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シジフォスとヘルメス
しおりを挟む灼熱の太陽が照りつける、草木の一本も見当たらない荒れ果てた坂道を、一人の頑健な骨格の男が、歯を食いしばり、全身全霊の力を籠めて巨大な岩の球を押し上げている。男の筋肉は過重な労働で痩せているが、決して弱々しくはない。顔も深い皺が刻まれてはいるが、目は深い知性と豊かな怒りの感情を湛えて蒼く爛々と輝いている。焦げ茶色の髪と髭は伸び放題で、髪は腰まで、髭は腹まで届いている。言わずと知れた、神々への反逆者、シジフォスである。
シジフォスは岩と行方の山頂だけを見つめて、ひたすらに押し続けていたが、山頂のやや上から舞い降りてくる影を認めて、足を止めた。足を止めたと言っても、すぐにでも転がり落ちようとする岩を支えるには、全力に近い力で支え続けなければならない。
シジフォスの認めた影は、ぐんぐんと空を駆けて近づき、ふわりと岩の上に降り立った。
シジフォスは急に重さの増した岩を支えるために、慌てて力を振り絞らなければならず、思わず
「グフッ」
と呻き声が漏れる。
「やぁ、すまないねぇ。でも、こんな辺鄙な場所に僕を呼びつけるんだから、これぐらいは軽い意趣返しとして認めて欲しいね」
すました顔で言い放った若い男に、シジフォスは顔を顰める。
「別にヘルメス様を名指しで呼びつけた覚えはありません」
「だが、たかだか人間の分際でありながら、我らが大神ゼウスに直々に罪人として裁かれ刑罰まで定められた悪党が、そのゼウス様に、感謝の意を伝えたい等とふざけたことをカラスに伝えさせたのだろう。ここは神々の使者であり伝達者である僕ヘルメスが動くしかあるまい」
「と、自ら名乗り出られたのでしょう、面白がられて」
「まぁ、そうだけどね」
ヘルメスは愉快気に笑って、ふわりと岩から飛び降りた。柔らかな金髪が風に揺れる。
「さ、押して。歩きながら話そう。あまり長く立ち止まらせて、休ませてはいけないと言われてるんでね」
シジフォスは苦笑いで頷くと、また全身全霊で押し始める。
「しかし、わが父ながらゼウス様のやり方もえげつないというか、よくこんな刑を思いついたね。この灼熱地獄の坂を山頂まで岩を運べと、でも山頂まで押し上げる直前で、必ず岩が転がり落ちて、やり直さなければならなくなるんだろ」
「はい」
「やり直しってのが酷いよね。こっちに大量の岩山を築いておいて、全部山頂に積み上げろって言うんなら、同じ辛さでも、いつかは終わるかもしれないって希望が持てる。自分が苦労して積み上げたものを目にすることもできる。だけどやり直しだけが繰り返されてるんじゃ、自分が汗水たらして苦労したことが全て、何の成果も進展ももたらさない。全くの無意味だ。おまけに、君、不老不死にされたんだよね」
「はい」
「死んで解放されることもできないってわけだ」
「はい。痛みや、疲れは、残して、頂いています、けど」
シジフォスが息を切らしながら答える。
「食事はどうしてる。こんなとこで食い物があるようにも見えないけど」
「食事は。摂らなくても、良いの、ですが、渇きは、感じます。麓の、岩が、いつも、止まる、場所に、井戸が、あります」
「渇きを癒すには、この岩を転がり落ちるまで押し続けて、麓に戻るしかない、と。でも、君、そんなに律儀に毎度毎度、頂上まで運ばなくても、途中で手を放すとか、麓で休むとか、色々、さぼり方はあるよね」
「麓の、井戸の、傍らに、二本の、柱が立っていて、そこに、見張りの、烏と、ガーゴイルが、置かれて、います。烏が命じると、ガーゴイルは、雷の矢を、放ちます。あれは、流石に、痛い。何度も、耐えられる、ものでは、ありません」
「なるほど、恐ろしい見張り付き、ってわけだ」
「はい」
「で、こんな酷い、神でも悲鳴を上げそうな罰を下したゼウス様に、感謝をしていると。そりゃ、いったいどういうことだい」
「はい、それを、お伝え、したい、と」
「あぁ、面倒だ。僕の神力で、喋るだけの呼吸は足してあげる」
ふわりと何か波動のようなものがシジフォスにかかったのを感じる。岩に感じる重さは丸で変わらないが、確かに滑らかに喋れそうではある。
「ありがとうございます。私は岩を押しながらですので、まとまりのない長い話になるかもしれません。それでも私の言葉を書き留めて、それをゼウス様にお届け願えますか」
「神である僕に対して、それは随分不遜な注文だね。とは言え、乗りかかった船だ。いいだろう、書き留めてやろう」
ヘルメスは何処からともなく羽ペンらしきものと巻紙を取り出した。巻紙を開きながら宙に浮かべると、そこに見えない画架でもあるかのように紙を固定した」
「いいよ。用意はできた。思う存分、感謝でも、恨みつらみでも好きに述べたまえ」
「ありがとうございます」
シジフォスは一瞬、立ち止まって頭を下げた。
「まず、私が神々をも騙し、欺くという大罪を犯した理由を申し上げます」
「ふん」
「私は退屈していたのでございます」
「何だって?」
「退屈でございます。私は王として生まれ育ちました。私は賢者に劣らぬ知恵と、国一の剣士も討ち負かせる武技を、さほどの苦労なく身につけることができました。容姿も三国一と言われるほどには整っておりました。ですから望めば財も名誉も美姫も好きなだけ手に入れることができました」
「何かと思えば、えらく自慢を並べるではないか」
「いいえ、そんな力も所詮は人の水準での話。神々に比べればお恥ずかしい限りなのは承知しております。それに財も名誉も、容易く手に入ると思えば、それほどの価値は感じませんし、女も数が欲しいとは思いませんし、王妃が一人決まればそれで事足ります。戦をすれば勝ち、同盟を結べば盟主と持ち上げられます。私は、これ以上、何を欲しがればいいのか。しかも、いくら手に入れても、それは私が生きているうちだけのもの。そして私は必ず死ぬのです。そう思うと、もう何をするのも億劫で、退屈で、とにかく、何か途轍もなく刺激のある何かをしなければ、このヒリヒリした退屈に渇き死んでしまうと、私は思ったのです」
「それで神々を欺く所業に至った、と」
「はい。神々の力は、私の持つ力とは、比べ物にならないほど強大です。まともに立ち向かえば何一つかなう筈もない。それを知恵を絞り、時間をかけ、策謀の限りを尽くして、ほんの一瞬でありますが出し抜くことができた時の快感。私はその快感に身を投じる以外、退屈から逃れる術を持たなかったのです」
「なるほどねぇ」
「けれども、今に私には退屈はありません。常に全身全霊で立ち向かわねばならない物と向き合っているのです。この岩を押し上げる罰に慣れることはありません。何しろこの岩は、私が力をつければつけるだけ、重くなるらしいのです。いくら武力に優れていたとは言え、この奴隷がするような作業に王が慣れているはずもありません。そして何十回何百回と繰り返せば、押す力も、押し上げるコツもすこしづつ身について参ります。それでも、この罰は全く軽くなりません。そして頂上の手前で、必ず、私が支え切れる重さを僅かに超える重さとなり、耐え切れなくなった私の傍らをすり抜けていくのです。その度に私は激しい憤怒を感じます。負けぬ、と麓に岩を追って下ります。そこに退屈の入る余地はありません」
「今、憤怒って言ったよね」
「はい、申し上げました」
「その憤怒って奴は何に対して…」
「この下らぬ、何の役にも立たぬ、忌々しく底意地の悪い、過酷な罰に対する憤怒です」
「えっと、君はゼウス様に、感謝の言葉を伝えたいんだよね」
「はい。ゼウス様は、私にこの罰を通じて、屈辱と絶望をお与えになろうとしています。もし、私が神の侮蔑に屈し、絶望に染まってしまえば、最早、この岩を押し上げる力は残らないでしょう。おそらくその時、この岩は力を失った押し手を見捨て、軽やかに坂道を駆け登り、ゼウス様の台座となって主人を迎え入れるのでしょう。その時、私は不老不死の身体を失い、塵芥に帰するのでしょう」
「あ、あぁ、そうかもしれないね」
「であるから、私は絶望しません。この罰に憤怒し、この仕組みを軽侮し、常に全身全霊を持って押し上げることを自らの意志で選び続けることで、ゼウス様の意図に抗い続けます。ですからこの罰を通じて、私はゼウス様と対等に戦うことを許されているのです」
「あっ」
「私にはゼウス様に勝ち切る力はありません。しかし、私が諦めず、心折れず、この岩を押し上げ続ける限り、ゼウス様の意図は果たされない。すなわちゼウス様の勝ちでもないのですから」
「なんという…。が、僕には分からないではないかな。何せ神界で最も退屈を嫌うのは僕だろうからね。でもこれがゼウス様に通じるかなぁ。何か逆鱗に触れて大暴れしそう。それで雷でも落として、君を消し去ってしまうかもしれないよ」
「そうなれば、私の勝ちでございます。ゼウス様は私に屈辱と絶望を受け入れさせることに失敗するのですから」
「あぁ、これも書くんだよね。ここまで書くんだよね」
「はい。最後に感謝と敬意と怒りと軽侮を籠めて」
そこまで言って、シジフォスは言葉を切った。
「やはり最後の署名だけは私の手で、と言っても無理ですね。後何千年経っても、ゼウス様にお便りする機会などないでしょうから、最後の署名ぐらいはしてみたかったのですが」
「何千年か…」
「未来永劫に続くと言われた刑罰ですし、私も何千年程度で音を上げる積もりはございませんから」
「ハハッ、大した覚悟だ。その覚悟に免じて、君が署名する時間だけ、私が岩を支えていてやろう」
「いえ、これは重いですよ」
「あのね、僕もこれでも神の端くれだからね。人間の君が押し上げられる程度のものを、支えられない筈が無いだろう」
「そうでした。あ、ヘルメス様、そのサンダルはお脱ぎになった方が。この尖った岩のカケラだらけ道で踏ん張るとなりますと、神である御身の足は傷つかなくても、神具とはいえ道具にすぎぬサンダルは傷みましょう。何せ大地をも踏まずに駆け抜けるサンダル、踏ん張るには向かぬかと」
「そう言えばそうだね」
ヘルメスは気軽に頷いてサンダルを外すと、
「さぁ、代わろう」
と岩に手をかけた。
「お願いします」
シジフォスがするりと身体をずらして、岩から手を離す、と、
「グゥッ、な、なんだこれは」
「だから、申し上げたではありませんか。この岩は、支えている者の力に比例して重さを増すのだろうと。今、その岩は、ヘルメス様が全力で支えなければならない重さなのです」
「そうか、そう言うことか。クッ、重いな。シジフォス、早く署名を済ませよ」
「ヘルメス様、それより、早く岩を押し上げてください。でなければ、」
「おい、それは君の仕事だろう。なぜ僕がそこまで」
言いかけたヘルメスの背に、目も眩むような輝きの稲妻が突き刺さった。
「ギャッ、あぁ」
力が抜けかけると、岩がヘルメスを押し潰すように迫る。
「ま、待て、クソっ」
慌てて、必死の思いで岩を支える。
「どうです。苦しいものでしょう。ですから、その岩は押し上げ続けねばならないのです」
「役立たずの見張りガラスめ、人と神の区別もつかぬのか」
「らしいですね、さて、私はまずは署名を済ませましょう。コリントの王、シジフォス、とそして、嘘つきの王、シジフォスと加えておきましょう」
「どう、いう、ことだ、神たる、僕に、書き留めさせた、その手紙が、全て嘘だと言うのか」
「いいえ、それこそゼウス様の御名前にかけて、この手紙には真実しか書かれてはおりません。ただ、私としても、このような機会を見逃すわけには参りません」
「ん?」
「たとえ岩が無くとも、この荒れ果てた地を逃れる術は、私にはありませんでした。ですが、今、忌々しい岩はヘルメス様が肩代わりして押し上げてくださっており、そして天翔けるサンダルがここにある」
シジフォスは屈んで、有翼のサンダルを両足に装着し、トントンと足踏みをすると、身体がふわりと浮き上がった。
「くっ、神力の呼吸法は辛うじて使えるか。おい、シジフォス、逃げるのか。岩を押し上げ続ける道を自ら選び取るのではなかったのか」
「手段は関係ないのです。私はゼウス様が押し付けてくる屈辱と絶望の運命に抗い続けるだけ。ならば今度は、逃げ続ける。神々の手を掻い潜って逃げ続けるのも、私に相応しい戦い方でしょう。なにより私、シジフォスは神々を騙し欺く男なのです。その本分を発揮できる機会があれば、見逃すはずもない」
「シジフォス、お前、ゼウス様に感謝の意を伝えたいと言い出した時から、僕が来ると予想していたね。いや、僕を呼ぶために、そんな事を言い出したんだね、しかも僕と言うよりは、そのサンダルの為に」
「さぁ、どうでしょう。いずれにせよ、ヘルメス様にはお世話になりました。そろそろお暇させていただきます」
「ふっ、こう鮮やかに騙されたんじゃ、仕方ない。そうだね、君には幸運の加護を授けておこう」
ふわりと暖かな波動を感じて、シジフォスは目を見張った。
「なぜ、このような加護を」
「ふん、僕は幸運を司る神でもある。そして泥棒と嘘つきの神でもある。その嘘つきの神を欺いてみせたのだから、君は僕の守護を受けるに相応しい力の持ち主であり、幸運の加護ぐらいは授けて当たり前、ということさ。容易い道ではないけれど、精々、逃げ続けてみたまえ」
「ありがとうございます。このサンダルはお借りします。加護を頂いた以上、私もこれを盗むわけには参りません。人界に戻って、ゼウス様の目から逃れたら、ヘルメス様を祀る神殿にお返ししておきます」
「そうして貰えると助かるね」
「では」
シジフォスは、嘘つきの王には似つかわしくない誠意の籠った深々とした礼をすると、ヘルメスに背を向け、一気に空に駆け上がった。そして、山の頂上を超え、たちまち太陽に吸い込まれるように、一点の粒となり、消えた。
シジフォスの姿を見送ったヘルメスは、大きく溜息をついた。
「しかし、早まったかねぇ。こいつ、本当に重い、うっ」
再び襲ってきた稲妻は、ヘルメスの背中で神力によって作られた盾に弾かれたが、それでも大きな衝撃が身体に走る。
「全く、最初から騙されてやる積もりだったとは言え、ここまで厳しい罰とは思ってなかったからなぁ」
泥棒と嘘つきの神にして、神々の中でも知恵者として知られるヘルメスが、こんな稚拙な罠に、本気で嵌まる筈もない。ゼウスからシジフォスの様子を見てくるように、」と言われた時から、そこに罠があることは予想していたし、手紙を書きたいと言われた時には、もう署名をしたいと言い出すことも、狙いがサンダルにあることも分かっていた。
分かっていて、敢えて騙された。欺かれてみせた。何故なら、退屈だったから。神々の中でも最も自由と言われたヘルメスでさえ、神として、天意と人の願いの間に定義づけられて存在し続けるしかない我が身の上に飽き果てていた。その中で、人の身で神々を欺こうとするシジフォスを見守るのは楽しかった。だから、欺かれた態を取って、シジフォスを解き放ったのだ。
「しかし、あいつも僕がわざと騙されてやったことに気が付いていたみたいだしな」
最後の深々とした礼を思い出しながら、ヘルメスは呟いた。
「案外、僕がわざと騙されようとすることも、あいつには分かっていたのかもしれない。となりゃ、こちらも愉快な完敗ってことだけどね」
ヘルメスは思いつつも全力で岩を押し上げる。
「あぁ、ゼウス様、どれぐらいで許して下さるかなぁ」
全知とも謳われるゼウスが、ヘルメスの思いにまでは気づかずとも、この事態を見逃しているとは思えない。岩の重さが無くならず、稲妻が飛んでくるのは、ヘルメスの失態を責めているからだ。
「シジフォスがつかまるまで、とかはやめてくれよな」
と呟き、(まぁ、そんなこともないだろう)、と思う。
何故なら、ヘルメスは知っているから。
ゼウス自身が神々の頂点に立つ大神ゼウスであることに飽き果て、トリックスターであるヘルメスが世界を掻き回して見せることに、数少ない癒しを求めていることを知っているから。
「ま、しばらくはシジフォスに倣って、僕も運命に抗ってみるかね、まずはこの糞役に立たない岩運びに立ち向かって」
ヘルメスは、全身全霊で、岩を押し上げ始めたのだった。
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