鮮明な月

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第十二章 愚者の華

118.

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帰国した源川秋晴に騒動を正直に伝える訳にはいかず、一先ず恭平が熱を出して体調を崩した事を概の理由にするしか方法がなかった。勿論仁聖の怪我は転んだと言い張るしかなく、卒業式で揉みくちゃにされて転んだと押し通す。伝える筈だった帰国を仁聖が知らなかったのも、恭平が急に体調を崩したことで一先ずの説明にはなっているようだ。

「この前ケニアって言ってなかったっけ?叔父さん。」
「うん、中々乗り継げなくてね~。バンコク経由するのに時間がかかっちゃったよ~。」

十六時間でこれるのに飛行機に乗れなくて二日もかかったんだよと嘆く秋晴に、仁聖は思わず苦笑いを浮かべる。急いでも半日以上かかる場所にいるのは知っていたから、期待してないといったのに秋晴がわざわざ二日もかけて戻ってきたのには正直驚く。同時に少しそれが嬉しくもあるのだ。

「Congratulations on your graduation, So proud of you.」
「Thank you for your congratulations. 」

卒業おめでとうとお祝いを口にした途端瞳がウルウルとし始めた秋晴に唐突にワシャワシャと頭を撫でられて、仁聖は面食らいながらありがとうと答える。こんな風に会話を交わせるようになるなんて内心信じられない気もするのだ。
源川秋晴が後数日は国内にいると聞いて、恭平も会いたがっているから日を改めてもらう事にしたのは日も暮れた後の事だった。仁聖が今までになく頭を素直に下げた事に秋晴もただ事ではないと思った風で、酷く心配されたものの何とか帰途について貰う。

「悪かった……連絡貰っていたのに……秋晴さん、必死で戻ってきてくれたんだろ?」
「うん、二日かかってあんまり寝てないからベットが恋しいって。色々あったんだから、気にしないで。ね?」

やっと熱が下がり始めた恭平が気遣うのに、仁聖は笑顔でそう言う。手早く簡単な食事を済ませた後、恭平はもう独りで大丈夫と告げたのだが、断固として引かない仁聖に結局は恭平が折れて一緒にシャワーを浴びる。そんな様々な事を済ませてベットに潜り込んだ仁聖は、まるでそこまでが限界だったと言わんばかりに糸が切れたようにストンと眠りこんだ。自分の腰の辺りに腕を回して顔を埋め眠る仁聖の姿を見下ろして、改めて恭平は小さな溜め息をつく。仁聖の首元にはまだ赤く火傷のような後が残っていて、シャワーの間には他の傷も痛む様子だった。唇の傷は大分色を落としていたが、右の拳は少しまだ腫れているように見える。

本当は病院に行くべきなのは分かってる……。

それまで何度も仁聖が恭平を説得していたが、本来なら傷の状況はどう見ても仁聖を病院に連れていくべきだった。それを口にしたら仁聖は怪我の仕方が転んだとは言い切れないから、病院を受診すれば大事に成りかねないと頑なに拒否を続けたのだ。勿論信哉が受診したとしても、状況は同じだった。
お互いに落ち着き始めているのは事実だが、二度と同じことは起こさないようにとお互いに固く約束する。それでも恭平は気遣いながら、そっと仁聖の髪を優しい手つきで梳く。仄かな夜気の中、少し日本人離れした顔立ちは眠りに落ちるとあどけなく幼さすら感じさせる。ハッキリした目鼻立ちや日に透けると金色に近く輝いてみえる事もある柔らかい茶色の髪。スイと梳く様にその柔らかな髪を撫でると、心地好さげに頬を緩ませ深い眠りに落ちたまま仁聖がモソモソと身を寄せ丸くなる。
幼いその仕草に一瞬微笑み溜め息交じりにふとサイドボードに視線を向けた恭平は、そこに忘れ去られたように置かれた白い封筒に気がつき眉を潜める。やがてそれがなんだったのか気がついた恭平は、音もなくその封筒を指先で引き寄せていく。仁聖を気遣う仕草でスルリとベットから音もなく滑り降り、ゆったりとした音のない足取りでリビングに足を向けた。

……一体……。

ソファに腰を下ろし、ピッと軽い音を立てて封筒を裂き中身を覗き込む。暗がりでは見えない中身に訝しげに眉を潜めながら指を探りいれると、便箋ではない固い感触が指先に触り躊躇いがちに恭平はそれを引き出した。
銀糸のような裏面を持つ1枚のカード。
裏返すと闇の中に鮮やかな色彩の道化に似た衣装を纏い王者の証を斜に被った青年が頭上に『0』の番号を掲げ、犬を引き連れ杖を携えて踊っている。

タロットカード……

ふっと記憶のかなたに重なる微かな会話と共にそのカードの上に本来の物ではない書き込まれた文字が踊っているのに気がつく。逆さまに書き込まれている事に気がついた恭平は、ゆっくりとそのカードを返し文字を見下ろした。

≪Answer≫

正しい向きではなくあえて逆さまにカードを返して書かれたその見覚えのある癖のある文字に恭平は息を呑み、じっとその文字を見つめる。ふと過去に口にした言葉が心を過ぎり恭平は目を細めながら、その表面をなぞり視線を落とした。
タロットカードの『0』
そのカードの名前は『愚者』
描かれているのは一人の旅人らしき男と一匹の犬で、そのカードは何らかの目的を持った旅人と解釈する説と、他のカードを意識すらせず全くの自由気ままに歩き回る完全に無計画な放浪者と解釈する説の二通りの説が存在している。これらの説は両立する形で様々な解釈にも用いられていた。現在の通説は、このカードの青年は≪いっさいの計画性を持ち合わせていないが全くの無計画という訳ではない≫とやや矛盾した結論が付けられているのだという。それは恭平が過去に読んだ書籍の中で、自由で型にはまらない一貫性を持たない存在だと理解し解説されていて記憶に強く残ったカードでもあった。その解釈が何処か自分にとって唯一の存在を結びつけ、密かにその自由さを羨みながら傍にいて欲しいと何時しか願う存在だった事を思い知らされる。



※※※



いっさいの計画性を持ち合わせていないが、全くの無計画という訳ではない。型に嵌まらない自由奔放さ、自分の心を容易く包み込んだ筈なのに、自分のものにはならないと魅せる仁聖。欲しがっても手に入らないと知っていて、それでも目で追い続けてしまう愚かな自分。
シェークスピアの真夏の夜の夢は、恋しい人と結ばれない若者達が夏至の夜に妖精の森に訪れる喜劇だ。そこに妖精王達が関わり、トリックスターと呼ばれる存在が媚薬を瞼に塗ったことで恋しい人が刷り変わる。最後は全ては丸く収まるのだが、トリックスターと呼ばれる存在は鮮烈に印象深い。トリックスターは神話や物語の中に度々現れる存在だ。神や自然界の秩序を破り物語を展開する者で、往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴なのだが、それが何故か読む度に仁聖と重なってしまうのだ。三度目の賑やかな一年生の勧誘の声を耳に恭平は、暫く前に見た事を手元の本を読んでいる風にしながら考える。

俺にとって仁聖は……、型にはまらない…それなのに酷く惹きつけられる…。

相手は同性と分かっているのに女性の腰を抱いて歩く姿を目にして、何処かで自分が仁聖ではなく女性な嫉妬するのが不思議だった。自分の気持ちが恋慕と知った瞬間、恭平はもしどちらかが女性だったら、こんなに悩まなくて済んだのかもしれないとすら考えてもいる。同時にどちらかが女性だったら、この感情も存在しないような気もするのだ。

それこそが愚者の思考に違いない。

矛盾しているのに諦められないこの恋慕の感情に、恭平ができたのは目を閉じ彼が女性と戯れるのを見ないふりをする事だけだ。自分が好きだと口にしたら二度と仁聖と会えなくなるかもしれないと思うから、密かにそっと見つめるしか恭平には出来ない。



※※※



タロットカードの愚者は、自分の衣服更には自分の持つ棒や荷物・果ては進んでいる方向やその目的・自分を取り巻く環境のいっさいについて特にこだわりや興味などは持ち合わせていないという。しかし象徴的な観点から照らし合わせると、愚者はは決して「無能」な人物ではない。その解釈すら仁聖のようで、あの頃は何度もその事を考え込む事が多かった。それすらも含めて、自分を引き付けてしまう存在の自由奔放さ。それに僅かに似た部分を持っていたその姿が記憶の中で、興味深げな視線で自分に問いかけるのを思い出す。


親友の基準って何だ?

だから恭平はそれに答えた。

仁聖に似た部分を少し持っている……そんな自由さが羨ましい。

仁聖もそうだし成田了も自分には判断できない自由奔放さで、人を惹き付ける部分を持っていると思う。恭平にはその思考の過程すら理解できない、柔軟で自由な視線。どんなに足掻いてみても恭平には決して得られないその自由奔放さが羨ましいし好ましい、そう答えたつもりだ。
子供のようにヤンチャで、裏がなく、いつの間にか気がつくと友人として隣にいた了。親友の基準なんて奇妙な考えをして問いかけてきた了に、恭平は実は呆気にとられていた。

何でそんなこと気になっているんだ?大体にして……。

昔から人付き合いの苦手な恭平にとっては、村瀬篠に続いて普段から会話を交わして一緒に過ごすだけで十分珍しいと気がつかないのだろうか。それは村瀬篠と次いで親友だと思っていると言ってるのと同じだとは考えないのだろうか。不思議に感じながら、その思考がやっぱり仁聖と似ていると思った。自宅まで招いて一緒に酒を飲むのは、篠と了の他には滅多にいない。そんな目に見える事に気が付かないのは、了がいっさいの計画性を持ち合わせていないからかもしれない。だけど傍にいる了は、全くの無計画という訳ではないようでもあった。だから、きっと恭平の言った言葉の意味に何時か気がつくだろうとも思っていたのだ。
そうして手にしたカードは、タロットカード独自の『愚者』の正位置と呼ばれる解釈である『自由奔放・型にはまらない』などの意味とは異なった意味を込められて手の中でヒヤリと恭平を見つめ返す。タロットカードには二つの意味が込められているのだ。カードを正しく見た正位置と呼ばれるものと、逆さまに見た逆位置。

愚者の逆位置の意味は……全ての愚行・軽率で我儘な道化。

無意識でも無計画でも、思いが通じない。それを了は自分は全ての愚行を働く我儘な道化なのだと恭平に伝えてくる。同時に自分はお前の見つめていた『愚者』になりたかったと言われたような気がするのだ。何時も自分が仁聖を目で追っていたのと同じく、了ももしかして自分を追っていたのかもしれない。このカードは了からの答えでもあったが、同時に了からの訴えであるようにヒヤリとしたカードの感触が訴えている。
今更あの時の問いの答えが分かったと告げられても、あの時の問いを返す事はもう出来ない。了もそれを知っていて、あえて篠にこれを渡したのだ。
ふと恭平は唇を噛む。何処で歯車が狂ってしまったのか分からない、その思いに息を詰めて失ってしまったものを考える。泣き出さないようにと更にきつく唇を噛み、そのカードを見下ろす。

「……恭平?…どしたの?」

眠たげな声が不意にかけられて、恭平は弾かれた様に視線を返した。涙を溢すまいとした瞳がまるでプリズムのように視界を揺らめかせ、微細な色彩を思わせる夜気の中に立つ仁聖の花のように鮮やかなに姿に気がつく。一瞬のその視界の変動の後、普段と変わらない心配そうに自分を見つめる仁聖が、滑らかな動作で真っ直ぐに歩み寄って恭平の顔を覗き込み首を傾げ手元の封筒に目を落とす。

「篠さんが置いていった封筒…何だったの?カード?」

無意識に当たり前のように、スルリと自分を抱き寄せる腕の暖かさを感じる。真摯な思い…ただ表現の方法を知らない愚かにすら思える行動に駆り立てられる想いを了が持っていたと伝えられて、今の自分の中にもある思いの存在に受容はできなくても理解は出来ると恭平は苦く思った。
理解は出来る。けどもう受容は出来ない、自分を引き寄せるのは目の前にいる存在・ただ一人しかいないのがわかってしまったから。

「……答えだ、古い質問の。」

その答えの意味が分からず首を傾げる仁聖に微かに微笑を向けながら、恭平はユックリとそのカードをもう一度見下ろす。不思議そうにカードを見つめながら自分を抱き締めている仁聖の目の前で、恭平はユックリとした手つきでそのカードを二つに裂いていく。

「え?いいの?破いても?」
「うん、もういいんだ。答えは出ているから。」

微かな戸惑いを見せる仁聖に微笑みながら、恭平はそれをダストボックスに花弁のように散らす。そうして安堵したように吐息をつくと仁聖をベットに促すように立ち上がる。不思議そうに、それでもまだ眠たげに目を瞬かせながら仁聖が促されるまま足を運ぶ。それに続きながら恭平はもう一度だけ、カードの棄てられたダストボックスを振り返る。そして揺らめくようなその視線はまるで別れを告げるように、密かに悲しげな花のように一つ微笑みを落としてしていた。


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