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壱章 愛宕山の天狗様
十一
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聞こえたのは、凛とした音。小さく静かな、だけど透き通った音が、木々の間を抜けて山中に響き渡るようだった。まるで、黒が白に、一瞬にして塗り替えられていくように。
黒い塊は藍のことを見下ろしていたまま、じっと動きを止めていた。たじろいでいるのか、動けないのか、理由はわからない。
藍もまた、動けずにいた。今が逃げ出す好機なのはわかっていたが、目の前にいる人物の姿に視線を縫い留められてしまっていた。
藍の視界を覆わんばかりに大きく体を広げていた黒い塊の前に立つ、天狗の装束を身に着けた男性の姿に。
「大丈夫?」
振り返った太郎坊は、そう、ふわりとした声で尋ねたのだった。
藍は声が出せず、とにかく頷いた。そして気が付いた。いつの間にか、腕の中にいた白いモノがいなくなっている。
「ああ、さっきの白いのは回収したよ。もう合流できたし」
「は?」
「あれは僕が気を込めて作った式神みたいなもの。君一人で歩くのは危険そうだったし、僕と行くのはなんだか嫌そうだったから。可愛く作ってみたんだけど、どうだった?」
「可愛かったですけど……何で急にここに……じゃなくて後ろ!」
藍の叫びとほぼ同時に、黒い塊が再び大きく口を広げた。怒り狂っているかのような出で立ちは、塊を通り越して黒い炎のようだった。だが太郎坊は、くるりと振り返っただけだった。
「……うるさいな」
呟くような声と共に、懐から何かを取り出し、黒い炎に向けて突き付けた。それが、先程太郎坊より貰った「火の用心」のお札だとすぐにわかった。
黒い炎はお札をも飲み込もうとしていたが、お札に触れた個所からどんどん輪郭を崩していった。
「ちょっと見かけただけで僕の姫に近づくなんて図々しい。千年待ってから出直してもらおうか」
太郎坊はそう言うと、お札を黒い塊の中心に突き出した。
はらりはらりと消えかかっていた黒い塊は、ついに断末魔の叫び声をあげて、空中に消えていった。文字通り、塵一つ残さずに、消えた。同時に、お札もまた燃え尽きていった。
まるで最初からそんなモノなどいなかったかのように、辺りは静かになった。
そして何事もなかったかのように、太郎坊は再び藍の方を向いた。
「怪我してない?」
「え? はい、大丈夫です……たぶん」
太郎坊があまりにも平静過ぎて、藍は一瞬、何が何だかわからなくなっていた。差し出された手を思わず取って立ち上がり、ようやく思い出した。さっき、この人から逃げ出したばかりだということを。
「ご、ごめんなさい! 逃げたりして! あと助けてくれてありがとうございます!」
深々と頭を下げた藍に、太郎坊はどうしてか首を傾げた。
「さっきのは明らかに僕が怪しい人に見えただろうし、助けたのはそもそも役目なんだから当然でしょ。謝ることもお礼を言うこともないよ。あと君、お札落としてたから持って来たんだけど咄嗟に使っちゃった。ごめんね」
「そ、そんなとんでもない! 助けてもらったんですから! それに当然だろうと何だろうと、お詫びとお礼はちゃんと言うっていうのがお母さんの教えでして」
「ふぅん、いいお母さんだね」
太郎坊は、ふわりと微笑んでそう言った。そして、藍の全身を見回して、頷いた。
「うん、怪我もないみたいだね。良かった」
優しい表情だった。発言は怪しいことこの上ないが、不思議と、怖いと思わなくなっていた。感謝しているからでもあるが、今は、この人がいてくれて安心していることに気付いたのだった。
「あの……訊いてもいいですか?」
「なに?」
この人を怖いと思ったが、今はそれほど怖くはない。これまでの道中、彼の言葉に救われたからでもある。逃げ出したというのに追って来て、また助けてくれたことへの、感謝の気持ちもある。
だからこそ、最初に抱いた不信感を、今は素直に口にできるのだった。
「どうして、私の名前を知っていたんですか?」
黒い塊は藍のことを見下ろしていたまま、じっと動きを止めていた。たじろいでいるのか、動けないのか、理由はわからない。
藍もまた、動けずにいた。今が逃げ出す好機なのはわかっていたが、目の前にいる人物の姿に視線を縫い留められてしまっていた。
藍の視界を覆わんばかりに大きく体を広げていた黒い塊の前に立つ、天狗の装束を身に着けた男性の姿に。
「大丈夫?」
振り返った太郎坊は、そう、ふわりとした声で尋ねたのだった。
藍は声が出せず、とにかく頷いた。そして気が付いた。いつの間にか、腕の中にいた白いモノがいなくなっている。
「ああ、さっきの白いのは回収したよ。もう合流できたし」
「は?」
「あれは僕が気を込めて作った式神みたいなもの。君一人で歩くのは危険そうだったし、僕と行くのはなんだか嫌そうだったから。可愛く作ってみたんだけど、どうだった?」
「可愛かったですけど……何で急にここに……じゃなくて後ろ!」
藍の叫びとほぼ同時に、黒い塊が再び大きく口を広げた。怒り狂っているかのような出で立ちは、塊を通り越して黒い炎のようだった。だが太郎坊は、くるりと振り返っただけだった。
「……うるさいな」
呟くような声と共に、懐から何かを取り出し、黒い炎に向けて突き付けた。それが、先程太郎坊より貰った「火の用心」のお札だとすぐにわかった。
黒い炎はお札をも飲み込もうとしていたが、お札に触れた個所からどんどん輪郭を崩していった。
「ちょっと見かけただけで僕の姫に近づくなんて図々しい。千年待ってから出直してもらおうか」
太郎坊はそう言うと、お札を黒い塊の中心に突き出した。
はらりはらりと消えかかっていた黒い塊は、ついに断末魔の叫び声をあげて、空中に消えていった。文字通り、塵一つ残さずに、消えた。同時に、お札もまた燃え尽きていった。
まるで最初からそんなモノなどいなかったかのように、辺りは静かになった。
そして何事もなかったかのように、太郎坊は再び藍の方を向いた。
「怪我してない?」
「え? はい、大丈夫です……たぶん」
太郎坊があまりにも平静過ぎて、藍は一瞬、何が何だかわからなくなっていた。差し出された手を思わず取って立ち上がり、ようやく思い出した。さっき、この人から逃げ出したばかりだということを。
「ご、ごめんなさい! 逃げたりして! あと助けてくれてありがとうございます!」
深々と頭を下げた藍に、太郎坊はどうしてか首を傾げた。
「さっきのは明らかに僕が怪しい人に見えただろうし、助けたのはそもそも役目なんだから当然でしょ。謝ることもお礼を言うこともないよ。あと君、お札落としてたから持って来たんだけど咄嗟に使っちゃった。ごめんね」
「そ、そんなとんでもない! 助けてもらったんですから! それに当然だろうと何だろうと、お詫びとお礼はちゃんと言うっていうのがお母さんの教えでして」
「ふぅん、いいお母さんだね」
太郎坊は、ふわりと微笑んでそう言った。そして、藍の全身を見回して、頷いた。
「うん、怪我もないみたいだね。良かった」
優しい表情だった。発言は怪しいことこの上ないが、不思議と、怖いと思わなくなっていた。感謝しているからでもあるが、今は、この人がいてくれて安心していることに気付いたのだった。
「あの……訊いてもいいですか?」
「なに?」
この人を怖いと思ったが、今はそれほど怖くはない。これまでの道中、彼の言葉に救われたからでもある。逃げ出したというのに追って来て、また助けてくれたことへの、感謝の気持ちもある。
だからこそ、最初に抱いた不信感を、今は素直に口にできるのだった。
「どうして、私の名前を知っていたんですか?」
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