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豊潤な郷【37】

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 その日の内に歩澄は城を発った。統主も重臣も出払った城は寂しげな印象を受けた。重臣がいなくとも、秀虎や瑛梓の直臣達が目を光らせている。
 この隙に敵陣が攻め込んでこようとも、そう簡単には城を取られまい。

 澪は歩澄に言われた言葉を何度も脳裏に響かせながら、楊の元へ行った。大和に嗅がされた眠り薬が体の中で悪さをしないか、一度ちゃんと診た方がいいと昨日城に戻ってすぐ診察を受けた。
 翠穣郷にいた間、服用できなかった薬を再度調合してもらい飲んでいた。

 本日はいつも通りの診察として楊の元へ向かった。

「おや……何だか元気がないようだけど、薬のせい……でもないか」

「歩澄様が発ってしまわれました」

「それで悄気ているのか。可愛気もあったんだねぇ」

 楊は顎の髭を撫でながら可笑しそうに笑った。いつもならキッと睨み付けてきてもよさそうなものを、変わらず目を伏せている澪。楊はその様子に首を傾げた。

「まだ城中に大きな音が響いているよ。あんな大層な物まで造らせて、まだ気に入らないのかい?」

「……いいえ。十分過ぎるのです。歩澄様は、私に色々してくださいますし、多くのものを与えてくれます。ですが……私は歩澄様の為に何もしてあげられません」

「本当にそう思っているんだとしたら迷惑な話だね」

「え?」

 澪はふっと顔を上げ、目をぱちくりと何度か瞬きさせた。呆けた表情に楊は笑みを溢し「あんなにも活気に満ちているのは他でもない、お前さんのおかげさ」と言った。

「私の……?」

「お前さんの姿がないと気付いた時、歩澄がどれ程血相を変えて探し回ったことか。あんなにも必死な歩澄は初めて見たよ。王になると躍起になっているのだってお前さんの存在を皆に認めさせる為だろうね」

「……」

「だからそんな顔などせず、帰って来た時に笑顔で迎えてやれば、歩澄《あれ》はそれだけで満足だろうね」

「楊様……でも、私も何か……」

「ああ、そうだ。お前さん、刀の扱いが上手いんだってね」

 楊は強引に澪の言葉を遮り、話を変えた。澪は呆気に取られ、暫し言葉を失った後、こくんと小さく頷いた。

「刀以外の剣を握った事があるかい?」

 薬の瓶を開け、手のひらに乗せると指先で広げたり、小擦り合わせたり、匂いを嗅いだりしながら続けた。

「……いえ」

「じゃあ、剣舞も知らないかな?」

「けんぶ?」

「剣を使った舞だよ。私が住んでいた国では伝統として剣舞があってね。歩澄が帰ってくる間、暇なら覚えてみるかい?」

 楊はにっこり笑ってそう言った。こんなふうに楊が満面の笑みを見せることは珍しい。何か企んでいるようだとも思いながらも、澪は無意識に頷いていた。

 楊が取り出した剣は不思議な形をしていた。澪が初めて見る形である。使い慣れている刀とは違い、柄は太く全体的に重い。ずっしりと腕にのし掛かる重さに澪は顔をしかめた。

「険しい顔だね。無理もない。重たいだろう。それでどれ程振れる?」

 楊は屋敷の外に設置された台の上に腰を降ろして、目を細めた。拓かれた畑の前で、剣を持った澪が、それを見つめた。
 刀剣と違って両刃であり、真っ直ぐに左右対称に伸びた剣面。鍔は大きく握った手からはみ出るほど。柄も金属でできているようで、握った瞬間から冷たく硬い感覚を覚えた。
 何もかもが初めてであったが、振れない程ではない。刀剣に比べれば重い。その程度だった。澪はぐっと剣を握る手に力を込め、片手で振りかざした。腕を上げ、肘を曲げると手首を捻ってくるくると回す。
 難なく剣を扱ってみせる澪に、今度は楊が目を丸くさせた。

「驚いたね……ちょっと腕を見せてみな」

 剣を持ったままの左手を掴むと、楊は袖を捲って盛り上がった筋肉を見つめた。澪はその刹那、怪物だと言われ石を投げつけられた記憶が蘇り、ばっと手を振り払った。
 その拍子に剣が落ち、ゴトッと鈍い音を立てた。

「おいおい。これは中々高価な剣なんだ。もう少し丁寧に扱ってもらわなきゃ困るね。これでも私は薬師だ。その大きな筋肉を見たって驚きはしても、否定はしないよ」

 楊は片方の眉を下げ、やれやれと言いながら左右に首を振った。
 震える左手を右手でぎゅっと押さえ、澪は顔を真っ赤にさせた。
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