111 / 693
第十二章 愚者の華
105.
しおりを挟む
心地よい眠りから目が覚めて、縺れ合うようにシャワーを浴びた翌朝。当然のように朝食を作る仁聖に苦笑しながら、一緒に穏やかな朝食を取った。
これで最後になる学生服に袖を通し身支度を整えた仁聖が、少し緊張気味の顔でリビングの恭平に顔を見せる。当の恭平はまだ少し気だるげではあるものの、寛いで座っている視線をあげるとしなやかな動作で立ち上がった。スルリと伸ばされた腕に嬉しそうに目を伏せて仁聖は抱き寄せられる。腕の中の仁聖の髪を、手櫛で梳いて整えてやりながら恭平が苦笑を浮かべる。別段整えてやらなくても充分男前なんだけどと心の中は思うが、嬉しそうに恭平の手にされるままになっている仁聖が正直可愛い。
「…本当は……俺が行って祝ってやりたいんだけどな…。」
思わず呟いた恭平の声に、仁聖は嬉しそうに笑う。
恭平は密かに仁聖の叔父源川秋晴と暫く前から連絡をとってはいたものの、その連絡すら上手く取れないでいた。何時もそうだとは仁聖から聞いてはいたが、圏外のアナウンスばかりで留守電にも反応がない。結局当日の今もどうしても都合をつけてやれなかった。実際には叔父と甥の会話中「別に期待してない」という仁聖の言葉に、相手がすんなりと予定を組まなかったと先日聞かされて恭平は唖然とする。
何で、そこでそう言う。来て欲しいと言えばいいのに……。
別にいいよーと笑う仁聖に、そうは言われてもやはり一生に一度の事。何かと気を揉んでいるのは恭平の方で、正直なことを言うと自分も高校の卒業式に身内が来ないで内心悲しく感じたものだから、せめて仁聖にはと考えてしまうのだ。自分が行ってやれればいいかもしれないが、恭平と仁聖の関係は表だったものではない。それでも大型の第一体育館だったら人混みに紛れ込めたのだが、年末の事件のお陰で今年は関係者以外が紛れ込める程のスペースの余裕もないのは卒業生ならよく分かる。最初からそれを重々理解している仁聖も、改めてそう口にしてくれた恭平に嬉しそうに微笑む。
「俺にはその言葉でもう十分。だけど………じゃ先取りでお祝いのキス。」
その言葉に一瞬全くと言いたげな表情を浮かべたものの、抱き寄せていた恭平の手がそのまま顎を引き寄せて甘い唇を重ねてくれる。柔らかく甘い口付けを贈られて嬉しそうに見上げる仁聖に、少し呆れたような口調で恭平が口を開く。
「………お祝いの言葉はまた後で…だぞ?」
「はぁーい、じゃぁ謝恩会になったら適当なところで抜けて連絡するね?」
「ん……準備して待ってるよ。」
柔らかい笑顔がそう言うと嬉しそうに頷いた仁聖が、頬に軽く可愛らしい音を立ててキスをする。そうしながら「行ってきます」と元気よく笑う。その背中を玄関のアールコープまで見送りながら恭平は、晴々と見える颯爽とした足取りの背中に小さく微笑みながら佇む。
着替え……準備していってやったほうがいいのかもな。
都立第三の卒業式といえば恒例とも思える現象をふっと思い浮かべて苦笑する恭平は、不意に立ち尽くした足元がクラリと揺らぐ感覚に息を呑んだ。それは酷く神経に障る、まるで悪寒のような言い知れない感触で、どこかで前にも一度感じたことがある。唐突なその感覚に、恭平の表情が不安に曇り明らかに陰りがさす。暫しその感覚がなんだったか戸惑いながら立ち尽くしていると、感覚は次第に治まり消えていくのが分かった。やがて完全に消え去った感覚に、やっぱり昨夜少し無理しすぎたのかと自嘲気味に心の中で呟く。そうして青空を見上げ春の気配のする外気の中で、恭平はホッと深い息をついていた。
※※※
高校の卒業式。
式自体何も滞りなく進んでいた。一人ずつなのに、あっという間に卒業生全員の名前が呼ばれてしまう。ずっとこんなに人数がいるのにと思っていたのに、あまりにも呆気なくて逆に驚いてしまう程だ。
送辞も答辞も、校長からの言葉も、同級生の泣く声も、卒業を寂しいと感じる以上に、やっとここまで辿り着いたと感じる。仁聖にとっては念願とも言える卒業なのだ。元々あの家を出るのは高校を卒業したらと、幼い時からずっと決めていた。でも、今はそれ以上に一緒に住んでいる相手が生まれ、仁聖の生活は一変している。
短いのに凄く長い、最後の三ヶ月だったな……
二人で一緒にいられるようになってからの三ヶ月は、仁聖には本当に長かった。同級生の保住が誤解のせいで裏工作して後輩の宮井を虐めてみたり、栄利彩花と再会しほんの子供だった自分自身過去の思い違いを自覚させられたり。もう一言ではすまないような事ばかりだ。
それでも恭平への想いは日増しに強くなって、同時に早く大人になって彼の横に立てる男にならなきゃと思う自分。少なくともそのためにはこの高校の卒業式が、まず越えなきゃならない一つの段階でもあった。
せめて恭平にだけ、責任を負わせるようなことがないよう。
高校三年生と社会人の恋。それがこんなにも重い枷だとは、仁聖は今迄一度も考えたことがなかった。年上の女性と寝たことなんて掃いて捨てるほどあるのに、今迄は一度もそれについて考えたことがない。それを仁聖は子供だったと相手が許してくれていたことに、心から感謝しないとならないと今は思う。同時に恭平の事を傷つけないように、仁聖が早く大人にならないとと願うのだ。
次は二十歳になれば、もう一つ枷が外れる。
それまでは後一年と三ヶ月。そんなことを考えながら日々を思うと、実際には三年間の間に随分と色々なことがあって時間はあっという間に過ぎていく気がする。
やがて式の終わりがやって来て何人もの同級生が涙にグシャグシャになっているのを見守りながら、仁聖は昇降口を出て晴れ晴れとした空を見上げた。いち早く綻び始める正門近くの古木の桜に、送られる方も送る方も何故か酷く感傷的になってしまうようだ。一端全員が校外に出され、三年はこの後第三体育館に戻って謝恩会になる。つまりは後輩達とはほぼここでの別れにもなるから、昇降口前は卒業生だけでなく、在校生と卒業生の親で溢れ返った。そんな中でも後輩の宮井麻希子と真希の声が、一際目立つ。
「坂本先輩~っ!!」
「モモちゃーん!卒業しても会いに来ていい?!」
「いや、真希、それおかしいから。」
「おかしくないもん!ベビちゃん産まれたら会わせにくるからね!モモちゃーん」
呆れんばかりの勢いで泣きながら真希が、仁聖の横で後輩の宮井と抱き合っている。いつの間にこんなにも仲良くなったんだか知らないが、同じ部活でもないし最近交流が始まったばかりとは全く思えない。真希と宮井麻希子だけでなく、真希の声で駆け寄ってきた後輩の須藤や志賀迄オイオイと泣き出して抱き合っている。
「先輩ーっ!」
「ウェディングドレス見せて下さいねー!」
「勿論だよぉ!かなちゃんも早紀ちゃんも会いに来るからねぇ!」
いや、真希が会いに来るって……まあ、いいか、妊婦中は学業とは暫しお別れだしと仁聖は苦笑いを浮かべた。何だか下手すると毎週のように、母校に来ていそうな気がする。ごった返す人混みを掻き分けて、川端駿三が大きく手を振って歩み寄った。
「仁聖!」
「トシゾー、卒業おめでとう!ついでに合格おめでとう!」
「ありがとう!お前も卒業おめでとう!」
川端は専門学校を受験してつい昨日合格がハッキリした。他にも何人もが卒業の祝いの言葉を告げて、仁聖は感慨深くその姿を眺めながら答える。こんなに何人もからおめでとうなんて、言われたことなかったな。そう考えながらも同時に一番言って欲しい人に、出来るだけ早く会いたいとも思う。
「源川先輩!一緒に写真撮ってください!」
「おー。」
「先輩!ご卒業おめでとうございます!あの!」
沢山の卒業を祝う言葉と意外な程に涙を溢す同級生の姿に、仁聖は眩いばかりに晴れ渡る空をもう一度見上げた。何度も見上げる青空には透明な白い月がフワリと浮かんでいて、まるで恭平が直ぐ傍にいてくれているような気がする。
やがて次から次へとかけられる声の中には、次第に恒例の本来の目的が滲み始める。詰襟ではない都立第三高校の制服では毎年恒例なのだが、実はここからが結構卒業生には悲惨なのだ。
ネクタイや校章を下さいとかブレザーを下さいとか、ベストを下さいとか、追い剥ぎにでもあったような状況がそこかしこで繰り広げられ始めている。まあ、校章とブレザーとベストは最初からこうなるだろうとは、薄々考えていたので驚くほどの事はない。案外早い内にアッサリと手放してしまえば、揉まれることも少ないのだ。
「あー悪いな、これは先約済み。」
そう言いながら人混みから逃げたした仁聖は、桜の古木の下で思い出したようにネックレスを外す。恭平にクリスマスに買ってもらってからずっとペンダントトップにしていた銀の指輪が、手の中に収まるのをそっと握りしめて微笑む。
これで………やっと……指に嵌められる。
そっと左の薬指に嵌めた、待ちに待った指輪の感触。指輪を買ってもらって二ヶ月以上も必死に堪えていたものを、やっと定位置に納められた。それを指に左手を翳すようにして、こそばゆく見つめながら微笑む。そうして満足げに少しだけ感慨深く視線を上げて古木を見上げ、卒業証書をしまいこんだ筒をポコンと肩に乗せる。見上げる花はまだ開き初め、満開になるにはもう暫くかかるだろう。
まだ在校生の群がっている卒業生の姿を傍目に一足先にその喧騒から離れた仁聖の隣に、少し普段よりも草臥れた感のある慶太郎が両親の姿を探す傍らで歩み寄る。どちらも校章とブレザー、ベストまで思った通り後輩なのか同級生なのかに奪われてしまっていた。お互い呆れた表情でお互いの姿を見やり、仁聖は苦笑い混じりに溜め息をつく。
「この格好でこれから謝恩会?カッコわる…。」
その言葉に慶太郎も自分の姿に苦笑いしている。
「毎年の恒例だから仕方ないんじゃないか?お前ネクタイは捕られなかったんだ?」
「………まあ・一応死守してみた。」
仁聖の紺色のネクタイを残した姿に、方や慶太郎はそれも誰かに取られた風でふぅんと珍しそうな声を上げる。そんな慶太郎に、仁聖が苦笑を含んだ声を上げる。どうやら慶太郎はなぜ躍起になって、女子がネクタイを手に入れたがっているのかを知らないようだ。思わず知らねーの?と問いかけてみる。
「タイを貰うと両思いになれるってジンクスがあるから、女子は躍起になって好きな奴のタイを欲しがってるんだぞ?」
「えぇ?!」
詰襟学ランで言う第二ボタンが存在しない、ブレザータイプの制服であるが故に、胸に着ける学年によって色が違うタイの存在はどうしても大きいらしい。在校生や卒業生の中でもそれの処遇は大きなポイントで、毎年だが争奪戦が起こるのだ。だから、先約がある時はもう先約があると言わないとならないわけで、先約=本命がいますなのだ。
女子のリボンタイも同じ意味合いとしては人気がありそうだが、如何せん男が欲しがっても女子は割合女子の後輩に渡していたりする。坂本真希のリボンタイは宮井が受け取っているし、ベストは須藤、校章は志賀のようだ。ブレザーはどうやら他の後輩に奪われたようだが、身に近いものはお気に入りの三人に渡せたからきっと満足だろう。
男女の感覚の差はあるのだろうとも思いながら仁聖は目を細める。別段仁聖もネクタイを渡しても良かったのは事実だが指輪の存在と何と無く誰かと思いを交わすという言葉が気になって、仁聖は結局それを断り続けたのだ。仁聖にとって両思いになるのは恭平だけ、それ以外に誰かに気持ちを渡したくはない。
「一応俺は本命がいるので、その人にあげようと思って。」
呆気にとられた様子で慶太郎がいう。そんなことがあるなんて知りもしなかったし、大体にして恒例だからと理由まで考えたことがない。終わってから言われてもと唖然とする。
「えぇぇ?!ぼ・僕誰に捕られたのか知らないっ!!」
素で驚く慶太郎に、仁聖は思わず声を上げて笑い出だした。まさか誰に渡したかも知らないとは思わなかったが、運命の相手の方も知られずにどうやって縁を結ぶ気だろうか。これで将来的に慶太郎が今日渡したネクタイの相手と結ばれたら、それは確かに完璧な運命の相手だろう。大笑いしている仁聖に拗ねた表情の慶太郎が、手にしていた筒で苛立ちにポコポコッと音を立てて頭を叩く。
「お前知ってるなら、先に言えよっ!」
「はは、悪いかった、まさかこんなに有名な話し知らないとは思わなかったんだよ!」
大学は近いとは言えそれぞれが通うのは別の学校で、実質小学校からの付き合いが初めて違う道に進むことになった事に気がつく。進学でなく結婚という全く別な道に進むことになった真希も含め、今まで慣れ親しんだ直ぐ傍にいた存在がそれぞれに別な道を歩き始めようとしている。
四歳からの付き合いは既に十四年の付き合いで、こんな風に時間が大きく変化を迎えるのは少し寂しい。二人で笑いながら話していたが、ふっとそれに気がついたように笑いが途絶える。
「あっという間だったなぁ…卒業式もさ…。」
ふっと呟いた仁聖の言葉に横にいた慶太郎が言葉に詰まるのが分かって、仁聖はワザとそちらを見ないまま言葉を繋いだ。
「慶太郎、色々ありがとな。」
「僕はお前を兄さんの相手とは認めてないんだからな。これからもよろしくお願いします……だろ。」
喉に絡むような小さな慶太郎の声に苦笑しながら、仁聖は長閑な空気を吸い込むように思い切り伸びをしてそうだなと声を上げた。慶太郎との関係がこれで終わるわけでもないし、何しろ恭平の傍にいたら嫌でも関わりそうな気がする。
「俺うっさい小舅に気に入られないといけないんだなぁ。」
「う…うるさいってなんだよ!」
不満げに口を挟む慶太郎に、仁聖は微笑む。
二人の会話の声に重なるように、遠目に少し制服とはいえお腹のあたりに違和感を感じさせる気配を放ち始めた真希の元気のイイ呼び声がかかる。真希の両親と一緒にやや緊張して遠慮がちに佇む村瀬篠の姿は、今日一番の周囲のひそかな注目の的だった。とはいえ結納も終えて、実質周囲に全く隠す気もない真希はもう何処吹く風という様子で二人を手招く。真希の妊娠の件は実際にはクラスでも一騒動あったが、真希が結納もしたし結婚式も決まってるけど何か問題あるかしら?とあっけらかんと言ったので追求しても無駄だと皆も気がついたらしい。目の前の真希は以前よりも、ずっと幸せそうで穏やかに見える。その表情を眺めながら思わず二人も苦笑交じりに歩み寄った。確りというかちゃっかりと言うか帰っていく筈の宮井達を確保して、真希が不満そうに仁聖達に声をあげる。
「もー、さっきから呼んでるでしょ?皆で記念撮影しようって言ってるのに。」
「はいはい・あまりはしゃぐと胎教に悪いぞ?」
「何言ってんのよ!母親が楽しい思いしてるほうがいいんだって知らないの?!」
「産まれてくる子供、絶対真希そっくりになりそう。」
「あ、俺もそう思う。」
「なによ?それが問題?可愛いのが二人よ?篠ちゃん大喜びするわよ、ねぇ!篠ちゃん!」
当然のように元気よくそういう真希に、半ば呆れた表情を浮かべながら幼馴染の二人は思わず笑みを溢し真希には敵わないと顔を見合わせる。
これで最後になる学生服に袖を通し身支度を整えた仁聖が、少し緊張気味の顔でリビングの恭平に顔を見せる。当の恭平はまだ少し気だるげではあるものの、寛いで座っている視線をあげるとしなやかな動作で立ち上がった。スルリと伸ばされた腕に嬉しそうに目を伏せて仁聖は抱き寄せられる。腕の中の仁聖の髪を、手櫛で梳いて整えてやりながら恭平が苦笑を浮かべる。別段整えてやらなくても充分男前なんだけどと心の中は思うが、嬉しそうに恭平の手にされるままになっている仁聖が正直可愛い。
「…本当は……俺が行って祝ってやりたいんだけどな…。」
思わず呟いた恭平の声に、仁聖は嬉しそうに笑う。
恭平は密かに仁聖の叔父源川秋晴と暫く前から連絡をとってはいたものの、その連絡すら上手く取れないでいた。何時もそうだとは仁聖から聞いてはいたが、圏外のアナウンスばかりで留守電にも反応がない。結局当日の今もどうしても都合をつけてやれなかった。実際には叔父と甥の会話中「別に期待してない」という仁聖の言葉に、相手がすんなりと予定を組まなかったと先日聞かされて恭平は唖然とする。
何で、そこでそう言う。来て欲しいと言えばいいのに……。
別にいいよーと笑う仁聖に、そうは言われてもやはり一生に一度の事。何かと気を揉んでいるのは恭平の方で、正直なことを言うと自分も高校の卒業式に身内が来ないで内心悲しく感じたものだから、せめて仁聖にはと考えてしまうのだ。自分が行ってやれればいいかもしれないが、恭平と仁聖の関係は表だったものではない。それでも大型の第一体育館だったら人混みに紛れ込めたのだが、年末の事件のお陰で今年は関係者以外が紛れ込める程のスペースの余裕もないのは卒業生ならよく分かる。最初からそれを重々理解している仁聖も、改めてそう口にしてくれた恭平に嬉しそうに微笑む。
「俺にはその言葉でもう十分。だけど………じゃ先取りでお祝いのキス。」
その言葉に一瞬全くと言いたげな表情を浮かべたものの、抱き寄せていた恭平の手がそのまま顎を引き寄せて甘い唇を重ねてくれる。柔らかく甘い口付けを贈られて嬉しそうに見上げる仁聖に、少し呆れたような口調で恭平が口を開く。
「………お祝いの言葉はまた後で…だぞ?」
「はぁーい、じゃぁ謝恩会になったら適当なところで抜けて連絡するね?」
「ん……準備して待ってるよ。」
柔らかい笑顔がそう言うと嬉しそうに頷いた仁聖が、頬に軽く可愛らしい音を立ててキスをする。そうしながら「行ってきます」と元気よく笑う。その背中を玄関のアールコープまで見送りながら恭平は、晴々と見える颯爽とした足取りの背中に小さく微笑みながら佇む。
着替え……準備していってやったほうがいいのかもな。
都立第三の卒業式といえば恒例とも思える現象をふっと思い浮かべて苦笑する恭平は、不意に立ち尽くした足元がクラリと揺らぐ感覚に息を呑んだ。それは酷く神経に障る、まるで悪寒のような言い知れない感触で、どこかで前にも一度感じたことがある。唐突なその感覚に、恭平の表情が不安に曇り明らかに陰りがさす。暫しその感覚がなんだったか戸惑いながら立ち尽くしていると、感覚は次第に治まり消えていくのが分かった。やがて完全に消え去った感覚に、やっぱり昨夜少し無理しすぎたのかと自嘲気味に心の中で呟く。そうして青空を見上げ春の気配のする外気の中で、恭平はホッと深い息をついていた。
※※※
高校の卒業式。
式自体何も滞りなく進んでいた。一人ずつなのに、あっという間に卒業生全員の名前が呼ばれてしまう。ずっとこんなに人数がいるのにと思っていたのに、あまりにも呆気なくて逆に驚いてしまう程だ。
送辞も答辞も、校長からの言葉も、同級生の泣く声も、卒業を寂しいと感じる以上に、やっとここまで辿り着いたと感じる。仁聖にとっては念願とも言える卒業なのだ。元々あの家を出るのは高校を卒業したらと、幼い時からずっと決めていた。でも、今はそれ以上に一緒に住んでいる相手が生まれ、仁聖の生活は一変している。
短いのに凄く長い、最後の三ヶ月だったな……
二人で一緒にいられるようになってからの三ヶ月は、仁聖には本当に長かった。同級生の保住が誤解のせいで裏工作して後輩の宮井を虐めてみたり、栄利彩花と再会しほんの子供だった自分自身過去の思い違いを自覚させられたり。もう一言ではすまないような事ばかりだ。
それでも恭平への想いは日増しに強くなって、同時に早く大人になって彼の横に立てる男にならなきゃと思う自分。少なくともそのためにはこの高校の卒業式が、まず越えなきゃならない一つの段階でもあった。
せめて恭平にだけ、責任を負わせるようなことがないよう。
高校三年生と社会人の恋。それがこんなにも重い枷だとは、仁聖は今迄一度も考えたことがなかった。年上の女性と寝たことなんて掃いて捨てるほどあるのに、今迄は一度もそれについて考えたことがない。それを仁聖は子供だったと相手が許してくれていたことに、心から感謝しないとならないと今は思う。同時に恭平の事を傷つけないように、仁聖が早く大人にならないとと願うのだ。
次は二十歳になれば、もう一つ枷が外れる。
それまでは後一年と三ヶ月。そんなことを考えながら日々を思うと、実際には三年間の間に随分と色々なことがあって時間はあっという間に過ぎていく気がする。
やがて式の終わりがやって来て何人もの同級生が涙にグシャグシャになっているのを見守りながら、仁聖は昇降口を出て晴れ晴れとした空を見上げた。いち早く綻び始める正門近くの古木の桜に、送られる方も送る方も何故か酷く感傷的になってしまうようだ。一端全員が校外に出され、三年はこの後第三体育館に戻って謝恩会になる。つまりは後輩達とはほぼここでの別れにもなるから、昇降口前は卒業生だけでなく、在校生と卒業生の親で溢れ返った。そんな中でも後輩の宮井麻希子と真希の声が、一際目立つ。
「坂本先輩~っ!!」
「モモちゃーん!卒業しても会いに来ていい?!」
「いや、真希、それおかしいから。」
「おかしくないもん!ベビちゃん産まれたら会わせにくるからね!モモちゃーん」
呆れんばかりの勢いで泣きながら真希が、仁聖の横で後輩の宮井と抱き合っている。いつの間にこんなにも仲良くなったんだか知らないが、同じ部活でもないし最近交流が始まったばかりとは全く思えない。真希と宮井麻希子だけでなく、真希の声で駆け寄ってきた後輩の須藤や志賀迄オイオイと泣き出して抱き合っている。
「先輩ーっ!」
「ウェディングドレス見せて下さいねー!」
「勿論だよぉ!かなちゃんも早紀ちゃんも会いに来るからねぇ!」
いや、真希が会いに来るって……まあ、いいか、妊婦中は学業とは暫しお別れだしと仁聖は苦笑いを浮かべた。何だか下手すると毎週のように、母校に来ていそうな気がする。ごった返す人混みを掻き分けて、川端駿三が大きく手を振って歩み寄った。
「仁聖!」
「トシゾー、卒業おめでとう!ついでに合格おめでとう!」
「ありがとう!お前も卒業おめでとう!」
川端は専門学校を受験してつい昨日合格がハッキリした。他にも何人もが卒業の祝いの言葉を告げて、仁聖は感慨深くその姿を眺めながら答える。こんなに何人もからおめでとうなんて、言われたことなかったな。そう考えながらも同時に一番言って欲しい人に、出来るだけ早く会いたいとも思う。
「源川先輩!一緒に写真撮ってください!」
「おー。」
「先輩!ご卒業おめでとうございます!あの!」
沢山の卒業を祝う言葉と意外な程に涙を溢す同級生の姿に、仁聖は眩いばかりに晴れ渡る空をもう一度見上げた。何度も見上げる青空には透明な白い月がフワリと浮かんでいて、まるで恭平が直ぐ傍にいてくれているような気がする。
やがて次から次へとかけられる声の中には、次第に恒例の本来の目的が滲み始める。詰襟ではない都立第三高校の制服では毎年恒例なのだが、実はここからが結構卒業生には悲惨なのだ。
ネクタイや校章を下さいとかブレザーを下さいとか、ベストを下さいとか、追い剥ぎにでもあったような状況がそこかしこで繰り広げられ始めている。まあ、校章とブレザーとベストは最初からこうなるだろうとは、薄々考えていたので驚くほどの事はない。案外早い内にアッサリと手放してしまえば、揉まれることも少ないのだ。
「あー悪いな、これは先約済み。」
そう言いながら人混みから逃げたした仁聖は、桜の古木の下で思い出したようにネックレスを外す。恭平にクリスマスに買ってもらってからずっとペンダントトップにしていた銀の指輪が、手の中に収まるのをそっと握りしめて微笑む。
これで………やっと……指に嵌められる。
そっと左の薬指に嵌めた、待ちに待った指輪の感触。指輪を買ってもらって二ヶ月以上も必死に堪えていたものを、やっと定位置に納められた。それを指に左手を翳すようにして、こそばゆく見つめながら微笑む。そうして満足げに少しだけ感慨深く視線を上げて古木を見上げ、卒業証書をしまいこんだ筒をポコンと肩に乗せる。見上げる花はまだ開き初め、満開になるにはもう暫くかかるだろう。
まだ在校生の群がっている卒業生の姿を傍目に一足先にその喧騒から離れた仁聖の隣に、少し普段よりも草臥れた感のある慶太郎が両親の姿を探す傍らで歩み寄る。どちらも校章とブレザー、ベストまで思った通り後輩なのか同級生なのかに奪われてしまっていた。お互い呆れた表情でお互いの姿を見やり、仁聖は苦笑い混じりに溜め息をつく。
「この格好でこれから謝恩会?カッコわる…。」
その言葉に慶太郎も自分の姿に苦笑いしている。
「毎年の恒例だから仕方ないんじゃないか?お前ネクタイは捕られなかったんだ?」
「………まあ・一応死守してみた。」
仁聖の紺色のネクタイを残した姿に、方や慶太郎はそれも誰かに取られた風でふぅんと珍しそうな声を上げる。そんな慶太郎に、仁聖が苦笑を含んだ声を上げる。どうやら慶太郎はなぜ躍起になって、女子がネクタイを手に入れたがっているのかを知らないようだ。思わず知らねーの?と問いかけてみる。
「タイを貰うと両思いになれるってジンクスがあるから、女子は躍起になって好きな奴のタイを欲しがってるんだぞ?」
「えぇ?!」
詰襟学ランで言う第二ボタンが存在しない、ブレザータイプの制服であるが故に、胸に着ける学年によって色が違うタイの存在はどうしても大きいらしい。在校生や卒業生の中でもそれの処遇は大きなポイントで、毎年だが争奪戦が起こるのだ。だから、先約がある時はもう先約があると言わないとならないわけで、先約=本命がいますなのだ。
女子のリボンタイも同じ意味合いとしては人気がありそうだが、如何せん男が欲しがっても女子は割合女子の後輩に渡していたりする。坂本真希のリボンタイは宮井が受け取っているし、ベストは須藤、校章は志賀のようだ。ブレザーはどうやら他の後輩に奪われたようだが、身に近いものはお気に入りの三人に渡せたからきっと満足だろう。
男女の感覚の差はあるのだろうとも思いながら仁聖は目を細める。別段仁聖もネクタイを渡しても良かったのは事実だが指輪の存在と何と無く誰かと思いを交わすという言葉が気になって、仁聖は結局それを断り続けたのだ。仁聖にとって両思いになるのは恭平だけ、それ以外に誰かに気持ちを渡したくはない。
「一応俺は本命がいるので、その人にあげようと思って。」
呆気にとられた様子で慶太郎がいう。そんなことがあるなんて知りもしなかったし、大体にして恒例だからと理由まで考えたことがない。終わってから言われてもと唖然とする。
「えぇぇ?!ぼ・僕誰に捕られたのか知らないっ!!」
素で驚く慶太郎に、仁聖は思わず声を上げて笑い出だした。まさか誰に渡したかも知らないとは思わなかったが、運命の相手の方も知られずにどうやって縁を結ぶ気だろうか。これで将来的に慶太郎が今日渡したネクタイの相手と結ばれたら、それは確かに完璧な運命の相手だろう。大笑いしている仁聖に拗ねた表情の慶太郎が、手にしていた筒で苛立ちにポコポコッと音を立てて頭を叩く。
「お前知ってるなら、先に言えよっ!」
「はは、悪いかった、まさかこんなに有名な話し知らないとは思わなかったんだよ!」
大学は近いとは言えそれぞれが通うのは別の学校で、実質小学校からの付き合いが初めて違う道に進むことになった事に気がつく。進学でなく結婚という全く別な道に進むことになった真希も含め、今まで慣れ親しんだ直ぐ傍にいた存在がそれぞれに別な道を歩き始めようとしている。
四歳からの付き合いは既に十四年の付き合いで、こんな風に時間が大きく変化を迎えるのは少し寂しい。二人で笑いながら話していたが、ふっとそれに気がついたように笑いが途絶える。
「あっという間だったなぁ…卒業式もさ…。」
ふっと呟いた仁聖の言葉に横にいた慶太郎が言葉に詰まるのが分かって、仁聖はワザとそちらを見ないまま言葉を繋いだ。
「慶太郎、色々ありがとな。」
「僕はお前を兄さんの相手とは認めてないんだからな。これからもよろしくお願いします……だろ。」
喉に絡むような小さな慶太郎の声に苦笑しながら、仁聖は長閑な空気を吸い込むように思い切り伸びをしてそうだなと声を上げた。慶太郎との関係がこれで終わるわけでもないし、何しろ恭平の傍にいたら嫌でも関わりそうな気がする。
「俺うっさい小舅に気に入られないといけないんだなぁ。」
「う…うるさいってなんだよ!」
不満げに口を挟む慶太郎に、仁聖は微笑む。
二人の会話の声に重なるように、遠目に少し制服とはいえお腹のあたりに違和感を感じさせる気配を放ち始めた真希の元気のイイ呼び声がかかる。真希の両親と一緒にやや緊張して遠慮がちに佇む村瀬篠の姿は、今日一番の周囲のひそかな注目の的だった。とはいえ結納も終えて、実質周囲に全く隠す気もない真希はもう何処吹く風という様子で二人を手招く。真希の妊娠の件は実際にはクラスでも一騒動あったが、真希が結納もしたし結婚式も決まってるけど何か問題あるかしら?とあっけらかんと言ったので追求しても無駄だと皆も気がついたらしい。目の前の真希は以前よりも、ずっと幸せそうで穏やかに見える。その表情を眺めながら思わず二人も苦笑交じりに歩み寄った。確りというかちゃっかりと言うか帰っていく筈の宮井達を確保して、真希が不満そうに仁聖達に声をあげる。
「もー、さっきから呼んでるでしょ?皆で記念撮影しようって言ってるのに。」
「はいはい・あまりはしゃぐと胎教に悪いぞ?」
「何言ってんのよ!母親が楽しい思いしてるほうがいいんだって知らないの?!」
「産まれてくる子供、絶対真希そっくりになりそう。」
「あ、俺もそう思う。」
「なによ?それが問題?可愛いのが二人よ?篠ちゃん大喜びするわよ、ねぇ!篠ちゃん!」
当然のように元気よくそういう真希に、半ば呆れた表情を浮かべながら幼馴染の二人は思わず笑みを溢し真希には敵わないと顔を見合わせる。
0
お気に入りに追加
249
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。
白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。
最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる