言われて、南尾は慌ててナイフを手放し駆け寄った晴がそれを足で確保している。そこまで反射神経と運動神経で避け続けていた仁聖が肩で息をしながら、なんでここに恭平がとまだ状況が飲み込めない様子で見下ろすのに恭平が視線をあげた。
「こいつは誰なんだ?」
「み、南尾さん。バイト先の人。」
「な、なんで覚えてないんだよおおおおっ!」
完全に関節を固められた状態で更に追い討ちをかけられたように仁聖に言われた言葉に泣き出した南尾に、どう言うことだと問いかける視線を恭平が氷のような瞳で南尾に投げ掛ける。それにオズオズと了の背後から進み出た小松川咲子が遠慮がちに口を開いた。
「あの、志織の同級生です……源川君も南尾君も。」
※※※
今更だが小松川の妹は、佐織でなくて志織のほうだったのは言うまでもない。姉が言うのだから、間違いないが結局自力では思い出せなかったのは、流石に申し訳ないかも。
最初のストーカーと思われていた小松川咲子は、実は仁聖のストーカーではなくて源川秋晴のストーカーだった。偶々以前に秋晴と一度接したことがあって一目惚れしたのだというが、秋晴は国外にいることが多いから何時出会えるかわからない。そんな訳で何度も源川家の周辺を伺う内にストーキングに至ったらしく、今までは一緒に暮らしていた訳だから仁聖のことも当然目に入るのだ。おまけに以前のこととはいえ二ヶ月ほど妹の彼氏だった仁聖が、割合自分の塾のある花街の辺りで姿を見かけるものだから「あの子、大丈夫かしら」くらいで気にかけていたらしい。
一方、南尾昭義は中学までは仁聖と一緒の学校だった。だが、同じクラスになったのは僅かに小学校の低学年の二年間だけ。その後はまるで接点がない。南尾は都立第三高校は受験したが合格できずに私立高校に入学している。ただその後は小松川咲子の塾に通っていたから花街にいる仁聖のことも見かけていたと思われるが、これまた当の仁聖はまるで気がついていない。しかも仁聖と同じ大学も受験したが不合格で、現在は浪人中。アルバイトとして藤咲の事務所に入った時にはカメラマン志望なんて嘘をついていたようだが、ポスターをみて仁聖だと気がついてワザワザやって来たようだ。
「……どういうこと?」
ここまでの話でも理解が効かないのは幼稚園から中学まで一緒の進路を進んでいたとはいえ、仁聖との接点は小学生の一年と二年だけ。しかも、南尾が言うには小松川志織と一緒になって仁聖を虐めたのだというが、仁聖のほうは南尾の事を完全に忘れていた。何しろお付き合いした小松川志織の名前ですら思い出せなかったのに、それより接点が少ない相手を仁聖が十三年も鬱々と覚えているはずがない。ところが普通なら虐められた方は覚えていて虐めた方は覚えていないものなのに、この場合逆に何故か南尾の方は仁聖をつけ回し恨み続けていたという。
「……なんで?」
「お、お前がっお前が悪いんだろおぉっ!お前があぁあ!」
こういうのをサイコパス系ストーカーというらしいが、どうやら南尾は自分の感情・欲望を相手の感情と無関係に一方的に押し付けるタイプで、欲を満たすための道具として仁聖を支配したかったということのようだ。それにしてもナイフで襲いかかるは流石にないなぁと何気なく仁聖が言うのを、南尾はそこじゃないだろと更に泣き出して呆れ顔で了と晴がみていたのはここだけの話だ。
南尾は何でも自分の上にいる仁聖がずっと憎らしかったのだという。
学力も運動もあっという間に追い抜かれ、自分が入れなかった学校に苦もなく入り、しかも今ではモデル迄やっている源川仁聖。幼稚園から知っていて何時も王子様で、憎らしくてしかたがないのに、どうしても目が離せない。だからストーキングしていたし、次第に近づいてもいた。
それを偶々どちらのことも顔を知っていて、源川秋晴のストーカーでもある小松川咲子が見つけてしまったのだ。
仁聖が恭平の家に引っ越してから、何度か源川秋晴宅に忍び込もうとしている南尾をみてしまったという。もしかしたら侵入していたかもしれないが、仁聖は既にそこには住んでいないし週に一度来るか来ないかだった。そのまま過ごせるかと思っていたら、駅貼りのポスターを盗んでいく南尾を見て小松川咲子は仁聖のことが心配になったらしい。その頃には仁聖は花街にはまるで姿を見せなくなっていたが、時折自宅の近くで二人を見かけていたから仁聖が誰と暮らしているかは知っていた。何しろ小松川咲子は榊恭平の一つ年下で同じ大学の同じ文学部だ。
「大学の時から時々源川君を見かけてたし、誰をみてるかも知ってたんで…………。」
それに了は分からなかったが、小松川咲子は成田了のことも覚えていた。了と榊恭平が大学時代から仲が良いのも知っていたので、そういう性的な志向だったりは、それはそれであることなのかな程度に捉える事が出来る程度には小松川咲子は所謂腐女子の面もあったようで。
兎も角自分の恋の相手ではないが甥だから心配、近所の妹の同級生だから心配してくれていたというわけだ。そんな小松川咲子だが、流石に他人の家に忍び込んだりポスターを盗んだりしている人間の存在は気になる。それで一度試しに仁聖が電車で大学に向かうのを見てみようとしたら、既に南尾が仁聖の後をつけてきたのに、これはいけないと思ったのだという。南尾が余り近づくなら教えた方がと考えてはみたものの、実際には話したことも殆どない仁聖にどのタイミングでどう説明したらいいかわからず、しかも仕事上朝しかみてられない。そんな状況で延々と三ヶ月も同じ行動を、律儀に繰り返してしまっていたというのが小松川咲子の本当のところだった。
※※※
白昼の騒動に終止符がついたのは警察で事情を聞かれて、藤咲が合流し状況を説明して解放されて事務所に戻ってからのこと。小松川咲子は了達が話を聞いてくれて警察には向かわなかったが、バイトスタッフとして雇ってもいた藤咲は犯人をやっと画像からみつけて通報しようとしていた矢先だったらしい。どうやって画像を入手して探してたのかは話してくれなさそうだが、現場に了がいたのと了が恭平に電話をしてくれたことからも外崎宏太も関係しているに違いない。それに割合早く仁聖達が解放されたのは、実際には外崎が知り合いの刑事に連絡をとってくれたからでもあるようだ。
「申し訳ない。…………まさかスタッフとして入り込んでたとは。」
藤咲はそう事務所に戻って深々と仁聖と恭平に頭を下げたが、こればかりは藤咲が悪いわけではない。何しろ藤咲に出会う、それよりずっと以前から南尾昭義は密かに仁聖のことをつけ回していたのだ。それは何となく泣きじゃくる南尾の話から理解できたが、その理由の方までは仁聖でも理解できない。
「怪我してないし……藤咲さんのせいじゃないから…………。」
今更のように事実か飲み込めてきた様子の珍しく気落ちした気配で仁聖が呟く様子に、恭平が微かに不安げな視線を向ける。
昔自分のことを虐めていた相手が、仁聖の方が何でも出来るからと自分を恨んでつけ回していた。
それも今日昨日の話ではなく、ずっと長い間。しかも今は住んでいないとは言え、叔父の家に忍び込もうとしていたと知ったのだ。しかも恨んでいた理由も逆恨みのようなものだが、ポスターを盗ったり周囲をつけ回したり矛盾した行動をして最後にナイフで襲いかかってきた。
逮捕されたとは言え誰も怪我はしてないし、接近禁止くらいはできてもそれほど重い罪にはならないかもしれない。そう考えながら送ると言う藤咲の申し出を断って事務所を後にする仁聖の横顔を、恭平は心配そうに眺める。
「仁聖…………。」
恭平の声に気がついたように視線をあげた仁聖が、困惑に揺れる瞳で恭平の顔を見つめた。
「……ありがと、助けてくれて。」
バックはもう使い物にはならないが、怪我はしなかった。恭平が一瞬でナイフを南尾をのしてしまったから助かったと笑おうとするが、どうしても笑顔にはなれない仁聖の手を恭平がそっと握る。泣き出しそうな顔をする仁聖の手をとって、恭平は何故か直ぐ傍の路地を曲がって歩き出していた。
その何の気なしに向けられた言葉が、どんなに残酷な衝撃の一撃だったか。自分がこんなにずっとずっと、それこそ小学生になる前からジッとひたすらに見つめてきたのに、相手が自分のことをほんの欠片すら覚えていない。それも覚えていないふりではく本気で覚えていないなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるもんか。大学までの一本道の商店街のど真ん中で、ブルブルと青ざめ震える南尾のナイフで裂けた親指から血が滲む。もうナイフは振り下ろしてしまったし、もう引き下がるわけにはいかない。頭の中でそう繰り返して、もう限界なんだからと叫ぶ。
綺麗な顔で女の子みたいな奴だったのに、
小学生になるまでは西洋人形みたいな少年だった。そして見ている内にあっという間に王子様に育ってしまった源川仁聖が、戸惑いに青く光るような瞳で自分を見ている。見ているのに自分が誰だか記憶にないのが、あからさまにその瞳から感じ取れてしまう苛立ち。虐められた方は覚えてる筈だ。
外人と詰られ、親もいないと馬鹿にされて泣きそうになっていた。
それなのに、それをした相手を覚えてないなんて。
「覚えてないのかよぉ!」
「えー…………と。」
「こ、殺すっ!!」
「えっ嘘っ!」
咄嗟に出る仁聖の言葉に、正直なところ了はお前は口をもう開くなと叫びたくなる。なんでまたこんなに相手を逆撫でするのが上手くてどうすると思うが、そう言えば仁聖は宏太に似てるらしい。
うちの宏太も人の神経逆撫でするのが上手かったな、そう言えば。
実際に駅から歩き出した彼女が暫くして何かに気がついた様子で駆け出したのに、了達も咄嗟に駆け出していた。ところが追い付いたら視界には仁聖に向かって光るものを握って駆け寄っていく男の背中が見えていて、しかも気配に気がついたのかタイミングよく仁聖が振り返る。声をあげると小松川咲子は仁聖に向かって「避けて」と叫んだのだ。
電車の中で感じた違和感がなんだったか、了には今更だけど理解できた。彼女は仁聖のことを見てはいたけど、仁聖だけをジッと見ていたわけではなかった。小松川咲子だけを了は見ていたから気がついたが、彼女は時々同時に辺りを見渡していたのだ。
つまり彼女は自分よりも危険性が高いストーキングしている別な存在に気がついて、それを警戒していたということだったんじゃないか?だから駅の構内から出ないで、電車を降りてから相手が仁聖の後ろについていかないか見渡せるコーヒーショップで五分くらい眺めていたのでは?普段はそこで帰ったのは少なくとも、もう一人のストーカーが後ろをついて歩かないのを確認して一先ず安心して帰っていたと言えないか?朝だけなのは朝しかできないからだろうが、小松川咲子は仁聖にそれほど重度のストーキングをしている訳じゃない。でもどうやらもう一人は小松川咲子のように朝一緒についてこなくても、仁聖の生活時間をよく知っていた。帰り時間も知っているし、
「バ、バイト先で初対面じゃないっけ?!」
「こ、このぉおおおっ!!避けるなっ!」
「よ、避けるよ!当たり前だろっ!」
仁聖はバックで上手いこと防御しているが、それが後どれくらい保てるかわからない。それにしたって口を閉じろ!何時まで経っても火に油だと了は彼女を庇いながらハラハラしているが、振り回されるナイフを何とか出来る自信が了にも晴にもない。こんな時宏太がいたら、あっという間に叩き伏せ終わってるのにと正直考えてしまうくらいだ。それにしても仁聖がバイト先といったと言うことは藤咲の事務所のスタッフということだろうが、相手はそれ以前から仁聖のことを知っていた節でもある。
その瞬間不意に背後から、悪寒を感じさせるほどにヒヤリと空気が変わっていた。スゥッと了の真横を音もなく滑るように人影が通り過ぎていって、それが電話をしておいた恭平なのに気がつく。
そこからはほんの一瞬の出来事だった。
あ、そう言えば、俺も恭平に肋折られたっけ
一瞬で滑るように南尾の真横にいた恭平の手にナイフを持っていた手首が捻り上げられていて、しかも次の瞬間にはその体は宙で反転してとんでもない音をたててアスファルトの地面に叩きつけられていた。ボロボロの鞄を盾にしていた仁聖がポカーンとして立ち尽くし、叩きつけられた方も呆然としているが受け身をとれてないからあれは肋が折れてそうな気がする。
一瞬分かんないもんなぁ、何が起きてるか。
しかも今の恭平は素面で、あの空気は完全に怒りまくっている。それを知らない筈の晴が震え上がる程に、恭平がキレていて相手に容赦する気がないのが分かってしまう。やっと思い出したように、腕の痛みに南尾の情けない悲鳴が周囲に上がる。
「い、いだただたたっ!いたいいいっは、離してっ!」
「…………きょうへ…………?」
「今すぐナイフ離さないと、手首を砕く。」
恭平に刃物のように凍りついた声で言われて、南尾は慌ててナイフを手放し駆け寄った晴がそれを足で確保している。そこまで反射神経と運動神経で避け続けていた仁聖が肩で息をしながら、なんでここに恭平がとまだ状況が飲み込めない様子で見下ろすのに恭平が視線をあげた。
「こいつは誰なんだ?」
「み、南尾さん。バイト先の人。」
「な、なんで覚えてないんだよおおおおっ!」
完全に関節を固められた状態で更に追い討ちをかけられたように仁聖に言われた言葉に泣き出した南尾に、どう言うことだと問いかける視線を恭平が氷のような瞳で南尾に投げ掛ける。それにオズオズと了の背後から進み出た小松川咲子が遠慮がちに口を開いた。
「あの、志織の同級生です……源川君も南尾君も。」
※※※
今更だが小松川の妹は、佐織でなくて志織のほうだったのは言うまでもない。姉が言うのだから、間違いないが結局自力では思い出せなかったのは、流石に申し訳ないかも。
最初のストーカーと思われていた小松川咲子は、実は仁聖のストーカーではなくて源川秋晴のストーカーだった。偶々以前に秋晴と一度接したことがあって一目惚れしたのだというが、秋晴は国外にいることが多いから何時出会えるかわからない。そんな訳で何度も源川家の周辺を伺う内にストーキングに至ったらしく、今までは一緒に暮らしていた訳だから仁聖のことも当然目に入るのだ。おまけに以前のこととはいえ二ヶ月ほど妹の彼氏だった仁聖が、割合自分の塾のある花街の辺りで姿を見かけるものだから「あの子、大丈夫かしら」くらいで気にかけていたらしい。
一方、南尾昭義は中学までは仁聖と一緒の学校だった。だが、同じクラスになったのは僅かに小学校の低学年の二年間だけ。その後はまるで接点がない。南尾は都立第三高校は受験したが合格できずに私立高校に入学している。ただその後は小松川咲子の塾に通っていたから花街にいる仁聖のことも見かけていたと思われるが、これまた当の仁聖はまるで気がついていない。しかも仁聖と同じ大学も受験したが不合格で、現在は浪人中。アルバイトとして藤咲の事務所に入った時にはカメラマン志望なんて嘘をついていたようだが、ポスターをみて仁聖だと気がついてワザワザやって来たようだ。
「……どういうこと?」
ここまでの話でも理解が効かないのは幼稚園から中学まで一緒の進路を進んでいたとはいえ、仁聖との接点は小学生の一年と二年だけ。しかも、南尾が言うには小松川志織と一緒になって仁聖を虐めたのだというが、仁聖のほうは南尾の事を完全に忘れていた。何しろお付き合いした小松川志織の名前ですら思い出せなかったのに、それより接点が少ない相手を仁聖が十三年も鬱々と覚えているはずがない。ところが普通なら虐められた方は覚えていて虐めた方は覚えていないものなのに、この場合逆に何故か南尾の方は仁聖をつけ回し恨み続けていたという。
「……なんで?」
「お、お前がっお前が悪いんだろおぉっ!お前があぁあ!」
こういうのをサイコパス系ストーカーというらしいが、どうやら南尾は自分の感情・欲望を相手の感情と無関係に一方的に押し付けるタイプで、欲を満たすための道具として仁聖を支配したかったということのようだ。それにしてもナイフで襲いかかるは流石にないなぁと何気なく仁聖が言うのを、南尾はそこじゃないだろと更に泣き出して呆れ顔で了と晴がみていたのはここだけの話だ。
南尾は何でも自分の上にいる仁聖がずっと憎らしかったのだという。
学力も運動もあっという間に追い抜かれ、自分が入れなかった学校に苦もなく入り、しかも今ではモデル迄やっている源川仁聖。幼稚園から知っていて何時も王子様で、憎らしくてしかたがないのに、どうしても目が離せない。だからストーキングしていたし、次第に近づいてもいた。
それを偶々どちらのことも顔を知っていて、源川秋晴のストーカーでもある小松川咲子が見つけてしまったのだ。
仁聖が恭平の家に引っ越してから、何度か源川秋晴宅に忍び込もうとしている南尾をみてしまったという。もしかしたら侵入していたかもしれないが、仁聖は既にそこには住んでいないし週に一度来るか来ないかだった。そのまま過ごせるかと思っていたら、駅貼りのポスターを盗んでいく南尾を見て小松川咲子は仁聖のことが心配になったらしい。その頃には仁聖は花街にはまるで姿を見せなくなっていたが、時折自宅の近くで二人を見かけていたから仁聖が誰と暮らしているかは知っていた。何しろ小松川咲子は榊恭平の一つ年下で同じ大学の同じ文学部だ。
「大学の時から時々源川君を見かけてたし、誰をみてるかも知ってたんで…………。」
それに了は分からなかったが、小松川咲子は成田了のことも覚えていた。了と榊恭平が大学時代から仲が良いのも知っていたので、そういう性的な志向だったりは、それはそれであることなのかな程度に捉える事が出来る程度には小松川咲子は所謂腐女子の面もあったようで。
兎も角自分の恋の相手ではないが甥だから心配、近所の妹の同級生だから心配してくれていたというわけだ。そんな小松川咲子だが、流石に他人の家に忍び込んだりポスターを盗んだりしている人間の存在は気になる。それで一度試しに仁聖が電車で大学に向かうのを見てみようとしたら、既に南尾が仁聖の後をつけてきたのに、これはいけないと思ったのだという。南尾が余り近づくなら教えた方がと考えてはみたものの、実際には話したことも殆どない仁聖にどのタイミングでどう説明したらいいかわからず、しかも仕事上朝しかみてられない。そんな状況で延々と三ヶ月も同じ行動を、律儀に繰り返してしまっていたというのが小松川咲子の本当のところだった。
※※※
白昼の騒動に終止符がついたのは警察で事情を聞かれて、藤咲が合流し状況を説明して解放されて事務所に戻ってからのこと。小松川咲子は了達が話を聞いてくれて警察には向かわなかったが、バイトスタッフとして雇ってもいた藤咲は犯人をやっと画像からみつけて通報しようとしていた矢先だったらしい。どうやって画像を入手して探してたのかは話してくれなさそうだが、現場に了がいたのと了が恭平に電話をしてくれたことからも外崎宏太も関係しているに違いない。それに割合早く仁聖達が解放されたのは、実際には外崎が知り合いの刑事に連絡をとってくれたからでもあるようだ。
「申し訳ない。…………まさかスタッフとして入り込んでたとは。」
藤咲はそう事務所に戻って深々と仁聖と恭平に頭を下げたが、こればかりは藤咲が悪いわけではない。何しろ藤咲に出会う、それよりずっと以前から南尾昭義は密かに仁聖のことをつけ回していたのだ。それは何となく泣きじゃくる南尾の話から理解できたが、その理由の方までは仁聖でも理解できない。
「怪我してないし……藤咲さんのせいじゃないから…………。」
今更のように事実か飲み込めてきた様子の珍しく気落ちした気配で仁聖が呟く様子に、恭平が微かに不安げな視線を向ける。
昔自分のことを虐めていた相手が、仁聖の方が何でも出来るからと自分を恨んでつけ回していた。
それも今日昨日の話ではなく、ずっと長い間。しかも今は住んでいないとは言え、叔父の家に忍び込もうとしていたと知ったのだ。しかも恨んでいた理由も逆恨みのようなものだが、ポスターを盗ったり周囲をつけ回したり矛盾した行動をして最後にナイフで襲いかかってきた。
逮捕されたとは言え誰も怪我はしてないし、接近禁止くらいはできてもそれほど重い罪にはならないかもしれない。そう考えながら送ると言う藤咲の申し出を断って事務所を後にする仁聖の横顔を、恭平は心配そうに眺める。
「仁聖…………。」
恭平の声に気がついたように視線をあげた仁聖が、困惑に揺れる瞳で恭平の顔を見つめた。
「……ありがと、助けてくれて。」
バックはもう使い物にはならないが、怪我はしなかった。恭平が一瞬でナイフを南尾をのしてしまったから助かったと笑おうとするが、どうしても笑顔にはなれない仁聖の手を恭平がそっと握る。泣き出しそうな顔をする仁聖の手をとって、恭平は何故か直ぐ傍の路地を曲がって歩き出していた。
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