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五章 天狗様、奔る
五
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「あのときの猪くん!」
半分怪しんで、半分親しみを込めて声を上げてしまった。振り返った猪と藍の視線がしっかりと交差した次の瞬間、猪はさっと踵を返して走り出した。
「あ、待って!」
藍は急いで玄関に向かった。靴を履いて外に出たときには、既に猪の姿ははるか彼方、もう小さくなってしまっていた。
「よし……!」
藍は、息を吐き出し、陸上の短距離走の構えをとった。本気の全力を出すときだ。これでも陸上部から再三スカウトを受けているくらいに、足には自信がある。
藍は迷わずに地面を蹴って、思い切り駆け出した。
周囲の景色が、みるみる溶けていく。見慣れた街の風景を置き去りにして、ただただまっすぐに、あの猪の姿だけを捉えて走った。幸い、家の前は長い一本道になっている。車道でもない。何に憚ることなく、藍は住宅街の中を疾走した。
前方を走る猪の姿が、徐々に大きくなってくる。距離が縮まってきた。あと、もう少しでその手に届きそうだ。その時、急に猪が直角に方向を変えた。実は猪は人間が思っているよりもずっと小回りがきくらしい。
藍もまた、かろうじて片足を軸にして方向転換し、再び全力疾走した。進む先は袋小路になっている道だ。もう、捕らえたも同然だった。
そう、思っていた。だが藍は、突き当たりまで言って、きょろきょろと周囲を見回すことになった。
「いない……?」
確かにここまで追ってきたというのに、猪の姿は消えていた。あれほどの巨体を見失うはずはない。それに、隠れる場所もない。
そこで、ふと気付いた。人が、一人もいない。
今は休日の昼間。いつもならこの辺りは、家の前で遊んでいる親子連れがいる。それなのに、今日は姿を見ない。それどころか、家の中からも人の気配を感じない。
「しまった……!」
この、周囲から切り離されたような感覚に覚えがあることに、ようやく気付いた。
ひやりと汗が背筋を伝ったその時、視界の端に、影が差した。
それは影ではなく、影のように真っ黒な姿の、男性だった。髪は黒と茶が入り交じって、ひょろりと背の高い、俯き加減の男性。
藍はもう、驚かなかった。この男のことを、知っている。夢で何度も会った、あの男だ。
夢で会ったなど、会ったうちに入らないと普通は思う。だが、藍は初めての邂逅のようには思えなかった。男の方もまた、藍を初めて見るのではないようだった。
藍という存在をしっかりと認識した上で、真っ直ぐに見据えているのだから。
「直に会うのは、初めてだよね」
「……会わない方が良かった。これ以上、来るな」
男はそう言うと、一歩近づいた。近寄ったのではなく、藍を押し返そうとしているようだった。
「何言ってるの? こっちに何かあるの?」
「何もない。だけどこれ以上進むと、戻れなくなるぞ」
「何のことか全然わからない。さっきの猪くんがこっちに来たことと関係あるの? どこに行ったか、知ってるの?」
「……猪……」
男は、ふいに首をかしげた。
「そう、猪。普通よりも大きいの。もしかしたら、あの猪が何か関係あるかもしれないんだか、ら……!」
藍の言葉は途中で途切れた。急に立っていられなくなったからだった。
見ると、藍の足には真っ黒な何かが絡みついている。手のような、ツタのような、綱のような……太く重い何かが。
その真っ黒な何かが、藍を体ごとぐいぐい引きずっていく。
「ひっ……!?」
行き止まりだったはずの壁には、いつの間にかぽっかり穴が空いていた。だが向こう側は見えない。色々な風景がぐちゃぐちゃに溶けたようなところに、藍は引きずり込まれようとしていた。
その勢いを止めることはできず、手を伸ばしても藻掻いても、逃れることはできなかった。かろうじて、伸ばした手を誰かが必死に掴もうとしてくれた。その手だけが見えて、藍の視界は、閉ざされた。
音の鳴らない鈴が、藍のポケットの中でただコロコロと転がっていた。
半分怪しんで、半分親しみを込めて声を上げてしまった。振り返った猪と藍の視線がしっかりと交差した次の瞬間、猪はさっと踵を返して走り出した。
「あ、待って!」
藍は急いで玄関に向かった。靴を履いて外に出たときには、既に猪の姿ははるか彼方、もう小さくなってしまっていた。
「よし……!」
藍は、息を吐き出し、陸上の短距離走の構えをとった。本気の全力を出すときだ。これでも陸上部から再三スカウトを受けているくらいに、足には自信がある。
藍は迷わずに地面を蹴って、思い切り駆け出した。
周囲の景色が、みるみる溶けていく。見慣れた街の風景を置き去りにして、ただただまっすぐに、あの猪の姿だけを捉えて走った。幸い、家の前は長い一本道になっている。車道でもない。何に憚ることなく、藍は住宅街の中を疾走した。
前方を走る猪の姿が、徐々に大きくなってくる。距離が縮まってきた。あと、もう少しでその手に届きそうだ。その時、急に猪が直角に方向を変えた。実は猪は人間が思っているよりもずっと小回りがきくらしい。
藍もまた、かろうじて片足を軸にして方向転換し、再び全力疾走した。進む先は袋小路になっている道だ。もう、捕らえたも同然だった。
そう、思っていた。だが藍は、突き当たりまで言って、きょろきょろと周囲を見回すことになった。
「いない……?」
確かにここまで追ってきたというのに、猪の姿は消えていた。あれほどの巨体を見失うはずはない。それに、隠れる場所もない。
そこで、ふと気付いた。人が、一人もいない。
今は休日の昼間。いつもならこの辺りは、家の前で遊んでいる親子連れがいる。それなのに、今日は姿を見ない。それどころか、家の中からも人の気配を感じない。
「しまった……!」
この、周囲から切り離されたような感覚に覚えがあることに、ようやく気付いた。
ひやりと汗が背筋を伝ったその時、視界の端に、影が差した。
それは影ではなく、影のように真っ黒な姿の、男性だった。髪は黒と茶が入り交じって、ひょろりと背の高い、俯き加減の男性。
藍はもう、驚かなかった。この男のことを、知っている。夢で何度も会った、あの男だ。
夢で会ったなど、会ったうちに入らないと普通は思う。だが、藍は初めての邂逅のようには思えなかった。男の方もまた、藍を初めて見るのではないようだった。
藍という存在をしっかりと認識した上で、真っ直ぐに見据えているのだから。
「直に会うのは、初めてだよね」
「……会わない方が良かった。これ以上、来るな」
男はそう言うと、一歩近づいた。近寄ったのではなく、藍を押し返そうとしているようだった。
「何言ってるの? こっちに何かあるの?」
「何もない。だけどこれ以上進むと、戻れなくなるぞ」
「何のことか全然わからない。さっきの猪くんがこっちに来たことと関係あるの? どこに行ったか、知ってるの?」
「……猪……」
男は、ふいに首をかしげた。
「そう、猪。普通よりも大きいの。もしかしたら、あの猪が何か関係あるかもしれないんだか、ら……!」
藍の言葉は途中で途切れた。急に立っていられなくなったからだった。
見ると、藍の足には真っ黒な何かが絡みついている。手のような、ツタのような、綱のような……太く重い何かが。
その真っ黒な何かが、藍を体ごとぐいぐい引きずっていく。
「ひっ……!?」
行き止まりだったはずの壁には、いつの間にかぽっかり穴が空いていた。だが向こう側は見えない。色々な風景がぐちゃぐちゃに溶けたようなところに、藍は引きずり込まれようとしていた。
その勢いを止めることはできず、手を伸ばしても藻掻いても、逃れることはできなかった。かろうじて、伸ばした手を誰かが必死に掴もうとしてくれた。その手だけが見えて、藍の視界は、閉ざされた。
音の鳴らない鈴が、藍のポケットの中でただコロコロと転がっていた。
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