上 下
71 / 228

赤髪の少女【1】

しおりを挟む
 満月の宵であった。夜中に目を覚ました歩澄は、寝所を抜けて縁側へと出た。異様に明るい空を見上げようと思ったのだ。
 千依の一件から六日が経った。まだ歩澄の心の傷は癒えないが、ほんの少しずつ前を向こうと気持ちを取り戻しつつあった。
 千依を嫁がせる原因となった徳昂の処罰も残すところ後四日。未だ天嶺てんれいの役は外したままである。刑を終えた後、そうすぐに澪に手を出す程馬鹿な男ではない。

 暫し徳昂と秀虎の事を考えていた。不意に誘われるようにして振り向いたのは、微かな音が聴こえたからである。
 こんな夜中に厨房の方から声がする。辿るように近付けば、それは綺麗な歌声であった。
 皆が眠る部屋とは離れた場所。こんなところで誰が。そう思うがこの城で女の声といったら澪しか思い付かない。
 まさかと思いつつも廊下を抜け、徐々に近付く声を追う。はっきりと聴こえた澄んだような歌声。それは天から降り注ぐようで、顔を上げた。

 その刹那、歩澄は息を飲んだ。満開に咲いた桜の木。そよぐ風に花弁が舞う。その枝の上に腰をかけた女が月を見上げて美しい声を奏でていた。
 月明かりに照らされた髪は鮮やかな赤。普段、黒に近い暗赤色の髪は何故か光輝く赤い色をしていた。

 桜色の花弁と月明かりと煌めく赤。その幻想的な姿に歩澄は目を奪われた。何者かに体を乗っ取られたかのように動かなくなった。ただじっと風に揺れる髪と、浮き上がる白い肌を見ていた。その頬には大粒の涙が伝っており、視線の先には月ではなく何かが存在しているように見えた。
 生意気で高飛車で遠慮のない澪。普段泣き言一つ言わず、時には統主に食って掛かるような勝ち気な姫。然れど、人気のないところで涙を溢す様は、殺生をした後の己と重なる部分があった。

 歩澄はようやく動くようになった足で、柱の影に腰を下ろした。心地の良い声だった。目を閉じ、暫しその歌声に聴き入る。

 思い出すのは同じ赤い髪色をした少女の事。

 当時九つだった歩澄は、父に連れられ匠閃郷へと出向いた。本来名工とは直接の交渉はできないのだが、父が潤銘郷統主とあって目通りが叶ったのだ。鍛刀についての話をする際、歩澄は村で遊んでいるよう申し付けられた。
 父の重臣が付く中、何の宛もなく河原へと向かった。海が近くにある潤銘城とは違い、そよそよと水が流れる小川。なんとも田舎くさい村だと子供ながらに思った。
 真冬の川になど誰も来るはずがない。そう思っていたのに、先客がいた。あの冷たい水に足をつけ、ぐずぐずと泣いていた。
 歩澄は、己よりも年下の幼女を見るのは初めてであった。
 水に濡れて真っ赤に染まる不思議な髪。動く度に宝石が散りばめられているかのように輝き、美しかった。

 当時の歩澄の心は渇ききっていた。異国の血液を含んだ見た目は、時期統主に相応しくないと陰口を叩かれていると知っていた。父も母も、その内民を納得させると言っていたが、幼い歩澄には受け入れがたいことであった。

 そんな中、突然現れた美しい髪をした少女。気味が悪いと言われ続けた青碧の瞳を見つめ、綺麗だと言った。

 碧空石など異国に流通しなければ、神室家に異国の血が入ることもなかった。そう考えていた歩澄であったが「凄く素敵だね。碧空石みたいで綺麗な目」そう少女が言ってくれたから、少しだけその瞳の色が好きになれた。

 初めて他人に褒められ、無垢な笑顔を向けられた。この少女のことをもっと知りたいと思った。

「大きくなったらお嫁さんになる」そうまで言った少女は、約束を守ってはくれなかった。
 少女の存在は、歩澄にとって救いだった。どこにいても邪魔者扱いされているようで、孤独だったのだ。そんな心に光を灯してくれた少女も簡単に歩澄を裏切った。

 約束の時、歩澄は冷たい風の中丸一日河原で待っていた。家来が止めようともそこを一歩も動かなかった。それでも少女が現れることはなかった。

 ただ覚えているのはあの鮮やかな赤い髪と、不思議な味をした握り飯。何度も忘れようと努力した。統主として生きていく上で不要な記憶だからだ。
 しかし、どうしても忘れられなかった。

 人はいつか裏切る。信用した途端に失われていくのだ。幸せなど長くは続かない。民の幸せと家臣の事だけ考えて生きればいい。己の幸せなど考える必要もないのだ。

 澪の髪色を思い出す。匠閃郷の女はあの特殊な髪をした人間が多いのか……それとも、あの村だけなのか。何度も調べたがわからなかった。

 まさか……と一瞬頭を過るが、直ぐに考え直す。澪は匠閃郷の姫だ。いくら村で暮らしていたことがあったとはいえ、あのような場所にいるはずがない。それにあの異様な強さ。相当な修羅場を潜っていなければ身に付かぬもの。あのような無垢な少女が、澪のように強く逞しく生きられるものか。

 歩澄は首を振り、己の考えを否定した。

「私がずっと蒼くんの傍にいるよ」

 そんな言葉が脳裏を過る。こんなこと、覚えていても意味がない。そうわかってはいるのに。

 十五で統主となった時、蒼は役名である歩澄を受け継いだ。世話役であった秀虎でさえ、今では歩澄と呼ぶ。
 両親が死に絶え、もう己の事を蒼と呼ぶ者は誰もいない。

 ただ美しい歌声だけが、今の歩澄の心を満たしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

虐げられた令嬢、ペネロペの場合

キムラましゅろう
ファンタジー
ペネロペは世に言う虐げられた令嬢だ。 幼い頃に母を亡くし、突然やってきた継母とその後生まれた異母妹にこき使われる毎日。 父は無関心。洋服は使用人と同じくお仕着せしか持っていない。 まぁ元々婚約者はいないから異母妹に横取りされる事はないけれど。 可哀想なペネロペ。でもきっといつか、彼女にもここから救い出してくれる運命の王子様が……なんて現れるわけないし、現れなくてもいいとペネロペは思っていた。何故なら彼女はちっとも困っていなかったから。 1話完結のショートショートです。 虐げられた令嬢達も裏でちゃっかり仕返しをしていて欲しい…… という願望から生まれたお話です。 ゆるゆる設定なのでゆるゆるとお読みいただければ幸いです。 R15は念のため。

私が妊娠している時に浮気ですって!? 旦那様ご覚悟宜しいですか?

ラキレスト
恋愛
 わたくしはシャーロット・サンチェス。ベネット王国の公爵令嬢で次期女公爵でございます。  旦那様とはお互いの祖父の口約束から始まり現実となった婚約で結婚致しました。結婚生活も順調に進んでわたくしは子宝にも恵まれ旦那様との子を身籠りました。  しかし、わたくしの出産が間近となった時それは起こりました……。  突然公爵邸にやってきた男爵令嬢によって告げられた事。 「私のお腹の中にはスティーブ様との子が居るんですぅ! だからスティーブ様と別れてここから出て行ってください!」  へえぇ〜、旦那様? わたくしが妊娠している時に浮気ですか? それならご覚悟は宜しいでしょうか? ※本編は完結済みです。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

この度、双子の妹が私になりすまして旦那様と初夜を済ませてしまったので、 私は妹として生きる事になりました

秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
*レンタル配信されました。 レンタルだけの番外編ssもあるので、お読み頂けたら嬉しいです。 【伯爵令嬢のアンネリーゼは侯爵令息のオスカーと結婚をした。籍を入れたその夜、初夜を迎える筈だったが急激な睡魔に襲われて意識を手放してしまった。そして、朝目を覚ますと双子の妹であるアンナマリーが自分になり代わり旦那のオスカーと初夜を済ませてしまっていた。しかも両親は「見た目は同じなんだし、済ませてしまったなら仕方ないわ。アンネリーゼ、貴女は今日からアンナマリーとして過ごしなさい」と告げた。 そして妹として過ごす事になったアンネリーゼは妹の代わりに学院に通う事となり……更にそこで最悪な事態に見舞われて……?】

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

処理中です...