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第十一章 族長ゼヌベク
第46話
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二日前。
ミリはゾラや、砦から引き揚げるバディブリヤ氏族の戦士たちとともに北へ向かっていた。砦の影形はすでに地平の下に沈んでいる。
風の冷たさが徐々に厳しくなってきたかと思うと、雪がちらつき始めた。
「降りだしたな」
ゾラが言って、一旦馬を止める。周りの戦士たちも、ならって馬を止めた。
ゾラは馬を降り、鞍にくくりつけてある荷物の中から毛布を出した。
「ちょいと汚れちゃいるが、辛抱してくれや」
そう言って、ミリの身体に毛布を巻き付ける。
「道のりは長いからな。お嬢さんが途中で氷漬けにでもなっちゃ、ゼヌベク様に叱られちまう」
彼は、意識を失ったまま馬車――というよりも荷車に近いものだったが――で運ばれているダーロゥの身体にも、同じように毛布を巻き付けた。
「……そのゼヌベクって人が、あなたの主なの」
ミリの問いに、ゾラは「そうだ」とうなずいた。
「偉大なる俺たちの族長さ。バディブリヤ氏族がここまで大きくなったのも、あの方のおかげなんだ」
ゾラは再び鞍に跨がると、手綱を打つ。一行は北上を再開した。
夕刻近く、小さな森の中に入った。先頭を走っていたゾラは馬の手綱を引くと、「今日はここで夜を明かす」と告げる。
「野宿は初めてかい? お嬢さん」
ゾラに尋ねられ、ミリは首を振る。吟遊詩人の母と旅をしていた頃は、野外で夜を過ごすこともあった。
「そうかい。なら心配ないな」
ゾラたちがてきぱきと野営の準備を始める。砦から頂戴してきたのだろう、簡易な天幕があちこちに展開される。ミリは休んでいろと言われ、手持ち無沙汰に木陰に腰掛けた。
男たちが森で獣を狩る。ミリは男たちの目が離れているうちに、逃げてやろうかとも考えた。しかし、地面がささやくのだ。
ここは平らな大地 広き大地
庇護者は遠く彼方
迷い出れば、生きられぬ……
つまり、ミリを守ってくれる者は遥か遠くにいて、平原で一人になれば野垂れ死ぬのだと言いたいのだろう。
テルはどこにいるの?
ミリが問いかけると、地面は答える。
悪神の子 白き壁を目指し
それでも道半ば……
悪神の子とはどういう意味だろう。テルのことを指しているのだろうが――。白き壁とは、もしかしたら大北壁のことか? だとしたら、テルはミリを追ってきてくれている――?
ミリは最後に、「母さんは、どこ?」と問いかけた。
……
暗きむろの中
母は母とひとつになりぬ……
「……だめだ。分からないや」
ミリは諦めて、地面の声から意識を逸らした。空は日没の光を受けて赤く染まっている。ちょうど男たちがウサギを仕留めて戻ってきた。
たき火を囲んで談笑する男たち。ミリは差し出されたウサギの肉をかじりながら、そういえば銀の谷でテルにわけてもらったのもウサギの肉だったなあと思い出していた。
ゾラはたき火の傍で、負傷した戦士たちの治療を行っていた。ミリは周りの戦士たちを見渡した。よくよく見れば、皆怪我の程度は大したことがない。しかも数が減っている。砦襲撃の際には、もっと多くの戦士たちが、普通なら動けなくなるほどの怪我を負っても戦っていたが――彼らはどこに行ったのだ?
ゾラはクァム草をすり潰し、その汁を戦士の傷口に塗り込んでいた。
「そのクァム草――」
ミリが口を開くと、ゾラが振り向き、「ああ」と言った。
「近々必要になると思ったから、お嬢さんに集めてもらったというわけさ。おいらも少し使わせてもらったぜ」
そういうことだったのか、とミリは唇を噛んだ。
「大怪我をした人たちはどこに行ったの?」
「治せる傷の奴は、ここにいる。治せない死ぬばかりの奴は……置いてきたから、まあ、もうお迎えが来た頃合いだろう」
つまり、彼らは死ぬほど戦って、文字通り死んだということだ。
「ひどい……」
ミリはつぶやいた。
ゾラは戦士の傷に湿布を貼って「一丁あがり。もう行っていいぞ」と言ってから、ミリを見る。
「あいつらの望みだったのさ。死ぬほど戦うことでしか生を実感できない奴。家族や仲間に先立たれて、死に場所を探していた奴」
「でも……!」
「まあ、そんな奴らを捨て駒として利用したのは事実だな。別に弁解も弁明もしねえよ。イルファンの砦は堅固だし、傭兵たちはみな強い。死兵を使うぐらいしなきゃ――まあそれだけじゃねえけど……」
ゾラは意味ありげな視線を戦士たちに投げかけてから、「次の奴」と治療の続きをする。
「お嬢さんもそのうち知ることになるさ。バディブリヤ氏族の強さが、どこから来てるのか――な」
それはそうと、とゾラは言った。
「何か分かったかい?」
「……何が?」
ミリが首をかしげると、ゾラは戦士の腕に包帯をまきながら、
「さっき、地面の声を聞いていただろ。何を尋ねたんだ?」
ミリは、油断ならないこの男をじっと見、答えるべきか迷った。するとゾラは口角をわずかに持ち上げ、「そう警戒しなさんな。単なる好奇心さ」と言った。
「……テルと、母さんの居場所」
ミリはつぶやくように答える。ゾラはさもありなんといった様子でうなずき、「で、地面の言うことは理解できたかい?」と問う。
ミリは首を振った。
「よく分からなかった。母は母とひとつに――ってどういう意味なんだろう」
ゾラは眉を上げる。
「まるで母親が二人いるみたいだな。いや、まてよ、そうか……ふむ」
彼はなにやら一人で納得したようだった。ミリは「分かるの?」とゾラを見る。
「おいらの考えてることが正しいとは限らんがね。まあ、それもそのうち分かるかもな」
ゾラは手元に目を戻した。戦士の傷がまっさらな包帯で包まれていく。まるで彼の心の内を覆い隠すかのように。
次の日の朝、ダーロゥの意識が戻った。彼は己が囚われの身となったことを悟ると、舌を噛んで自決を試みた。
いちはやく気づいたゾラが、第一公子に猿ぐつわを噛ませる。公子は頭を振って抵抗したが、数人がかりで押さえつけられれば抗いようもなかった。
「傷が開くから暴れなさんな」
ゾラが公子を見下ろす。公子はゾラを睨み、次いでミリを見た。なぜここにお前がいるのかといった表情が浮かぶ。
「さあ、出発だ」
ゾラが戦士たちに目配せをすると、彼らはてきぱきと動き、たき火と天幕を片付け、出立の準備をした。
一行は隊列を組み北上を再開した。いったんやんでいた雪が再び降り出した。吐く息は真っ白だ。ミリは鞍にしがみつきながら、毛布をしっかりと身体に巻き付ける。
道中、地平線の先に、椀を伏せたような山が見えた。
ゾラが言う。
「精霊の胎が見えたな。もうすぐだ」
ほどなくして、前方に騎影が現れた。ゾラは表情を明るくして、その影に向かって手を振った。
ミリはびくりと身を震わせた。地面が一瞬、耳をつんざくような悲鳴をあげたからだ。
「ゼヌベク様!」
ゾラが声を上げると、影が近づいてきた。
ミリはまじまじとその人物を見る。
その男は、どう見ても朱瑠人だった。
黒髪は額にかかる一筋を残して後頭部で束ねられ、しなる鞭のように風に揺れている。引き締まった体躯は、決して大柄ではなかったが、剽悍な狼を思わせた。
眼光は鋭くも剣呑さはなく、薄い口元にはほくろがあって愛嬌がある。
「イルファンの檻の居心地はどうだった」
男――ゼヌベクがゾラに問う。ゾラは苦笑いを浮かべながら「もうこりごりです」と言った。
「ご苦労だった」
「いやあ、てっきりおいらあのまま見捨てられるかと思いましたよ。けっこうべらべら喋っちゃったし」
ゾラの言葉に、ゼヌベクは「ふん」と鼻で笑った。
「お前の行動など織り込み済みだ」
次いでゼヌベクはミリに視線を向ける。
「お前がアンダム・ジュスルと〝水晶の歌のアリ〟の娘か。名はなんという」
ミリはぐっと押し黙り、ゼヌベクを見上げた。すると彼は片頬だけで笑い、「俺をにらみつけるとは、たいした度胸だ」と言った。
そのとき、隊列のなかほどで騒ぎが起きた。
捕らえられていたダーロゥが暴れ出し、馬から落ちたのだ。
ダーロゥは両手の皮膚が擦り切れるのもかまわずに、自力で縄から抜け出すと、ゼヌベクに向かって突進していく。
彼は襟に隠し持っていた、指の長さほどの刃を取り出すと、ゼヌベクめがけて投擲した。ゼヌベクは飛んできた刃をひょいと避け、ぐいと手綱を引いた。竿立ちした馬の脚がダーロゥを蹴りつける。
「ぐっ!」
ダーロゥはもんどりうって倒れ、血を吐き出す。しかし、双眸には未だ力が宿っていた。
「その気力、さすがはイルファンの第一公子といったところか」
感嘆したゼヌベク。ダーロゥは己にかけられた猿ぐつわを外しながら、忌々しげな視線を向けた。
「貴様のような卑劣な男に褒められても、かえって不名誉なだけだ。その口をつぐむがいい」
ゼヌベクは意に介さず、ダーロゥを再び縛り上げるように戦士たちに指示をした。
「俺は強い者を好む」
ゼヌベクが言った。
「貴様の弟、第二公子はなかなかのものだと聞いているぞ。我が陣営に欲しいくらいだ。あるいは、将来の脅威を早々潰しておくべきか。いずれにせよ、兄を取り返しに来るのを待つのも一興だな。兄の自由の代わりに身を差し出せと言えば、さて、応じるかな?」
ゼヌベクの顔が愉悦に歪む。ダーロゥはかっと目を見開いた。
「すでに虜囚の身に落ちた私は死んだも同然。死人のために差し出せるほど、弟の身は安くはないぞ。あいつが私のために貴様に従うことは決してない」
ゼヌベクはそれを聞き、「気に入った」と言った。
「身の程をわきまえた奴は、強い奴の次に好きだ。だが、案外、弟というものは兄を慕うものだ」
ゼヌベクは「さあ、我が軍営はすぐそこだ」と言って、一行を先導する。
ミリはゾラや、砦から引き揚げるバディブリヤ氏族の戦士たちとともに北へ向かっていた。砦の影形はすでに地平の下に沈んでいる。
風の冷たさが徐々に厳しくなってきたかと思うと、雪がちらつき始めた。
「降りだしたな」
ゾラが言って、一旦馬を止める。周りの戦士たちも、ならって馬を止めた。
ゾラは馬を降り、鞍にくくりつけてある荷物の中から毛布を出した。
「ちょいと汚れちゃいるが、辛抱してくれや」
そう言って、ミリの身体に毛布を巻き付ける。
「道のりは長いからな。お嬢さんが途中で氷漬けにでもなっちゃ、ゼヌベク様に叱られちまう」
彼は、意識を失ったまま馬車――というよりも荷車に近いものだったが――で運ばれているダーロゥの身体にも、同じように毛布を巻き付けた。
「……そのゼヌベクって人が、あなたの主なの」
ミリの問いに、ゾラは「そうだ」とうなずいた。
「偉大なる俺たちの族長さ。バディブリヤ氏族がここまで大きくなったのも、あの方のおかげなんだ」
ゾラは再び鞍に跨がると、手綱を打つ。一行は北上を再開した。
夕刻近く、小さな森の中に入った。先頭を走っていたゾラは馬の手綱を引くと、「今日はここで夜を明かす」と告げる。
「野宿は初めてかい? お嬢さん」
ゾラに尋ねられ、ミリは首を振る。吟遊詩人の母と旅をしていた頃は、野外で夜を過ごすこともあった。
「そうかい。なら心配ないな」
ゾラたちがてきぱきと野営の準備を始める。砦から頂戴してきたのだろう、簡易な天幕があちこちに展開される。ミリは休んでいろと言われ、手持ち無沙汰に木陰に腰掛けた。
男たちが森で獣を狩る。ミリは男たちの目が離れているうちに、逃げてやろうかとも考えた。しかし、地面がささやくのだ。
ここは平らな大地 広き大地
庇護者は遠く彼方
迷い出れば、生きられぬ……
つまり、ミリを守ってくれる者は遥か遠くにいて、平原で一人になれば野垂れ死ぬのだと言いたいのだろう。
テルはどこにいるの?
ミリが問いかけると、地面は答える。
悪神の子 白き壁を目指し
それでも道半ば……
悪神の子とはどういう意味だろう。テルのことを指しているのだろうが――。白き壁とは、もしかしたら大北壁のことか? だとしたら、テルはミリを追ってきてくれている――?
ミリは最後に、「母さんは、どこ?」と問いかけた。
……
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母は母とひとつになりぬ……
「……だめだ。分からないや」
ミリは諦めて、地面の声から意識を逸らした。空は日没の光を受けて赤く染まっている。ちょうど男たちがウサギを仕留めて戻ってきた。
たき火を囲んで談笑する男たち。ミリは差し出されたウサギの肉をかじりながら、そういえば銀の谷でテルにわけてもらったのもウサギの肉だったなあと思い出していた。
ゾラはたき火の傍で、負傷した戦士たちの治療を行っていた。ミリは周りの戦士たちを見渡した。よくよく見れば、皆怪我の程度は大したことがない。しかも数が減っている。砦襲撃の際には、もっと多くの戦士たちが、普通なら動けなくなるほどの怪我を負っても戦っていたが――彼らはどこに行ったのだ?
ゾラはクァム草をすり潰し、その汁を戦士の傷口に塗り込んでいた。
「そのクァム草――」
ミリが口を開くと、ゾラが振り向き、「ああ」と言った。
「近々必要になると思ったから、お嬢さんに集めてもらったというわけさ。おいらも少し使わせてもらったぜ」
そういうことだったのか、とミリは唇を噛んだ。
「大怪我をした人たちはどこに行ったの?」
「治せる傷の奴は、ここにいる。治せない死ぬばかりの奴は……置いてきたから、まあ、もうお迎えが来た頃合いだろう」
つまり、彼らは死ぬほど戦って、文字通り死んだということだ。
「ひどい……」
ミリはつぶやいた。
ゾラは戦士の傷に湿布を貼って「一丁あがり。もう行っていいぞ」と言ってから、ミリを見る。
「あいつらの望みだったのさ。死ぬほど戦うことでしか生を実感できない奴。家族や仲間に先立たれて、死に場所を探していた奴」
「でも……!」
「まあ、そんな奴らを捨て駒として利用したのは事実だな。別に弁解も弁明もしねえよ。イルファンの砦は堅固だし、傭兵たちはみな強い。死兵を使うぐらいしなきゃ――まあそれだけじゃねえけど……」
ゾラは意味ありげな視線を戦士たちに投げかけてから、「次の奴」と治療の続きをする。
「お嬢さんもそのうち知ることになるさ。バディブリヤ氏族の強さが、どこから来てるのか――な」
それはそうと、とゾラは言った。
「何か分かったかい?」
「……何が?」
ミリが首をかしげると、ゾラは戦士の腕に包帯をまきながら、
「さっき、地面の声を聞いていただろ。何を尋ねたんだ?」
ミリは、油断ならないこの男をじっと見、答えるべきか迷った。するとゾラは口角をわずかに持ち上げ、「そう警戒しなさんな。単なる好奇心さ」と言った。
「……テルと、母さんの居場所」
ミリはつぶやくように答える。ゾラはさもありなんといった様子でうなずき、「で、地面の言うことは理解できたかい?」と問う。
ミリは首を振った。
「よく分からなかった。母は母とひとつに――ってどういう意味なんだろう」
ゾラは眉を上げる。
「まるで母親が二人いるみたいだな。いや、まてよ、そうか……ふむ」
彼はなにやら一人で納得したようだった。ミリは「分かるの?」とゾラを見る。
「おいらの考えてることが正しいとは限らんがね。まあ、それもそのうち分かるかもな」
ゾラは手元に目を戻した。戦士の傷がまっさらな包帯で包まれていく。まるで彼の心の内を覆い隠すかのように。
次の日の朝、ダーロゥの意識が戻った。彼は己が囚われの身となったことを悟ると、舌を噛んで自決を試みた。
いちはやく気づいたゾラが、第一公子に猿ぐつわを噛ませる。公子は頭を振って抵抗したが、数人がかりで押さえつけられれば抗いようもなかった。
「傷が開くから暴れなさんな」
ゾラが公子を見下ろす。公子はゾラを睨み、次いでミリを見た。なぜここにお前がいるのかといった表情が浮かぶ。
「さあ、出発だ」
ゾラが戦士たちに目配せをすると、彼らはてきぱきと動き、たき火と天幕を片付け、出立の準備をした。
一行は隊列を組み北上を再開した。いったんやんでいた雪が再び降り出した。吐く息は真っ白だ。ミリは鞍にしがみつきながら、毛布をしっかりと身体に巻き付ける。
道中、地平線の先に、椀を伏せたような山が見えた。
ゾラが言う。
「精霊の胎が見えたな。もうすぐだ」
ほどなくして、前方に騎影が現れた。ゾラは表情を明るくして、その影に向かって手を振った。
ミリはびくりと身を震わせた。地面が一瞬、耳をつんざくような悲鳴をあげたからだ。
「ゼヌベク様!」
ゾラが声を上げると、影が近づいてきた。
ミリはまじまじとその人物を見る。
その男は、どう見ても朱瑠人だった。
黒髪は額にかかる一筋を残して後頭部で束ねられ、しなる鞭のように風に揺れている。引き締まった体躯は、決して大柄ではなかったが、剽悍な狼を思わせた。
眼光は鋭くも剣呑さはなく、薄い口元にはほくろがあって愛嬌がある。
「イルファンの檻の居心地はどうだった」
男――ゼヌベクがゾラに問う。ゾラは苦笑いを浮かべながら「もうこりごりです」と言った。
「ご苦労だった」
「いやあ、てっきりおいらあのまま見捨てられるかと思いましたよ。けっこうべらべら喋っちゃったし」
ゾラの言葉に、ゼヌベクは「ふん」と鼻で笑った。
「お前の行動など織り込み済みだ」
次いでゼヌベクはミリに視線を向ける。
「お前がアンダム・ジュスルと〝水晶の歌のアリ〟の娘か。名はなんという」
ミリはぐっと押し黙り、ゼヌベクを見上げた。すると彼は片頬だけで笑い、「俺をにらみつけるとは、たいした度胸だ」と言った。
そのとき、隊列のなかほどで騒ぎが起きた。
捕らえられていたダーロゥが暴れ出し、馬から落ちたのだ。
ダーロゥは両手の皮膚が擦り切れるのもかまわずに、自力で縄から抜け出すと、ゼヌベクに向かって突進していく。
彼は襟に隠し持っていた、指の長さほどの刃を取り出すと、ゼヌベクめがけて投擲した。ゼヌベクは飛んできた刃をひょいと避け、ぐいと手綱を引いた。竿立ちした馬の脚がダーロゥを蹴りつける。
「ぐっ!」
ダーロゥはもんどりうって倒れ、血を吐き出す。しかし、双眸には未だ力が宿っていた。
「その気力、さすがはイルファンの第一公子といったところか」
感嘆したゼヌベク。ダーロゥは己にかけられた猿ぐつわを外しながら、忌々しげな視線を向けた。
「貴様のような卑劣な男に褒められても、かえって不名誉なだけだ。その口をつぐむがいい」
ゼヌベクは意に介さず、ダーロゥを再び縛り上げるように戦士たちに指示をした。
「俺は強い者を好む」
ゼヌベクが言った。
「貴様の弟、第二公子はなかなかのものだと聞いているぞ。我が陣営に欲しいくらいだ。あるいは、将来の脅威を早々潰しておくべきか。いずれにせよ、兄を取り返しに来るのを待つのも一興だな。兄の自由の代わりに身を差し出せと言えば、さて、応じるかな?」
ゼヌベクの顔が愉悦に歪む。ダーロゥはかっと目を見開いた。
「すでに虜囚の身に落ちた私は死んだも同然。死人のために差し出せるほど、弟の身は安くはないぞ。あいつが私のために貴様に従うことは決してない」
ゼヌベクはそれを聞き、「気に入った」と言った。
「身の程をわきまえた奴は、強い奴の次に好きだ。だが、案外、弟というものは兄を慕うものだ」
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