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其の陸 迷宮の出口
十
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真っ暗な店の前に、初名は立った。のれんは中にしまわれ、埃が溜まっている。
最後に訪れたのはほんの数日前だというのに、もう寂れたように見えてしまった。あの人が、いないからだろうか。
正確には風見が”引き取った”はずだが、あの蜘蛛の体では掃除をすることなど、当然できない。
(今はこっそりやるしかないけど、許して貰ったら、ちょくちょく掃除しに来よう)
この店の隣が風見の家であり、集会場にもなっている場所だ。風見のことだから地下街をぶらぶらしているかもしれないが、念のため、そっと、音を立てないように気をつけて、引き戸を引いた。
耳をそばだてないと聞こえないほどの、カラカラという小さな音と共に、初名は店の中に足を踏み入れた。
物の配置は、数日前と何も変わらない。漂う空気も、何も。
「……ん?」
それは、おかしい。
数日前と明らかに違う点は、百花がこの建物にいないことだ。つまり、しんと静まりかえって空虚であるはず。
それなのに、今のこの店は、どうしてかあの時と変わらない。誰かが奥からひょっこり顔を出しそうな、そんな雰囲気だ。
(いや、でもまさか……)
この横丁で、他の住人が泥棒に入るなんてことはない。まして、外から不審者が入ることはあり得ない。奥に誰かがいるなど、気のせいだ。もしくは、同じように有志の誰かが片付けに来ているか。
自分で自分にそう言い聞かせて、初名はそろりと店の奥を覗き込んだ。百花の居住空間だったところだ。
何もない……はずだった。だが、見えてしまった。人の足が転がっているのを。
「ひっ!?」
思わず飛び退き、勢いで土間から転げ落ちそうになった。何とか踏みとどまったものの、蹈鞴を踏んだその音は、店中に大きく響いていた。
そのせいだろうか、先ほど覗いた住居から、物音がした。
「ん~……?」
寝ぼけたような声と共に、少女が一人、ひょこっと顔を出した。目をこすって、本当にまだ寝ぼけているようだ。
その顔には見覚えがあり……
「あ!」
「あーっ!」
叫んだのは、二人同時だった。お互いにお互いを指さして、わなわな震えてその名を口にした。
「こ、小阪さん……!」
「都築さん……」
図らずも、数日前とまったく同じ場所で、まったく同じことを口にしてしまっていた。しかも、浮かべている表情までが同じ。だが、一つだけ違う。それは……両者の立ち位置だ。
思わず立ち上がり、外に駆け出そうとする絵美瑠の前に、初名は猛然と立ち塞がった。無意識の行動だったが、絵美瑠はそれに怯んだ。
初名は、逃すまいと、絵美瑠の両肩をしっかりと捕まえた。
「に、逃げないで、都築さん……!」
「う……あ……え……でも……」
「話をしよう! 都築さん……いや、絵美瑠ちゃん」
「……へ?」
それは、初名が未だ大阪に居た頃に彼女を呼んでいた呼び名だ。
懐かしい呼び方をされて、絵美瑠は戸惑っていた。だが、すぐにその両目がじんわりと潤んだ。その様子に、今度は初名が戸惑った。
「え、あの……泣いてる?」
「だって……だって……!」
嗚咽までが、聞こえ始めた。初名は掴んでいた両手を離し、ハンカチを取り出そうとポケットをまさぐったが、もう遅かった。
「うちの名前……呼んで……うっ……うああぁぁぁぁん!」
「ひ!? あ、あの……泣かないで、ね?」
ハンカチでしたたり落ちる涙を拭ってあげたが、そんなものは意味を成さなかった。次々流れる涙で初名のハンカチはすっかり濡れてしまった。
結局、横丁中のすべての店に轟くほどの絵美瑠の泣き声が響き渡る結果となってしまったのだった。
最後に訪れたのはほんの数日前だというのに、もう寂れたように見えてしまった。あの人が、いないからだろうか。
正確には風見が”引き取った”はずだが、あの蜘蛛の体では掃除をすることなど、当然できない。
(今はこっそりやるしかないけど、許して貰ったら、ちょくちょく掃除しに来よう)
この店の隣が風見の家であり、集会場にもなっている場所だ。風見のことだから地下街をぶらぶらしているかもしれないが、念のため、そっと、音を立てないように気をつけて、引き戸を引いた。
耳をそばだてないと聞こえないほどの、カラカラという小さな音と共に、初名は店の中に足を踏み入れた。
物の配置は、数日前と何も変わらない。漂う空気も、何も。
「……ん?」
それは、おかしい。
数日前と明らかに違う点は、百花がこの建物にいないことだ。つまり、しんと静まりかえって空虚であるはず。
それなのに、今のこの店は、どうしてかあの時と変わらない。誰かが奥からひょっこり顔を出しそうな、そんな雰囲気だ。
(いや、でもまさか……)
この横丁で、他の住人が泥棒に入るなんてことはない。まして、外から不審者が入ることはあり得ない。奥に誰かがいるなど、気のせいだ。もしくは、同じように有志の誰かが片付けに来ているか。
自分で自分にそう言い聞かせて、初名はそろりと店の奥を覗き込んだ。百花の居住空間だったところだ。
何もない……はずだった。だが、見えてしまった。人の足が転がっているのを。
「ひっ!?」
思わず飛び退き、勢いで土間から転げ落ちそうになった。何とか踏みとどまったものの、蹈鞴を踏んだその音は、店中に大きく響いていた。
そのせいだろうか、先ほど覗いた住居から、物音がした。
「ん~……?」
寝ぼけたような声と共に、少女が一人、ひょこっと顔を出した。目をこすって、本当にまだ寝ぼけているようだ。
その顔には見覚えがあり……
「あ!」
「あーっ!」
叫んだのは、二人同時だった。お互いにお互いを指さして、わなわな震えてその名を口にした。
「こ、小阪さん……!」
「都築さん……」
図らずも、数日前とまったく同じ場所で、まったく同じことを口にしてしまっていた。しかも、浮かべている表情までが同じ。だが、一つだけ違う。それは……両者の立ち位置だ。
思わず立ち上がり、外に駆け出そうとする絵美瑠の前に、初名は猛然と立ち塞がった。無意識の行動だったが、絵美瑠はそれに怯んだ。
初名は、逃すまいと、絵美瑠の両肩をしっかりと捕まえた。
「に、逃げないで、都築さん……!」
「う……あ……え……でも……」
「話をしよう! 都築さん……いや、絵美瑠ちゃん」
「……へ?」
それは、初名が未だ大阪に居た頃に彼女を呼んでいた呼び名だ。
懐かしい呼び方をされて、絵美瑠は戸惑っていた。だが、すぐにその両目がじんわりと潤んだ。その様子に、今度は初名が戸惑った。
「え、あの……泣いてる?」
「だって……だって……!」
嗚咽までが、聞こえ始めた。初名は掴んでいた両手を離し、ハンカチを取り出そうとポケットをまさぐったが、もう遅かった。
「うちの名前……呼んで……うっ……うああぁぁぁぁん!」
「ひ!? あ、あの……泣かないで、ね?」
ハンカチでしたたり落ちる涙を拭ってあげたが、そんなものは意味を成さなかった。次々流れる涙で初名のハンカチはすっかり濡れてしまった。
結局、横丁中のすべての店に轟くほどの絵美瑠の泣き声が響き渡る結果となってしまったのだった。
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