74 / 109
其の伍 紡ぐ思い、解ける時間(とき)
十
しおりを挟む
弥次郎と辰三に始まり、横丁のあらゆる人々に繕ったものを渡して行った後、百花はうきうきして「ことこと屋」に向かった。
「百花さん! 百花さんやないの!」
「琴ちゃん、元気にしとった?」
百花の姿を見た途端、琴子は号泣して抱きついていた。それをそっと抱き留める百花。二人の姿は、姉妹のようだった。
そして、百花が横丁中の人に愛される存在なのだと、わかった。
そのことを、「太夫」に戻ってから百花に伝えると、百花は、うふふとつややかに笑った。
「昔取った杵柄、いうもんかなぁ」
「今でこんな感じなら、昔はもっともっと大人気だったんじゃないですか?」
初名がそう冗談めかして言ったことに対して、帰ってきたのは沈黙だった。ふと、百花の顔を見た。百花が浮かべていたのは、意外にも、笑みだった。とても悲しそうな、笑みだ。「大人気……か。そうかもしれへんね。身請けされた先にまで追いかけてきて無理心中する男がおったんやから」
「……え?」
尋ね返した声に、百花は苦笑いして応えた。
「いややわ。恥ずかしい……」
「は、恥ずかしくなんか……今のお話、本当なんですか?」
「本当。でも、もうええのよ。うちはここの人らのお役に立てれば、それでいいんよ」
当の本人がこう言っているのだからと、初名は口をつぐんだ。
自分が想像していたよりも、ずっと彼らの心は重く暗いものに囚われているのかもしれない。
そんな思いを、百花はくみ取ったかのように、初名の頬をそっと撫でた。そして……むにゅっと両頬を引っ張った。
「は、ひたたたた! 百花さん?」
「暗い顔してるからや。可愛い顔しとるのに、もったいない」
「か、可愛くは……」
「可愛いで。自覚ないのん?」
百花はそのまま、餅をこねるようにように、初名の頬をむにむに触っていた。そして、おもむろに穏やかな笑みを浮かべた。
「なぁ、初名……ホンマに、もうええんよ。あの男のことは。もうずっと……ずぅっと昔のことなんやから」
「で、でも……」
初名はふと、琴子と礼司のことを思い返した。自分を殺した相手のことを、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。そのせいで、殺した本人を前にしても、笑っていた。
だが百花は違う。はっきりと、その相手を覚えているようだ。それはつまり、死んでからずっと相手から受けた仕打ちを覚えているということだ。
何年経とうが、『もういい』なんて、言えるのだろうか。初名はそう思った。
だが、そんな初名に、百花はまたも首を振った。
「時が経つ、いうんは、そういうことや。川の水のように、流れて行ってしまうものなんよ、何事も。でも、流れた先で別のええことに出会えるかもしれへん。うちは、ここの人らに会えた。生きとったら、妾か遊女かしか道はなかった。あの時生き残っとったら、梅子にも会われへんかった。……ええことづくしや」
初名は、小さく頷いた。百花の明るい力強さが、まぶしかった。だが何よりも、祖母のことを”ええこと”と言ってくれたことが、嬉しかった。
「それにな、うちだけやないんよ。皆、一緒や」
「一緒って?」
「皆、何か抱えとるよ。やじさんも、タツさんも……ここではお互いにそうやから、お互いに詮索はせぇへん。そやけど、聞いて欲しいことがあれば、いつでも聞く……そういう人らなんよ」
百花の手が、そっと初名の両手を包み込んだ。冷たい。だけど柔らかい。真綿に包まれているかのような感触が、どこかくすぐったかった。
「あんたも、何か苦しいんやったら、言うてみぃ」
「……え」
「さっきの剣道の話。なんや、辛そうに見えたから……違う?」
初名は咄嗟に首を振った。
「そんな、辛いだなんて……剣道は好きです。子供のころかも今も……でも……」
俯いてしまった初名に、百花の柔らかな声が降ってきた。
「辛いことを無理矢理する必要はないわ。でも、好きなことを無理矢理やめる必要もないんとちゃう?」
「好きです……続けたいです……でも、私にはそんな資格、ないんです」
「……どうして?」
そう問われて、初名はゆっくりと顔を上げた。責めるわけでもない、詰問するわけでもない、ただまっすぐに初名の声に耳を傾ける百花の真摯な面持ちが、見えた。
不思議な瞳だった。凜としていて、氷のように冷たく、炎のように情熱的で、そして太陽のように温かだった。
その視線に惹かれて、初名はふわりと応えていた。
「人を傷つけてしまったのに、自分だけ好きなことを続けるわけには、いかないんです」
「百花さん! 百花さんやないの!」
「琴ちゃん、元気にしとった?」
百花の姿を見た途端、琴子は号泣して抱きついていた。それをそっと抱き留める百花。二人の姿は、姉妹のようだった。
そして、百花が横丁中の人に愛される存在なのだと、わかった。
そのことを、「太夫」に戻ってから百花に伝えると、百花は、うふふとつややかに笑った。
「昔取った杵柄、いうもんかなぁ」
「今でこんな感じなら、昔はもっともっと大人気だったんじゃないですか?」
初名がそう冗談めかして言ったことに対して、帰ってきたのは沈黙だった。ふと、百花の顔を見た。百花が浮かべていたのは、意外にも、笑みだった。とても悲しそうな、笑みだ。「大人気……か。そうかもしれへんね。身請けされた先にまで追いかけてきて無理心中する男がおったんやから」
「……え?」
尋ね返した声に、百花は苦笑いして応えた。
「いややわ。恥ずかしい……」
「は、恥ずかしくなんか……今のお話、本当なんですか?」
「本当。でも、もうええのよ。うちはここの人らのお役に立てれば、それでいいんよ」
当の本人がこう言っているのだからと、初名は口をつぐんだ。
自分が想像していたよりも、ずっと彼らの心は重く暗いものに囚われているのかもしれない。
そんな思いを、百花はくみ取ったかのように、初名の頬をそっと撫でた。そして……むにゅっと両頬を引っ張った。
「は、ひたたたた! 百花さん?」
「暗い顔してるからや。可愛い顔しとるのに、もったいない」
「か、可愛くは……」
「可愛いで。自覚ないのん?」
百花はそのまま、餅をこねるようにように、初名の頬をむにむに触っていた。そして、おもむろに穏やかな笑みを浮かべた。
「なぁ、初名……ホンマに、もうええんよ。あの男のことは。もうずっと……ずぅっと昔のことなんやから」
「で、でも……」
初名はふと、琴子と礼司のことを思い返した。自分を殺した相手のことを、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。そのせいで、殺した本人を前にしても、笑っていた。
だが百花は違う。はっきりと、その相手を覚えているようだ。それはつまり、死んでからずっと相手から受けた仕打ちを覚えているということだ。
何年経とうが、『もういい』なんて、言えるのだろうか。初名はそう思った。
だが、そんな初名に、百花はまたも首を振った。
「時が経つ、いうんは、そういうことや。川の水のように、流れて行ってしまうものなんよ、何事も。でも、流れた先で別のええことに出会えるかもしれへん。うちは、ここの人らに会えた。生きとったら、妾か遊女かしか道はなかった。あの時生き残っとったら、梅子にも会われへんかった。……ええことづくしや」
初名は、小さく頷いた。百花の明るい力強さが、まぶしかった。だが何よりも、祖母のことを”ええこと”と言ってくれたことが、嬉しかった。
「それにな、うちだけやないんよ。皆、一緒や」
「一緒って?」
「皆、何か抱えとるよ。やじさんも、タツさんも……ここではお互いにそうやから、お互いに詮索はせぇへん。そやけど、聞いて欲しいことがあれば、いつでも聞く……そういう人らなんよ」
百花の手が、そっと初名の両手を包み込んだ。冷たい。だけど柔らかい。真綿に包まれているかのような感触が、どこかくすぐったかった。
「あんたも、何か苦しいんやったら、言うてみぃ」
「……え」
「さっきの剣道の話。なんや、辛そうに見えたから……違う?」
初名は咄嗟に首を振った。
「そんな、辛いだなんて……剣道は好きです。子供のころかも今も……でも……」
俯いてしまった初名に、百花の柔らかな声が降ってきた。
「辛いことを無理矢理する必要はないわ。でも、好きなことを無理矢理やめる必要もないんとちゃう?」
「好きです……続けたいです……でも、私にはそんな資格、ないんです」
「……どうして?」
そう問われて、初名はゆっくりと顔を上げた。責めるわけでもない、詰問するわけでもない、ただまっすぐに初名の声に耳を傾ける百花の真摯な面持ちが、見えた。
不思議な瞳だった。凜としていて、氷のように冷たく、炎のように情熱的で、そして太陽のように温かだった。
その視線に惹かれて、初名はふわりと応えていた。
「人を傷つけてしまったのに、自分だけ好きなことを続けるわけには、いかないんです」
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
さよならまでの六ヶ月
おてんば松尾
恋愛
余命半年の妻は、不倫をしている夫と最後まで添い遂げるつもりだった……【小春】
小春は人の寿命が分かる能力を持っている。
ある日突然自分に残された寿命があと半年だということを知る。
自分の家が社家で、神主として跡を継がなければならない小春。
そんな小春のことを好きになってくれた夫は浮気をしている。
残された半年を穏やかに生きたいと思う小春……
他サイトでも公開中
職業、種付けおじさん
gulu
キャラ文芸
遺伝子治療や改造が当たり前になった世界。
誰もが整った外見となり、病気に少しだけ強く体も丈夫になった。
だがそんな世界の裏側には、遺伝子改造によって誕生した怪物が存在していた。
人権もなく、悪人を法の外から裁く種付けおじさんである。
明日の命すら保障されない彼らは、それでもこの世界で懸命に生きている。
※小説家になろう、カクヨムでも連載中
【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。
しかし、仲が良かったのも今は昔。
レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。
いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。
それでも、フィーは信じていた。
レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。
しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。
そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。
国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる