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壱章 愛宕山の天狗様
三
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(やっぱり、出た)
藍は、足元をなるべく見ないようにして、歩き出した。だが見なくてもわかる。黒いもやは、ゆっくりと藍の後をついてきていた。
ちらりと前を歩く母を見る。母は、調子が出てきたのか、気分良く歩いていた。この不気味な黒いモノのことは、まったく気にしていないようだ。
藍はひとまず胸をなでおろした。
この黒いモノは、やはり藍にしか見えていないようだ。母だけでなく、すれ違う参拝客もこちらを見たり、驚くような素振りは見られない。
だが、藍はああいうモノたちを小さな頃から何度も見てきた。幽霊とも違う、未だによくわからないモノだが、相手にしない方がいいという事だけはわかる。
小さい頃に一度声を掛けられて返事をしたら、しつこく追いかけられたことがあった。とても怖かった。かろうじて家に帰り着き、事なきを得たが、しばらく外に出られなかった記憶がある。
幸い、返事をせずに無視していれば向こうも興味を失くすとわかった。それ以降、今のように無視を続けているのだが……突然の遭遇は止められるものじゃない。特に山には多いらしく、昔から遠足に行くとよく出くわしたのだった。
(あぁ……速く上って速く降りよう)
そう、心に誓ったのだった。
そうして、藍はひたすらに頂上を目指した。4キロの行程も、二人で歩けば楽しいものだし、楽しく歩いていればあっという間に過ぎていく。登山口に立ったのが午前の9時頃。少しのんびりと歩いたこともあって、正午頃にようやく水尾別れ口にたどり着いたのだった。
水尾別れ口は、愛宕神社から見て、文字通り、二つの山道に別れる分岐点だ。藍たちが昇って来た清滝と、もう一つの嵯峨水尾とに別れる。
ちなみに、ここから先の頂上までの坂道を「ガンバリ坂」と呼ぶのだとか。長い工程の最後の休憩所であり、あともうひと踏ん張りという地点でもある。
長い坂道の後にようやく姿を見せた東屋に、母は滑り込むように座った。藍も、さすがにここまで来るとへとへとだった。
「あともうちょっとねぇ」
そう言う母の顔は、充実していた。最初は帰ろうかと言い出していて、藍はハラハラしていたが、ここまで来たら爽やかなものだった。
同じような面持ちの人は他にもいる。東屋には何組かの参拝客が、藍たちと同じように休憩していた。会社の同僚同士、逞しい体つきの老夫婦、子供連れの親子等、様々だ。
特に小さな子供は、ここまで大変な道のりであったろうに、休憩する父親の傍らで人形遊びを始めるくらいに元気だった。
藍はほほえましくて、その様子を観察していた。暴れまわったりはしないが、楽しそうに動物の人形を、動物園よろしく東屋の縁に並べて遊ぶ様は実に和やかだった。
その人形が、カタンと音を立てて落ちてしまった。東屋の外側だった。
「落ちちゃった……」
子供はとっても悲しそうな顔をしていて、じっと見ていた藍は思わず父親より先に立ち上がり、人形のもとへと駆けていた。
立ち上がりかけていた父親を制止し、人形の落ちた方へと向かう。東屋の外側は崖になっていた。といっても、大人一人はゆうに歩けるほどの幅はあり、その上に人形は落ちていた。
藍はさっと人形を拾い、外側から、中にいる子供に人形を手渡した。
「はい、どうぞ」
「……」
子供は、人形を受け取ろうとせず、何故かぼんやりと藍を見つめていた。
「こら、お礼言いなさい」
父親が叱っても、子供はまだぼんやりしている。不思議に思っていると、子供はふわりと藍の方を指さした。
「ねぇ、何でケムリでてるの?」
「……え?」
何のことか、と思って振り向いた。その瞬間、藍の視界は真っ黒なもやに埋め尽くされた。子供の言うように、炎とともに舞い上がる黒煙のようだった。
だがただの煙やもやと違う。ただ藍を絡めとるだけでなく、藍の体を崖下へと引きずり込んでしまったのだ。声を出す間もなく、東屋が視界から遠のいていった。
「藍ちゃん!?」
母の声が、小さくなっていく。手を伸ばしているのだが、その様子すら真っ黒で見えなかった。足のつかない浮遊感と落ちていく速度に、鼓動が大きく脈打った。
(し、死ぬーー!?)
そう、頭の中に浮かんだ時、耳元で別の声が聞こえた。
「大丈夫」
次の瞬間、何かが近づいてくるのが見えた。その姿は真っ黒で、追い打ちをかけられているのかと藍は思った。
だが、どこか違った。
追ってくるのは、真っ黒な翼だった。そしてその翼を広げているのは、人間の男だった。男は、ものすごい勢いで近づいてきた。
(ぶつかるーー!)
藍は咄嗟に目を瞑った。
何も見えはしなかったが、耳をつんざくような声と、澄んだ鈴の音だけが、藍の耳に届いた。
藍は、足元をなるべく見ないようにして、歩き出した。だが見なくてもわかる。黒いもやは、ゆっくりと藍の後をついてきていた。
ちらりと前を歩く母を見る。母は、調子が出てきたのか、気分良く歩いていた。この不気味な黒いモノのことは、まったく気にしていないようだ。
藍はひとまず胸をなでおろした。
この黒いモノは、やはり藍にしか見えていないようだ。母だけでなく、すれ違う参拝客もこちらを見たり、驚くような素振りは見られない。
だが、藍はああいうモノたちを小さな頃から何度も見てきた。幽霊とも違う、未だによくわからないモノだが、相手にしない方がいいという事だけはわかる。
小さい頃に一度声を掛けられて返事をしたら、しつこく追いかけられたことがあった。とても怖かった。かろうじて家に帰り着き、事なきを得たが、しばらく外に出られなかった記憶がある。
幸い、返事をせずに無視していれば向こうも興味を失くすとわかった。それ以降、今のように無視を続けているのだが……突然の遭遇は止められるものじゃない。特に山には多いらしく、昔から遠足に行くとよく出くわしたのだった。
(あぁ……速く上って速く降りよう)
そう、心に誓ったのだった。
そうして、藍はひたすらに頂上を目指した。4キロの行程も、二人で歩けば楽しいものだし、楽しく歩いていればあっという間に過ぎていく。登山口に立ったのが午前の9時頃。少しのんびりと歩いたこともあって、正午頃にようやく水尾別れ口にたどり着いたのだった。
水尾別れ口は、愛宕神社から見て、文字通り、二つの山道に別れる分岐点だ。藍たちが昇って来た清滝と、もう一つの嵯峨水尾とに別れる。
ちなみに、ここから先の頂上までの坂道を「ガンバリ坂」と呼ぶのだとか。長い工程の最後の休憩所であり、あともうひと踏ん張りという地点でもある。
長い坂道の後にようやく姿を見せた東屋に、母は滑り込むように座った。藍も、さすがにここまで来るとへとへとだった。
「あともうちょっとねぇ」
そう言う母の顔は、充実していた。最初は帰ろうかと言い出していて、藍はハラハラしていたが、ここまで来たら爽やかなものだった。
同じような面持ちの人は他にもいる。東屋には何組かの参拝客が、藍たちと同じように休憩していた。会社の同僚同士、逞しい体つきの老夫婦、子供連れの親子等、様々だ。
特に小さな子供は、ここまで大変な道のりであったろうに、休憩する父親の傍らで人形遊びを始めるくらいに元気だった。
藍はほほえましくて、その様子を観察していた。暴れまわったりはしないが、楽しそうに動物の人形を、動物園よろしく東屋の縁に並べて遊ぶ様は実に和やかだった。
その人形が、カタンと音を立てて落ちてしまった。東屋の外側だった。
「落ちちゃった……」
子供はとっても悲しそうな顔をしていて、じっと見ていた藍は思わず父親より先に立ち上がり、人形のもとへと駆けていた。
立ち上がりかけていた父親を制止し、人形の落ちた方へと向かう。東屋の外側は崖になっていた。といっても、大人一人はゆうに歩けるほどの幅はあり、その上に人形は落ちていた。
藍はさっと人形を拾い、外側から、中にいる子供に人形を手渡した。
「はい、どうぞ」
「……」
子供は、人形を受け取ろうとせず、何故かぼんやりと藍を見つめていた。
「こら、お礼言いなさい」
父親が叱っても、子供はまだぼんやりしている。不思議に思っていると、子供はふわりと藍の方を指さした。
「ねぇ、何でケムリでてるの?」
「……え?」
何のことか、と思って振り向いた。その瞬間、藍の視界は真っ黒なもやに埋め尽くされた。子供の言うように、炎とともに舞い上がる黒煙のようだった。
だがただの煙やもやと違う。ただ藍を絡めとるだけでなく、藍の体を崖下へと引きずり込んでしまったのだ。声を出す間もなく、東屋が視界から遠のいていった。
「藍ちゃん!?」
母の声が、小さくなっていく。手を伸ばしているのだが、その様子すら真っ黒で見えなかった。足のつかない浮遊感と落ちていく速度に、鼓動が大きく脈打った。
(し、死ぬーー!?)
そう、頭の中に浮かんだ時、耳元で別の声が聞こえた。
「大丈夫」
次の瞬間、何かが近づいてくるのが見えた。その姿は真っ黒で、追い打ちをかけられているのかと藍は思った。
だが、どこか違った。
追ってくるのは、真っ黒な翼だった。そしてその翼を広げているのは、人間の男だった。男は、ものすごい勢いで近づいてきた。
(ぶつかるーー!)
藍は咄嗟に目を瞑った。
何も見えはしなかったが、耳をつんざくような声と、澄んだ鈴の音だけが、藍の耳に届いた。
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