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第六章
51.
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学級閉鎖と自分自身のインフルエンザの罹患が重なって、結局は予定よりも長い時間を一緒に過ごす事が出来た。仁聖は満足げに暖かい穏やかなベットの中で寝返りを打って、直ぐ触れる筈の滑らかな肌の感触を手探りで探す。熱のある間は指先で強請ると直ぐに優しく抱きしめてくれた肌が、今はどんなに探っても指先に触れないことに気がついた。微睡みから覚めた仁聖は、闇の中で目を開いた。
月明かりで薄らと鈍く光る夜具の中は仁聖だけしかいない。横にある筈の恭平の姿はなく、空っぽのベットに思わず仁聖は身を起こす。何気なくスッとシーツに指を滑らせると、既にそこには彼の体温の残滓がなかった事に仁聖は眉を潜めていた。
無造作に毛布から滑り出して、ペタリと足音を立ててリビングへの扉を開く。するとリビングのソファの上で月明かりに晒されながら、独りで膝を抱える姿があった。無言のままその場で仁聖は訝しげにその姿を見つめる。
ひっそりと気配を押し殺して恭平は音もなく身動ぎすることもなく膝を抱えていて、その前に普段はほぼ呑む事のない珍しい琥珀色に光る静かな水面を持ったグラスがポツンと置かれていた。ワインやビールを飲むことはあっても、ブランデーのような強い酒は恭平は殆ど飲むことはない。元々自分は余り酒に強くないから度数の高いモノは得意じゃないと、恭平自身が話していたのだ。
「恭平…?」
ピクンと黒髪が揺れて闇の中に光を放つような視線が、膝から姿を見せて仁聖の姿に小さく微笑む。どうしたの?と問いかける声に、彼は答えずに身振りで仁聖を傍に呼ぶ。そこに歩み寄った仁聖の体を引き寄せて、またあの奇妙な縋るような気配を漂わせて腰に回した腕でしっかりと抱きすくめる。自分が病気で弱っていて、少し鳴りを潜めていた恭平の腑に落ちない気配がまた戻って来ていた。漂う微かに甘いアルコールの香りを感じながら仁聖は、自分の腹部に押し付けられた恭平の体温をパジャマの布越しに感じ取りながら見下ろす。
「恭平、お酒飲んでたの?」
「…少し…眠れなくて……な、……酒臭いか?」
大丈夫と囁きながら仁聖が身を滑らせて横に座ると、勢い横向きに座る体勢になった恭平が俯きながら少し戸惑うような表情を浮かべる。その表情がもう少し先程の体勢で仁聖に触れていたかったと告げているような気がするのだ。それに微かな違和感を感じ取りながら仁聖は、恭平と向かい合うように座りなおした。
「恭平。」
「うん?」
戸惑うように恭平が仁聖の顔を見つめている。
「はい。来て。」
唐突に目の前に手を広げられて、恭平は虚を突かれてきょとんとした表情を浮かべる。そんな恭平の腕を、無造作にも感じられる動作で仁聖が掴んで引き寄せる。抱きとめられて目を丸くする恭平の項に手を滑らせ、そのまま自分の腕の中にしっかりと包み込む。仁聖の動作に戸惑いながら自分の名前を呟く恭平の声に、仁聖は静かに声を落とす。
「看病してくれて凄く嬉しかった。…いっつも恭平は俺のこと守ってくれる。…ありがと…。」
フワリと甘い香りのする艶やかな黒髪に頬を滑らせて、仁聖は抱きしめる力を緩めもしない。仁聖は静かな夜気に滲むような声でそっと囁く。
「だから、俺も恭平を守るから…。俺には、なんにも我慢しなくていいんだよ。」
抱きしめる腕の中でふっと恭平の体が力を抜いて、抱き寄せられるままに寄りかかるのが分かって仁聖は少し微笑む。それを知っているように頬を仁聖の肌に寄せた恭平が、小さな弱い声で呟いた。
「守るって…俺は何もしてない…。」
そっと囁くように言いながら自分に身を預ける姿に、仁聖はそう言うと思ったよと囁きながら口付る様に更にその黒髪に顔を埋める。その感触を感じ取りながら恭平は、どこか苦笑めいた響きを持つ声で言い訳をするように呟きを繋ぐ。
「…この時期は何時もこんな感じなんだ……、仕方がない……んだ…分かってる。」
「時期…?」
「怖くて眠れない……夢を見そうで……。」
すっと降ろされていた恭平の両手が胸元を掴むのに気がついて、仁聖は愛おしい大切な人の体ごとを唐突にひょいと抱きかかえ膝の上に持ち上げる。酔いがあるせいなのか唐突な動作になすがままにされ恭平は、何処か恍惚にも見える表情で仁聖の膝に抱きかかえられた。そうしながら、恭平は病み上がりなのに悪い…と小さく呟く。酷く危うい恭平の表情にふと見覚えがあると眉を潜めた仁聖は、表情の理由に気がついてハッとしたように表情を硬く強張らせる。
その体勢のまま抱き寄せていた恭平のボンヤリとした表情を覗き込む。仁聖の真っ直ぐな視線に、恭平が微かに首を傾げる。仁聖の唇がそっと覆い被さって、柔らかくその唇を愛撫して熱を落とした。
「恭平、あのさ?」
「……ん?」
「怖い夢見たら…俺がこうして一緒にいてあげる。…ちゃんとこうして抱っこしてあげるよ。」
あやすような柔らかい仁聖の声に、一瞬恭平は戸惑うような視線を向ける。子供扱いのようなその声音に少しだけ不満げな表情を漂わせたが、目の前の仁聖の言葉とは違う真剣な表情に気がついて押し黙った。
「泣いてイイし、怖いことは怖いって言ってイイよ。……恭平の気持ち・俺は知ってるんだから。」
その言葉に訝しげな視線を向ける恭平の頬を撫でながら、まるで小さな声で内緒話でもする様に仁聖がそっと囁く。
「もう・独りで我慢しなくていいんだよ。…おばさんだってきっとそう思ってると思う。」
「……仁聖……。」
頼りなげに揺れた表情を見つめて、仁聖は自分が持った危惧に確信をもっていた。
母の死に責任を感じ続けている恭平。その恭平の母親が亡くなったのは、彼の誕生日の直ぐ後の事だ。つまり、後数日もすれば母親の命日が来る。
仁聖はしっかりと横抱きにその体を包み込むように抱きかかえなおす。恭平の内面を蝕むような過去の存在の全てを理解できるわけではないが、少し前に彼がずっと後悔し続ける思いを打ち明けてくれたのは事実だ。それを理解して支えたいと願ったのは自分なのだと心の中で呟く。恭平が母親の命日が近付いたことで情緒不安定になってしまうなら、その不安を一緒に背負うし傍で抱きしめることはできる。ポツリとそう思考しながら優しい手つきで腕の中の体を守る様に抱き締める。ことんと胸に頬を押し付けた恭平の様子に少し思案げな表情を浮かべた。そんな仁聖の表情を、月明かりにまるでほの白く匂い立つ肌を浮かばせて恭平は微かに窺うような視線を上げる。恭平視線に気がついたように表情を緩めた仁聖が優しく柔らかいキスを強請る仕草をして、恭平は小さな微笑を浮かべながらその首に腕をまわして迎え入れるように唇を重ねていた。
※※※
微睡む夢の中で暖かい感触を肌で感じ取っていたのに、ふと意識の隅でまた闇から這い出してくる。繰り返し罵り続ける声が脳裏に響いて、体が思わず竦んでいく。冷え切ったナイフの様な鋭い声が投げつけられて心が凍りついていく。それを感じながら闇の中で自分を一方的に詰る声を放つ人間を、信じられない思いでただ見つめる。
汚らわしい……お前がここに……出していいと………?
甲高くヒステリックに投げつけられるしわがれた声。
その声が実際に自分の心を傷つけたのは、言葉自体にではなくそれを自分が心の何処かで当に受け入れていた事だ。そう言われて当然だと、自分の心の何処かが感じていた。本当はそうではなかった筈なのに、真実を知っていれは違うと叫べた筈なのに。実際には、自分はその時その言葉を受け入れていたのだ。
凍りついたようにその声をただ何度も繰り返して耳にしている自分は、それを自分の狂気として受け入れるしかないのかとすら思う。
浅ましく醜く存在すら疑わしいのは自分なのだ。そう自分自身が受け入れるしかないと何度も繰り返されているようで、悲鳴を上げて逃げ出したくなる。なのに時分は決してその声から逃げ出すことも出来ない。
誰もお前を…て思わない、ここからさっさと消えなさい!
その言葉に続いたあからさまな敵意。そして耐え難い言葉が心を切り裂いていく。
※※※
まるで今直接痛みを感じたかのようにビクンと体が慄いて、闇の中でハッとした様に弾かれた意識が浮かび上がる。冷や汗をかきながら夜具の中で横になっている自分の存在を確かめるように腕に指を走らせた恭平の動作に、うっすらと目を開いた仁聖がシーツの隙間でもぞもぞと身動ぎしながら手を伸ばした。指先に触れた恭平の体が眠っていたとは思えない冷たい汗で冷え切ってガクガクと震えている。それにほんの少し眉を寄せて表情を曇らせた仁聖が、シーツの中で身を滑らせる。伸ばされた手と肌を寄せたその体が、何を言うでもなく自分の体を抱きよせて胸の上に抱きかかえた。一瞬唐突な動作に体の震えを忘れた様に息を呑んだ恭平を無造作に腕の中におさめてしまう。さやさやという衣擦れの音だけをさせて抱きとめた胸の鼓動を聞かせるように、体勢を変えた仁聖がほぅ…と一つ息をついて夜具を引き上げ恭平の体を包み込む。
暫しぼんやりと押し当てられた胸の鼓動に聞き入っていた恭平の体の震えが収まって、やがて規則正しい寝息を上げ始める。それに薄い月明かりの闇の中で仁聖は誰にでもなくふっと微笑みを浮かべて、甘い香りの中で同じように眠りに落ち始めていた。
※※※
誕生日からちょうど一週間。
元気になって自分のマンションに帰宅したものの、週末の決まりごとの様に土曜に仁聖が姿を見せた。外出するように身支度を整えた恭平が少し申し訳なさそうな視線を見せる。しかし、フワリと背後から抱き付きながら仁聖が、一緒に外出するような仕草を浮かばせるのに気がついた。
「仁聖…あのな?今から。」
「おばさんのお墓参りいくんでしょ?」
自分が言うまでもなく仁聖が当たり前のようにそう口にする。目の前であっさりと言い切られて一瞬黙り込む恭平に、肩越しの笑顔が覗き込む仕草で頬にチュと音を立ててキスを落とす。
「だから、俺も行く。」
「……は?」
唐突な言葉にあっけに取られた表情を見せる恭平の様子を眺めながら、仁聖は普段の制服でなく外出することを目的にしていた私服にワザワザ着替えて来ていた。その理由がそれだと言わんばかりの表情を浮かべる。スルリと絡みつく腕を外して向き直った恭平の戸惑う表情に、仁聖が陽射しのような鮮やかで大輪の花のような笑顔を浮かべてコツンと額を当てる。
「だって・俺、ずっと一緒にいるって決めたんだよ?恭平だって一緒にいてくれるって言ったでしょ。」
フォーマルというほどではないが、シンプルなシャツにジャケットに腕を通し普段より少し落ち着いた印象を匂わせる姿。それ気がついて恭平は、思わずその言葉に首を捻りながら珍しいその姿をマジマジと眺めた。最初から一緒にいく気だったのがよく分かる仁聖の様子に気がついて、視線を再びその表情に返すとニッコリと微笑が降り落ちる。
「俺間違ってる?一緒にいるって言ったよね?」
「……言ったけど…それで…どうして?」
「おばさんにちゃんと言わないと、恭平・落ち着かないでしょ?お付き合いしてますって。」
一瞬その思考が止まったのを示すように恭平の表情が止まった。そして言葉の理解が追いついてきたように、我に帰ったその表情が見る間に真っ赤に染まる。
「ばっ…お……おま…っ…。」
「えー?おかしい?」
子供のような真っ直ぐさで即答されて恭平は、更に真っ赤になって口をパクパクとさせながら結局言葉に出来なくて絶句して俯く。今まで誰も踏み込んでこなかった部分にやすやすと踏み込まれ、その上予期しないことばかり起こす仁聖の行動に面食らう。そうしながら恭平は、この状況をどうしたらいいのかと混乱しながら考え込む。実際には墓前なのだから精神的な部分の問題であってどうと言う事はないかもしれないが、それでもその行為自体が示すことが気恥ずかしい上にまるで…
「あ・これってもしかしてさ?≪恭平さんを俺にください≫みたいなの?」
止めを刺されたような気分に思わず恭平の手が、思い切りその目の前のフワフワした陽射しに透ける髪の毛を揺らす頭を音を立てて叩いていたのだった。
月明かりで薄らと鈍く光る夜具の中は仁聖だけしかいない。横にある筈の恭平の姿はなく、空っぽのベットに思わず仁聖は身を起こす。何気なくスッとシーツに指を滑らせると、既にそこには彼の体温の残滓がなかった事に仁聖は眉を潜めていた。
無造作に毛布から滑り出して、ペタリと足音を立ててリビングへの扉を開く。するとリビングのソファの上で月明かりに晒されながら、独りで膝を抱える姿があった。無言のままその場で仁聖は訝しげにその姿を見つめる。
ひっそりと気配を押し殺して恭平は音もなく身動ぎすることもなく膝を抱えていて、その前に普段はほぼ呑む事のない珍しい琥珀色に光る静かな水面を持ったグラスがポツンと置かれていた。ワインやビールを飲むことはあっても、ブランデーのような強い酒は恭平は殆ど飲むことはない。元々自分は余り酒に強くないから度数の高いモノは得意じゃないと、恭平自身が話していたのだ。
「恭平…?」
ピクンと黒髪が揺れて闇の中に光を放つような視線が、膝から姿を見せて仁聖の姿に小さく微笑む。どうしたの?と問いかける声に、彼は答えずに身振りで仁聖を傍に呼ぶ。そこに歩み寄った仁聖の体を引き寄せて、またあの奇妙な縋るような気配を漂わせて腰に回した腕でしっかりと抱きすくめる。自分が病気で弱っていて、少し鳴りを潜めていた恭平の腑に落ちない気配がまた戻って来ていた。漂う微かに甘いアルコールの香りを感じながら仁聖は、自分の腹部に押し付けられた恭平の体温をパジャマの布越しに感じ取りながら見下ろす。
「恭平、お酒飲んでたの?」
「…少し…眠れなくて……な、……酒臭いか?」
大丈夫と囁きながら仁聖が身を滑らせて横に座ると、勢い横向きに座る体勢になった恭平が俯きながら少し戸惑うような表情を浮かべる。その表情がもう少し先程の体勢で仁聖に触れていたかったと告げているような気がするのだ。それに微かな違和感を感じ取りながら仁聖は、恭平と向かい合うように座りなおした。
「恭平。」
「うん?」
戸惑うように恭平が仁聖の顔を見つめている。
「はい。来て。」
唐突に目の前に手を広げられて、恭平は虚を突かれてきょとんとした表情を浮かべる。そんな恭平の腕を、無造作にも感じられる動作で仁聖が掴んで引き寄せる。抱きとめられて目を丸くする恭平の項に手を滑らせ、そのまま自分の腕の中にしっかりと包み込む。仁聖の動作に戸惑いながら自分の名前を呟く恭平の声に、仁聖は静かに声を落とす。
「看病してくれて凄く嬉しかった。…いっつも恭平は俺のこと守ってくれる。…ありがと…。」
フワリと甘い香りのする艶やかな黒髪に頬を滑らせて、仁聖は抱きしめる力を緩めもしない。仁聖は静かな夜気に滲むような声でそっと囁く。
「だから、俺も恭平を守るから…。俺には、なんにも我慢しなくていいんだよ。」
抱きしめる腕の中でふっと恭平の体が力を抜いて、抱き寄せられるままに寄りかかるのが分かって仁聖は少し微笑む。それを知っているように頬を仁聖の肌に寄せた恭平が、小さな弱い声で呟いた。
「守るって…俺は何もしてない…。」
そっと囁くように言いながら自分に身を預ける姿に、仁聖はそう言うと思ったよと囁きながら口付る様に更にその黒髪に顔を埋める。その感触を感じ取りながら恭平は、どこか苦笑めいた響きを持つ声で言い訳をするように呟きを繋ぐ。
「…この時期は何時もこんな感じなんだ……、仕方がない……んだ…分かってる。」
「時期…?」
「怖くて眠れない……夢を見そうで……。」
すっと降ろされていた恭平の両手が胸元を掴むのに気がついて、仁聖は愛おしい大切な人の体ごとを唐突にひょいと抱きかかえ膝の上に持ち上げる。酔いがあるせいなのか唐突な動作になすがままにされ恭平は、何処か恍惚にも見える表情で仁聖の膝に抱きかかえられた。そうしながら、恭平は病み上がりなのに悪い…と小さく呟く。酷く危うい恭平の表情にふと見覚えがあると眉を潜めた仁聖は、表情の理由に気がついてハッとしたように表情を硬く強張らせる。
その体勢のまま抱き寄せていた恭平のボンヤリとした表情を覗き込む。仁聖の真っ直ぐな視線に、恭平が微かに首を傾げる。仁聖の唇がそっと覆い被さって、柔らかくその唇を愛撫して熱を落とした。
「恭平、あのさ?」
「……ん?」
「怖い夢見たら…俺がこうして一緒にいてあげる。…ちゃんとこうして抱っこしてあげるよ。」
あやすような柔らかい仁聖の声に、一瞬恭平は戸惑うような視線を向ける。子供扱いのようなその声音に少しだけ不満げな表情を漂わせたが、目の前の仁聖の言葉とは違う真剣な表情に気がついて押し黙った。
「泣いてイイし、怖いことは怖いって言ってイイよ。……恭平の気持ち・俺は知ってるんだから。」
その言葉に訝しげな視線を向ける恭平の頬を撫でながら、まるで小さな声で内緒話でもする様に仁聖がそっと囁く。
「もう・独りで我慢しなくていいんだよ。…おばさんだってきっとそう思ってると思う。」
「……仁聖……。」
頼りなげに揺れた表情を見つめて、仁聖は自分が持った危惧に確信をもっていた。
母の死に責任を感じ続けている恭平。その恭平の母親が亡くなったのは、彼の誕生日の直ぐ後の事だ。つまり、後数日もすれば母親の命日が来る。
仁聖はしっかりと横抱きにその体を包み込むように抱きかかえなおす。恭平の内面を蝕むような過去の存在の全てを理解できるわけではないが、少し前に彼がずっと後悔し続ける思いを打ち明けてくれたのは事実だ。それを理解して支えたいと願ったのは自分なのだと心の中で呟く。恭平が母親の命日が近付いたことで情緒不安定になってしまうなら、その不安を一緒に背負うし傍で抱きしめることはできる。ポツリとそう思考しながら優しい手つきで腕の中の体を守る様に抱き締める。ことんと胸に頬を押し付けた恭平の様子に少し思案げな表情を浮かべた。そんな仁聖の表情を、月明かりにまるでほの白く匂い立つ肌を浮かばせて恭平は微かに窺うような視線を上げる。恭平視線に気がついたように表情を緩めた仁聖が優しく柔らかいキスを強請る仕草をして、恭平は小さな微笑を浮かべながらその首に腕をまわして迎え入れるように唇を重ねていた。
※※※
微睡む夢の中で暖かい感触を肌で感じ取っていたのに、ふと意識の隅でまた闇から這い出してくる。繰り返し罵り続ける声が脳裏に響いて、体が思わず竦んでいく。冷え切ったナイフの様な鋭い声が投げつけられて心が凍りついていく。それを感じながら闇の中で自分を一方的に詰る声を放つ人間を、信じられない思いでただ見つめる。
汚らわしい……お前がここに……出していいと………?
甲高くヒステリックに投げつけられるしわがれた声。
その声が実際に自分の心を傷つけたのは、言葉自体にではなくそれを自分が心の何処かで当に受け入れていた事だ。そう言われて当然だと、自分の心の何処かが感じていた。本当はそうではなかった筈なのに、真実を知っていれは違うと叫べた筈なのに。実際には、自分はその時その言葉を受け入れていたのだ。
凍りついたようにその声をただ何度も繰り返して耳にしている自分は、それを自分の狂気として受け入れるしかないのかとすら思う。
浅ましく醜く存在すら疑わしいのは自分なのだ。そう自分自身が受け入れるしかないと何度も繰り返されているようで、悲鳴を上げて逃げ出したくなる。なのに時分は決してその声から逃げ出すことも出来ない。
誰もお前を…て思わない、ここからさっさと消えなさい!
その言葉に続いたあからさまな敵意。そして耐え難い言葉が心を切り裂いていく。
※※※
まるで今直接痛みを感じたかのようにビクンと体が慄いて、闇の中でハッとした様に弾かれた意識が浮かび上がる。冷や汗をかきながら夜具の中で横になっている自分の存在を確かめるように腕に指を走らせた恭平の動作に、うっすらと目を開いた仁聖がシーツの隙間でもぞもぞと身動ぎしながら手を伸ばした。指先に触れた恭平の体が眠っていたとは思えない冷たい汗で冷え切ってガクガクと震えている。それにほんの少し眉を寄せて表情を曇らせた仁聖が、シーツの中で身を滑らせる。伸ばされた手と肌を寄せたその体が、何を言うでもなく自分の体を抱きよせて胸の上に抱きかかえた。一瞬唐突な動作に体の震えを忘れた様に息を呑んだ恭平を無造作に腕の中におさめてしまう。さやさやという衣擦れの音だけをさせて抱きとめた胸の鼓動を聞かせるように、体勢を変えた仁聖がほぅ…と一つ息をついて夜具を引き上げ恭平の体を包み込む。
暫しぼんやりと押し当てられた胸の鼓動に聞き入っていた恭平の体の震えが収まって、やがて規則正しい寝息を上げ始める。それに薄い月明かりの闇の中で仁聖は誰にでもなくふっと微笑みを浮かべて、甘い香りの中で同じように眠りに落ち始めていた。
※※※
誕生日からちょうど一週間。
元気になって自分のマンションに帰宅したものの、週末の決まりごとの様に土曜に仁聖が姿を見せた。外出するように身支度を整えた恭平が少し申し訳なさそうな視線を見せる。しかし、フワリと背後から抱き付きながら仁聖が、一緒に外出するような仕草を浮かばせるのに気がついた。
「仁聖…あのな?今から。」
「おばさんのお墓参りいくんでしょ?」
自分が言うまでもなく仁聖が当たり前のようにそう口にする。目の前であっさりと言い切られて一瞬黙り込む恭平に、肩越しの笑顔が覗き込む仕草で頬にチュと音を立ててキスを落とす。
「だから、俺も行く。」
「……は?」
唐突な言葉にあっけに取られた表情を見せる恭平の様子を眺めながら、仁聖は普段の制服でなく外出することを目的にしていた私服にワザワザ着替えて来ていた。その理由がそれだと言わんばかりの表情を浮かべる。スルリと絡みつく腕を外して向き直った恭平の戸惑う表情に、仁聖が陽射しのような鮮やかで大輪の花のような笑顔を浮かべてコツンと額を当てる。
「だって・俺、ずっと一緒にいるって決めたんだよ?恭平だって一緒にいてくれるって言ったでしょ。」
フォーマルというほどではないが、シンプルなシャツにジャケットに腕を通し普段より少し落ち着いた印象を匂わせる姿。それ気がついて恭平は、思わずその言葉に首を捻りながら珍しいその姿をマジマジと眺めた。最初から一緒にいく気だったのがよく分かる仁聖の様子に気がついて、視線を再びその表情に返すとニッコリと微笑が降り落ちる。
「俺間違ってる?一緒にいるって言ったよね?」
「……言ったけど…それで…どうして?」
「おばさんにちゃんと言わないと、恭平・落ち着かないでしょ?お付き合いしてますって。」
一瞬その思考が止まったのを示すように恭平の表情が止まった。そして言葉の理解が追いついてきたように、我に帰ったその表情が見る間に真っ赤に染まる。
「ばっ…お……おま…っ…。」
「えー?おかしい?」
子供のような真っ直ぐさで即答されて恭平は、更に真っ赤になって口をパクパクとさせながら結局言葉に出来なくて絶句して俯く。今まで誰も踏み込んでこなかった部分にやすやすと踏み込まれ、その上予期しないことばかり起こす仁聖の行動に面食らう。そうしながら恭平は、この状況をどうしたらいいのかと混乱しながら考え込む。実際には墓前なのだから精神的な部分の問題であってどうと言う事はないかもしれないが、それでもその行為自体が示すことが気恥ずかしい上にまるで…
「あ・これってもしかしてさ?≪恭平さんを俺にください≫みたいなの?」
止めを刺されたような気分に思わず恭平の手が、思い切りその目の前のフワフワした陽射しに透ける髪の毛を揺らす頭を音を立てて叩いていたのだった。
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