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其の陸 迷宮の出口
六
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驚く初名をからかうようにニコニコして見つめるラウルだった。一人だけ嬉しそうにされても初名は困る。
「いや、笑ってないで……私の顔を見られないってどういうことですか? 何でなんですか?」
「そう焦らんと。コーヒー飲みぃな」
「飲みますけども……!」
言われて自棄気味に、初名はコーヒーカップの中身をぐんぐん飲み干した。大胆な飲みっぷりに、ラウルは拍手を贈っている。
「いやぁ、相変わらずいい飲みっぷりやなぁ」
「飲めって言うから……”相変わらず”?」
奇妙な言い回しだ。
ラウルとは、横丁で何度も顔を合わせた。だがことこと屋でもラウルの店でも、今のように一気飲みをしたことはない。むしろ穏やかに、しとやかに、飲み物を口にしていたはずだ。
「やっぱり覚えてへんかったか。一回だけ、初名ちゃんとお兄ちゃんお母さんと、うちの絵美瑠と僕で、この店にご飯食べに来たんやで。その時、子供同士でジュース一気飲み対決してたの、よう覚えてるわ」
「……へ? 一緒にご飯? ジュース一気飲み……!?」
「うん、店員さんに怒られとった」
「…………あ! あの時……!」
初名の脳裏に、急速に昔の光景が甦ってきた。あのときも、ラウルは今と同じように、子供たちのことをニコニコと見守っていた。
確か、東京に転校する直前のことだ。その時、初名と兄は大阪の剣友会……いわゆる剣道サークルに所属していた。そして転校前、最後の試合を勝って終わることが出来た二人に、同じ剣友会の下級生の女の子が「おめでとう」と言ってくれたのだった。
そして、お祝いと言って、父親と一緒にこの店に連れてきてくれた。その時頼んだクリームソーダで一気飲み対決をして、初名が勝った。
「え……あの時のお父さんが、ラウルさん?」
「そうやで。僕も今日、絵美瑠に言われて思い出したんやけどな。いやぁ、なんや親近感湧くと思ったんや」
「じ、じゃああの時の子が都築さん……? すっごくもじもじしてて、打たれるのをすごく怖がってたあの子が?」
「そうやで。見違えたやろ」
「見違えたなんてもんじゃ……」
初名の脳裏には、今度は別の記憶が甦っていた。昨年の試合のことだ。素早くて、一手一手が鋭い選手だった。打ってはすぐに離れるの繰り返しで、なかなか決めになる一手を打たせてもらえなかったのを覚えている。
結局、制限時間ギリギリになって焦った初名の体勢が崩れたところに鋭い一手を喰らってしまった。お互いにあと少しだっただけに、とても悔しかったのを、よく覚えている。
「はぁ、あの子が……でも、じゃあ何で『顔を合わせられない』になるんですか? 勝ったからですか? 竹刀折ったからですか? それとも勝手に持って行こうとしたからですか?」
「さぁ、詳しいことは本人に訊いてもらわんと……でもきっと、逃げた理由は昨年の試合のこと以外にあるんちゃうかな」
「そんな……その話でいくと、私の方が顔向けできないんじゃ……」
絵美瑠は、そんな昔のことを覚えていたのだ。もしかしたら昨年の試合で会った時も、初名だとわかっていたかもしれない。それなのに、自分はどんな対応をしただろうか。
目が合っても会釈したぐらいじゃなかったか。まして、試合後に至っては、身勝手な苛立ちからぞんざいな対応をしてしまった。
いくら彼女が勝手に自分の竹刀を持って行こうとしてしまったからと言って、雑に扱っていいわけではなかったのに。
「でも……わかりました。私やっぱり、きちんと都築さんと会って話さないとダメなんですね。怪我をさせたことだけじゃなくて、覚えていなかったことも謝らないと。そして……どうして都築さんが私に罪悪感を持っているのかも、きちんと訊かないと」
「うん。それはきっと、僕が聞き出すのではダメなんやろうと思う」
ラウルの瞳は、まっすぐに初名をとらえて、決意に満ちたその表情を映していた。
試合に臨む直前の自分の顔は、こんな感じだったんだろうか、と初名はふいに思った。
「そこで、や。あのビビりの娘を捕まえるには、どうするかっちゅう話なんやけど……」
「はい。明日も、さっきのところで張り込みします」
「うーん、それがなぁ……あの子、あそこの入り口あんまり使わへんねん」
「えぇ!?」
横丁の入り口はそこかしこにあると訊いた。そしてこの地下街とそこへ通じる各駅からの道も、多々ある。初名が一カ所で張り込んでいるならば、避ける方法はいくらでもあるというわけだ。
「そ、そんな……じゃあどうすれば……」
「うちの前で張り込めばええやん。ことこと屋の中から注意して見とき」
今ラウルが指した場所は、つまりは横丁の中である。
「あの……私、今、出入り禁止なんですけど……」
「そんなキミに朗報でーす」
頭を抱えた初名の横で、なにやら暢気な声が聞こえた。声の主は、座って良いかとも訊かずに、初名の隣の椅子に座った。
そうすると、顔がより近くに来た。包帯をぐるぐる巻きにした異様な外見をした男が。
「た、辰三さん……?」
「包帯はずすん面倒くさいから、今日はこのままな」
初名が条件反射で怯える様を見て有無を言わさずそう言い放った。そのまま、辰三は鞄から何かを引っ張り出した。少し分厚い、本だった。
「あ、授業のテキスト……!」
「落ちとったで」
「あ、ありがとうございます……!」
差し出されたそれを受け取ろうと手を出した。すると、本はひょいと初名の手からすり抜けていった。
「あ、あの……返してくださるんじゃ……?」
包帯の奥で、ニヤリと笑う様が見えた。
「大事なもん拾ってあげたんやから、”お礼”してもらわな……なぁ?」
「ぐ……わ、わかりました。ワッフルですか? ケーキですか?」
初名は店のメニュー表を開き、甘いものを物色しようとした。だが、横から伸びてきた手が、強引にメニュー表を閉じてしまった。
「え、いらないんですか? 美味しそうなケーキですけど……?」
「いる。そやけど、ここの甘いもんやない。あそこのが、食べたいわぁ」
そう言って、辰三は指さした。自分たちの床……その更に下を。
その意図が読めた時、辰三も、ラウルも、そして初名も、思わず笑みがこぼれていた。
「僕の客人として連れてったるから、奢って貰おか。ことこと屋の、あんみつ」
「いや、笑ってないで……私の顔を見られないってどういうことですか? 何でなんですか?」
「そう焦らんと。コーヒー飲みぃな」
「飲みますけども……!」
言われて自棄気味に、初名はコーヒーカップの中身をぐんぐん飲み干した。大胆な飲みっぷりに、ラウルは拍手を贈っている。
「いやぁ、相変わらずいい飲みっぷりやなぁ」
「飲めって言うから……”相変わらず”?」
奇妙な言い回しだ。
ラウルとは、横丁で何度も顔を合わせた。だがことこと屋でもラウルの店でも、今のように一気飲みをしたことはない。むしろ穏やかに、しとやかに、飲み物を口にしていたはずだ。
「やっぱり覚えてへんかったか。一回だけ、初名ちゃんとお兄ちゃんお母さんと、うちの絵美瑠と僕で、この店にご飯食べに来たんやで。その時、子供同士でジュース一気飲み対決してたの、よう覚えてるわ」
「……へ? 一緒にご飯? ジュース一気飲み……!?」
「うん、店員さんに怒られとった」
「…………あ! あの時……!」
初名の脳裏に、急速に昔の光景が甦ってきた。あのときも、ラウルは今と同じように、子供たちのことをニコニコと見守っていた。
確か、東京に転校する直前のことだ。その時、初名と兄は大阪の剣友会……いわゆる剣道サークルに所属していた。そして転校前、最後の試合を勝って終わることが出来た二人に、同じ剣友会の下級生の女の子が「おめでとう」と言ってくれたのだった。
そして、お祝いと言って、父親と一緒にこの店に連れてきてくれた。その時頼んだクリームソーダで一気飲み対決をして、初名が勝った。
「え……あの時のお父さんが、ラウルさん?」
「そうやで。僕も今日、絵美瑠に言われて思い出したんやけどな。いやぁ、なんや親近感湧くと思ったんや」
「じ、じゃああの時の子が都築さん……? すっごくもじもじしてて、打たれるのをすごく怖がってたあの子が?」
「そうやで。見違えたやろ」
「見違えたなんてもんじゃ……」
初名の脳裏には、今度は別の記憶が甦っていた。昨年の試合のことだ。素早くて、一手一手が鋭い選手だった。打ってはすぐに離れるの繰り返しで、なかなか決めになる一手を打たせてもらえなかったのを覚えている。
結局、制限時間ギリギリになって焦った初名の体勢が崩れたところに鋭い一手を喰らってしまった。お互いにあと少しだっただけに、とても悔しかったのを、よく覚えている。
「はぁ、あの子が……でも、じゃあ何で『顔を合わせられない』になるんですか? 勝ったからですか? 竹刀折ったからですか? それとも勝手に持って行こうとしたからですか?」
「さぁ、詳しいことは本人に訊いてもらわんと……でもきっと、逃げた理由は昨年の試合のこと以外にあるんちゃうかな」
「そんな……その話でいくと、私の方が顔向けできないんじゃ……」
絵美瑠は、そんな昔のことを覚えていたのだ。もしかしたら昨年の試合で会った時も、初名だとわかっていたかもしれない。それなのに、自分はどんな対応をしただろうか。
目が合っても会釈したぐらいじゃなかったか。まして、試合後に至っては、身勝手な苛立ちからぞんざいな対応をしてしまった。
いくら彼女が勝手に自分の竹刀を持って行こうとしてしまったからと言って、雑に扱っていいわけではなかったのに。
「でも……わかりました。私やっぱり、きちんと都築さんと会って話さないとダメなんですね。怪我をさせたことだけじゃなくて、覚えていなかったことも謝らないと。そして……どうして都築さんが私に罪悪感を持っているのかも、きちんと訊かないと」
「うん。それはきっと、僕が聞き出すのではダメなんやろうと思う」
ラウルの瞳は、まっすぐに初名をとらえて、決意に満ちたその表情を映していた。
試合に臨む直前の自分の顔は、こんな感じだったんだろうか、と初名はふいに思った。
「そこで、や。あのビビりの娘を捕まえるには、どうするかっちゅう話なんやけど……」
「はい。明日も、さっきのところで張り込みします」
「うーん、それがなぁ……あの子、あそこの入り口あんまり使わへんねん」
「えぇ!?」
横丁の入り口はそこかしこにあると訊いた。そしてこの地下街とそこへ通じる各駅からの道も、多々ある。初名が一カ所で張り込んでいるならば、避ける方法はいくらでもあるというわけだ。
「そ、そんな……じゃあどうすれば……」
「うちの前で張り込めばええやん。ことこと屋の中から注意して見とき」
今ラウルが指した場所は、つまりは横丁の中である。
「あの……私、今、出入り禁止なんですけど……」
「そんなキミに朗報でーす」
頭を抱えた初名の横で、なにやら暢気な声が聞こえた。声の主は、座って良いかとも訊かずに、初名の隣の椅子に座った。
そうすると、顔がより近くに来た。包帯をぐるぐる巻きにした異様な外見をした男が。
「た、辰三さん……?」
「包帯はずすん面倒くさいから、今日はこのままな」
初名が条件反射で怯える様を見て有無を言わさずそう言い放った。そのまま、辰三は鞄から何かを引っ張り出した。少し分厚い、本だった。
「あ、授業のテキスト……!」
「落ちとったで」
「あ、ありがとうございます……!」
差し出されたそれを受け取ろうと手を出した。すると、本はひょいと初名の手からすり抜けていった。
「あ、あの……返してくださるんじゃ……?」
包帯の奥で、ニヤリと笑う様が見えた。
「大事なもん拾ってあげたんやから、”お礼”してもらわな……なぁ?」
「ぐ……わ、わかりました。ワッフルですか? ケーキですか?」
初名は店のメニュー表を開き、甘いものを物色しようとした。だが、横から伸びてきた手が、強引にメニュー表を閉じてしまった。
「え、いらないんですか? 美味しそうなケーキですけど……?」
「いる。そやけど、ここの甘いもんやない。あそこのが、食べたいわぁ」
そう言って、辰三は指さした。自分たちの床……その更に下を。
その意図が読めた時、辰三も、ラウルも、そして初名も、思わず笑みがこぼれていた。
「僕の客人として連れてったるから、奢って貰おか。ことこと屋の、あんみつ」
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