鮮明な月

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第十章 once in a blue moon

85.

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ノンビリとした雰囲気で夕食を終えて食器を洗い終えた恭平が、ふっと気がついた様に横で食器を戸棚に片付ける仁聖の姿を眺める。仕事が一段落したら自分が作ると言っても、最近仁聖は料理が楽しいらしく中々うんと言わない。かといって片付けを自分に任せるかと言えば、大概こうして一緒に片付けまでしてくれる。

マメなんだろうか……。

そう考えるとメールやLINEの連絡も定期的だし、基本的にマメな質なのかもしれない。叔父と住んでいた家も人の気配は余り感じなかったが、埃を被っていた訳ではなかった。勿論今は不在の叔父の家も時々行っているようでもある。

「恭平?」
「ん?」
「どうしたの?終わったよ?リビング行こ?」

不思議そうに言う仁聖に連れられてリビングに戻ると、最近お気に入りのソファーに座る場所がないわけでもないのに抱きかかえられて座るのに恭平が苦笑する。

「いつも何でこうなんだ?お前。」
「え?何が?」
「普通に座った方が寛ぐんじゃないか?」
「え?俺この方がいい。」

さも当然という声に苦笑が更に深まる。やなの?と困惑気味に問いかけてくる仁聖の頭を撫でると幸せそうな顔をするのがおかしい。

「ふふ。」
「ん?なぁに?何がおかしいの?」
「お前、宇野さんの彼女をモモンガに似てるっていってたけど、お前レトリバーみたいだぞ?時々。」

宇野智雪は恭平が良く依頼を受ける出版社の社員で、仁聖の後輩の宮井麻希子という子と密かにお付き合いをしている青年だ。仁聖はその宮井麻希子が瞳が真ん丸で、人を見る時真っ直ぐに見てくる顔がエゾモモンガに似てると言う。二度ほど間近で見たが、確かに瞳の大きな小柄で可愛らしい素直そうな女の子だった。宇野とどこで出会ったのかは知らないが、どうも溺愛してる様子で仁聖が普段と同じ調子で話しかけていたら、これ以上触ったら闇討ちでもされそうな目で睨まれたらしい。普段の人当たりのいい宇野が、そんな目で人を見るとは恭平にも驚きだ。

「大型犬かぁ、可愛さには劣るなぁ。」
「何と比較してるんだ?」
「エゾモモンガ。」

馬鹿なことを言うなと呆れ顔の恭平の項に、本当に大型犬のように頬を擦り付けながら甘えだす仁聖に擽ったいと恭平が身動ぎする。暫く二人でノンビリ過ごしていたが、不意に時計を見上げ思案した風の気配を漂わる恭平の様子に、仁聖は訝しげな表情を浮かべた。それから暫くして思い切ったように恭平が声をかける。

「……なぁ、仁聖、少し頼みがあるんだ。」
「なに?」
「悪いけど…月が出てるか見てくれないか?」
「月?いいよ?どうしたの?」

そう言いながらひょいと窓辺によった仁聖が無造作にベランダの窓を引き開けて踏み出す。フワリと冷たい身を切る様な一月の夜気が室内に風を巻く様に流れ込んで、暖まった室内の空気と混じり合っていく。それを仁聖が離れた隙に立ち上がって、リビングの端に移動していた恭平が微かに緊張した様子で電気を消した。

「消さなくても大丈夫だよ?凄い明るい。」

夜気の微風に柔らかい髪の毛を揺らしながら、ベランダで夜空を見渡した仁聖が見つけたという風に声を上げた。

「ねぇ、すっごい綺麗だけど・今日って満月?」

子供の様に感嘆の声で言いながら背後を振り返ろうとした仁聖に、不意に驚く間もなく背中にしがみつく様に震える指先が触れた。

「恭平?!!」

背中に縋りつく様にして顔を仁聖の背に埋める体温に、振り返る事も動く事も出来ずに仁聖が声を上げる。
母親の死以来、恭平は強度の高所恐怖症なのだと仁聖もとうに理解している。何しろ階段どころかエスカレーターも下が見えると動けなくなるから、基本的に使えない。エレベーターも外壁がガラス張りだと使えないし、ケーブルカーや観覧車やジェットコースターも無理。夏の旅行では高台のホテルからの見晴らしの良さに、窓にも近寄れないのだ。
殆ど住んでいる部屋だというのに、実はマンションのベランダに近寄ろうとした事を見たことがなかったのはそんな訳で。窓の傍まで寄る事はあってもけして窓の外を覗こうとはしないし、年末の大掃除の時ですら窓掃除と同時にベランダの掃除も仁聖に一任していた位なのだ。

「きょ、恭平?あの、どうしたの?」

今こうしてまだ顔を隠していて外を見てはいないとはいえ、窓からベランダに一歩踏み出している。そんなことは今まであり得ない出来事だ。大体にしてガクガクと震える指が必死に背中を掴んでいる。少しずつ身をずらして仁聖が体を返すと、必死に胸元に顔を埋める黒髪がサラリと肌を擽った。

「……ど…どうしたの?怖いでしょ?何で?」

腕の中で震える恭平の体をシッカリと抱き込むようにすると、胸に顔を埋めたままの頭が微かに熱を含みそっと視線を上げる。怯えているのに、まるで光を吸い込む様に潤んだ瞳を間近に見つめて、仁聖が不思議そうに覗き込む。

「どうしたの?一体……。」
「仁聖…。」

縋るようなその瞳に思わず頬を赤らめた仁聖だけを見つめる様にして、真正面から見上げた恭平が気を落ちつける様に深く息を吐く。元々高い場所が怖いというよりも高い場所に行くと思い浮かべる事実が気分を不快にさせるだけなのだからと必死に言い聞かせると同時に、目の前に居る青年の姿に恭平は自分がどうしてそうしたいのかを必死に繰り返す様に心で呟く。

「一緒に見たいと思ったんだ……月。…出来たら……ここで。」

不思議そうにその言葉に首を捻りながら、仁聖は抱きかかえたその体をシッカリと腕の中に納めたまま少し視線を上げた。仁聖の顔に同じ方向に恭平も視線を向ける。
微かに薄雲を夜の風になびかせながら澄んだ虚空にはひっそりと静かに大きな満月が、眩い白銀の光を放ちながら浮かんでいた。腕の中でホッとした様に息をついて、恭平の微かに緩んだ表情に気がつく。白銀の光を受けた真っ白な肌は滑らかで、淡く白い吐息を溢す唇が少し艶かしい。

甘そう……

その鮮やかな唇と白い肌を見つめた仁聖が、思わず口付ると微かに震える冷たい唇がその熱を受け止める。喉元に落ちる仁聖の口付けに、震える肌か甘い香りをホンノリと纏う。

「…仁……聖?」
「駄目だ、俺、こんな綺麗な恭平見てたら欲情する……。」

その言葉に思わず小さな淡い微笑みが唇に浮かぶ。白銀の光を受けてまるで酔ったような気分で、囁くような恭平の声が甘さを増していく。

「狼男か………?お前。」
「ふふ、がおーって襲ってもイイ?」

冗談を口にしながらも縋る手を離せない恭平の体を仁聖は大事に包み込む。守られるように抱き締められ、少し長い睫を伏せ視線を胸元に落とす恭平が苦笑を浮かべる。それを眺めながら、仁聖はその頬にもう一度口付ける。優しいキスに外気にほんのりとけぶる様な白い肌が少しだけ色を染めていく。仁聖の唇が耳朶を擽るようにそっと触れた。

「……月も綺麗だけど……恭平の方がもっと綺麗……、本気で狼男になりたいんだけど……。」
「ホントにお前、情緒のない……せっかくのblue moonだぞ?」
「blue moon?What's that mean?」

ひやりと冷えた体を無造作に抱きかかえ覗き込んだ仁聖が思わず意味を問うようにそう呟く。それに恭平の柔らかい微笑みが応える。仁聖は元々両親との会話は大部分が英語で日本語の方が頻度が低かった。今も時折叔父との会話も英語の時がある位だ。普段外では殆ど話さないようにしているが、気が緩むとちょっとした言葉が英語に代わってしまうらしい。勿論意図して英語を使うこともあるにはあるらしいが、普段の生活では説明も面倒だし極力使わないようにしているのだ。それが二人きりの時には最近は自然と表に出てくるようになったのに、実は本人は殆ど気がついていない。それを知っているのが自分だけだという感覚と、自分の職業の優位性に微かに優越感を感じている事に気がつき恭平は小さく微笑む。

月の満ち欠けは、平均約29.5日を周期として繰り返されている。時折月の初めに満月になると、その月の終わりに再び満月が巡ってくる場合が出てくるのだ。一ヶ月のうちに満月が二回あるとき、この二回目の満月を『ブルームーン』と呼ぶのである。『ブルームーン』の言葉の由来については諸説あるが、これといった定説は存在せず実は天文学用語にも存在しない。しかし世界的には『ブルームーン』を見ると幸せになれるという言い伝えがある。

「へぇ…幸せに……。」

少し身を反らしてもう一度月を見上げた仁聖の動作に、恭平は驚いたように確りともう一度その胸に縋りついた。唐突な動作に怯える恭平の気配に、仁聖が「ごめん」と小さな声を上げて回した腕でその体を抱き締めなおす。胸に顔を埋めるようにして抱きとめられている恭平の体が少し落ち着いてきているのか、ホンノリと腕の中に暖かく仁聖はもう一度その頬にキスをして空を眺めた。
白い満月はいつもにも増して大きく見えて目を細める。

「……I think that the moon looks larger than usual.」
「……そうだな、一月は一番地球に近いから本当に大きく見えるんだ。」
「恭平って…物知りだよね?」

その言葉に恭平が少し恥ずかしげに微笑み、自嘲気味にそうでもないと呟く。

「月の話は…お前がしたから気になって…目に付いただけだ。」

ふっとそう囁いた恭平の仕草に、仁聖は嬉しそうにそっと身を擦り寄らせる。自分が以前口にしたことのある言葉。恭平を月のようだといった言葉を、恭平が何気ない毎日で気にかけていたのだ。そうわかって仁聖は酷く満ち足りる気分で、その体を抱き締め月明りに浮かぶその肌を感じ取った。自分が思いを寄せると同じくらい。それでも自分とは違う形で思いを向けてくれる恭平の存在が酷く愛おしい。

「俺、やっぱり狼男になりたい……。」

スリと身を摺り寄せた仁聖に思わず苦笑を浮かべて、狼というより大型犬だなと呟きながら恭平が抱き止める腕に体を預ける。促すようにベランダからまだ僅かに温かい室内にその体を入れて、仁聖は月の光に曝されたその体をもう一度抱き寄せた。

「こら…こんなところで…。」
「……聞こえない。」

悪戯めいた仁聖の声に眉を潜めた恭平の表情を、窓越しに射し込む白くけぶる光の中で見つめる。床に押し倒された光に照らされた肌と、光を吸い込んだように潤んで揺れる瞳。白い光でも濡れたように艶やかな黒髪を撫でると、サラリと音をたてて指を滑る。

「仁聖……ベットに……。」
「聞こえない……。」

ゆるりと光の中で腰から、薄い服の下に手を滑り込ませる。外気にヒンヤリとした仁聖の指先の感触に、思わず身を仰け反らせる恭平の首筋に口付け、やんわりと歯を立てるとビクリとその肌が慄くように震えた。

「噛むなって………んっ。」
「ふふ、今日は狼だから。」
「………馬鹿。」

スルスルと肌を撫でる指先が容易く服の裾を手繰り、音も立てずにボタンをはずしていく。首筋に埋まる仁聖の柔らかい髪に肌を擽られながら、見えない指先が前を肌蹴けヒヤリとした空気に全てを晒していくのを感じ取る。

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