となりの天狗様

真鳥カノ

文字の大きさ
上 下
4 / 99
壱章 愛宕山の天狗様

しおりを挟む
(やっぱり、出た)
 藍は、足元をなるべく見ないようにして、歩き出した。だが見なくてもわかる。黒いもやは、ゆっくりと藍の後をついてきていた。
 ちらりと前を歩く母を見る。母は、調子が出てきたのか、気分良く歩いていた。この不気味な黒いモノのことは、まったく気にしていないようだ。
 藍はひとまず胸をなでおろした。
 この黒いモノは、やはり藍にしか見えていないようだ。母だけでなく、すれ違う参拝客もこちらを見たり、驚くような素振りは見られない。
 だが、藍はああいうモノたちを小さな頃から何度も見てきた。幽霊とも違う、未だによくわからないモノだが、相手にしない方がいいという事だけはわかる。
 小さい頃に一度声を掛けられて返事をしたら、しつこく追いかけられたことがあった。とても怖かった。かろうじて家に帰り着き、事なきを得たが、しばらく外に出られなかった記憶がある。
 幸い、返事をせずに無視していれば向こうも興味を失くすとわかった。それ以降、今のように無視を続けているのだが……突然の遭遇は止められるものじゃない。特に山には多いらしく、昔から遠足に行くとよく出くわしたのだった。
(あぁ……速く上って速く降りよう)
 そう、心に誓ったのだった。
 
 そうして、藍はひたすらに頂上を目指した。4キロの行程も、二人で歩けば楽しいものだし、楽しく歩いていればあっという間に過ぎていく。登山口に立ったのが午前の9時頃。少しのんびりと歩いたこともあって、正午頃にようやく水尾別れ口にたどり着いたのだった。
 水尾別れ口は、愛宕神社から見て、文字通り、二つの山道に別れる分岐点だ。藍たちが昇って来た清滝と、もう一つの嵯峨水尾とに別れる。
 ちなみに、ここから先の頂上までの坂道を「ガンバリ坂」と呼ぶのだとか。長い工程の最後の休憩所であり、あともうひと踏ん張りという地点でもある。
 長い坂道の後にようやく姿を見せた東屋に、母は滑り込むように座った。藍も、さすがにここまで来るとへとへとだった。
「あともうちょっとねぇ」
 そう言う母の顔は、充実していた。最初は帰ろうかと言い出していて、藍はハラハラしていたが、ここまで来たら爽やかなものだった。
 同じような面持ちの人は他にもいる。東屋には何組かの参拝客が、藍たちと同じように休憩していた。会社の同僚同士、逞しい体つきの老夫婦、子供連れの親子等、様々だ。
 特に小さな子供は、ここまで大変な道のりであったろうに、休憩する父親の傍らで人形遊びを始めるくらいに元気だった。
 藍はほほえましくて、その様子を観察していた。暴れまわったりはしないが、楽しそうに動物の人形を、動物園よろしく東屋の縁に並べて遊ぶ様は実に和やかだった。
 その人形が、カタンと音を立てて落ちてしまった。東屋の外側だった。
「落ちちゃった……」
 子供はとっても悲しそうな顔をしていて、じっと見ていた藍は思わず父親より先に立ち上がり、人形のもとへと駆けていた。
 立ち上がりかけていた父親を制止し、人形の落ちた方へと向かう。東屋の外側は崖になっていた。といっても、大人一人はゆうに歩けるほどの幅はあり、その上に人形は落ちていた。
 藍はさっと人形を拾い、外側から、中にいる子供に人形を手渡した。

「はい、どうぞ」
「……」
 子供は、人形を受け取ろうとせず、何故かぼんやりと藍を見つめていた。
「こら、お礼言いなさい」
 父親が叱っても、子供はまだぼんやりしている。不思議に思っていると、子供はふわりと藍の方を指さした。
「ねぇ、何でケムリでてるの?」
「……え?」
 何のことか、と思って振り向いた。その瞬間、藍の視界は真っ黒なもやに埋め尽くされた。子供の言うように、炎とともに舞い上がる黒煙のようだった。
 だがただの煙やもやと違う。ただ藍を絡めとるだけでなく、藍の体を崖下へと引きずり込んでしまったのだ。声を出す間もなく、東屋が視界から遠のいていった。
「藍ちゃん!?」
 母の声が、小さくなっていく。手を伸ばしているのだが、その様子すら真っ黒で見えなかった。足のつかない浮遊感と落ちていく速度に、鼓動が大きく脈打った。
(し、死ぬーー!?)
 そう、頭の中に浮かんだ時、耳元で別の声が聞こえた。
「大丈夫」
次の瞬間、何かが近づいてくるのが見えた。その姿は真っ黒で、追い打ちをかけられているのかと藍は思った。
 だが、どこか違った。
 追ってくるのは、真っ黒な翼だった。そしてその翼を広げているのは、人間の男だった。男は、ものすごい勢いで近づいてきた。
(ぶつかるーー!)
 藍は咄嗟に目を瞑った。
 何も見えはしなかったが、耳をつんざくような声と、澄んだ鈴の音だけが、藍の耳に届いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

王太子さま、側室さまがご懐妊です

家紋武範
恋愛
王太子の第二夫人が子どもを宿した。 愛する彼女を妃としたい王太子。 本妻である第一夫人は政略結婚の醜女。 そして国を奪い女王として君臨するとの噂もある。 あやしき第一夫人をどうにかして廃したいのであった。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】選ばれなかった王女は、手紙を残して消えることにした。

曽根原ツタ
恋愛
「お姉様、私はヴィンス様と愛し合っているの。だから邪魔者は――消えてくれない?」 「分かったわ」 「えっ……」 男が生まれない王家の第一王女ノルティマは、次の女王になるべく全てを犠牲にして教育を受けていた。 毎日奴隷のように働かされた挙句、将来王配として彼女を支えるはずだった婚約者ヴィンスは──妹と想いあっていた。 裏切りを知ったノルティマは、手紙を残して王宮を去ることに。 何もかも諦めて、崖から湖に飛び降りたとき──救いの手を差し伸べる男が現れて……? ★小説家になろう様で先行更新中

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

記憶がないので離縁します。今更謝られても困りますからね。

せいめ
恋愛
 メイドにいじめられ、頭をぶつけた私は、前世の記憶を思い出す。前世では兄2人と取っ組み合いの喧嘩をするくらい気の強かった私が、メイドにいじめられているなんて…。どれ、やり返してやるか!まずは邸の使用人を教育しよう。その後は、顔も知らない旦那様と離婚して、平民として自由に生きていこう。  頭をぶつけて現世記憶を失ったけど、前世の記憶で逞しく生きて行く、侯爵夫人のお話。   ご都合主義です。誤字脱字お許しください。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

処理中です...