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零
⒉バーダル一家の本拠地
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本拠地に帰ったバーダルは、まずイオの部屋にむかった。
あの魔法使いはヴィクトリア飛行艇から引き上げたあと、船のどこにも姿を見せなかった。自分の船室にも帰っていなかったのだから、あとはこの本拠地にある自室にいるとしか考えられない。
よく姿を消す癖があったが、でかい拾いものをした以上それを放って出で行くとも考えられない。荒々しく床を踏みならして、館の一番離れた場所にある黒いドアを乱暴にノックした。
「イオ、入るよ。いるのかい?」
ドアがかちゃりと開いた。
落ち着いた雰囲気のゆったりした部屋。そのまん中のソファに優雅に座って、魔法使いはお茶を飲んでいた。ここに来る度に、バーダルは忘れかけていた数十年前を思い出す。若かりし頃、理想を胸に抱いていた空賊の美しい女船長であった頃……。
気が削がれて、ドナはため息をついた。
「ここは、ちっともかわりゃしない。ここに来ると変わったのはあたしだけだって気がするよ」
魔法使いは微笑んだ。
「お茶を飲むか?」
「ああ、もらうよ」
バーダルの返事とともに奥の部屋のドアが開き、やや太り気味の中年女性が貴族に仕える召使い頭のような優雅さでトレイにのったお茶を持ってくる。
「どうぞ」
歌うような口調でバーダルにお茶を渡し、彼女は再び奥へ引っ込んだ。
「やれやれ……相変わらずだよ、ここは。まるで貴族の城のようだねぇ」
どかりとソファに身を投げ出して、バーダルはため息をもう一つこぼした。
遠回しに物事を運ぶのは性に合わない。
船長はお茶に口を付け、単刀直入に切り出す。
「イオ……あんたの気まぐれは今に始まった事じゃないし、あたしゃあんたのボスって訳じゃない。あんたはこのバーダル一家の、いわば顧問みたいなもんだ」
荒々しい気持ちを抑えるために吸い込まれた息が、形のいい鼻をふくらませた。
「――だけど、いくらなんでも、子どもを拾ってきてここにつれて来るってのは、どうゆう了見だい?ここは空賊一家の根城だよ。子供を預かる慈善施設じゃないんだ!町にでも、降ろしちまえば良かったのに」
握られたカップがみしりと音を立てた。
二人の視線がかち合う。
「確かにな……。だが、あのまま放っておいても空軍に口封じで殺される。なんせ空軍の大佐が一般人を殺したのを目撃した生き証人だからな」
「だからって、ここにつれてくる必要はないだろう?あんたなら、どこかへ連れて行って空軍の目の届かないところへ隠すことだってできるはずだよ。訳ありじゃあるまいし……そうだろう?」
イオは答えない。
「あんな小さなかたぎの子を、空賊に仕立てちまうつもりなのかい?」
イオはドナ・バーダルの瞳を見た。激しい炎のような目だ。たとえ身内であろうと何者であろうと、許せないものは許せない――そういう目だ。イオはゆっくりと瞬きした。そしておもむろに口を開く。
「あの子に、呪いを解いてもらう」
その言葉がバーダルの脳に浸透するまで、しばしの間があった。
「…………なんだって?」
まるでイオの言葉を聞き逃してしまったかのように問い返す。
「そのために、あの子が必要なのさ。そして、あの子自身のためでもあるしな」
『呪いを解く』
この数十年来、二人の中での暗黙の誓いの言葉だった。
蘇るのは、いつも同じ場面、同じ痛み。
「ああ。いつかきっと、いつか……」
少しずつ体を足下から石にされていく恐怖よりも、愛する女性を見つめ続け、信じ続けた男性。
「君が、僕を助けてくれる、ドナ……」
「フレッド!」
握りしめた手はすでに石になり、ドナ・バーダルの若いなめらかな肌に冷たく硬い石のざらざらとした感触が伝わる。それでも互いの目は見つめ合い、はずされることなく誓い合っていた。
「君は、僕を助けてくれる!その時まで必ず僕は待ち続ける。風にさらされ、体のほとんどを失ったとしても、石になったまま生き続けられる限り、君を待つ」
彼女の頬にふれようとした寸前で石になってしまった手のひらにその顔を預け、涙を流しながら必死に恋人を見つめてドナは誓った。
「何年かかっても、必ず助ける」
涙で目が曇りそうになるのを必死で拭い、ドナは恋人を見つめた。
「愛してる、フレッド。必ず、必ず助けるから!」
首まで来た石化を止めようとするかのように、ドナの手は恋人の顔をその手で押さえた。
「愛してる、ドナ……まって……い……」
全身が石に変わり果てた恋人は、動かない瞳をまっすぐに愛しい人へと向けていた。
「フレッド、フレッド!」
泣いている暇などなかった。
「ドナ、逃げろ!次が来る」
滅多に声を荒げる事のないイオが叫んだ。前方には十人の魔法使いが次の呪文を完成させようと陣を組んでいる。
ドナは動けなかった。
フレッドをおいていくことも、また、フレッドとの約束のために死ぬこともできない。
どうしたら……。
ドナがつぎの行動に移ろうとしたとき、魔法使い達の呪文が完成した。
「ドナっ!」
叫び声と光
「ああああああああああ!」
とっさにフレッドの上に覆い被さったドナは、何ごとも起こらないことに気づいた。
叫んだ声は自分のものなのかイオのものなのかわからない。枯れ尽くした声と奇妙な感覚が全身を襲った。まるで夢の中のような……。時が止まったように静かだった。自分が生きていることを確認したドナは起きあがり――そして、見た。
「……イオ」
吹き飛ばされ、原型をとどめていない杖。長かった髪が短く千切れ、構えていた右腕が なかった!
「世界最高の魔法使いも終わりだな!」
誰かが勝ち誇ったようにそういった。
「イオ……」
見あげるドナに振り返ったイオはにやりと笑った。したたり落ちる血が赤かった。
「心配するな、私の勝ちさ」
やつらの呪いは完成していない。
イオは残った左腕とすっかり姿を変えた杖を振り上げた。右腕のあった場所から血が飛び散り、恋人達に降りかかる。
魔法使い達が気づいて身構えたときには遅かった。
白銀の光がすべてを飲み込んだ。
「――何年になるかねぇ……」
ドナの目は遠くを見つめて冷たく輝いていた。あのときのイオの血の温かさと、フレッドの石化した体の冷たさは、決して忘れられない。
「長かったよ、普通の人間であるあたしには」
「ああ……」
イオはドナを見つめた。彼女の目にはドナはいつまでたっても若いまま映っていた。
かつてイオは、ドナに時を止め若いまま生きていくかと尋ねたことがあった。しかし、ドナはきっぱりと拒否したのだ。
『時を止めてしまえば、甘えが生まれる。フレッドを解き放つのに、まだまだ余裕があると思ってしまう。あたしは、死との時間の戦いにも身を置かなくてはならない。死がこの身に訪れるまでにね、必ずフレッドをたすけてみせるのさ』
だから希望が見えるまで時は止めない。
空気がその決意にきしむかのような気迫で、彼女は誓ったのだった。
「そういえば、アレはあったのかい?」
「ああ」
イオの手に小さな金の指輪が握られていた。赤い宝石がはめ込まれている。
「乗客に紛れて客室にいた」
「ふん、もう一人の方は取り逃がしちまったけどね」
「気づいていたのか」
イオはバーダルを見た。
「当たり前だよ。このあたしをだませるとでも?」
今日バーダル一家がヴィクトリア飛行船を襲ったのには、理由があった。
「探したぞ、元魔軍精鋭部隊のトゥレ」
警報音が鳴り響く中、杖をつきながら逃げる老人に黒衣の女性が声をかけた。
「あなたはっ」
老人は振り向きその表情を凍りつかせる。
「イオリティ・シファード……」
「久しぶりだな。何故私がここにいるのか、わかっているだろう?」
老人はゴクリとのどを鳴らした。
「指輪、を取り戻しに来られたのですね」
手にはめられた指輪が怯えるように光った。
「あなたがすでに、四つの指輪を手に入れられたのは存じています」
声とともに手も震える。
「あれから、三十年以上立ちました。あのときの精鋭部隊のほとんどは年老いてしまった。あなたとの戦いで魔力の多くを失い、呪いを完成させられなかったために、我が身をむしばまれてしまった。そして、そのせいで魔力を回復させることもできず……」
十人もいた精鋭部隊のほとんどは魔軍から去った。
世界中に散らばり名を変え、新しい身分をもらい隠匿したのだ。だが三十年の間イオがその居場所を探し指輪を手に入れていると、風の噂で聞いた。
いつか、自分の所にも来るはずだった。
「あなたが私の所に来て下さるのを、ずっと待っておりました」
老人の耳には警報音は届いていなかった。目の前にいる世界最高といわれた魔法使いの、少し変わってしまった姿を目に焼き付けていた。
「長かった髪も短くなったままですか」
確かあのとき杖腕も失われたはずだ。だがイオの両手はしっかりとそこにあり、杖はなくとも強い魔力を感じる扇を握りしめている。
「髪を元に戻すつもりはない。これは、私が覚えておかなければならない誓いだからな」
老人はまぶしげにイオを見上げると指輪のはまった手を差し出した。
「指輪は持ち主の命がつきない限り、外れはしない。ですから、……どうぞ」
殺して下さい。
長かった三十年。ようやくいつか来る終わりに怯えずに済むのだ。
「そうか。本当に良いんだな」
「はい。あの時、我々に残されたのは後悔と苦しみでした。それもようやく、ようやく終わります」
「先に行った者達によろしくな」
ひらりと扇が舞う。
ーーはい……
かくんと力を失った満足げな老人の体をそっと横たえて、その皺だらけの指から指輪を外した。
「死ねるだけでもうらやましいよ」
短い黙祷を捧げ、イオはドナの元へ急いだ。
あの時、確かにもう一つの指輪の気配を感じていたのに。
思い出した悔しさのためか、イオの眉間に皺が寄る。
「次は、必ず取り戻す」
「ああ勿論だよ。その為に――」
奥の部屋の通じる扉が音もなくするりと開いた。
「ご主人様、湯の支度が整いましてこざいます」
先ほどの女性が優雅な物腰でつたえた。
「そうか」
「……仕方ないね。あたしはここで待ってるよ。おいしいお茶菓子を持ってきとくれ」
「はい、ドナ様」
女性は優雅に腰を折って下がった。
イオは陽炎のようにふうわりと立ち上がり、奥の扉をくぐった。
「湯の支度ができたから、風呂に入りなさい」
隣室で呆然と待っていたコリンは、再び現れたイオを見上げた。
ちょっと前に飛行船からこの屋敷につれてこられた。そして山々の間の大きなこの城は、有名なバーダル一家の根城だと教えられたのだ。
「……」
コリンはイオをそろそろと振り返った。自分の置かれた状況がよく解らないのだ。
「こっちだ」
イオは居室の隣にある彼女の部屋のさらに奥へとコリンを通した。
「……」
広い部屋だった。端に天蓋付きのベット、衝立の向こうは流れる水の出ているきれいなお風呂、本棚に机といす、そしていろいろなものの収まっている棚がある。その棚のなかにはいくつかの人形があった。
それらをぼうっと眺めるコリンをちらりと見て、イオは棚に近づいた。
「ピート」
彼女が人形に語りかけると、不思議なことにピエロの人形がぴょこりと勢いよく立ち上がり、棚から飛び降りた。コリンが驚く間もなく人形はすっかり大きくなって、まるで本物の人間のようになってしまった。
「呼んだね?イオ様」
くねくねと道化の身振りでピエロが二人に近づいた。
「コリンを風呂に入れて、きれいにしてやってくれ」
「かしこまりましたぁ」
しゃきっと姿勢を正して答えたピートは奇妙な動きでくるんと向きを変える。
「はぁーい。さぁさぁコリーン」
ひょこひょことピートがコリンに近づき、ぐっと顔をのぞきこんだ。白い顔に浮く星印の中に金に輝く瞳がある。
「こーんな薄汚い格好のまま、うろうろしちゃこの部屋が汚れちゃうよー。マァムが怒るよぉ」
器用な手つきでピートはコリンの服を脱がせ、手早く体を洗い、湯船にたたき落とした。
「ゆっくりつかりなさい、私は向こうの部屋にいる」
衝立の向こうからイオが声をかけた。そして遠ざかるかすかな足音。
扉の閉まる音が聞こえて、コリンはようやくため息をついた。
湯は心地よい温かさだった。ひんやりとした部屋に温かいお湯というのは、体と心をほぐすものだ。だが、コリンの心はまだ固いまま。
「ここ……」
少し心に余裕ができたのか、コリンはまわりをぐるりと見回した。
どうしてこんなことになったんだろう。
誰に聞いたらいいのかも解らない問だった。
「きもちいいかーい?」
六つのボールを器用に操りながら、ピートは聞いてきた。コリンははっと振り返った。
「天然の温泉だからね。気持ちいいはずだよ。ところで君は、お客様だろう?」
「……」
どう答えていいかわからず、コリンはピエロを見つめた。ピエロもにこにこと笑顔のまま見つめ返す。
「あらあら、耳の後ろもきちんと洗ったの?」
衝立の後ろから声が聞こえた。
「もちろんだよ、きれいに洗ったに決まってるよ」
ピートが金の瞳をくるくるとさせながら答えた。
「そう?」
お盆にティーセットをのせた中年女性のマァムが首だけでのぞきこんだ。値踏みするような視線をうけ、コリンは奇妙なものとして見られている感覚をおぼえた。
「すみずみまで洗うんですよ。あちらにご飯を用意しておきますから、いいですね」
言い置いてマァムは衝立の向こうに引っ込んだ。
「どうしたんだい、コリン」
驚いたようにマァムのいたところを見つめていたコリンは、まだ驚きの消え去っていない顔をピートにむけた。彼の頭の中には、もう取り戻せない日常の一瞬がごくわずかだったがよみがえっていた。
――おふろにはいったら、体のすみずみまで洗うんですよ、コリン。
母さんがいつも言っていた。
「どうしたんだい、コリン?コリーン?」
突然顔をゆがめてくしゃくしゃになってしまった少年を見つめて、道化はボールを繰る手を止めた。
涙が目にいっぱいたまりこぼれ落ちてくる。後から後から、ぬぐってもぬぐっても落ちてくる。
「なにがあったの?」
なんでもない、と答えようとして嗚咽しか出てこなかった。しゃくり上げ、とまらない悲しみがどんどんわき出てきた。
「かなしい?かなしいんだね。だったら泣いてしまいなよ。かれるまで涙を流してしまいなよ」
ピートはそっとそばを離れた。コリンの中には母の思い出がよみがえり、先ほどのマァムと同じようにあれこれしなさいという母の言葉が響いていた。緊張のあまりずっとこらえていた想いが 両親への想いや悲しみが次々とあふれる。
永遠に取り戻せないと解っていても、取り戻したいと願わずにはいられない。
どうにもならない感情が狂いそうなくらい、全身を突き抜けていく。
ーー母さん……父さん……。
もう涙をぬぐうことができなかった。
ーーもどってきて、お願いだから……ぼく、何でもするから!もどってきてよ……
その願いを聞き届けることはだれにもできない。
あの魔法使いはヴィクトリア飛行艇から引き上げたあと、船のどこにも姿を見せなかった。自分の船室にも帰っていなかったのだから、あとはこの本拠地にある自室にいるとしか考えられない。
よく姿を消す癖があったが、でかい拾いものをした以上それを放って出で行くとも考えられない。荒々しく床を踏みならして、館の一番離れた場所にある黒いドアを乱暴にノックした。
「イオ、入るよ。いるのかい?」
ドアがかちゃりと開いた。
落ち着いた雰囲気のゆったりした部屋。そのまん中のソファに優雅に座って、魔法使いはお茶を飲んでいた。ここに来る度に、バーダルは忘れかけていた数十年前を思い出す。若かりし頃、理想を胸に抱いていた空賊の美しい女船長であった頃……。
気が削がれて、ドナはため息をついた。
「ここは、ちっともかわりゃしない。ここに来ると変わったのはあたしだけだって気がするよ」
魔法使いは微笑んだ。
「お茶を飲むか?」
「ああ、もらうよ」
バーダルの返事とともに奥の部屋のドアが開き、やや太り気味の中年女性が貴族に仕える召使い頭のような優雅さでトレイにのったお茶を持ってくる。
「どうぞ」
歌うような口調でバーダルにお茶を渡し、彼女は再び奥へ引っ込んだ。
「やれやれ……相変わらずだよ、ここは。まるで貴族の城のようだねぇ」
どかりとソファに身を投げ出して、バーダルはため息をもう一つこぼした。
遠回しに物事を運ぶのは性に合わない。
船長はお茶に口を付け、単刀直入に切り出す。
「イオ……あんたの気まぐれは今に始まった事じゃないし、あたしゃあんたのボスって訳じゃない。あんたはこのバーダル一家の、いわば顧問みたいなもんだ」
荒々しい気持ちを抑えるために吸い込まれた息が、形のいい鼻をふくらませた。
「――だけど、いくらなんでも、子どもを拾ってきてここにつれて来るってのは、どうゆう了見だい?ここは空賊一家の根城だよ。子供を預かる慈善施設じゃないんだ!町にでも、降ろしちまえば良かったのに」
握られたカップがみしりと音を立てた。
二人の視線がかち合う。
「確かにな……。だが、あのまま放っておいても空軍に口封じで殺される。なんせ空軍の大佐が一般人を殺したのを目撃した生き証人だからな」
「だからって、ここにつれてくる必要はないだろう?あんたなら、どこかへ連れて行って空軍の目の届かないところへ隠すことだってできるはずだよ。訳ありじゃあるまいし……そうだろう?」
イオは答えない。
「あんな小さなかたぎの子を、空賊に仕立てちまうつもりなのかい?」
イオはドナ・バーダルの瞳を見た。激しい炎のような目だ。たとえ身内であろうと何者であろうと、許せないものは許せない――そういう目だ。イオはゆっくりと瞬きした。そしておもむろに口を開く。
「あの子に、呪いを解いてもらう」
その言葉がバーダルの脳に浸透するまで、しばしの間があった。
「…………なんだって?」
まるでイオの言葉を聞き逃してしまったかのように問い返す。
「そのために、あの子が必要なのさ。そして、あの子自身のためでもあるしな」
『呪いを解く』
この数十年来、二人の中での暗黙の誓いの言葉だった。
蘇るのは、いつも同じ場面、同じ痛み。
「ああ。いつかきっと、いつか……」
少しずつ体を足下から石にされていく恐怖よりも、愛する女性を見つめ続け、信じ続けた男性。
「君が、僕を助けてくれる、ドナ……」
「フレッド!」
握りしめた手はすでに石になり、ドナ・バーダルの若いなめらかな肌に冷たく硬い石のざらざらとした感触が伝わる。それでも互いの目は見つめ合い、はずされることなく誓い合っていた。
「君は、僕を助けてくれる!その時まで必ず僕は待ち続ける。風にさらされ、体のほとんどを失ったとしても、石になったまま生き続けられる限り、君を待つ」
彼女の頬にふれようとした寸前で石になってしまった手のひらにその顔を預け、涙を流しながら必死に恋人を見つめてドナは誓った。
「何年かかっても、必ず助ける」
涙で目が曇りそうになるのを必死で拭い、ドナは恋人を見つめた。
「愛してる、フレッド。必ず、必ず助けるから!」
首まで来た石化を止めようとするかのように、ドナの手は恋人の顔をその手で押さえた。
「愛してる、ドナ……まって……い……」
全身が石に変わり果てた恋人は、動かない瞳をまっすぐに愛しい人へと向けていた。
「フレッド、フレッド!」
泣いている暇などなかった。
「ドナ、逃げろ!次が来る」
滅多に声を荒げる事のないイオが叫んだ。前方には十人の魔法使いが次の呪文を完成させようと陣を組んでいる。
ドナは動けなかった。
フレッドをおいていくことも、また、フレッドとの約束のために死ぬこともできない。
どうしたら……。
ドナがつぎの行動に移ろうとしたとき、魔法使い達の呪文が完成した。
「ドナっ!」
叫び声と光
「ああああああああああ!」
とっさにフレッドの上に覆い被さったドナは、何ごとも起こらないことに気づいた。
叫んだ声は自分のものなのかイオのものなのかわからない。枯れ尽くした声と奇妙な感覚が全身を襲った。まるで夢の中のような……。時が止まったように静かだった。自分が生きていることを確認したドナは起きあがり――そして、見た。
「……イオ」
吹き飛ばされ、原型をとどめていない杖。長かった髪が短く千切れ、構えていた右腕が なかった!
「世界最高の魔法使いも終わりだな!」
誰かが勝ち誇ったようにそういった。
「イオ……」
見あげるドナに振り返ったイオはにやりと笑った。したたり落ちる血が赤かった。
「心配するな、私の勝ちさ」
やつらの呪いは完成していない。
イオは残った左腕とすっかり姿を変えた杖を振り上げた。右腕のあった場所から血が飛び散り、恋人達に降りかかる。
魔法使い達が気づいて身構えたときには遅かった。
白銀の光がすべてを飲み込んだ。
「――何年になるかねぇ……」
ドナの目は遠くを見つめて冷たく輝いていた。あのときのイオの血の温かさと、フレッドの石化した体の冷たさは、決して忘れられない。
「長かったよ、普通の人間であるあたしには」
「ああ……」
イオはドナを見つめた。彼女の目にはドナはいつまでたっても若いまま映っていた。
かつてイオは、ドナに時を止め若いまま生きていくかと尋ねたことがあった。しかし、ドナはきっぱりと拒否したのだ。
『時を止めてしまえば、甘えが生まれる。フレッドを解き放つのに、まだまだ余裕があると思ってしまう。あたしは、死との時間の戦いにも身を置かなくてはならない。死がこの身に訪れるまでにね、必ずフレッドをたすけてみせるのさ』
だから希望が見えるまで時は止めない。
空気がその決意にきしむかのような気迫で、彼女は誓ったのだった。
「そういえば、アレはあったのかい?」
「ああ」
イオの手に小さな金の指輪が握られていた。赤い宝石がはめ込まれている。
「乗客に紛れて客室にいた」
「ふん、もう一人の方は取り逃がしちまったけどね」
「気づいていたのか」
イオはバーダルを見た。
「当たり前だよ。このあたしをだませるとでも?」
今日バーダル一家がヴィクトリア飛行船を襲ったのには、理由があった。
「探したぞ、元魔軍精鋭部隊のトゥレ」
警報音が鳴り響く中、杖をつきながら逃げる老人に黒衣の女性が声をかけた。
「あなたはっ」
老人は振り向きその表情を凍りつかせる。
「イオリティ・シファード……」
「久しぶりだな。何故私がここにいるのか、わかっているだろう?」
老人はゴクリとのどを鳴らした。
「指輪、を取り戻しに来られたのですね」
手にはめられた指輪が怯えるように光った。
「あなたがすでに、四つの指輪を手に入れられたのは存じています」
声とともに手も震える。
「あれから、三十年以上立ちました。あのときの精鋭部隊のほとんどは年老いてしまった。あなたとの戦いで魔力の多くを失い、呪いを完成させられなかったために、我が身をむしばまれてしまった。そして、そのせいで魔力を回復させることもできず……」
十人もいた精鋭部隊のほとんどは魔軍から去った。
世界中に散らばり名を変え、新しい身分をもらい隠匿したのだ。だが三十年の間イオがその居場所を探し指輪を手に入れていると、風の噂で聞いた。
いつか、自分の所にも来るはずだった。
「あなたが私の所に来て下さるのを、ずっと待っておりました」
老人の耳には警報音は届いていなかった。目の前にいる世界最高といわれた魔法使いの、少し変わってしまった姿を目に焼き付けていた。
「長かった髪も短くなったままですか」
確かあのとき杖腕も失われたはずだ。だがイオの両手はしっかりとそこにあり、杖はなくとも強い魔力を感じる扇を握りしめている。
「髪を元に戻すつもりはない。これは、私が覚えておかなければならない誓いだからな」
老人はまぶしげにイオを見上げると指輪のはまった手を差し出した。
「指輪は持ち主の命がつきない限り、外れはしない。ですから、……どうぞ」
殺して下さい。
長かった三十年。ようやくいつか来る終わりに怯えずに済むのだ。
「そうか。本当に良いんだな」
「はい。あの時、我々に残されたのは後悔と苦しみでした。それもようやく、ようやく終わります」
「先に行った者達によろしくな」
ひらりと扇が舞う。
ーーはい……
かくんと力を失った満足げな老人の体をそっと横たえて、その皺だらけの指から指輪を外した。
「死ねるだけでもうらやましいよ」
短い黙祷を捧げ、イオはドナの元へ急いだ。
あの時、確かにもう一つの指輪の気配を感じていたのに。
思い出した悔しさのためか、イオの眉間に皺が寄る。
「次は、必ず取り戻す」
「ああ勿論だよ。その為に――」
奥の部屋の通じる扉が音もなくするりと開いた。
「ご主人様、湯の支度が整いましてこざいます」
先ほどの女性が優雅な物腰でつたえた。
「そうか」
「……仕方ないね。あたしはここで待ってるよ。おいしいお茶菓子を持ってきとくれ」
「はい、ドナ様」
女性は優雅に腰を折って下がった。
イオは陽炎のようにふうわりと立ち上がり、奥の扉をくぐった。
「湯の支度ができたから、風呂に入りなさい」
隣室で呆然と待っていたコリンは、再び現れたイオを見上げた。
ちょっと前に飛行船からこの屋敷につれてこられた。そして山々の間の大きなこの城は、有名なバーダル一家の根城だと教えられたのだ。
「……」
コリンはイオをそろそろと振り返った。自分の置かれた状況がよく解らないのだ。
「こっちだ」
イオは居室の隣にある彼女の部屋のさらに奥へとコリンを通した。
「……」
広い部屋だった。端に天蓋付きのベット、衝立の向こうは流れる水の出ているきれいなお風呂、本棚に机といす、そしていろいろなものの収まっている棚がある。その棚のなかにはいくつかの人形があった。
それらをぼうっと眺めるコリンをちらりと見て、イオは棚に近づいた。
「ピート」
彼女が人形に語りかけると、不思議なことにピエロの人形がぴょこりと勢いよく立ち上がり、棚から飛び降りた。コリンが驚く間もなく人形はすっかり大きくなって、まるで本物の人間のようになってしまった。
「呼んだね?イオ様」
くねくねと道化の身振りでピエロが二人に近づいた。
「コリンを風呂に入れて、きれいにしてやってくれ」
「かしこまりましたぁ」
しゃきっと姿勢を正して答えたピートは奇妙な動きでくるんと向きを変える。
「はぁーい。さぁさぁコリーン」
ひょこひょことピートがコリンに近づき、ぐっと顔をのぞきこんだ。白い顔に浮く星印の中に金に輝く瞳がある。
「こーんな薄汚い格好のまま、うろうろしちゃこの部屋が汚れちゃうよー。マァムが怒るよぉ」
器用な手つきでピートはコリンの服を脱がせ、手早く体を洗い、湯船にたたき落とした。
「ゆっくりつかりなさい、私は向こうの部屋にいる」
衝立の向こうからイオが声をかけた。そして遠ざかるかすかな足音。
扉の閉まる音が聞こえて、コリンはようやくため息をついた。
湯は心地よい温かさだった。ひんやりとした部屋に温かいお湯というのは、体と心をほぐすものだ。だが、コリンの心はまだ固いまま。
「ここ……」
少し心に余裕ができたのか、コリンはまわりをぐるりと見回した。
どうしてこんなことになったんだろう。
誰に聞いたらいいのかも解らない問だった。
「きもちいいかーい?」
六つのボールを器用に操りながら、ピートは聞いてきた。コリンははっと振り返った。
「天然の温泉だからね。気持ちいいはずだよ。ところで君は、お客様だろう?」
「……」
どう答えていいかわからず、コリンはピエロを見つめた。ピエロもにこにこと笑顔のまま見つめ返す。
「あらあら、耳の後ろもきちんと洗ったの?」
衝立の後ろから声が聞こえた。
「もちろんだよ、きれいに洗ったに決まってるよ」
ピートが金の瞳をくるくるとさせながら答えた。
「そう?」
お盆にティーセットをのせた中年女性のマァムが首だけでのぞきこんだ。値踏みするような視線をうけ、コリンは奇妙なものとして見られている感覚をおぼえた。
「すみずみまで洗うんですよ。あちらにご飯を用意しておきますから、いいですね」
言い置いてマァムは衝立の向こうに引っ込んだ。
「どうしたんだい、コリン」
驚いたようにマァムのいたところを見つめていたコリンは、まだ驚きの消え去っていない顔をピートにむけた。彼の頭の中には、もう取り戻せない日常の一瞬がごくわずかだったがよみがえっていた。
――おふろにはいったら、体のすみずみまで洗うんですよ、コリン。
母さんがいつも言っていた。
「どうしたんだい、コリン?コリーン?」
突然顔をゆがめてくしゃくしゃになってしまった少年を見つめて、道化はボールを繰る手を止めた。
涙が目にいっぱいたまりこぼれ落ちてくる。後から後から、ぬぐってもぬぐっても落ちてくる。
「なにがあったの?」
なんでもない、と答えようとして嗚咽しか出てこなかった。しゃくり上げ、とまらない悲しみがどんどんわき出てきた。
「かなしい?かなしいんだね。だったら泣いてしまいなよ。かれるまで涙を流してしまいなよ」
ピートはそっとそばを離れた。コリンの中には母の思い出がよみがえり、先ほどのマァムと同じようにあれこれしなさいという母の言葉が響いていた。緊張のあまりずっとこらえていた想いが 両親への想いや悲しみが次々とあふれる。
永遠に取り戻せないと解っていても、取り戻したいと願わずにはいられない。
どうにもならない感情が狂いそうなくらい、全身を突き抜けていく。
ーー母さん……父さん……。
もう涙をぬぐうことができなかった。
ーーもどってきて、お願いだから……ぼく、何でもするから!もどってきてよ……
その願いを聞き届けることはだれにもできない。
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