鮮明な月

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第十章 once in a blue moon

88.

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元々バレンタインが女の子の愛の告白の日となっているのは日本と僅かの国くらいなもので、欧米だと男も女も恋人に花やケーキ、簡単にはカードなんかを贈る。そうは言っても、やはり住んでいるのが日本であれば、どうしてもその風習には追随してしまうのが人間の常。まさにwhen in Rome, do as the Romans do…郷に入っては郷に従えというものなのだろう。

「こちらでよろしいですか?」

にこやかな店員の笑顔の影にどこか興味津々といいたげな色を見つけて、思わず無表情を決め込み素直に返事を返す。最近は友チョコとか自分チョコとか、終いには逆チョコなんて存在もあるのだから自分が購入するのもたいして可笑しくはない。だから大丈夫だろうと踏んだのに、店内には客はそれほどいないのに店員の興味深げな視線が纏わりつくように自分を眺める。その上興味津々という気配を隠しもせずに、「彼女に贈り物ですか?」と言ってくる。
流石に彼氏ですとも伴侶ですとも言いがたいので曖昧に微笑んで見せたが、それもまた良くなかった。更にその店員につきまとわられて、余計な周囲の注目を浴びる結果。他にも男性客はいて自分だけというわけでもないのに、何故か熱心な追求に苦笑いが浮かぶ。会計に回ろうとすると、何故か店員二人係なのに一瞬何故と問いかけたくなってしまう。それでも財布を盗り出した手元に、最初の店員があからさまにガッカリした顔をしたのに気がつく。

「お品もの、こちらになります。」

賑やかな微笑みから包みを受けとり、そそくさと店を後にしようとした背後で「結婚してた」という呟く声が聞こえて思わず頬が熱くなる。店員は自分の左手の薬指を見ていたのだと今更気がついて、そうか最初から手が見えていればあの彼女の質問はなかったのかと納得もしてしまった。
シンプルな包装紙で包まれた小さな箱が、これまた同様のシンプルで小さな紙袋に宝物のように入れられている。華美な包装はしないようにと言いながらも、手の込んだ包装をした小さな箱はなんだか確かに特別なもののような気がする。そう考えた瞬間、ある意味自分も毒されてるのかなと思い僅かに苦笑していた。



※※※



今年のバレンタインデーは火曜日。
ある意味で日曜日がバレンタインとなると義理チョコを渡すのは、その前後になるか無しとなる場合も多いらしい。そういう意味では火曜日となると、義理チョコも含めて売れ行きはまずまず。それにしても近年は自分へのご褒美の意図としてのチョコレートの売れ行きが好調らしい。

「最近は男女関係ないですから、ファンレターにチョコレートが性別関係なく届きますしねぇ。」
「ああ、そういうこともあるんですか。」
「うちの作家陣は性別不明の先生が多いですからね。」

相手が苦笑交じりに笑う。
天津しずれは出版社勤務で、直接作家に関わることもある編集者だ。彼女らしい発言だが、翻訳主体の恭平にはペンネームはあまり関係のないことでもある。

「榊くんも、そろそろエッセイ一本書いてみません?」

普段は宇野からの連絡が多い恭平に、今日は彼女・天津がやって来た理由がなんとなく理解できる。勿論恭平への依頼は宇野が専属な訳ではないし、他の編集者から回ってくる事も多い。彼女の誘いは本気半分なのはエッセイストがいないわけではないが、日々新しいものを模索しないとならない編集者の立場なのだろう。とは言え昨年は出版社としても、鳥飼澪と奈落の新刊を出していて今のところ売り上げは好調らしい。鳥飼先生と奈落先生のチョコレートが社で箱になってますと聞いて、思わず想像すると苦笑いが浮かぶ。箱入りチョコを運ぶのに菊池さんと宇野さんが、今頃苦労してますよと彼女は笑う。

「いや、俺は自己表現にはまだ早い気がします。」

またまたと笑いながら彼女はあまり華美でない手持ちのバックから、綺麗な包装紙に包まれた箱を取り出した。

「小さいですけど。気持ちです。」
「あぁ、ありがとうございます。」

笑いながら恭平が受け取ると、茶目っ気交じりに天津が三倍で返して下さいねと笑う。長い黒髪を一つに束ね少し縁の太い眼鏡をかけた彼女は愛嬌のある微笑みを見せ、のほほんとした口調で話す。一見すればおっとりした女性だが、恭平がこの仕事を始めた一番最初の依頼をくれた人物でもある。

「最近は宇野くんばっかりでしたもんねぇ、元気にしてるか心配してました。」
「はは、確かにここのところ続きましたね。」

どうやら奈落の方の書籍化に携わっていて、忙しかったらしい天津が、中小企業なんで書籍化にかかるとしんどいですよと苦笑いする。見た目と違い彼女は恭平より一回り以上も年上で編集者の中でも、上から数えた方が早い立場でもある。最近は中々外回りが出来ない立場になってしまったのが面白くないと言う。

「天津さん、見た目と違ってアクティブですしね。」
「そうでしょ?意外性のある女ですから。」

久々の来訪に世間話を弾ませていた矢先、玄関のドアの開く音が響く。パタパタと軽い足音が廊下を歩く音がする。

「ただいまーぁ…あ、お仕事の話中だった?!ごめん。」

勢い込んでリビングに足を踏み入れた仁聖が慌てた様に声を上げると、天津はおっとりした口調でこんにちはと声をかけた。慌ててぺこんと頭を下げた仁聖は、自分が何も考えずに帰宅の挨拶をしてしまったことを内心焦る。それを顔に出さないように必死になりながら、ソファーに座る恭平をちらりと見る。しかし、予想と違って穏やかに自分に微笑みかける恭平の様子に面食らいながら、初めてみる向いの女性の姿にもう一度目を向けた。

「そうか………初めて会うんだったな?彼女は天津さんだ。」

紹介されてもう一度頭を下げながら自己紹介をした仁聖に、彼女はもう一度ニッコリと微笑みかけ変わらないおっとりした口調で自己紹介をしていた。

仕事の依頼を終えた天津を見送ってリビングに戻ってきた恭平は、一旦自室に引き上げていた仁聖が着替えてなにやら神妙な表情でソファーに腰をかけているのを見やる。その視界には天津が置いていったチョコと彼女が預かってきたという他の編集者や仕事の関連からのチョコレートが幾つも入った紙袋があって、恭平は思わずしまったという表情を浮かべた。
貰ったのは事実なのでそれを隠す訳ではないが、流石にそんなにあからさまに視界においておくことはなかった。そう思いながら恭平はどう対応しようかと僅かに思案しながら、その姿に歩み寄りそっと横に滑るように座る。

「……仁聖?」
「ん?………何?」
「あ…いや…………、えーと…だな……。」

自分が何をどう言おうとしているのかが分からず恭平が言葉に詰まっても、仁聖はその顔を真っ直ぐに見つめたまま押し黙っている。その様子に恭平は更に困ったように、その視線を見つめ返す。言葉を繋ぐ事の出来ないでいる恭平に、フワリと笑顔を見せて仁聖が首を傾げる。

「どうしたの?恭平。」
「いや…何でも…ない……んだけど…。」

あまり目の前の情景を気にした風でない仁聖の様子に戸惑いながらそう口にした恭平に、そ?と声を返した仁聖が僅かに腰を浮かしたのに気がつき咄嗟にその腕を引き寄せた。驚いた声を上げバランスを崩した仁聖の体を腕の中に抱きとめ恭平は思わず、目を見開いた仁聖の顔を胸に押し当てる様に抱き締める。

「恭平…?」

不思議そうに声を零した仁聖をただ抱きとめたままの恭平に、もぞと身を動かした仁聖が腕を回す。

「どうしたの?…俺はスキンシップは嬉しいけど…。」

胸にスリ…と肌を寄せて微笑みかける仁聖の顔に少しきまり悪そうに眉を潜めた恭平の仕草に気がつき、仁聖はもう一度不思議そうに少し身を起こして表情を覗き込む。体勢を直しながらその腿をまたぎ座り込んだ仁聖の動作で、逆に退路を断たれた事に気がつきながら恭平が上目遣いにその顔を眺める。

「で?…なぁーに?何が言いたかったの?」
「だから…何でも…。」

無いと言う前に仁聖の唇がそれを塞ぐ。
緩々と重ねられた唇に探られて、微かに開く口腔にスルリと舌が滑り込む。柔らかく誘う様に舌が内側を愛撫していくのを、陶然とした感触で受け取りながら微かに吐息が上がる。それを確かめて最後にチュ…と音を立てて軽く唇を重ねて見せる仁聖に、仕方がないと言いたげな恭平の視線が浮かぶ。

「お前が気にしたかと思ったんだ。天津さんが…。」

恭平の視線の先の紙袋にあぁと言いたげな視線が目の前で仁聖の顔に浮かび上がり、頬に触れていた手が肩に降りるのを恭平が何気ない視線で追う。

「ん…まぁ少し気になったけど…。」

少し思案げなその視線に溜め息をつきながら恭平がグイと抱き寄せる様に腰に手を回す。その動作に不思議そうに、仁聖は視線を下ろした。少し今までよりも真剣な顔をして恭平が自分を真っ直ぐに見つめたのに気がついて抱き寄せられたままでいると、小さな溜め息とともに言葉をまとめた様子で恭平は言い辛そうに口を開く。

「だから…あれは義理なんだから気にしなくていい。お前が………一番…なんだから。」

え?と言う表情でその言葉に仁聖が目を丸くして凍りつく。考えていた予想と全く違ったその反応を恭平が不思議そうに見上げていると、その言葉をやっと理解したのか見る間に仁聖が腕の中で真っ赤になった。仁聖が躊躇いがちに抱き寄せられたままの肩に腕を回し、小さな掠れた声で耳元に囁く。

「ちょ……恭平…Please say now's again…。」

耳まで真っ赤になりながら、それでももう一度言ってと強請る仁聖の姿に小さく微笑みを浮かべる。恭平が寄せられた耳元で少しだけ声を潜めて囁きかけた。

「…お前が…一番………だよ、仁聖。」

ストンと当たり前のようにそう告げる言葉を耳に絶句していた仁聖が、思わず詰めていた息を思い切り吐き出して肩に熱を放つような顔を乗せる。普段何気なく口にする自分の愛の言葉よりも、彼の不意に振り落ちるように贈られる一言。まるで魔法のように、一気に何もかも蕩けさせられてしまう自分に気がつく。

こういうのって反則だよ。

そんな風に心の中で呟きながら何時もとは違う仕草に少し微笑んでいた恭平に向かって、暫く黙りこんでいた仁聖がボゥッとした瞳を向け掠れる声を溢す。

「もう…すっごい驚いた………今。」
「うん?……そうか?」
「全然予想してない時にそういう事言われたら俺、腰砕けちゃうってば……。」

仁聖の言葉に今度は逆に驚いた様に恭平の表情に、仁聖がはぁと大きな溜め息をつきながら苦笑を浮かべる。それを眺めていた視線は暫しその状況を考え込みながら、不思議そうに顔を覗き込む。

「…じゃなんで考え込んでだんだ?お前。」
「いや…俺凄い普通にただいまって言っちゃったけど良かったかなって。」

何だと言いたげな表情で恭平が目を丸くする。

「そんなこと気にしてたのか?」
「そんなって…だって…。」

まだ高校を卒業していない自分の立場では社会人の恭平の迷惑になることは出来ないと自覚があるからこそ、外で触れることも自重しているしマンションでの生活だって自分なりに気をつけている。長い時間を過ごせば結果として何時かはばれてしまう事はあるかも知れないが、今は同居と薄々知っている人はあるにしても一応気をつけているつもりなのだ。その意図を汲み取りながらも恭平が小さく苦笑する。

「彼女は昨日今日の付き合いじゃないし…玄関に入っただけで看破されたよ。」



※※※



その日来訪した天津は玄関に入るなり、珍しそうに玄関の上框を眺める。その後リビングまでの行程で室内の変化に気がつき率直な質問をしていた。彼女にとって年単位の長い付き合いで今まで変化のなかった恭平の生活環境の変化は、例え些細な物でも目に付きやすかったのだろう。

「榊くん………、前々から恋人出来たんだと思ってましたけど……遂にご結婚ですか?」
「えぇ?!な…なんでですか?」
「見るつもりではなかったんですけど…向こうのお部屋使い始めたみたいだし…それに……指輪。」

自分の今までの好みとは違うクッションや微細な小物の感覚。今まで来た時にはなかったものが沢山あると口にされて、しかも直ぐ様指輪を指摘されて女性の視点の鋭さに恭平は舌を巻く。ソファーに腰掛けながら微笑みそう告げる彼女に、恭平は苦笑を浮かべた。

「でも、榊くん楽しそうだし、こんな風に相手の物が増えるなんていい関係なんですね。」

珈琲を口に運びかけて、その言葉に恭平は目を丸くする。
自分では本当に気がついていないのに、女性にはそんな風に移るその室内の変化。同時にそれは過去に付き合っていた女性も同じだったのかなとも思う。もしそうだったとしたら自分との恋愛が長続きしなかった訳がやっと分かるような気がする。
どんなに気持ちを交わしているように見せても、全く変化を起こさなかった自分。相手を踏み入れさせようともしなかった自分の姿は、きっと二人の関係を築いていこうとしているとは感じられなかったに違いない。

「…そうですね。」

ふっと脳裏に浮かぶその存在に恭平は柔らかい微笑みを浮かべる。彼は自分の頑なな部分すらもあっさりと解きほぐして、当たり前のようにいつの間にか傍にいるようになっていた。自分とは違う見ていて嬉しくなるような笑顔やクルクルと変わる表情に魅せられ、じゃれつかれたり触れられる体温が心地よくて時には自分から強請りたいとすら思う。何よりも自分が同じ年の時には思いを押し付けることしか出来なかったのに、彼は一心に自分の事を大事にしようと努力してくれる。それが今は酷く愛おしくて仕方がないし、応えたいと自分も願っている。例えそれが…
はたとその事実に気がついて恭平の表情が止まり、目の前の天津も不思議そうにその表情を覗き込む。

「榊くん?」

その脳裏が現実を認識した途端現状をどう説明するべきなのか恭平は、思わず黙り込み眉を寄せる。目の前の女性はもう三年以上もの仕事上の付き合いで、こうやって自宅に来ることもある。同時に今後も少なくともこの付き合いは彼女が仕事を辞めでもしない限り続くだろうし、既に結婚している彼女には寿退社もありえない。どこまで話すべきなのか、しかし中途半端に説明するには自分と彼の関係はあまりにも説明が難しい。

「あ…天津さん…実は…ですね………。」



※※※



「え?!!話しちゃったの?全部?……大丈夫なの?」

結局しどろもどろの説明はあっさりと看破され、質問に答えるうちに確信の殆どを語っていたことに気がついた時には既に後戻りが出来ない状況だった。そう告げる恭平に向けて、仁聖が驚いた声を上げる。結果的に流れと言うか勢いと言うかに乗せられて、つい話してしまったのを反省しながらも恭平が少し頬を染め拗ねた視線を浮かべて「何時もだったら喜ぶくせに」と呟く。彼女が自分にあまり驚いた気配も見せなかったのを驚きながら仁聖が、その膝の上で感心したような溜め息を思わず溢ししていた。
ふと思い出したように仁聖を抱きかかえたままの体勢で、恭平は手を伸ばし背後のテーブルの上の小さな箱を手に取る。小さな包装紙に包まれた箱を仁聖の手に落とすと、それを不思議そうに見下ろした仁聖を眺め口を開く。

「これは天津さんからお前にだ。今回は準備がなかったので小さいけど…気持ちだそうだ。」

天津はえらく満足げに微笑んで帰っていったが、あの微笑みの意図が恭平にも実は分からない。めったにないタイプの人間ではあるけれど、彼女は何を感じたのだろう。
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