となりの天狗様

真鳥カノ

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弐章 比良山の若天狗

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「あの、太郎さん。私、お弁当のおかず詰めていきますね」
 そう言って、おかずが並ぶ皿に手を伸ばそうとした。すると、その手を別の手が遮っていた。もちろん、太郎の手だ。太郎はゆっくりと頭を振って、優しく藍をたしなめた。
「藍、それはいけないよ。君のお弁当は僕が作るって決めてるんだから」
「自分のお弁当ぐらい自分でやりたいんですけど……じゃあお味噌汁の様子見て……」
「あと豆腐と小松菜入れるだけだから、大丈夫」
「じゃあご飯よそって……」
「炊きあがりまで何人たりとも触れてはいけません」
「じゃあ、じゃあ……お魚焼きます」
「すべて完璧な焼き加減で仕上がってるよ。君は何も心配せず、それらを食べてくれればいいんだよ。うふふ」
 こうやって、いつも背筋がぞわっとすることを言われて反論を封じられてしまうのだった。もっと強く、せめて3食のうち1食ぐらいは任せてほしいと言ったところ、太郎は言った。
ーー僕の大事な許嫁に、僕の料理を毎日三食食べてもらうのは僕の心からの望みなんだよ。だから君は何も気にすることなんてないんだよ……うふふ
 これが太郎を受け入れられない最も大きな理由だ。事あるごとに『許嫁』を連発し、藍の世話を焼こうとしてくる。またそれが配慮に富んでいて、藍よりも優子が大喜びするのだった。
 このまま太郎にペースを乱され続けていたら、あっという間に外堀を埋められてしまうのではないか。藍の危機感は日に日に増していたのだった。少しでも、太郎から色々な権限を取り戻さなければ危険だ。
「太郎さん、やっぱり私も何か……お皿運ぶくらいはやります。自分の家なんだし、太郎さんはここまでやってくれてるんだし……ね?」
 藍の声に振り返った太郎は、とっても不服そうだった。だが藍は、もう一回、お願いのポーズをして見せた。するとしぶしぶといった様子ながら、太郎は頷いた。
「そう? うーん……わかった。じゃあこっちの皿を居間へ運んで。僕はその間、藍のお弁当詰めるよ」
「はーい」
 努めて明るく、不満が出ないうちにと、藍は颯爽と動き出した。
 その時、おもむろに太郎がまた振り向いた。何だか妙にそわそわしたような表情を浮かべている。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと今の会話がね」
 そわそわと言うか、もじもじした様子で、太郎は言った。
「何だか夫婦みたいなやりとりだなぁって思って」
 藍の中で、何かが千切れる音がした。あまりの言葉に、返す言葉を失くしてしまった。
 机の上にはおかずが数種類、少しずつ並んでいる。粗熱を取っているのだろう。きっとこれからお弁当箱に収まっていくであろうそれらを複雑な心境で見つめながら、藍はぐっと拳を握りしめ決意した。
「あの、太郎さん……私、やっぱり今日はもう行きますね」
「え!?」
 カタン、と菜箸が落ちる音がした。太郎は自分が取り落とした菜箸を拾うこともせず、わなわな震えながら、藍をじっと見つめた。
「なんで? どうして?……朝ご飯、食べないの?」
「い、急いでいるので……」
「どうして? 僕が心を込めて作ったものを見捨てて行かなければいけないほど、急な用事なの?」
「そ……そうです!」
 藍は負けないように、言い切った。すると、ようやく太郎が一歩引いた。
「……わかった。ただ一つだけ……あの鈴は持ってるね?」
「鈴? 持ってますよ」
「うん、わかった。じゃあ、いってらっしゃい。気を付けて」
 太郎はそう言って、小さく手を振った。
 藍は、太郎のちょっと潤んでいる瞳を振り切るように、鞄を掴んで走った。
 こういう、最後にほんの少し罪悪感を感じる優しさを見せるあたりもまた、小憎らしいのだ。
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